「本棚のまわりで」 言葉、命への深い思い

09.07.02 by   カテゴリー: コラム, 本棚のまわりで

rodokusha1  2000年に日本で初版となった『朗読者』(新潮社)を読んだのは、文庫に入ってからだった。なんとなく気になりながらも読まずにいただけの本書だったが、読み終えるやいやな様々な思いが絡みつくようにわきあがり、どう捉えたらいいのかすぐにはわからなかった。

訳者によるあとがきに、文芸評論家のジョージ・スタイナーは二度読むことを勧めているとあったので、その言葉に従った。すると、最初読んだ時には見えてこなかった風景が次々にあらわれた。主人公が恋に落ちた相手ハンナは、このときこんな思いを抱いたのではないか、あんな逡巡があったのではないか・・・より彼女の内面に寄り添うことができ、頭の中に奥行きのある映像が広がった。

物語の始まりは、第二次世界大戦終結からまもないドイツ。15歳の主人公ミヒャエルは下校途中に体の具合が悪くなるが、通りがかったハンナに助けられ、家のそばまで送ってもらう。数ヶ月ののち病から回復したミヒャエルは、礼を言うべくハンナの元を訪ねる。

むきだしの腕でアイロンがけをするハンナ、うすみどり色の下着姿で、ストックキングをくるくるとまるめてはくハンナ・・・性愛をまだ知らない少年にとって、生活感となまめかしさがない交ぜになった彼女の姿は圧倒的な光を放っていたのかもしれない。自分より20も年上の、ぶっきらぼうではあるが、その所作に生来の優しさを滲ませる彼女に、ミヒャエルは急速にひかれていく。

ハンナに求められるまま、ミヒャエルは愛を交わす前に本を朗読するようになる。ある時はホメロスの『オデュッセイア』を、ある時はトルストイの『戦争と平和』を。自らのぐるりに壁を築いているかのように見えるハンナだが、彼の唇が未知の世界をつむぎだすとき、何かから解き放たれたような表情を見せる。学校の帰りに彼女のもとへ通うのがミヒャエルの大きな楽しみとなるが、ある日突然、ハンナは何も言わず彼の前からいなくなってしまう・・・。

読後の余韻にひたっているうち、『朗読者』を映画作品として見てみたいと思うようになった。でも、本の世界が壊されてしまうのでのではないかと思うと、見たくない気もする・・・そんな相反する思いを、昨年、著者ベルンハルト・シュリンク公認の彼のファンサイトに書き込むと、すぐにシュリンク本人からの書き込みがあった。「撮影は既に終了しており、米国での公開が12月にスタートする。日本での公開はその後になるだろう」との返事だった。

先月日本では、その映画、『愛を読むひと』が公開された。本では一行だけで語られているが、映画では丁寧に描かれている場面がある。とくに二つの場面は、本のタイトルの『朗読者』(英語ではThe Reader、原著のドイツ語ではDer VorleserReaderVorleserはほぼイコールで結べるが、Vorleserにはただ「読む人」ではなく、「読んで聞かせる人」の意味があるようだ)が暗示させる、あるいはその言葉が導く、悲しくも深い結びつきが描かれており、涙を禁じえなかった。

ストーリーの根幹に触れてしまうのでこれ以上書けないのがもどかしいが、いずれの場面でもハンナの本、文学、言葉、そしてひとの命への深い思い、あるいはそれらとの訣別が痛々しいまでに滲んでいて、胸が苦しくなった。この映画のことを思うと、今も真っ先にこれらのシーンが浮かんでくる。特に、彼女が文字通り血肉としたであろう本が悲しい役割を担うシーンでは、涙が止まらず往生した。

  映画を見たあと、『朗読者』を再び手にとった(三谷龍二の作品が使われた表紙もいい。白石一文『どれくらいの愛情』も、彼の彫ったスプーンが印象的な表紙だ)。『朗読者』から読み取るテーマは人それぞれだろう。ある人は戦争を、ある人は恋愛を、またある人は男女の愛を超えたつながりに思いをはせるかもしれない。私にとっては本や文字、言葉がいかに人間やその生と結びついているのかも、改めて知る印象的な作品となった。

 

***

 (「本棚のまわりで」コラムのイラスト:Hiroyuki Nakamura 

ベルンハルト・シュリンク: 小説家。1995年に出版した、『朗読者』は、自身の少年時代の話を元にしているという。

 

 

「本棚のまわりで」 美しいだけでない雑誌

09.06.21 by   カテゴリー: コラム, 本棚のまわりで

img_2469 買いそびれたアルネ(Arne)のバックナンバーを探していたら、この雑誌が12月に30号で終了すると知った。200210月にスタートしたアルネは、イラストレーターの大橋歩が企画、撮影やインタビューから原稿、紙面のデザインまですべてを手がける雑誌で、人物や食べ物、身の回りのこと、本や映画の話など、すべてのページに彼女ならではの視点が息づいている。

