写真家の目 「いい写真」とは②

写真は映像のように連続したものではないので、見るものは一枚の写真とキャプションから前後関係を読み取る。例えばカメラマンが前後の写真を差し替え、ドラマティックに見えるような配列に組み替えて「フィクション」を作ってしまう事が可能であり、意図的でなくとも撮影者の誤った解釈で全く事実とは異なる方向に流されていってしまうこともある。「写真は真実を写す」と広く信じられているからこそ、その事が実に見逃されやすい。ユージン・スミスは「写真は平気でうそをつく」と端的に述べている。特に加工技術が高くなっている今日、「うそをつく」事がより簡単になった。その写真が事実を伝えなければならないものならば(というのも広告写真で今や修正していないものを探す方が難しい)撮影者の姿勢と意識はとても重要である。
しかしながら姿勢という点で、写真を撮る事を仕事にしている自分も、ときに怠惰になってはいないだろうかと常に自分に問いかける。五感をとぎ澄ます事なく、その場を「一応」という気持ちで撮ってしまっている事はないだろうか。シャッターを押した事で安心し、被写体を注視することをおろそかにしていないだろうか。
初めて暗室でプリント作業をしたときに思わず感嘆の声をあげてしまった、画像が印画紙に表れるプロセス。フィルムの現像からプリント作業までは手間と時間がかかるものだった。そして撮影したものがきちんと撮れているかどうかはプリントされるまで判らないので、そのプロセスの間は緊張感にあふれていた。しかし今は撮影した直後に画像が確認出来るのでずいぶんと楽になった反面、技術的な撮影ミスを犯してはならないという気持ちは以前に比べ薄まっている気がする。たとえミスをしたとしてもある程度はコンピュータ上で修正出来てしまう。以前の一連したマニュアル作業はカメラマンの撮影に対する緊張感を、意識下で保つ事に役立ってはいなかっただろうか。
ある美術館でのこと。有名な絵がそこかしらに展示されている前で、携帯やデジタルカメラで撮影に勤しむ人たちがいた。人によってはただ撮影し、次の絵に移る。複写された絵が印刷されどこの国でも見る事が出来るが、そこにあるのはたったひとつのオリジナルであるのに、肉眼で見る事なくカメラに収める。「見た」という再確認を後日するためなのか、それとも撮って帰らないのは「惜しい」気がするからなのか。その絵のタッチはどれだけ複雑なライティングをもって撮影された画像でも、本物を目の前にする空気感は再現出来ない。だからこそ遠い美術館に出向いて私たちは対面するしかないのである。
いい写真とは果たしてどんなものか。それは勿論個人個人によって尺度が違ってくるだろうが、撮影する時の感覚や想いがそれに非常に関わってくると思う。(写真:「2008年 ロンドン」)
写真家の目 「いい写真」とは
時々友達から「うまい写真が撮りたい」や「どうしたらきれいに撮影出来るの?」と聞かれる事がある。そしてどんな写真を撮っているのかと見せてもらうと、友人曰く「下手な写真」は大抵そんなことはなく、その人の何か雰囲気のようなものがありいい写真だと思う。特に子供やペットの写真は、構図云々よりも撮影者の愛情が伝わってきて、まさにその人しか撮れない写真になっている。
「いい写真」という定義はもちろん人それぞれ違うが、私は時間が経っても色褪せない写真が「いい写真」ではないかなと思う。
学生の時以来、強く私の心に残っている一枚の写真がある。それを撮影したドキュメンタリー写真家として有名なアメリカ人のユージン・スミス。彼は撮影のために熊本の水俣市に居を移し「水俣病」と呼ばれるチッソ株式会社が引き起こした水質汚染と、それによって大きな被害を受けた住民の暮らしを記録し続けた。そしてその一枚は社会の教科書にも使われ多くの人々に知られる写真となる。
(*)元パートナーであるアイリーン・スミスさんによって、水俣病を世界に知らせたその代表的な写真(母と娘の入浴シーン)は、被写体になった娘さんのご遺族の意向をくんで2000年より公開しない事に決められた。
彼が3年余りの年月を水俣で費やした、問題に向き合う姿勢と目線が込められた彼の写真は、見る私たちに我々の環境の背景に起こっている出来事を見つめ、そして問い直す機会を与えてくれる。さらに彼の撮影技術と暗室でのプリントテクニックは、彼の伝えたい状況を際立たせ、見るものに強い印象を与える。
おそらくカメラが特別なものだった時、カメラマンは記録することや外に向けての「伝える」という役目が今よりも大きかっただろう。カメラ、そしてそれに付随する技術の発達と普及率の高さにより、メディアは大多数へ向けられていたものから、より個人のニーズに向けられたものへと変化し、それに比例するように写真の用途も変化をしていく。
記録媒体の変化も大きいだろう。フィルムが主流だった時代はフイルム、現像、プリント代が必要であったのがデジタル主流になってからは撮れるだけ撮り、要らないものは捨てればいいという気軽さも「写真はお金がかかる」という概念を大きく変え、ますます手軽なものへと変わっていく。そして今や誰もが記録する機会を持ちあわせている。例えば大きな災害や事件が起こるとアングルの違う複数の映像がテレビで流れる。これらの映像はカメラマンでなく、偶然にそこに出会わせた人からによるものも多い。そして撮影された数分後には世界でその映像を誰もがインターネット上でシェアする事が可能な時代である。
技術の向上とともに、撮影をする側の意識または姿勢も比例しているのだろうか。特にカメラマンにとって被写体に向けて写真を撮る事は、自分がその写真に対して責任を負う事。大げさに聞こえるかもしれないが、時には自分が撮影した一枚の写真によってそこに写された人の人生をも変えてしまうこともあり得るのだ。カメラマンにとってその意識を保つ事は必須である。(続く)(写真は「2008年 ロンドン」)
