タイの混乱は新たな民主的変革への陣痛 メディアに欠ける歴史的視点(下)
―民主化への試行錯誤の始まり
クーデターによって絶対王政を廃した1932年の「立憲革命」の主役は、欧米への官費留学生エリートたちを中心とする人民党だった。この政変によってタイは、立憲君主制のもとで議会制民主主義への一歩を踏み出したが、人民党内部の軍人と文民の路線対立で政局は不安定化する。やがて軍人が政治の主導権を握るようになり、議会制民主主義は後退を余儀なくされていく。
軍人支配が頂点に達したのが、1957年のサリット政権の登場だった。クーデターで政権を握ったサリットは、独裁的な権力のもとで積極的な経済開発政策を開始するとともに、西欧型民主主義はタイの国情に合わないとしてタイ式民主主義をとなえ、国民の基本的な諸権利を抑圧した。また自らの政治的正当性の後ろ盾として、立憲革命後は政治の舞台裏に退いていた国王と王室の権威を高める政策を打ち出した。
この「開発独裁」路線によって、日本など先進国からの外資を導入した民間主導型の工業化が軌道に乗り、経済は大きな発展をとげた。だが、その矛盾も深刻化していった。軍人を頂点とする特権層に富が集中し彼らの腐敗がすすむ一方で、都市と農村、都市内部での貧富の格差がひろがっていく。貨幣経済の浸透によって自給自足経済が破壊された農民は、現金収入を求めてバンコクに出稼ぎにいき、開発のすすむ華やかな表通りの裏側には貧しい彼らが不法占拠したスラムが目立つようになった。
こうした問題に危機感をいだいた学生や知識人が主導して、時の軍事政権を打倒したのが、1973年の「学生革命」(10月14日事件)だった。民主化を求める学生と市民の非暴力デモに軍が発砲し、77人が死亡、444人が負傷する惨事となったが、流血の拡大をさけるため、プミポン国王の調停によりタノムら軍事政権の指導者は国外に逃亡した。
この政変によってタイは「民主化」の時代を迎える。開発独裁政権下で抑えつけられていた労働者や農民は、さまざまな要求を掲げて立ち上がった。労働組合の結成を認められた労働者はストライキや集会で賃上げなどの労働条件の改善を求め、農民は土地改革や小作料の引き下げなどを要求した。学生らは彼らを支援するが、自らの力への過信から一部は過激化し、学生勢力は分裂していった。
軍人にかわって登場した文民政権は統治能力に欠けた。加えて1973年の石油危機による経済の悪化と75年のサイゴン陥落と前後したインドシナの共産主義化に危機感をいだいた支配層は民主化への巻き返しに出る。76年、バンコクのタマサート大学で政府への抗議集会を開いていた学生らに警察と右翼団体が襲いかかり、学生40人が虐殺され、逮捕者は3000人以上に上った。これを機に、軍が混乱収拾の名目でクーデターを起こし、権力を奪還する。
つかの間の民主化は「冬の時代」に入り、学生指導者や活動家の一部は弾圧を逃れてジャングルで武装闘争を展開していたタイ共産党に合流した。彼らは毛沢東路線をモデルに、農村から都市を包囲して武力で現体制を打倒する革命をめざした。
1980年に首相の座に就いたプレム(現・枢密院議長)は、軍人出身ながら権力欲が強くなく清廉なイメージから人望を集め、調停能力にもたけた指導者だった。彼は王室、軍、そして経済発展のなかで発言力を強めてきた実業家や都市中間層などの利害のバランスをとりながら、「上からの民主化」を徐々に進めた。共産党に合流した学生指導者らに対しても恩赦による帰順をうながし、国内の安定を図った。
8年にわたるプレム政権のもとでタイは順調な経済発展をとげ、民主化も進んだ。軍の不満分子は2度クーデターをこころみるが、いずれも失敗に終わった。しかし、彼の政策はまだ「半分の民主主義」と評された。
―貧困問題をいかに解決するか
88年にプレムの後継首相となったチャーチャイは、12年ぶりの政党政治家の首相として歓迎されたが、なりふりかまわぬ利権獲得で腐敗し国民の信頼を失っていく。チャーチャイ政権は91年、腐敗政治の一掃を旗印に掲げたスチンダー陸軍司令官のクーデターで崩壊する。だがスチンダーは、「首相にならない」と公言していたにもかかわらず翌92年に首相に就任したため、バンコクを中心にスチンダー首相の辞任を求める集会が連日のように開催されるようになった。