写真やレイアウトがすっきりしていて美しく読みやすいのは、彼女のこれまでの長い間の仕事ぶりやそのセンスを思えば当然のこと。だがインタビュー記事になると、彼女が好きな人やその仕事などについていささかつんのめるようにして話を聞く様子がうかがえて面白い。大橋歩だからこそ取材を引き受けた人も多いらしく、意外なエピソードや、思いもよらない写真が記事中にひそんでいることがある。

柳宗理、深澤直人、飯野和好、もたいまさこ・・・どのインタビューにも、大橋歩が魅かれる各氏のものの見方がくっきりと描かれたり、人となりがにじんでいたりする。中でも出色は村上春樹のインタビュー記事だろう。彼の自宅を訪ねたときの模様が、ふんだんな写真とともに10ページ(全体の約五分の一)を費やして綴られている。仕事部屋にかけられた、ニューヨーク・シティ・マラソンに参加した時の写真、レコードの棚や地下の資料庫、村上宅の昼ご飯、ランニング用のスニーカーの列・・・。はては赤い琺瑯びきの生ごみ入れまで写真に収められていて、インタビュー嫌いと言われる彼のことを思うと、その贅沢な内容に唖然とする。

昨今、美しい食器や気のきいた調度品、手間ひまかけた料理などを楽しもうと唱える雑誌が多い。だが、たとえば「スローライフ」や「古いものを大事にする生活」を提唱しようと、どれも薄っぺらに感じられてならない。雑誌名は異なれど、紹介される物や人物には大差なく、アルネから読み取れるような観察眼がない。単に流行に乗っかっただけの体裁で、深みに欠けているのだ。

アルネにはもちろん大橋歩のエッセイも網羅されている。些細な、でも許せないちょっとした人の悪意、いくら流行といえど首をかしげざるをえない風潮などが、小さなエピソードを交えてさらりと綴られていて、いつも腑に落ちるものがある。

中学生の頃、ちょっと目のつったきつそうな顔に長い手足がついた女性のイラストにひかれ、大橋歩のエッセイを読むようになった。そこには、おしゃれなイラストを描いて成功しているイラストレーターも、若い頃は悩みや引け目に思うことをたくさん抱えていたのだと記されていた。華やかな世界にいる(ように見える)彼女にもそんな時代があったのだとは、コンプレックスでいっぱいだった中学生には意外な発見だった。彼女の包み隠さぬ正直な物言いには、親近感が湧いただけでなく、僭越な言い方だが、この人は「信頼できる」とも思った。

 伊藤まさこ著『あの人の食器棚』(新潮社)は、19人の台所を紹介する一冊だが、最後に大橋歩の富浦の家が出てくる。ともすれば「台所まわりの品選びに一家言あり」という名のもとに雑多になりがちな他の人の台所やダイニングルームと異なり、彼女のそれはすっきりと清潔だ。アクセントのようにタイマーをつけただけの冷蔵庫、端にキャンドルと数点の小さな品だけを置いたカウンターが全体の空間をきりりと締めている。掃除の行き届いた床は清々しい。大橋歩本人そのままのようで、彼女のページだけを熱心に見てしまった。「ほっこり」などといった手垢のついた表現でまとめられていなくてほっとした。

アルネの魅力は、大橋歩の審美眼とともに、彼女のちょっと気難しいところもうかがえ、口当たりのいい写真を連ねただけのライフスタイル誌に終わらないところにある。だからこそ、同誌の終了を残念に思いつつも、彼女の「30号で全部をお伝えできると思い、終了を決めました」(イオグラフィックのウェブサイトより)とのコメントは、実に潔く、彼女らしいと思った。

 *** 

 (「本棚のまわりで」コラムのイラスト:Hiroyuki Nakamura 

 

 

「本棚のまわりで」 澄み切った虚無の匂い

09.05.16 by   カテゴリー: コラム, 本棚のまわりで

tmpphpu16w8d 中学から高校にかけて、ビートルズを夢中で聞いた。聞き出したきっかけは、もういらないからと友人がくれた3枚のアルバムだった。ご多分にもれず、私も当初はAnd I Love HerNorwegian Woodといった、いわゆる前期の作品に夢中になったが、ほどなくして後期に作られた曲により大きな魅力を感じるようになった。眠れない夜など、Aからアルファベット順にビートルズの曲名を思い浮かべて楽しむことができるようになる頃には、私にとってのビートルズのナンバー・ベスト3が生まれ、その一位がA Day in The Lifeだった。