「本棚のまわりで」 言葉、命への深い思い
09.07.02 by Tokyo57577 カテゴリー: コラム, 本棚のまわりで
2000年に日本で初版となった『朗読者』(新潮社)を読んだのは、文庫に入ってからだった。なんとなく気になりながらも読まずにいただけの本書だったが、読み終えるやいやな様々な思いが絡みつくようにわきあがり、どう捉えたらいいのかすぐにはわからなかった。
訳者によるあとがきに、文芸評論家のジョージ・スタイナーは二度読むことを勧めているとあったので、その言葉に従った。すると、最初読んだ時には見えてこなかった風景が次々にあらわれた。主人公が恋に落ちた相手ハンナは、このときこんな思いを抱いたのではないか、あんな逡巡があったのではないか・・・より彼女の内面に寄り添うことができ、頭の中に奥行きのある映像が広がった。
物語の始まりは、第二次世界大戦終結からまもないドイツ。15歳の主人公ミヒャエルは下校途中に体の具合が悪くなるが、通りがかったハンナに助けられ、家のそばまで送ってもらう。数ヶ月ののち病から回復したミヒャエルは、礼を言うべくハンナの元を訪ねる。
むきだしの腕でアイロンがけをするハンナ、うすみどり色の下着姿で、ストックキングをくるくるとまるめてはくハンナ・・・性愛をまだ知らない少年にとって、生活感となまめかしさがない交ぜになった彼女の姿は圧倒的な光を放っていたのかもしれない。自分より20も年上の、ぶっきらぼうではあるが、その所作に生来の優しさを滲ませる彼女に、ミヒャエルは急速にひかれていく。
ハンナに求められるまま、ミヒャエルは愛を交わす前に本を朗読するようになる。ある時はホメロスの『オデュッセイア』を、ある時はトルストイの『戦争と平和』を。自らのぐるりに壁を築いているかのように見えるハンナだが、彼の唇が未知の世界をつむぎだすとき、何かから解き放たれたような表情を見せる。学校の帰りに彼女のもとへ通うのがミヒャエルの大きな楽しみとなるが、ある日突然、ハンナは何も言わず彼の前からいなくなってしまう・・・。
読後の余韻にひたっているうち、『朗読者』を映画作品として見てみたいと思うようになった。でも、本の世界が壊されてしまうのでのではないかと思うと、見たくない気もする・・・そんな相反する思いを、昨年、著者ベルンハルト・シュリンク公認の彼のファンサイトに書き込むと、すぐにシュリンク本人からの書き込みがあった。「撮影は既に終了しており、米国での公開が12月にスタートする。日本での公開はその後になるだろう」との返事だった。
先月日本では、その映画、『愛を読むひと』が公開された。本では一行だけで語られているが、映画では丁寧に描かれている場面がある。とくに二つの場面は、本のタイトルの『朗読者』(英語ではThe Reader、原著のドイツ語ではDer Vorleser。ReaderとVorleserはほぼイコールで結べるが、Vorleserにはただ「読む人」ではなく、「読んで聞かせる人」の意味があるようだ)が暗示させる、あるいはその言葉が導く、悲しくも深い結びつきが描かれており、涙を禁じえなかった。
ストーリーの根幹に触れてしまうのでこれ以上書けないのがもどかしいが、いずれの場面でもハンナの本、文学、言葉、そしてひとの命への深い思い、あるいはそれらとの訣別が痛々しいまでに滲んでいて、胸が苦しくなった。この映画のことを思うと、今も真っ先にこれらのシーンが浮かんでくる。特に、彼女が文字通り血肉としたであろう本が悲しい役割を担うシーンでは、涙が止まらず往生した。
映画を見たあと、『朗読者』を再び手にとった(三谷龍二の作品が使われた表紙もいい。白石一文『どれくらいの愛情』も、彼の彫ったスプーンが印象的な表紙だ)。『朗読者』から読み取るテーマは人それぞれだろう。ある人は戦争を、ある人は恋愛を、またある人は男女の愛を超えたつながりに思いをはせるかもしれない。私にとっては本や文字、言葉がいかに人間やその生と結びついているのかも、改めて知る印象的な作品となった。
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(「本棚のまわりで」コラムのイラスト:Hiroyuki Nakamura )
ベルンハルト・シュリンク: 小説家。1995年に出版した、『朗読者』は、自身の少年時代の話を元にしているという。
「本棚のまわりで」 美しいだけでない雑誌
09.06.21 by Tokyo57577 カテゴリー: コラム, 本棚のまわりで
買いそびれたアルネ(Arne)のバックナンバーを探していたら、この雑誌が12月に30号で終了すると知った。2002年10月にスタートしたアルネは、イラストレーターの大橋歩が企画、撮影やインタビューから原稿、紙面のデザインまですべてを手がける雑誌で、人物や食べ物、身の回りのこと、本や映画の話など、すべてのページに彼女ならではの視点が息づいている。
写真やレイアウトがすっきりしていて美しく読みやすいのは、彼女のこれまでの長い間の仕事ぶりやそのセンスを思えば当然のこと。だがインタビュー記事になると、彼女が好きな人やその仕事などについていささかつんのめるようにして話を聞く様子がうかがえて面白い。大橋歩だからこそ取材を引き受けた人も多いらしく、意外なエピソードや、思いもよらない写真が記事中にひそんでいることがある。
柳宗理、深澤直人、飯野和好、もたいまさこ・・・どのインタビューにも、大橋歩が魅かれる各氏のものの見方がくっきりと描かれたり、人となりがにじんでいたりする。中でも出色は村上春樹のインタビュー記事だろう。彼の自宅を訪ねたときの模様が、ふんだんな写真とともに10ページ(全体の約五分の一)を費やして綴られている。仕事部屋にかけられた、ニューヨーク・シティ・マラソンに参加した時の写真、レコードの棚や地下の資料庫、村上宅の昼ご飯、ランニング用のスニーカーの列・・・。はては赤い琺瑯びきの生ごみ入れまで写真に収められていて、インタビュー嫌いと言われる彼のことを思うと、その贅沢な内容に唖然とする。