この反政府集会で注目されたのが、多数の中間層の参加だった。彼らは出勤帰りに自家用車で集会に参加し、携帯電話で連絡をとりあった。タイのメディアは、これまでの反政府行動の中心だった学生や知識人とは異なるニューフェイスの登場を「中間層の反乱」と呼んだ。
だが、彼らが軍人宰相に反対したのは、民主化の流れの逆行への異議申し立てよりも、経済的な理由からだったされる。市場原理にもとづく経済発展によって自らの利益を追求していこうとする彼らにとっては、軍人政権はこうした経済原理を乱す時代遅れな存在とみなされた。失うべきもの持った中間層は急進的な政治改革には及び腰だった。
反政府行動は地方にも広がり、同年5月、首都バンコクでは反政府デモと軍・警察が衝突、またしても多くの市民の血が流された。政府側の発表でも死者40人、負傷者600名以上とされたが、実際の犠牲者は行方不明者をふくめこれをはるかに上回るものとみられている。
犠牲者の多くは、中間層ではなくスラムの住民をふくめて都市の貧しい人びとだった。つまり国民のあらゆる階層がスチンダー政権打倒に立ち上がったのである。
「5月の暴虐」とよばれる惨事は、プミポン国王がスチンダーとデモの指導者チャムロン(現・PADの指導者のひとり)を呼んで和解を求め、スチンダーが辞任したことで落着した。
この反政府闘争の勝利をうけて、97年に新憲法が制定された。これはこれまでのタイの民主化運動の成果を集大成したもっとも民主的な内容を盛り込み、「人民のための憲法」と称された。上院議員の民選、下院議員選の小選挙区・比例区併用制、下院議員の閣僚兼任禁止、不正選挙のやり直し、憲法裁判所の設置など、権力の集中排除と選挙の浄化が大きな目的とされた。
新憲法にもとづく上院選では、これまでの任命制時代の官僚や軍人らとともに住民運動の指導者や法律家などの新しい顔ぶれも選出された。
だが憲法には、議員の要件を大卒以上とする条項も盛り込まれた。貧困のために高等教育を受けることがむずかしい人たちを事実上国政から排除するものである。このため新憲法は「人民のための憲法」を謳いながら、実態は都市中間層の意見を代弁する「エリート憲法」とも評される。
タクシンの率いるタイ愛国党が圧勝し、彼を首相の座に就かせた2001年の総選挙は、この新憲法にもとづいて実施された最初の下院選挙だった。
タクシンの政治がどのようなものであり、それをめぐりこの数年タイでさまざまな混乱を重ねてきたことはすでに述べたとおりである。
後世の歴史家がタクシンをいかに評価するかはわからない。「改革者」としての彼に期待したのは農民や都市の貧しい人びとだけでない。かつての民主化運動の活動家らの一部もタクシン政権の政策助言に参加した。だが彼が「背広を着た独裁者」の顔を見せはじめると、彼らは政権に距離を置くようになり、さらに首相一族の株売却疑惑が明るみにでるにおよんで、バンコクでは首相の退陣を要求する市民の声が高まった。
彼の政治の荒っぽさは、企業の最高経営責任者(CEO)的なトップダウン手法やメディアへの介入だけでなく、麻薬対策や南部のイスラム武装勢力への対応にも示された。2003年に開始された麻薬撲滅戦争では、密売などとは無関係の人たちの逮捕や殺害により2600人もの死者がでたといわれる。イスラム武装勢力との闘いでは、平和的な話し合いや南部の開発推進路線をこばみ、武力弾圧をつづけたために流血が拡大し泥沼の状態に陥ってしまった。
ただ、タクシンの真意がどこにあれ、彼の政策によって農民や都市の貧しい人びとが自分たちの一票が政治を動かすことができるのだという政治意識に目覚めさせられたことは否定できないだろう。彼らはこれまでの経済発展を縁の下で支えながらその恩恵にじゅうぶんに与れず、開発政策の過程からも排除されてきた。彼らがその過程に参加できる希望を与えてくれたのがタクシンである。
彼らにはまだ独自に国政を動かせるだけの組織的な発言力はない。農村部も南部はいまだに反タクシンの民主党の地盤である。だが、都市と農村、都市内部の貧富の格差というこの国のもっとも深刻な問題の解決のためには、開発の成果の公正な分配から取り残された人びとによる「下からの民主化」は不可欠である。