辞書と照らし合わせながら訳してみても、ティーンエイジャーの私に歌詞の意味はおぼろげにしかわからなかったが、ジョンとポールの歌声は、この世は虚ろで無常であると説いているかのようで、なんとも抗いがたい魅力を放っていた。

だが10代の人間が感じる「虚無感」など、小池真理子著『ストロベリー・フィールズ』(中央公論新社)の主人公・夏子に言わせれば、観念的なそれでしかない。「…死は遠く、未だ、観念の中にとどまっている。病や老いですら、現実味がない。将来に向けて、無邪気な夢を見続けていられる。少なくとも、将来、と呼ぶにふさわしい時間が、彼らの前に広大無辺に拡がっている」人間にとって、「虚ろな感じ」は舌先で遊び半分に転がしてみるだけの飴玉にすぎないのだ。

ビートルズのStrawberry Fields Foreverからタイトルをとった本書の主人公・夏子は、40代半ばの医師。夫と、その連れ子である大学院生の娘と鎌倉扇ガ谷の家に暮らしている。表立った問題は抱えてはいない。だが、草木が鬱蒼と生い茂った廃園のような庭を抱くそこを、何の屈託もなく我が家だと言えないでいる。

時に芝居がかった言動を見せる夫は、日常の様々な場面でかすかな違和感をかきたてる。「夏子ママ」、「夏子さん」、「夏子先生」と気分に応じて呼び名を変える娘には、「母親としての無償の愛」という感覚を常に起動させずにはいられない。

だが娘の友人の兄と出会うことで、それまで曖昧模糊としていた自らの孤独や渇きが急速に形を伴ってくる。その男性、旬もまた、青年期特有の孤独や挫折感、不安を抱えている若者でしかないのだが、彼の勤めるロック・バーで聞いたうらさびしいStrawberry Fields Foreverに促されるように、夏子は旬への恋情と友情、さらには彼の庇護者であるかのような思いをないまぜにしてつのらせていく。

だが夏子は、いたずらに虚ろな時間をやり過ごしはしない。あきらめに似てはいるものの、その実、自発的な、選択という行動とともに、自らの虚無感を受け入れていく。

どんなに苛立ちや、猜疑心、嫉妬心に駆られることがあっても、夏子は崖っぷちのぎりぎりのところで潔さを保つ。時には歯がゆいと思えるほどの自制を働かせ、醜い姿を晒してしまうことがない。清々しすぎるほど身の丈を知っている。

『虹の彼方』の主人公、志摩子もそうだ。『冬の伽藍』の悠子もそう。愛憎がどう描かれようと小池真理子の小説がどれも通俗な感じを与えないのは、虚無感を漂わせながらも、主人公が透徹した空気をまとっているからだろう。

夏子はStrawberry Fields Foreverに空虚を読み取った。だがタイトルを実在する孤児院、Strawberry Fieldから取ったという同曲は、孤独と同居する清冽な魂の伴奏曲としても響き渡る。

 *** 

 (「本棚のまわりで」コラムのイラスト:Hiroyuki Nakamura 

 

小池真理子: 小説家。2005年、『恋』で直木賞

 

 

 

 

「本棚のまわりで」 もうひとつの絵が立ち上ってくる

09.04.26 by   カテゴリー: コラム, 本棚のまわりで

kmurakami 小説やエッセイを読んでいると、新たなイメージがわきあがってくるときがある。美しい比喩、巧みな風景や心象の描写に喚起されて、それまで見たことのなかった映像が自分の中で立ち上ってくる。架空のアジアの小国で朽ち果てるままに捨て置かれた寺院であれ、甘ったるくも喧噪に満ちたブエノスアイレスの夜であれ、未知の映像が鮮やかに描きだされる瞬間は、本を読む時ならではの大きな喜びを感じる。

だが村上香住子の新著『恋愛、万歳』(新潮社)は、読んでいるかたわらで、自分の過去の小さな物語、かつて自分がその場にいたときの映像が、もう一度現れてくるような不思議な感覚を味わった。ガラス窓に濡れて張りついていた落ち葉が、乾いて少しずつはがれ落ちるように、見知った、だけど記憶の中に埋もれていた絵が窓の中に浮かび上がってきた。

彼女が読んでいた本や住んでいた家に始まって、家庭環境や年齢、仕事上の経験は、私のそれとはことごとく異なっている。だが、もしその場面が紙でできているならばくしゃくしゃに丸めたくなるような感覚、その風景をぼんやりと思い出すときに味わわずにいられないざらりとした感触、といったものに、共通点を多く発見した。それは、どんな内容の話であれ、底に流れる乾いた孤独感が私の個人的なそれに通じるものがあるからなのかもしれない。