昨今、美しい食器や気のきいた調度品、手間ひまかけた料理などを楽しもうと唱える雑誌が多い。だが、たとえば「スローライフ」や「古いものを大事にする生活」を提唱しようと、どれも薄っぺらに感じられてならない。雑誌名は異なれど、紹介される物や人物には大差なく、アルネから読み取れるような観察眼がない。単に流行に乗っかっただけの体裁で、深みに欠けているのだ。
アルネにはもちろん大橋歩のエッセイも網羅されている。些細な、でも許せないちょっとした人の悪意、いくら流行といえど首をかしげざるをえない風潮などが、小さなエピソードを交えてさらりと綴られていて、いつも腑に落ちるものがある。
中学生の頃、ちょっと目のつったきつそうな顔に長い手足がついた女性のイラストにひかれ、大橋歩のエッセイを読むようになった。そこには、おしゃれなイラストを描いて成功しているイラストレーターも、若い頃は悩みや引け目に思うことをたくさん抱えていたのだと記されていた。華やかな世界にいる(ように見える)彼女にもそんな時代があったのだとは、コンプレックスでいっぱいだった中学生には意外な発見だった。彼女の包み隠さぬ正直な物言いには、親近感が湧いただけでなく、僭越な言い方だが、この人は「信頼できる」とも思った。
伊藤まさこ著『あの人の食器棚』(新潮社)は、19人の台所を紹介する一冊だが、最後に大橋歩の富浦の家が出てくる。ともすれば「台所まわりの品選びに一家言あり」という名のもとに雑多になりがちな他の人の台所やダイニングルームと異なり、彼女のそれはすっきりと清潔だ。アクセントのようにタイマーをつけただけの冷蔵庫、端にキャンドルと数点の小さな品だけを置いたカウンターが全体の空間をきりりと締めている。掃除の行き届いた床は清々しい。大橋歩本人そのままのようで、彼女のページだけを熱心に見てしまった。「ほっこり」などといった手垢のついた表現でまとめられていなくてほっとした。
アルネの魅力は、大橋歩の審美眼とともに、彼女のちょっと気難しいところもうかがえ、口当たりのいい写真を連ねただけのライフスタイル誌に終わらないところにある。だからこそ、同誌の終了を残念に思いつつも、彼女の「30号で全部をお伝えできると思い、終了を決めました」(イオグラフィックのウェブサイトより)とのコメントは、実に潔く、彼女らしいと思った。
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(「本棚のまわりで」コラムのイラスト:Hiroyuki Nakamura )
キリル文字Ж 生命を生み出す女神、「春」を表す
09.06.08 by タチヤーナ ・スニトコ カテゴリー: コラム, 世界の窓

ロシアのアルファベットの中で珍しい形を持つ«Ж»という文字がある。読み方は /ʒ/で、英語のmeasureやフランス語の 「j」 jamaisと同じ発音である。文字の起源は謎のようである。キリルというスラブ文字の語源となったフェニキアとギリシャアのアルファベットにはなかった。
古代スラブ語では,「ジヴィチェ」という文字は、 動詞 「生きる」の2人称複数命令形である(Live! 生きろ!)。古い本には、«Ж»という文字は左の図のように描かれていた。
人の姿が「世の中の木」とその木には織り込まれている。木の枝は人の腹から出ている。古代スラブ語では「腹」(「ジヴォト」)は「生命」を意味していた。
「ジヴォト」の中には魂があるとスラブ人たちは信じていた。だから旧正教徒のキリスト教信者たちは魂を守るために十字架を胸ではなく腹につけていたのである。
古代スラブの「生命のシンボル」は、キリスト時代のシンボルと一緒にキリスト以前の時代のシンボル(ライオン、鳥など)がウラジーミル市にあるジミトロヴ教会(1194-1197年)の壁飾りに見られる。
古代スラブ人たちは、世の中を右端図のような「木」のように想像していた。木の上には太陽と月があって、こずえには鳥と魂がいて、中の木の幹の周りには蜂が舞っており、木の下部には蛇と蛙とビーバーが住んでいる。木の下には美しい澄んだ泉がある。
木全体が人間を表している。たいていの場合、それは女性として解釈されていた。ロシアの刺繍には、木は手足を広げしばしば手には枝や花や鳥を持っている姿として、蛙のような姿の妊婦が描かれている。スラブ人たちはこの妊婦の姿の女神は次から次へと生き物を生み出すシンボルと信じているのである。
図案化された誕生と肥沃のシンボルが«Ж»という文字である。«Ж»という文字は「ジヴァ神」という女神のモノグラムである。ジヴァ神は「マコシ」という運命の女神の仲間の一人である。もう一人のジヴァ神の仲間の女神はマラ神である。ジヴァは「命」を意味し、マラは「死」を意味する。
ジヴァ神は地球に春をもたらし、人々に自然への感情を目覚まさせるのである。春には、ジヴァ神とジヴァ神のおともであるジヴィツァを見ることができる。彼女らは、心やさしい目つきで天空を飛びかいながら地表に目を落とすので、地表は緑で覆われ花であふれ美しくなるのである。
世の中が形作られると時も生ずる。時の流れのリズムからカッコウの鳴き声ができてきた。カッコウはジヴァ神の化身の一つである。スラブ文化では人間の魂はしばしばカッコウの姿でイメージされている。カッコウは、誕生の時間、結婚の時間、死の時間、四季の変化を知っている。春にはカッコウは天を開け、秋には天を閉じる。冬に鳥が帰って行くイリイ(ヴィリイ)という天国の鍵をカッコウは持っていると言われている。
