「高次脳機能障害と仲間たち」⑥上「忙しかった日々」

09.05.03 by   カテゴリー : 日々の出来事

  高次脳機能障害の「ペテン師」(40代)は2003年、脳内出血で救急病院に運ばれた。母と暮らしていた部屋の中で意識を失った。気が付いたら病院だった。記憶をなくした時までの日々を語ってもらった。

 トラックに乗っていたのは今から15-16年前。その頃はルート配送だった(決まった場所をいろいろ回る)。最低でも8軒回っていた。ほとんど東京と三多摩地区の薬局だった。半分セールスで、売上に応じて日当を払うと言われた。
 雇用体系は社員だった。残業もあったけど、一か月手取り25万円がやっとだった。雇用保険は会社が払ってくれた。仕事は楽しかったけど、やった割には遊びまくっていたから、お金はあまりたまらなかったんだ。
 運送屋をやりたくて、転職。バブル崩壊直前で、まだ20代前半だった。日給は8500円。時給750円-800円。これもあまり大した給料にはならなかった。
 
2、3年たってから、物が売れなくなったので、問屋の客を利用して、物=洗剤を売っていたんだ。最高で、4日間でアタックを100ケース売ったこともあったっけ。1ケースにはアタックが8個入っているんだ。配達先の社長が、「1週間で300以上売ったら、5万円やるよ、ボーナスで」、と言ってくれた。その月の20日に言われて、30日までに売れと言われた。
 張り切って売ったんだけど、130ケースが限度。そしたら、今度こそ300ケース以上売ったら、ボーナスとして5000円くれると言ったんだ。頑張りに頑張っても200以上しか売られなかった。またボーナスはもらえなかった。
 後で友人の話を聞いたら、A君がセールスをやっていて、便器を売っていたんだよ。それで、上司が100売れといって、100売ったら、300売れと言われたそうだ。そんなエピソードも思い出すよ。
 自分の話に戻ると、200ケースを2週間で売ったんだけど、「よく頑張ったね、でも、期間が期間だから(バブル崩壊後の不景気)、ボーナスはないよ」と言われた。
 そしたら今度は「3週間あるから、600ケースを売れ」と言われた。「そしたらボーナスで1万円やるよ」-。
 あまりにも仕事が忙しすぎたんだよ。重いものを持って、ぎっくり腰になっちゃったんだよ。毎月第3土曜日が休みなので、その日は自宅近くの整骨院に行くようになった。
 最後には、ぎっくり腰で仕事はやめざるを得なくなった。2,3カ月自宅待機せざるをえなくなったんだ。母が世田谷に住んでいたので、母と一緒にしばらくくらしていた。当時、27-8ぐらいだった。
 この時あるいバイトをしていた別の運送屋のKさんに指示されて、ある大手運送会社の子会社で、渋谷にある引越し屋に勤めた。腰はこの時にはもう完治していた。
 見習い期間の後、3ヶ月後に正社員として入社したけど、日当は1万円、時給890円。その半年か1年後には新宿のワンルームで一人暮らしを始めたんだ。金にはならないし、働くプレッシャーが強く、仕事をやりながら、荷造り、箱詰め、階段を上って荷物をあげた。引っ越しというよりも、作業員だったな。運転ももちろんした。突然電話がかかって仕事に行くこともあるので、いつも引っ越しナイフを持って歩いていたっけ。
 人がいないと、自分で荷造り、箱詰め、箱卸、すべてをやっていた。いつのまにか信頼されて、夜間便やらされた。そのうち、夜間といえば、仕事が回ってくるようになった。
 夜間をやるとお給料は良かったな。残業をつくから、上がるんだ。不景気で昼間の仕事がなくなっていた。

マージンをよこせ、と言われ

 その時驚いたのは、直属の班長が、「1か月俺にマージンよこせ。1万円払ったら、(残業代として)3万円をつけてやる」と言ってきた。175センチぐらいで、体重が100キロぐらい。迫力ある感じ。「もっとお金をもうけたいんだったら」、と。班長が日報を書くときに、残業時間を記入できたので、彼が自由に書きかえられるんだ。
 俺は頭にきたので、いやでも残業代を払わなかった。風当たりが強くなって、残業代をカットされだした。最高で月60時間ぐらい、カットされたんだ。
 すごく頭にきたので、ある日仕事をさぼり、他の運送会社に行った。仕事を見つけるのは簡単だった。相手の会社の募集の広告を見て、電話。「なるべく早く働きたい」と言ったら、「今日は?」と言われたので、「それはちょっと」。すると、明日からということで決まったんだ。でも、働けば働くほど損をする感じだった。
 新しい仕事に移ってから、電話をもらった、先の会社からだった。どうして辞めるのか聞かれたんだ。部長からだった。「残業するにはマージンを払わないとつけない。そんなバカな会社はないだろう」と言ったんだ。部長は「え?それが誰が言ったんだい?」と聞かれた。説明すると、「それは君だけのこと?」と聞かれたので、「同期もみんな一緒だ」。戻るのかと聞かれ、「戻らないからほかの会社で働いているんだよ、xx」と言って電話を切った。
 新しい会社では年下の次長がいて、結構楽しく仕事をしたが、いつのまにか、長距離専門になっていた。京都、小倉、青森、秋田、仙台、ほとんど全部行っていた。家に戻れない日が続いた。大阪に行って、帰りの荷物を積んで、東京でおろして、広島。そんなのは日常茶飯事。競馬の仕事で競馬新聞を運んだり、ドーピング検査(尿)を運んだり。馬事公苑で下して、新橋のJRAに。家には1週間に一回しか帰ることはなくて、高速のパーキングで寝たり、シャワーを使ったり。食べる時間があったら、一刻でも早く目的地に着きたかった。だから、おにぎりや牛乳、サンドイッチをトラックを運転しながら食べていた。4トントラックで走ってたんだ。
 行き先を確かめるために地図を買って、自分で探り当てながら運転した。まだカーナビなどない時代だった。東北出身の自分にとっては、大阪がやっかいで、地図と実際の道がずいぶん違って困った。
 長距離では、夜通し走った。眠気を止めるために、市販の眠り止め錠剤を飲むのが癖になった。
 2000年。疲れ果てて、仕事も生活する意欲もなくなった。部屋代も払えなくなって、母のアパートに転がり込んだ。
 今になって思うとだが、引越し会社に勤めていたころ、深酒の後、アパートの階段から落ちた。頭を強く打った。ブロック塀にぶつけた。当時はそれほど気に留めなかったが、痛みが止まるまで1週間ほどかかった。

記憶がなくなった日

 2003年6月。いつものように晩酌の後、眠った。そのあとの記憶はない。気が付いたら、2004年だった。後で、みんなに「2004年?記憶がない」といって、笑われたが。
 記憶がなくなった晩、倒れたらしい。いっしょに暮らしていた母が、異様ないびきをかいている様子が異常と思い、救急車に連絡。高血圧だったことを既に知っていたし「万が一」と思ったのだ。
 運ばれた先は都内の緊急病院。集中治療室で、検査を受け、頭の中に固まっていた血の処置をした。高血圧と、階段から落ちた時の傷がもとになったらしい。脳内出血。
 全く記憶がなく、母は医師から「手術後、生きていても植物人間になる可能性がある」と言われた。(つづく)

 

 

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