労働組合やNGO、学生組織などの市民社会をめざす活動が、UDDやPADとどのような関係をとろうとしているのかはわからないが、これらの勢力もこの点では一致しているはずである。
―農民や労働者の声を聞きたい
今回のタイの混乱にかんして、日本の新聞はとくにASEAN関連会議が中止に追い込まれたことをとりあげ、「アジアの信頼回復を急げ」(朝日)、「タイの責任は重大だ」(毎日)、「混乱事態で失う国際的信用」(読売)、「タイの秩序回復に日本政府も発信せよ」と題する社説を掲げている。あるいは、東南アジアの「民主化の優等生」とされてきた国の将来への悲観的見通しや、政治的な混乱がタイのみならず日本企業に与える打撃に焦点を当てた報道が目につく。
もちろん、それはそれでひとつの事実である。しかし、タイの現代史をたどるなら、それは社会・経済的な変化に適合する民主政治のあり方を模索する試行錯誤の軌跡であり、民主化は複雑な一進一退を経ながら確実に前進してきているといえる。
一握りのエリートが「立憲革命」で切りひらいた議会制民主主義が、学生・知識人らが主導した「学生革命」によってそのすそ野を広げ、さらに経済発展とともに新興ビジネスエリートや都市中間層も民主化の舞台に登場してきた。だがそのドラマは、バンコクを中心とした都市で展開されてきた。国民の多数をしめる農民・労働者も当然、しかるべき役割を果たすべきであるにもかかわらず、彼らはこれまで参加を拒まれてきた。
いま起きている混乱は、民主化の舞台が都市から農村にまで全国に拡大され、社会の成員すべてをそれぞれの役回りでドラマに巻きこもうとしていることによるものといえよう。
その意味で、タクシン派支持者がいう「真の民主主義の実現」や、海外亡命先からタクシンがさけぶ「人民革命」は、反政府運動の参加者へのアジテーションの意味合いはあるにしても、あながち的外れとは言えないのではないだろうか。
また、これまでの混乱の調停者となってきた国王が動きを見せていないことは、高齢化と健康問題によるものかどうかわからないが、国王といえども解決に苦慮するほどさまざまな要因が複雑にからみあっているからかもしれない。
民主化は西欧をふくめ多くの国で一朝一夕に実現したわけではない。よしあしはべつとして、多くの血が流される混乱のなかで勝ち取られてきた。非西欧の東南アジアの一角で起きている政情不安も、そうした産みの苦しみへのひとこま、と私はとらえたい。
そのような視点からメディアにのぞむことをひとつだけ提言したい。タクシン派のデモに参加する農民やバンコクの貧しい労働者たちの何人かに密着取材し、彼らが日々どのような暮らしをしているのか、なぜタクシンを支持するのか、彼らはどのような政治を望んでいるのかなどを時間をかけてレポートしてはどうか。一人ひとりの小さな民の胸のうちに分け入ることで、大上段にふりかざした混乱批判記事ではなく、混乱の底流に何があるのかをうかがい知ることができるはずである。 (おわり)
<参考資料>
柿崎一郎『物語 タイの歴史』(中公新書)
石井米雄他監修『東南アジアを知る事典』(平凡社)
日刊ベリタより
http://www.nikkanberita.com/print.cgi?id=200904201519591
タイの混乱は新たな民主的変革への陣痛 メディアに欠ける歴史的視点(上)
タイの政治的混乱は、タクシン元首相支持派組織「反独裁民主戦線」(UDD)が軍との衝突による流血の事態を避けてデモを中止したため、ひとまず終息に向かった。だが、火種はくすぶりつづけており、いつ反タクシン派との抗争が再燃してもおかしくない。いま起きていることを歴史的に見るならば、1932年の「立憲革命」と1973年の「学生革命」に匹敵する大きな変革期にこの国がさしかかっているといえるからだ。メディアは目先の動きを追うだけでなく、その底流を見すえた報道もこころがけてほしい。
―タクシン政治の功罪
まず、ここ数年の動きを簡単に振り返ってみたい。それを読み解くキーワードは「タクシン」である。