「カッコウ、カッコウよ! 私はいったい何才まで生きるのか教えてくれ」という質問をカッコウにして、「かっこう」の鳴き声の数を数えることが出来る。今もカッコウを見かけると人々はいろいろな質問をする。
「カッコウ祭り」は5月最後の日曜日となる。この日、若い女性たちは親友と一緒に「クマ」になる。娘たちは白樺の葉で作った花輪の中を通ってキスをして「クマになりましょう、クマになりましょう」と繰り返し、「お互いに親類のように仲良くなりましょう。私たちの人生はずっと一緒よ。どんな喜びもどんな悲しみも私たちの中を裂くことはできないの」と言う。
その祭りでは、娘たちは花輪とプレゼントを交換しあう。そして、カッコウを森の中のどこかに隠してしまう。
古代スラブの生命のシンボルを表す«Ж»(「ジヴィチェ」)という文字からは 「ジト(小麦)」や「ジリヨ(住居)」などさまざまな言葉が派生してきた。 (つづく)
(日刊ベリタ、6月1日掲載の転載)
「本棚のまわりで」 澄み切った虚無の匂い
09.05.16 by Tokyo57577 カテゴリー: コラム, 本棚のまわりで
中学から高校にかけて、ビートルズを夢中で聞いた。聞き出したきっかけは、もういらないからと友人がくれた3枚のアルバムだった。ご多分にもれず、私も当初はAnd I Love HerやNorwegian Woodといった、いわゆる前期の作品に夢中になったが、ほどなくして後期に作られた曲により大きな魅力を感じるようになった。眠れない夜など、Aからアルファベット順にビートルズの曲名を思い浮かべて楽しむことができるようになる頃には、私にとってのビートルズのナンバー・ベスト3が生まれ、その一位がA Day in The Lifeだった。
辞書と照らし合わせながら訳してみても、ティーンエイジャーの私に歌詞の意味はおぼろげにしかわからなかったが、ジョンとポールの歌声は、この世は虚ろで無常であると説いているかのようで、なんとも抗いがたい魅力を放っていた。
だが10代の人間が感じる「虚無感」など、小池真理子著『ストロベリー・フィールズ』(中央公論新社)の主人公・夏子に言わせれば、観念的なそれでしかない。「…死は遠く、未だ、観念の中にとどまっている。病や老いですら、現実味がない。将来に向けて、無邪気な夢を見続けていられる。少なくとも、将来、と呼ぶにふさわしい時間が、彼らの前に広大無辺に拡がっている」人間にとって、「虚ろな感じ」は舌先で遊び半分に転がしてみるだけの飴玉にすぎないのだ。
ビートルズのStrawberry Fields Foreverからタイトルをとった本書の主人公・夏子は、40代半ばの医師。夫と、その連れ子である大学院生の娘と鎌倉扇ガ谷の家に暮らしている。表立った問題は抱えてはいない。だが、草木が鬱蒼と生い茂った廃園のような庭を抱くそこを、何の屈託もなく我が家だと言えないでいる。
時に芝居がかった言動を見せる夫は、日常の様々な場面でかすかな違和感をかきたてる。「夏子ママ」、「夏子さん」、「夏子先生」と気分に応じて呼び名を変える娘には、「母親としての無償の愛」という感覚を常に起動させずにはいられない。
だが娘の友人の兄と出会うことで、それまで曖昧模糊としていた自らの孤独や渇きが急速に形を伴ってくる。その男性、旬もまた、青年期特有の孤独や挫折感、不安を抱えている若者でしかないのだが、彼の勤めるロック・バーで聞いたうらさびしいStrawberry Fields Foreverに促されるように、夏子は旬への恋情と友情、さらには彼の庇護者であるかのような思いをないまぜにしてつのらせていく。
だが夏子は、いたずらに虚ろな時間をやり過ごしはしない。あきらめに似てはいるものの、その実、自発的な、選択という行動とともに、自らの虚無感を受け入れていく。
どんなに苛立ちや、猜疑心、嫉妬心に駆られることがあっても、夏子は崖っぷちのぎりぎりのところで潔さを保つ。時には歯がゆいと思えるほどの自制を働かせ、醜い姿を晒してしまうことがない。清々しすぎるほど身の丈を知っている。
『虹の彼方』の主人公、志摩子もそうだ。『冬の伽藍』の悠子もそう。愛憎がどう描かれようと小池真理子の小説がどれも通俗な感じを与えないのは、虚無感を漂わせながらも、主人公が透徹した空気をまとっているからだろう。
夏子はStrawberry Fields Foreverに空虚を読み取った。だがタイトルを実在する孤児院、Strawberry Fieldから取ったという同曲は、孤独と同居する清冽な魂の伴奏曲としても響き渡る。
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(「本棚のまわりで」コラムのイラスト:Hiroyuki Nakamura )
小池真理子: 小説家。2005年、『恋』で直木賞。
ノマドのまなざし②~イランの首都テヘラン~
09.04.28 by 南野 陽子 カテゴリー: コラム, ノマド(遊牧民)のまなざし
「えっ!イランのテヘラン!?一体どんな所なの?」
私は6歳の時、父の転勤で中東・イランの首都テヘランに家族で引っ越しすることになりました。父が手当たり次第に買い集めてきたイランに関する本を開いてみると、そこには砂漠やラクダ、モスク(イスラム教寺院)などの写真が出ていました。しかし当時はテヘランの生活に関する情報はとても少なかったので、私達家族は自分達が一体どのような環境で暮らすことになるのか想像もつきませんでした。
いざ訪れたテヘランで、私が生まれて初めて会話をした外国人は、空港に迎えに来てくれた、父の会社で運転手をしているホセインさんというイラン人男性でした。私はとても緊張していましたが、日本で一生懸命練習してきた「マイ・ネーム・イズ・ヨウコ」のフレーズを思い切って言ってみました。すると彼はとても喜んで「ヨゴジャン!」と言って私を抱きあげてくれたのです。なんだか変な発音だなと思ったのですが、後でペルシャ語では日本語の「ちゃん」と同じニュアンスの愛称として「ジャン」という言葉があるのだと知りました。今思えば異文化との交流は、最初から私の想像を超えるものでした。