フランス語翻訳家としても知られる著者は、長くマガジンハウスのパリ支局長を務めた。時折雑誌で見かけるその名前は、銀線の入ったグラスのような「ムラカミカスミコ」という語感と、彼女が提供する彼の地のファッションや美術など流行の話題とが相まって、フランス文学や文化に精通した、おしゃれで知的な人というイメージを抱かせた。

いや、正しくはそんなイメージしか抱いていなかったのだと、『恋愛、万歳』を読んで気がついた。

昭和初期、著者の母は両親に決別の手紙を送る。著者が、母の死後にそれを初めて読んだことから、この回想録が始まる。自由と愛を追い求めた母の人生に重ねながら、著者は自らのこれまでの自らの道――二十歳でのフランス人との結婚、駐日フランス大使との交流、70年代の文化を先導する華やかな人々との交遊、パリでの生活――を振り返っていく。

『恋愛、万歳』には、いたるところに、ひりひりとした孤独が見え隠れしている。パリの魅力をつづった、彼女の『巴里ノート 「今」のパリをみつめつづけて』(文藝春秋)にあるような、たんたんとした、でも透明感や明るさに満ちた筆致とは趣を異にする。でも、このぬぐいきれない影、澱のようなものが同書を魅力的な一冊にするとともに、著者の新たな顔を発見させることにつながっている。

駆使される数々の比喩は、時に過剰に思えないでもない。だが、著者の隠し立てをしないもの言いに中和され、バランスが取られている。その風通しのよさは、書くものもスタイルも全く違うが、岩井志麻子の著作に通じるとさえ感じられた。

 当初は『恋愛、万歳』というタイトルがやや唐突に、あるいはあまりに直截的に思えた。読む前から読者を突き放すようなところがあるようなタイトルだと感じた。だが本書の最後で、この言葉が何に由来しているのかを知った今、これ以上ふさわしいタイトルはないように思える。そしてその高らかな叫びは、張りついた孤独感で凄みを増している。

 

               *** 

 (「本棚のまわりで」コラムのイラスト:Hiroyuki Nakamura 

 

村上香住子: 二十歳で渡仏し、二年後に帰国。1974年よりフランス語通訳、翻訳家として活動。1985年にマガジンハウスのパリ支局長として再度渡仏。以後2005年までフランスで取材・執筆活動にあたる。 

 

 

 

 

 

「本棚のまわりで」 読書灯を探して

09.04.14 by   カテゴリー: コラム, 本棚のまわりで

bunkoベッドサイドにおくランプをずっと探していた。布団の中でちょっと本を読んでうとうとしたらそのまま眠りたいのに、わざわざベッドを抜け出して天井灯を消さねばならない、という手間をなんとか解消したかった。

ベッドは部屋の角に置いてあり、枕元のあいている側のすぐ脇には本棚がせまっていて、うまいぐあいにテーブルランプを置くスペースがない。ならばフロアランプを、と探したところ、真っ先に欲しいと思ったのがイタリアのアルテミデのフロアランプ「トロメオ」だった。ワイヤーのテンションでバランスをとられたアームと、その先についた、アルミのカップを伏せたようなシェードが美しい。どちらかといえばリビングルームや書斎に合うデザインなのだろうけれど、さっぱりとした上質感が好ましかった。

しかし、六万円近い値段に躊躇した。長く使うと思えば高くはないのだろうが、私にとってはなかなか手が出る数字ではない。思い悩んでいるうちに、さらに強くひかれる照明を発見した。イギリスのアングルポイズのスタンドライトだ。

アングルポイズは、自動車会社のデザイナーだったジョージ・カワーダインが1930年代に製造を始めたランプメーカー。私がひかれたのは、イギリスのファッション・デザイナー、マーガレット・ハウエルがアングルポイズとのコラボレーションで作ったものだ。一度リニューアルされていたType 3のモデルを2005年に新たな色で製作した品だった。

シェードは鳥が優雅に首をのばしたようにゆるやかに、膨らみすぎることなく広がり、ペールターコイズの色とあいまって、静かな就寝の時間にふさわしく思える。机に置くようなライトなのに、と言われそうだが、優しい色と形がベッドサイドに似合っているように思えた。

『マーガレット・ハウエルの家』(集英社)によれば、子どものころハウエルの勉強机には黒のアングルポイズのランプがあり、彼女はその光の下で何時間も過ごすのが好きだったそうだ。床に置くランプではないが、このランプを使えるのなら家具の配置を変えればいい、と思った。だがこの品はさらに高価で、七万円はくだらないとわかった。

日ごろお世話になっている、低価格とシンプルなデザインが人気の生活用品メーカーの店ものぞいた。フロアランプもあるにはあったが、日本の電化製品や生活雑貨にありがちな丸っこいラインと木製のベースが妙に生活感を感じさせ、全く好きになれなかった。お値段はぐっと安く、一万円を切っていたのだが。