警察官僚からビジネスの世界に転じ通信事業で財をなしたタクシンは、タイ愛国党を結成、2001年の総選挙における同党の圧勝で首相に就任した。95年の総選挙でも圧勝し、政権は2期目に入った。
この間、タクシンは1997年のアジア通貨・経済危機で破たん状態だったタイ経済の立て直しに大きな成果をあげるとともに、歴代政権が軽視してきた農村の貧困問題にはじめて本格的に取り組んだ。国民のだれもが30バーツ(約90円)で医療サービスを受けられる制度、貧困者への低利融資、村ごとの特産品を作る「一村一品運動」への基金など、公的資金の投入によって草の根の経済開発と内需拡大を図った。タクシンは出身地の北部や東北部の農民層や都市の貧困層から絶大な支持を得た。
「タクシノミックス」と呼ばれる政策は、経済成長と貧困の解消を同時にめざすことによってタイを中進国から先進国へと飛躍させることをめざした。
だがその一方で、タクシンの独断専行的な政治運営や政権に批判的なメディアへの露骨な介入に対して、国民の批判が高まり、06年1月に浮上した首相一族の株売却疑惑を機に、バンコクでは首相の退陣を要求する市民集会が相つぐようになる。その中心となったのが「民主主義市民連合」(PAD)だった。
PADは市民団体と名乗っているが、その中心は首都の中間層やタクシンと対立するビジネスエリートで、背後に王族や軍部がついているとされる。彼らはタクシンの反民主主義的姿勢や農村部へのバラマキ政治を批判、さらには彼の王室軽視まで問題にするようになる。
タクシンは議会解散・総選挙で応じるが野党はボイコット、そして憲法裁判所による総選挙の無効とやり直しを命じる判決が出るなど混乱が深まるなか、同年9月、国軍は無血クーデターにより全権を掌握、外遊中のタクシンを追放した。愛国党は総選挙での買収を理由に憲法裁判所から解党命令の判決を下された。
国軍によるクーデターはバンコク市民の多くの支持を得たものの、軍による暫定政権はみるべき成果を挙げられないまま公約どおり07年12月に民主体制への復帰をめざす総選挙を行った。しかし、旧愛国党の流れをくむ国民の力党が勝利を収め、サマック内閣が発足する。これに反発する反タクシン派は、PADを中心に反政府集会から首相府占拠へと戦術をエスカレートさせ、タクシン支持派勢力との衝突で死傷者が出る騒ぎとなった。
退陣を拒むサマックは、テレビの料理番組への出演が違憲行為だとする憲法裁判所の判決で08年9月に失職。後任のソムチャイ首相もタクシンの義弟であることから、PADは反タクシン攻勢の手をゆるめず、ついに11月末バンコク郊外のスワンナプーム国際空港を占拠し、日本人など多数の観光客らが出国できなくなった。
前後して憲法裁判所が、ソムチャイ政権の連立与党に対して選挙違反を理由に解党命令を下し、政権は崩壊。新首相にPADが支持する民主党のアピシット党首が選出された。これを受けてPADは空港封鎖を解いた。
一連の混乱による主産業の観光収入の落ち込みに、米国発の世界不況が追い討ちをかけ経済は低迷した。この非常事態を考えれば、両者は経済対策を優先させ、対立の先鋭化は避けざるをえないのではないかとも見られたが、そうはならなかった。
年明けとともに「反独裁民主戦線」は反撃にでた。総選挙の洗礼を受けていないアピシット政権の退陣を求める集会をバンコクで開始し、さらに4月に中部のリゾート地パタヤで開催される東南アジア諸国連合(ASEAN)関連の国際会議を中止に追い込んでいった。
―両派とも「民主主義」を旗印に
タクシン派と反タクシン派はいずれも民主主義を旗印に掲げているが、その対立は基本的にはエリート層内部の権力争いと見られている。前者は、タクシンに代表される新興ビジネスエリートを基盤としている。後者は、彼らに既得権益を脅かされると警戒する王族、国軍などの旧権力層、タクシン派と利権対立するビジネスエリート、PADなどの都市中間層である。
タクシン派の強力な支持基盤となっているのが、貧しい農民や都市の貧困層である。タクシンは民主的な選挙によって権力の座に就きながら、首相としての反民主主義的な言動によって都市住民の反発を買ったものの、国民の多数を占める農村と都市の貧しい人びとは彼の貧困政策を支持してタクシン派に投票をし続けた。