ープラタナスの街並み
ホセインさんの運転する車から見た空港周辺の景色は、それまで目にしたこともない、茶色の地肌がむき出しの荒れ地で、私は長旅の疲れも忘れて窓ガラスに張り付きっ放しでした。ところが、やがて到着したテヘラン市内は対照的に緑豊かで、ペルシャ語でチェナールと呼ばれるプラタナスの街路樹がある現代的な街並みでした。イメージしていた砂漠やラクダの風景とは全く違っていたので、とても驚いたことを覚えています。
それからの日々は、私にとって未知の世界との遭遇でした。実際に行ってみるまでは「暑いところ」というイメージしかなかったテヘランですが、思いのほか寒暖の差が激しく、冬には雪も降りました。秋になると市内のチェナール(プラタナス)が黄色く色付き、とても綺麗だったことが特に強く印象に残っています。また、高地にあるため乾燥状態は想像以上で、洗った食器は置いておくとそのまま乾いてしまうので、拭く必要もありませんでした。夏には学校の体育の授業で、校庭で運動する生徒達に先生が脱水状態にならないように、ホースで水をかけて気を配ってくれるのですが、それもあっという間に乾いてしまいました。
生活インフラに関してはその頃のテヘランではまだ頻繁に停電や断水がありました。学校から帰宅すると母に「電気がついている間に宿題をしなさいよ!」と言われるのですが、私と弟はついつい外で遊んでしまいました。結局いつも停電になってしまってからロウソクや懐中電灯の光を頼りに宿題をしていたものです。
その一方で、革命以前のテヘランでは様々な物資を調達することが可能でした。その中でも乳製品はとても美味しく、私達兄弟はピンクやグリーンの綺麗な色のバケツに入れて売られている、ヨーグルトやアイスクリームが大好物でした。また、パン屋さんに行く代わりに、おじさんがロバの背中に乗せて売りに来る焼きたてのヌーン(インドのナンと同様の中東風のパン)を、毎日買って食べていました。
ー異なる時間の観念
私達家族が接したテヘランの人々は、日本人から見ると全く違う時間の観念をもっているように見えました。運転手のホセインさんは毎朝のように遅刻して到着しました。治安の関係で送迎の車以外には移動の手段がなかったので、父はいつもとても困っていました。また、お手伝いのパリーさんが来るべき日に来ない、といったことも日常茶飯事でした。初めの方こそ様々な事が予定通りにならない状態に、家族全員で振り回されていましたが、時間が経つにつれて、この「予定通りにならない状態」やイランの人達の超マイペースにも徐々に慣れていきました。
そんなイランの人々にとって宗教=イスラム教だけは全く別のもので、革命以前の当時でさえ驚くほど厳格に教えが守られているのには本当に驚きました。私がイランのことを思い出す時に、まず脳裏に浮かぶのは、一日5回聖地メッカの方角に向って一斉に祈りを捧げる人々の姿です。他のことでは時間を見て生活しているのかと思うことさえあるイランの人々が、モスクの中だけでなくあらゆる場所で一斉にひざまずいて、時間通りに祈りを捧げます。イランのどの街を訪れても見かけるその風景は、私の心を捉えて離しませんでした。
ー砂漠、星空
私達家族は週末や休暇になると、ホセインさんの運転する車に乗って、イラン北部のカスピ海、中部の都イスファハーンにあるモスク、南部のシラーズにある古代遺跡ペルセポリスなど各地を訪れました。私は一本道を何時間走っても続く砂漠の広大さや、まるで降ってくるかと思うくらいの満天の星空に驚き、想像を遥かに超える遺跡やモスクの壮大さに夢中になりました。日本にいた頃から乗りたいと思っていたラクダに初めて乗った時には、立ち上がると2メートルを超える高さに、怖くて声も出ませんでした。ただ、その高いラクダの背中の上から眺めたペルセポリスの遺跡の光景は今でも脳裏に焼き付いています。
このような体験を通して「日本とは全く異なる世界、そして日本人である自分たちとは異なった価値観を持つ人々が存在するのだ」ということを子供心にも知ったことは、私にとって衝撃的な体験でした。そしてその体験を通して、新しい文化に出会い、新しい価値観を知ると、自分の世界が驚くほど広くなることを肌感覚で覚えたのです。
もちろん、そのようなことを当時の私が頭で理解出来ていたわけではなく、ただぼんやりと感覚的に感じ取っていただけです。それでもこれらの体験は、私の未知の異文化への好奇心をかき立て、「大人になったらもっともっと世界中の知らない国を訪れてみたい!」と強く思うきっかけになったのです。
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関連記事:「ノマドのまなざし」-プロローグ http://www.newsmag-jp.com/archives/313
「本棚のまわりで」 もうひとつの絵が立ち上ってくる
09.04.26 by Tokyo57577 カテゴリー: コラム, 本棚のまわりで
小説やエッセイを読んでいると、新たなイメージがわきあがってくるときがある。美しい比喩、巧みな風景や心象の描写に喚起されて、それまで見たことのなかった映像が自分の中で立ち上ってくる。架空のアジアの小国で朽ち果てるままに捨て置かれた寺院であれ、甘ったるくも喧噪に満ちたブエノスアイレスの夜であれ、未知の映像が鮮やかに描きだされる瞬間は、本を読む時ならではの大きな喜びを感じる。