だがついに、価格もデザインも納得がいくフロアランプを見つけた。IKEAにあったモデル名「アンティフォーニ」は、その名もずばり「読書ランプ」だ。伸縮式のアームの先に控えめなサイズのシェードがついている。価格は「トロメオ」の十分の一。組み立て式だが、不器用な私にも二、三の手順であっという間に組み立てられた。

シェードの角度を変えるときに使う細いアーム様のつまみ(特定の呼び名があるのだろうか)がシェードの下に伸びていて、これが小枝のようで愛らしい。シェードを少し傾け小さな黒いスイッチをひねると、光が白い壁に反射して、あいまいな輪郭の影を作りだす。単なる読書灯としてだけでなく、落ち着いた時間を作り出す役目も果たしてくれている。

坂川栄治著『「光の家具」照明』(TOTO出版)によれば、二つの同じ照明をシンメトリーに使い、空間に落ち着きや安定感を出す効果は、ベッドサイドにも有効だそうだ(この本には、装丁家の彼の居間や書斎とおぼしき写真が出てくる。白壁いっぱいに広がる黒い書棚の前でいくつかのランプが柔らかな光を落とす一枚などは、おっとりとした美しさを放っている)。だが私の場合は、当面ひとつだけのランプでも、充足した時間が持てそうだ。

 

 *** 

 (「本棚のまわりで」コラムのイラスト:Hiroyuki Nakamura 

「本棚のまわりで」 おやつの味

09.04.02 by   カテゴリー: コラム, 本棚のまわりで

 

oyatsu23初めてラ・フランスを口にしたのは15年ほど前。やはり初めて「文壇バー」というものに連れて行かれた時だった。

案内してくれた知人は何やら「文壇バー」をありがたがっていたが、酒席もブンガクもよくわからない私にはさほど特別な場所とは思えなかった。ただママが「山形から」と、お酒の最後にいて出してくれたラ・フランスを食べたとき、そのおいしさにびっくりした。恥ずかしながら私は、西洋梨の中でもこの果物をそれまで食べたことがなかったのだ。そのママは、ざっくばらんなことと不躾であることとをややはき違えた感があり、居心地悪く思わないでもなかったが、ラ・フランスを食べる際にくれた一つのアドバイスは今も守っている。 

『作家のおやつ』(平凡社)によれば、ラ・フランスは詩人の茨木のり子が好んだおやつでもあった。茨木が暮らした、築五十年の東京の自宅で撮影された写真では、ラ・フランスが長十郎梨とともに皿に盛られ、茶色の地のチェック柄のクロスや後方に置かれた黒電話とともに静物画のような一枚をなしている。茨木は、菓子ならば名古屋は養老軒のういろうと鶴岡の栃餅をことのほか好んだそうだ。茨木家の2階の居間の窓際ではこのふたつが写真に納まっている。

『作家のおやつ』では、小説家や映画監督など31人の作家が好んだおやつが、小説や漫画などおやつにまつわる各々の作品からの引用、直筆原稿、作家たちの仕事場での写真などとともに紹介されている。奇をてらわないレイアウト、丁寧だが無駄のないキャプション、往時を思わせる抑えた色調の美しい写真などがていねいな本づくりを思わせる一冊だ。

本書にはまた、それぞれの作家と近しい人たちが文章を寄せている。父親を臆面もなく称賛する、ある作家の娘の一文には少々鼻白むが、いずれの文章にも故人と、おやつにまつわるその世界への思いがあふれている。

  森茉莉が「私のプティット・マドゥレエヌ」と記した有平糖は『私の美の世界』からの引用とともに紹介されている。

「思い出のお菓子。それは静かな明治の色の中に沈んでいる紅白、透徹った薄緑、黄色、半透明の曇ったような桜色、なぞの有平糖などの花菓子。

大きな真紅(あか)い牡丹、淡紅の桜の花、尖端(さき)が紅い桜の蕾、緑や茜色を帯びた橄欖色の葉。薄茶色の木の枝には肉桂の味がした。」

『贅沢貧乏』の中の、ベッドの背に少しずつずらせてかけられる夢のような色のタオルと白い洗濯物の描写を思い起こさせる一節だ。森茉莉はまた、ココアとエバミルクを常備し、チョコレエトを一番の嗜好品とした。

一方、檀太郎にとって父、檀一雄は無頼派の作家ではなく、しばらく家を空けたかと思うとアメリカ製のアイスクリーム製造機を車に積んで帰ってくるような、甘いものに目がない父親だったそうだ。野山で木苺やヤマモモを見つけると狂喜して息子に食べさせ、戦前の中国で覚えてきたという杏仁豆腐を自分で作った。