タクシン派は、民主的な選挙の結果と議会を尊重すべきだと主張する。
一方、経済発展の受益者として登場した都市中間層は、タクシンの農村重視政策を快く思わないだけでなく、貧困層は無学で政治に参加する資格がないと蔑視している。しかし反タクシン派は、農民層などの貧困層に支えられ民主的に選出された親タクシン政権を再び軍を動かして打倒することができないと見ると、司法を味方につけて政敵を追い込んでいった。憲法裁判所の一連の判決がそうであり、PADの暴走を警察が黙認したのもそうである。だから、彼らの勝利は「司法のクーデター」とも評された。
反タクシン派は、既得権益を守るために、選挙は貧困層の買収などで腐敗していて民主的とは言えないと主張し、投票権の制限や下院の権限縮小も検討しようとしている。
では今後、タイはどこへ向かおうとしているのだろうか。それを展望するには民主化の歩みへの歴史的な視点が必要である。(つづく)
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日刊ベリタより
http://www.nikkanberita.com/print.cgi?id=200904181539126
「アメリカかぶれ」と2人のN先生 ー市場原理主義者・中谷巌氏の「転向」をめぐって
おや、なつかしいなあ。そんな思いをいだかせる言葉に出会った。「アメリカかぶれ」である。出会いの場は、週刊朝日(1月23日号)の記事「中谷巌氏が懺悔 『改革』が日本を不幸にした」。
中谷氏といえば、竹中平蔵氏とともに規制緩和の旗振り役として米国流の市場原理主義にもとづいて日本の構造改革を進めようとした経済学者の一人だ。小渕内閣で「経済戦略会議」の議長代理として竹中氏らとともにまとめたさまざまな提言は、のちの小泉構造改革に盛り込まれ、その一部は実現された。だがその経済政策が、貧困層の急増や地方経済の壊滅状態、秋葉原の無差別殺人に象徴される異常犯罪などにつながった事実を認め、氏は反省するようになったという。
では中谷氏はなぜこれまで、市場主義が日本を幸せにすると信じていたのか。それはハーバード大学留学時代に米国の豊かで寛大な姿に魅せられたからだ。「私はアメリカかぶれになって帰国しました」と告白している。
1969年から74年までの5年間の留学中には、豊かで寛大であると同時に貧しく不寛容である米国の姿も知る機会はいくらでもあるはずだったろうし、またそうした現実が市場主義礼賛の経済学といかに関係するのかしないのかを追究してみようという研究意欲をかき立ててくれることはなかったのだろうか。日本のエリートの単細胞思考が不思議でならない。
氏はみずからの反省の弁を『資本主義はなぜ自壊したのか』(集英社インターナショナル)として著し、経済書としては異例の13万部のベストセラーになっている。朝日新聞(3月14日付朝刊)は同書で著者が表明した「転向」をめぐる経済学者らの賛否両論と本人へのインタビューを紹介している。
いまだに構造改革が日本を幸せにすると主張しつづけている厚顔無恥な連中にくらべれば、自分の間違いを認める中谷氏はましだとはいえ、いまさら懺悔をされても「改革」の犠牲となった多くの人たちへの責任はどうなるのか、メディアで反省の弁を述べれば済むのかと悪態のひとつもついてみたい気になる。朝日新聞の記事で、松原隆一郎・東大教授は「彼らの政策で首をつった人もいるかもしれない。倫理的・道義的責任を自覚しているのか」と問い、米国発の金融・経済危機で市場原理主義への風当たりが強まっている時流を意識したとしか思えない、と批判している。
―雨の日は忠臣蔵の授業
それはさておき、私が「アメリカかぶれ」になつかしさをおぼえたのは、米国が日本再建のお手本とされた敗戦直後に義務教育を受けた世代だからである。すこし上の世代のように、教師たちが戦前・戦中の軍国主義教育から180度転換して平和と民主主義の大切さを説きはじめたことに戸惑ったという経験もなく、私たちはまっさらな状態で小学校に入学したピカピカの民主主義新入生だった。日本が戦争で負けたのは、米国にくらべて経済が遅れていたからで、これからの日本は米国のように豊かな国にならなければならない、とも教えられた。