だが村上香住子の新著『恋愛、万歳』(新潮社)は、読んでいるかたわらで、自分の過去の小さな物語、かつて自分がその場にいたときの映像が、もう一度現れてくるような不思議な感覚を味わった。ガラス窓に濡れて張りついていた落ち葉が、乾いて少しずつはがれ落ちるように、見知った、だけど記憶の中に埋もれていた絵が窓の中に浮かび上がってきた。
彼女が読んでいた本や住んでいた家に始まって、家庭環境や年齢、仕事上の経験は、私のそれとはことごとく異なっている。だが、もしその場面が紙でできているならばくしゃくしゃに丸めたくなるような感覚、その風景をぼんやりと思い出すときに味わわずにいられないざらりとした感触、といったものに、共通点を多く発見した。それは、どんな内容の話であれ、底に流れる乾いた孤独感が私の個人的なそれに通じるものがあるからなのかもしれない。
フランス語翻訳家としても知られる著者は、長くマガジンハウスのパリ支局長を務めた。時折雑誌で見かけるその名前は、銀線の入ったグラスのような「ムラカミカスミコ」という語感と、彼女が提供する彼の地のファッションや美術など流行の話題とが相まって、フランス文学や文化に精通した、おしゃれで知的な人というイメージを抱かせた。
いや、正しくはそんなイメージしか抱いていなかったのだと、『恋愛、万歳』を読んで気がついた。
昭和初期、著者の母は両親に決別の手紙を送る。著者が、母の死後にそれを初めて読んだことから、この回想録が始まる。自由と愛を追い求めた母の人生に重ねながら、著者は自らのこれまでの自らの道――二十歳でのフランス人との結婚、駐日フランス大使との交流、70年代の文化を先導する華やかな人々との交遊、パリでの生活――を振り返っていく。
『恋愛、万歳』には、いたるところに、ひりひりとした孤独が見え隠れしている。パリの魅力をつづった、彼女の『巴里ノート 「今」のパリをみつめつづけて』(文藝春秋)にあるような、たんたんとした、でも透明感や明るさに満ちた筆致とは趣を異にする。でも、このぬぐいきれない影、澱のようなものが同書を魅力的な一冊にするとともに、著者の新たな顔を発見させることにつながっている。
駆使される数々の比喩は、時に過剰に思えないでもない。だが、著者の隠し立てをしないもの言いに中和され、バランスが取られている。その風通しのよさは、書くものもスタイルも全く違うが、岩井志麻子の著作に通じるとさえ感じられた。
当初は『恋愛、万歳』というタイトルがやや唐突に、あるいはあまりに直截的に思えた。読む前から読者を突き放すようなところがあるようなタイトルだと感じた。だが本書の最後で、この言葉が何に由来しているのかを知った今、これ以上ふさわしいタイトルはないように思える。そしてその高らかな叫びは、張りついた孤独感で凄みを増している。
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(「本棚のまわりで」コラムのイラスト:Hiroyuki Nakamura )
村上香住子: 二十歳で渡仏し、二年後に帰国。1974年よりフランス語通訳、翻訳家として活動。1985年にマガジンハウスのパリ支局長として再度渡仏。以後2005年までフランスで取材・執筆活動にあたる。
タイの混乱は新たな民主的変革への陣痛 メディアに欠ける歴史的視点(下)
―民主化への試行錯誤の始まり
クーデターによって絶対王政を廃した1932年の「立憲革命」の主役は、欧米への官費留学生エリートたちを中心とする人民党だった。この政変によってタイは、立憲君主制のもとで議会制民主主義への一歩を踏み出したが、人民党内部の軍人と文民の路線対立で政局は不安定化する。やがて軍人が政治の主導権を握るようになり、議会制民主主義は後退を余儀なくされていく。
軍人支配が頂点に達したのが、1957年のサリット政権の登場だった。クーデターで政権を握ったサリットは、独裁的な権力のもとで積極的な経済開発政策を開始するとともに、西欧型民主主義はタイの国情に合わないとしてタイ式民主主義をとなえ、国民の基本的な諸権利を抑圧した。また自らの政治的正当性の後ろ盾として、立憲革命後は政治の舞台裏に退いていた国王と王室の権威を高める政策を打ち出した。
この「開発独裁」路線によって、日本など先進国からの外資を導入した民間主導型の工業化が軌道に乗り、経済は大きな発展をとげた。だが、その矛盾も深刻化していった。軍人を頂点とする特権層に富が集中し彼らの腐敗がすすむ一方で、都市と農村、都市内部での貧富の格差がひろがっていく。貨幣経済の浸透によって自給自足経済が破壊された農民は、現金収入を求めてバンコクに出稼ぎにいき、開発のすすむ華やかな表通りの裏側には貧しい彼らが不法占拠したスラムが目立つようになった。
こうした問題に危機感をいだいた学生や知識人が主導して、時の軍事政権を打倒したのが、1973年の「学生革命」(10月14日事件)だった。民主化を求める学生と市民の非暴力デモに軍が発砲し、77人が死亡、444人が負傷する惨事となったが、流血の拡大をさけるため、プミポン国王の調停によりタノムら軍事政権の指導者は国外に逃亡した。
この政変によってタイは「民主化」の時代を迎える。開発独裁政権下で抑えつけられていた労働者や農民は、さまざまな要求を掲げて立ち上がった。労働組合の結成を認められた労働者はストライキや集会で賃上げなどの労働条件の改善を求め、農民は土地改革や小作料の引き下げなどを要求した。学生らは彼らを支援するが、自らの力への過信から一部は過激化し、学生勢力は分裂していった。
軍人にかわって登場した文民政権は統治能力に欠けた。加えて1973年の石油危機による経済の悪化と75年のサイゴン陥落と前後したインドシナの共産主義化に危機感をいだいた支配層は民主化への巻き返しに出る。76年、バンコクのタマサート大学で政府への抗議集会を開いていた学生らに警察と右翼団体が襲いかかり、学生40人が虐殺され、逮捕者は3000人以上に上った。これを機に、軍が混乱収拾の名目でクーデターを起こし、権力を奪還する。