私は檀太郎・晴子の料理本『檀流おかず190選』を愛読しているが、牛タンの塩漬け、木の芽和えからラビオリまで網羅する料理は幅広く、上っ面をきれいにまとめただけのレシピ本にはない奥行きがある。素材への愛情と探究心に満ちており、おいしいものを食べたい、食べさせたいという情熱が伺える。この本に出てくる豚肉とほうれん草のカレーは、作れば必ず褒められる一品だ。『作家のおやつ』に寄せた檀太郎の文章を読むと、おいしいもの好き、料理好きがいかに父親から受け継がれたのか認識を新たにする。

おやつの味そのものの好みのほか、作家たちにはおやつを楽しむための作法やスタイルもあった。市川は手が汚れぬよう甘納豆をスプーンですくって食べ、久世光彦は午前三時にマリービスケットやウエハースをさくさくと齧り、荻昌弘は饅頭が固くなると焼いて醤油をたらして食べたという。

 かの文壇バーのママがくれたアドバイスだが、実はそれが「食べ頃を見極めること」だったのか、「冷たく冷やすこと」だったのか、今となっては判然としない。だが、その後ラ・フランスを何度となく食べるうち、おいしく食べるにはこの二点を満たしていなければならないと信じるようになった。

青臭さが残るほど若過ぎもせず、身に透明感がにじむほど熟れ過ぎてもいないラ・フランスを冷たく冷やす。いびつな形の実に刃を薄く当てていくと、少し汚れたような薄緑の皮の下から清々しいペールグリーンの実が現われる。きれいなくし型に切り分けて、暗緑色の織部の皿に。作家ではない私も、些事を忘れて、つんとした甘みに陶然とするひと時だ。

 

 *** 

 (「本棚のまわりで」コラムのイラスト:Hiroyuki Nakamura 

 

「本棚のまわりで」 ガラス越しの猫

09.03.20 by   カテゴリー: コラム, 本棚のまわりで

kijineko-photo 子供のころ、夕暮れになると台所のすりガラスの向こうにうずくまる姿があった。吐き出し窓の外側、幅の狭いレールの上に、茶トラの猫が大きな体を縮めるように身を寄せた。「チョコがきたよ」と言うと、母はご飯に鰹節をまぶしたり、昼食に食べたアジの干物や塩鮭の残りの骨をのせたりしたものを用意した。

それをチョコは当然のようにがつがつと食べると、愛想のひとつをふりまくでもなく、さっさとねぐらに潜り込んだ。あとは軒下の物入れの中でただ眠っていた。

昼間はどこかをぶらつき、夕食の時間ぐらいにしか顔を見せないチョコは、私達の飼い猫とは言えない存在だった。人に甘えることもほとんどせず、顔つきは無表情に近い。ちょっかいを出されても、一顧だにしない。自分の周りのことに一切関心がないといった様子が、「孤高のおばあさん猫」という風情を漂わせていた。

名付け親である小学生の飼い主がしょっちゅう友達に泣かされて帰ってきていたことや、その母親が病弱な配偶者との暮らしに時にはため息をついたであろうことも、もちろんチョコの知ったことではなかっただろう。だがガラス窓越しの丸い背中のシルエットや、短い尾をこちらに向けてねぐらに潜り込む後ろ姿を思い浮かべるたび、当時の自分や周囲の人間の姿が遠景となって立ち上ってくる。

井上荒野著『雉猫心中』(マガジンハウス)では、雉猫が女の家のガラス戸の向こうに立ったときから風景が形をなしていく。一人の女と一人の男の風景。だが、それぞれに違って見える風景。猫は女にとって「荒れ地に生えた一本の木みたいな男」を待つことに結びついていき、男にとっては「ちっともほしくなかった」はずの女に囚われていくことにつながっていく。

神経質なまでに掃除が行き届いた家のクリーム色の絨毯の上、ひび割れた黒い皮のソファー、ベッドの足元の床、冷えきった蔵。それらが画面をひどく無機質に見せる中で、ふたりは爛れるような交合をくりかえす。画面の中でふたりだけが濃い色彩を持ち、熱を帯び、湿度を発散させているかのようだ。それ以外は、誰にもありうるような日常の風景の連なりだが、例えば、右側に急旋回するジェットコースターがふいにぐいと左に回り込むように物語は進んでいく。

『雉猫心中』では、プロローグ、前章、エピローグが女の、後章が男の視点から、二人の関係が語られている。同じ風景でも、女にとっては右手に起こったような出来事が、鏡の中のように男には左手に起こったそれとして展開する。二人が抱くそれぞれの配偶者への違和感、二人を含めた登場人物たちの不気味な癖やふるまいとともに物語は進んでいく。