過度な米国礼賛は「アメリカかぶれ」と揶揄され、米国をほんのちょっと訪問しただけで「アメリカでは…」としたり顔をする連中は「アメしょん」(アメリカに小便をしに行ったていどの短期旅行)と陰口をたたかれた。それでも、当時の日本の大きな時代潮流が米国万歳だったことはまちがいない。そんななかで、自分がアメリカかぶれにも、逆に反米にもならなかったのはなぜなのだろうかと考えることがある。答えのひとつは、小学校のN先生(中谷でないがイニシャルはおなじ)の影響にあるようだ。
N先生は担任ではなく体育の先生だった。体育の時間は楽しかったが、体育のない日もそれ以上に楽しかった。体育館などない当時の小学校では雨が降れば体育の授業は中止となったが、先生はきちんと授業をしてくれたからだ。先生の講談「忠臣蔵」がはじまるのである。子どもごころにもそれが半端でない名調子だということがわかる。「こんど雨が降ったらいよいよ討ち入りだぞ」といわれると雨が待ち遠しくなった。夏休みの臨海学校では落語も披露してくれたが、これも玄人はだしの語り口で私たちを笑い転げさせてくれた。
先生はほかにも相撲のただしい四股の踏み方やら歌舞伎などの演劇の手ほどきもしてくれた。おかげで日本の伝統芸能のすばらしさに目を開かせてくれたN先生にはいまだに感謝しているが、それとともにその後ずっと考えていたことがある。それは、米国サマサマの時代になぜN先生は熱心 にこうした教育をされたのかである。とくに興味深いのは忠臣蔵の授業である。
のちに当時の米国の対日政策を勉強するようになって、この仇討ち物語は軍国主義の復活につながるという理由で芝居でも映画でも禁じられていたことをしり、先生はどういうつもりで子どもたちにこの授業をしていたのかをぜひ聞きたくなった。先生から米国批判を聞いた記憶はないし、おしゃれな先生はいくぶんバタ臭いところもあった。残念ながらそのような疑問がわいたころには先生は存命されていなかったが、偏った時代への先生なりの反骨精神のあらわれだったのであろう。
―本当のおしゃれ心とは
おなじような先生はほかにもいたらしい。赤瀬川原平氏の『老人力』(筑摩書房)に登場するパク先生は戦後から4年目くらいの中学校の体育と音楽の先生だが、やはり雨の日には体育と関係ない話をいろいろとしてくれる。おしゃれもそのひとつ。「たとえばシャツを着てズボンを穿いてベルトを締めたあと、必ず一度身体を前かがみにして、シャツの下のところに多少のふくらみをもたせろという。きっちりしたシャツの裾をズボンの中に入れたままのは、固くて野暮ったい」
著者が後年、パク先生にその授業が印象的だった話すと、恩師はこう答えた。「俺はね、お前たちにヨーロッパを教えたかったんだよ。イギリスとフランス。とにかくアメリカ風にはなって欲しくなかった」。アメリカもヨーロッパも変わりなく見える子どもたちに、おなじ西洋でも違いがあることを洋服の着こなしをつうじて教え、「アメリカ的なものとは違う本当のおしゃれ心を教えたかったのだろう」と、この芥川賞作家は述懐している。
もちろん、「かぶれ」の対象はアメリカだけではない。フランスかぶれ、ソ連や中国かぶれもいた。だが圧倒的な多数派はアメリカかかぶれであり、1952年のサンフランシスコ条約の発効とともに日本は米国の占領体制を脱して主権国家として国際社会に復帰したあとも、対外関係は米国一辺倒のままだった。
そしてアメリカかぶれの学者の提言にしたがって、「改革なくして成長なし」「自民党をぶっつぶす」と絶叫した小泉首相は、一億総中流といわれた日本を先進国では米国につぐ格差社会に変貌させ、自民党ならぬ日本をぶっつぶしてしまった。国民の多くもそのような指導者に一時、拍手をおくった。
この体たらくを、天国のN先生やパク先生はどのように見ておられるだろうか。
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(本稿は『財形福祉』3月号に掲載した文に一部加筆したものです。)