つかの間の民主化は「冬の時代」に入り、学生指導者や活動家の一部は弾圧を逃れてジャングルで武装闘争を展開していたタイ共産党に合流した。彼らは毛沢東路線をモデルに、農村から都市を包囲して武力で現体制を打倒する革命をめざした。
1980年に首相の座に就いたプレム(現・枢密院議長)は、軍人出身ながら権力欲が強くなく清廉なイメージから人望を集め、調停能力にもたけた指導者だった。彼は王室、軍、そして経済発展のなかで発言力を強めてきた実業家や都市中間層などの利害のバランスをとりながら、「上からの民主化」を徐々に進めた。共産党に合流した学生指導者らに対しても恩赦による帰順をうながし、国内の安定を図った。
8年にわたるプレム政権のもとでタイは順調な経済発展をとげ、民主化も進んだ。軍の不満分子は2度クーデターをこころみるが、いずれも失敗に終わった。しかし、彼の政策はまだ「半分の民主主義」と評された。
―貧困問題をいかに解決するか
88年にプレムの後継首相となったチャーチャイは、12年ぶりの政党政治家の首相として歓迎されたが、なりふりかまわぬ利権獲得で腐敗し国民の信頼を失っていく。チャーチャイ政権は91年、腐敗政治の一掃を旗印に掲げたスチンダー陸軍司令官のクーデターで崩壊する。だがスチンダーは、「首相にならない」と公言していたにもかかわらず翌92年に首相に就任したため、バンコクを中心にスチンダー首相の辞任を求める集会が連日のように開催されるようになった。
この反政府集会で注目されたのが、多数の中間層の参加だった。彼らは出勤帰りに自家用車で集会に参加し、携帯電話で連絡をとりあった。タイのメディアは、これまでの反政府行動の中心だった学生や知識人とは異なるニューフェイスの登場を「中間層の反乱」と呼んだ。
だが、彼らが軍人宰相に反対したのは、民主化の流れの逆行への異議申し立てよりも、経済的な理由からだったされる。市場原理にもとづく経済発展によって自らの利益を追求していこうとする彼らにとっては、軍人政権はこうした経済原理を乱す時代遅れな存在とみなされた。失うべきもの持った中間層は急進的な政治改革には及び腰だった。
反政府行動は地方にも広がり、同年5月、首都バンコクでは反政府デモと軍・警察が衝突、またしても多くの市民の血が流された。政府側の発表でも死者40人、負傷者600名以上とされたが、実際の犠牲者は行方不明者をふくめこれをはるかに上回るものとみられている。
犠牲者の多くは、中間層ではなくスラムの住民をふくめて都市の貧しい人びとだった。つまり国民のあらゆる階層がスチンダー政権打倒に立ち上がったのである。
「5月の暴虐」とよばれる惨事は、プミポン国王がスチンダーとデモの指導者チャムロン(現・PADの指導者のひとり)を呼んで和解を求め、スチンダーが辞任したことで落着した。
この反政府闘争の勝利をうけて、97年に新憲法が制定された。これはこれまでのタイの民主化運動の成果を集大成したもっとも民主的な内容を盛り込み、「人民のための憲法」と称された。上院議員の民選、下院議員選の小選挙区・比例区併用制、下院議員の閣僚兼任禁止、不正選挙のやり直し、憲法裁判所の設置など、権力の集中排除と選挙の浄化が大きな目的とされた。
新憲法にもとづく上院選では、これまでの任命制時代の官僚や軍人らとともに住民運動の指導者や法律家などの新しい顔ぶれも選出された。
だが憲法には、議員の要件を大卒以上とする条項も盛り込まれた。貧困のために高等教育を受けることがむずかしい人たちを事実上国政から排除するものである。このため新憲法は「人民のための憲法」を謳いながら、実態は都市中間層の意見を代弁する「エリート憲法」とも評される。
タクシンの率いるタイ愛国党が圧勝し、彼を首相の座に就かせた2001年の総選挙は、この新憲法にもとづいて実施された最初の下院選挙だった。
タクシンの政治がどのようなものであり、それをめぐりこの数年タイでさまざまな混乱を重ねてきたことはすでに述べたとおりである。
後世の歴史家がタクシンをいかに評価するかはわからない。「改革者」としての彼に期待したのは農民や都市の貧しい人びとだけでない。かつての民主化運動の活動家らの一部もタクシン政権の政策助言に参加した。だが彼が「背広を着た独裁者」の顔を見せはじめると、彼らは政権に距離を置くようになり、さらに首相一族の株売却疑惑が明るみにでるにおよんで、バンコクでは首相の退陣を要求する市民の声が高まった。
彼の政治の荒っぽさは、企業の最高経営責任者(CEO)的なトップダウン手法やメディアへの介入だけでなく、麻薬対策や南部のイスラム武装勢力への対応にも示された。2003年に開始された麻薬撲滅戦争では、密売などとは無関係の人たちの逮捕や殺害により2600人もの死者がでたといわれる。イスラム武装勢力との闘いでは、平和的な話し合いや南部の開発推進路線をこばみ、武力弾圧をつづけたために流血が拡大し泥沼の状態に陥ってしまった。
ただ、タクシンの真意がどこにあれ、彼の政策によって農民や都市の貧しい人びとが自分たちの一票が政治を動かすことができるのだという政治意識に目覚めさせられたことは否定できないだろう。彼らはこれまでの経済発展を縁の下で支えながらその恩恵にじゅうぶんに与れず、開発政策の過程からも排除されてきた。彼らがその過程に参加できる希望を与えてくれたのがタクシンである。
彼らにはまだ独自に国政を動かせるだけの組織的な発言力はない。農村部も南部はいまだに反タクシンの民主党の地盤である。だが、都市と農村、都市内部の貧富の格差というこの国のもっとも深刻な問題の解決のためには、開発の成果の公正な分配から取り残された人びとによる「下からの民主化」は不可欠である。
労働組合やNGO、学生組織などの市民社会をめざす活動が、UDDやPADとどのような関係をとろうとしているのかはわからないが、これらの勢力もこの点では一致しているはずである。