いずれにしても、猫の知ったことではない。縁台の上、雑木林、車のタイヤの影、石段の下、緑地の遠く・・・そんな場所に女や男が猫の姿をみつけるとき、風景が勝手に刻まれていくだけだ。

そこかしこに薄墨を流したかのような場面の色合いは、前作『切羽へ』とかわらない。だが女と男の間に何も起こらないことが描かれた『切羽へ』とは対照的に、『雉猫心中』では鋭い切っ先で切り取られたような風景が連なっていく。

男が猫から物語を紡ぎ続けているにもかかわらず、『雉猫心中』はこの小説の中で一番不穏な場面とともに終わる。それは、現われた猫が待っていた猫ではなかったとして、女の目の前の画面が遠くなる瞬間でもある。

***

(「本棚のまわりで」コラムのイラスト:Hiroyuki Nakamura 

井上荒野(1961年:いのうえ・あれの。作家。2004年『潤一』で島清恋愛文学賞、2008年『切羽へ』で直木賞受賞。

 

 

「本棚のまわりで」 ブックカバーをかける時、はずす時

09.03.11 by   カテゴリー: コラム, 本棚のまわりで

smallcover1

書店で本を購入した際、ブックカバーをつけてもらうひとと断わるひととの割合はどのくらいなのだろうか。私はカバーを頼むことが多い。本を読むのはたいてい通勤途中や移動の電車の中なので、タイトルや著者名など他人に分かっても構わないと思う一方で、扇情的なタイトルだと深謀遠慮が働くし、特定の本を楽しんでいる非常に個人的な世界を守りたくなったりもする。

日本以外の国では本にカバーをかけるのだろうか。答えはほぼ想像できるが、シンガポール人の同僚に聞くと、シンガポールでは書店でカバーのサービスをすることはないという。彼女は中国系シンガポール人だが、英語の本も中国語の本でも同様だとか。同じ漢字文化圏でならブックカバーはありかと思ったが、それは関係ないらしい。確かに、使用する言語ではなく、メンタリティの問題だ。「タイトルを他人に見られるのが気にならないでもないが、みんなかけない。市販のカバーはあると思うけれど」と彼女は言う。

北米を代表してアメリカ人の同僚にも聞いた。「カバーをつけてくれる書店なんておよそ聞いたことがない。もしカバーをつけて本を読んでいる人がいたら、よっぽど他人に知られたくないものを読んでいるんだろうなと思う。ポルノとかね」。自分が読む本を他人がどう思うか気にするという発想自体がそもそもない、と言われ、ブックカバーはずいぶんと「日本的な代物」だったのだと気づかされた。なにしろ日本では、手芸ブームの昨今、ブックカバーの作り方を説いた本だって珍しくない(ただし、あかぬけたものはなかなかみつからない)し、ブックカバーをプリントできるウェブサイトもある。

図書館で借りた本には、市販のブックカバーを使うことが多い。最初に買ったのは合皮製の茶色のカバーで、紀伊國屋書店で求めた。栞代わりのフラップつき。多少の厚みの差には対応できる。だが、さまざまな判型は文字通りカバーできないのでバリエーションをつけたいと思っていたところ、いわゆる100円ショップにも布帛やビニール製のブックカバーがあることを発見した。文庫と新書サイズの本用に縦のストライプの布製カバーを購入。さすがに上質な感じは望めないが、「なんちゃってポール・スミス」(同ブランドには細いカラフルなストライプを用いた品が多い)といった風情のストライプが、まあ、楽しい。

こんな感じで満足していたら、セレクトショップのエストネーションで素晴らしい文庫本用ブックカバーのコレクションを発見した。アトリエカオルというメーカーのもので、わたしが求めたのは畝のある深い青のヴィンテージの生地と薄い金色の革をはりあわせた品。栞のひもには銀色のスパンコールが一列に並び、その先には丸いプラスチックとチュールを重ねた上にKのイニシャルがあしらわれている。読みかけのページに栞を落とすのが楽しくなりそうではないか。ヴィンテージの素材を使い、ひとつひとつが手作りのため、一枚一枚異なるという。難点は、繊細なつくりに怖じ気づいて、いまだ使えないでいるところだ。

先日訪れた、47都道府県の名品を紹介するイベントでは、大胆でポップな色遣いの厚手の木綿地のブックカバーを求めた。山口県の大漁旗メーカー、岩川旗店が、大漁旗の染色技術と図柄を利用して手がけたものだという。私が購入したのは、一枚の現代絵画のように紫、ピンク、山吹色の太いラインが斜めに走る大胆なデザインの一枚。もし生地をシルクに変え、各ラインの縁の滲みをくっきりさせたら、ラップドレスで有名なファッション・デザイナー、ダイアン・フォン・ファステンバーグのワンピースが作れるようなモダンな表情だ。

埃よけ、汚れ防止、プライバシーの保護などブックカバーを使う理由にはいろいろある(上述のように、コレクションの体をなしてしまう場合もある)。だが一冊読み終えてはカバーをはずし、使い捨てでないものならまた次の本にくるむことを繰り返すうち、ブックカバーの真骨頂は、本からはずす時にあるのかもしれないと思えてきた。一冊読み終えたとき、一つの小さな旅を終えたような、少しさびしさが混じった深い満足感に包まれることがある。登場人物の思いに自分のそれをシンクロさせたり、それまで知らなかった世界にため息をついたり。ブックカバーをはずす瞬間は、ときにそんな読後感を抱いたしるしになっているのかもしれない。

****

(文中のカラフルなブックカバーはアトリエカオル、及び岩川旗店制作。「本棚のまわりで」コラムのイラスト:Hiroyuki Nakamura

「本棚のまわりで」 あの、いつもの佐野さん

09.03.01 by   カテゴリー: コラム, 本棚のまわりで

sanoもし記憶に誤りがなければ、20年くらい前、佐野洋子が詩人との結婚発表の記者会見に臨んだものの、途中でいたたまれないといった表情で席をたってしまったことがあった。結婚を自分と関係のないひとたちに向けてわざわざ発表すること、また、さすがに金屏風の前ではなかったと思うが、仰々しくそんな席に座ることにどうしようもない恥ずかしさを覚えてのふるまいだったように見えた。ああ、佐野洋子はまっとうな人だな、との感を強くした。

佐野洋子著『神も仏もありませぬ』(筑摩書房)は、2003年に単行本として出版されたエッセイが最近文庫化されたもの。群馬県の山中で暮らす六十代半ばの彼女。呆けた母親、友人たちとの日々のやりとりが、彼女のやさしくも常に一定の距離を保ったまなざしで綴られている。

相手が誰であれどんなものであれ、佐野洋子はいつも、すぱっと切れるナタのように譲れないところはひとつも譲らない。恥ずかしいと思えるものには、他人がどう考えようと手を差しのべない。だがその一方で、それまで気づかなかったこと、知らなかったことが自分にしみいってくると感じると、ふところ深く受けとめる。どうしようもなく愛しいと思うものは惜しみなくかき抱く。

安っぽい物差しの目盛りに自分を合わせたりはしない。

ベストセラーになっている絵本『100万回生きたねこ』(軟弱な私は、つい涙と鼻水混じりになり、どうしても最後まで読めない)の著者として有名な佐野洋子だが、私は『おじさんのかさ』が好きだ。

この絵本の主人公「おじさん」には気に入っている傘があり、それをぬらすのがいやでたまらない。雨降りの日も傘を手にしてはいてもさそうとせず、他人の傘に入れてもらう。だがあるとき子供が歌う雨の歌に誘われて傘を開き、傘の本当の楽しみ方を知る。「おじさん」は、傘がぬれているのはいいものだと思う。傘の愛し方を知るのだ。佐野洋子のエッセンスが表れている絵本だと思う。

『神も仏もありませぬ』に佐野洋子はこう書く。

「そして、六十三歳になった。半端な老人である。呆けた八十八歳はまぎれもなく立派な老人である。立派な老人になった時、もう年齢など超越して、『四歳ぐらいかしら』とのたまうのだ。私はそれが正しいと思う。私の中の四歳は死んでいない。雪が降ると嬉しい時、私は自分が四歳だか九歳だか六十三だかに感知していない。」

文庫本で230ページほど。さらっと読めてしまう。でも読後は、「あの、いつもの佐野さん」を確認する。

表紙にあるような、煩悩だらけの菩薩のような彼女の挿画もこの本にふさわしい。

2002年の芥川賞受賞作、長嶋有の『猛スピードで母は』の表紙に佐野洋子の絵が使われている。『神も仏もありませぬ』を読んで、彼女と長嶋有との間に作家と挿画家以上のつながりがあることを知った。『猛スピードで母は』にはずっと食指が動かないでいた。でも『神も仏もありませぬ』で「ユウ君」のくだりを読み、手にとってみようかな、と思っている。

***

佐野洋子(1938:作家、エッセイスト、絵本作家。『100万回生きたねこ』は人生や愛について読者に深い感動を与える絵本として子供から大人まで親しまれている。『神も仏もありませぬ』で2004年度の小林秀雄賞を受賞。

(「本棚のまわりで」コラムのイラスト:By Hiroyuki Nakamura )

Get Adobe Flash playerPlugin by wpburn.com wordpress themes