―農民や労働者の声を聞きたい
今回のタイの混乱にかんして、日本の新聞はとくにASEAN関連会議が中止に追い込まれたことをとりあげ、「アジアの信頼回復を急げ」(朝日)、「タイの責任は重大だ」(毎日)、「混乱事態で失う国際的信用」(読売)、「タイの秩序回復に日本政府も発信せよ」と題する社説を掲げている。あるいは、東南アジアの「民主化の優等生」とされてきた国の将来への悲観的見通しや、政治的な混乱がタイのみならず日本企業に与える打撃に焦点を当てた報道が目につく。
もちろん、それはそれでひとつの事実である。しかし、タイの現代史をたどるなら、それは社会・経済的な変化に適合する民主政治のあり方を模索する試行錯誤の軌跡であり、民主化は複雑な一進一退を経ながら確実に前進してきているといえる。
一握りのエリートが「立憲革命」で切りひらいた議会制民主主義が、学生・知識人らが主導した「学生革命」によってそのすそ野を広げ、さらに経済発展とともに新興ビジネスエリートや都市中間層も民主化の舞台に登場してきた。だがそのドラマは、バンコクを中心とした都市で展開されてきた。国民の多数をしめる農民・労働者も当然、しかるべき役割を果たすべきであるにもかかわらず、彼らはこれまで参加を拒まれてきた。
いま起きている混乱は、民主化の舞台が都市から農村にまで全国に拡大され、社会の成員すべてをそれぞれの役回りでドラマに巻きこもうとしていることによるものといえよう。
その意味で、タクシン派支持者がいう「真の民主主義の実現」や、海外亡命先からタクシンがさけぶ「人民革命」は、反政府運動の参加者へのアジテーションの意味合いはあるにしても、あながち的外れとは言えないのではないだろうか。
また、これまでの混乱の調停者となってきた国王が動きを見せていないことは、高齢化と健康問題によるものかどうかわからないが、国王といえども解決に苦慮するほどさまざまな要因が複雑にからみあっているからかもしれない。
民主化は西欧をふくめ多くの国で一朝一夕に実現したわけではない。よしあしはべつとして、多くの血が流される混乱のなかで勝ち取られてきた。非西欧の東南アジアの一角で起きている政情不安も、そうした産みの苦しみへのひとこま、と私はとらえたい。
そのような視点からメディアにのぞむことをひとつだけ提言したい。タクシン派のデモに参加する農民やバンコクの貧しい労働者たちの何人かに密着取材し、彼らが日々どのような暮らしをしているのか、なぜタクシンを支持するのか、彼らはどのような政治を望んでいるのかなどを時間をかけてレポートしてはどうか。一人ひとりの小さな民の胸のうちに分け入ることで、大上段にふりかざした混乱批判記事ではなく、混乱の底流に何があるのかをうかがい知ることができるはずである。 (おわり)
<参考資料>
柿崎一郎『物語 タイの歴史』(中公新書)
石井米雄他監修『東南アジアを知る事典』(平凡社)
日刊ベリタより
http://www.nikkanberita.com/print.cgi?id=200904201519591
タイの混乱は新たな民主的変革への陣痛 メディアに欠ける歴史的視点(上)
タイの政治的混乱は、タクシン元首相支持派組織「反独裁民主戦線」(UDD)が軍との衝突による流血の事態を避けてデモを中止したため、ひとまず終息に向かった。だが、火種はくすぶりつづけており、いつ反タクシン派との抗争が再燃してもおかしくない。いま起きていることを歴史的に見るならば、1932年の「立憲革命」と1973年の「学生革命」に匹敵する大きな変革期にこの国がさしかかっているといえるからだ。メディアは目先の動きを追うだけでなく、その底流を見すえた報道もこころがけてほしい。
―タクシン政治の功罪
まず、ここ数年の動きを簡単に振り返ってみたい。それを読み解くキーワードは「タクシン」である。
警察官僚からビジネスの世界に転じ通信事業で財をなしたタクシンは、タイ愛国党を結成、2001年の総選挙における同党の圧勝で首相に就任した。95年の総選挙でも圧勝し、政権は2期目に入った。
この間、タクシンは1997年のアジア通貨・経済危機で破たん状態だったタイ経済の立て直しに大きな成果をあげるとともに、歴代政権が軽視してきた農村の貧困問題にはじめて本格的に取り組んだ。国民のだれもが30バーツ(約90円)で医療サービスを受けられる制度、貧困者への低利融資、村ごとの特産品を作る「一村一品運動」への基金など、公的資金の投入によって草の根の経済開発と内需拡大を図った。タクシンは出身地の北部や東北部の農民層や都市の貧困層から絶大な支持を得た。
「タクシノミックス」と呼ばれる政策は、経済成長と貧困の解消を同時にめざすことによってタイを中進国から先進国へと飛躍させることをめざした。
だがその一方で、タクシンの独断専行的な政治運営や政権に批判的なメディアへの露骨な介入に対して、国民の批判が高まり、06年1月に浮上した首相一族の株売却疑惑を機に、バンコクでは首相の退陣を要求する市民集会が相つぐようになる。その中心となったのが「民主主義市民連合」(PAD)だった。
PADは市民団体と名乗っているが、その中心は首都の中間層やタクシンと対立するビジネスエリートで、背後に王族や軍部がついているとされる。彼らはタクシンの反民主主義的姿勢や農村部へのバラマキ政治を批判、さらには彼の王室軽視まで問題にするようになる。
タクシンは議会解散・総選挙で応じるが野党はボイコット、そして憲法裁判所による総選挙の無効とやり直しを命じる判決が出るなど混乱が深まるなか、同年9月、国軍は無血クーデターにより全権を掌握、外遊中のタクシンを追放した。愛国党は総選挙での買収を理由に憲法裁判所から解党命令の判決を下された。
国軍によるクーデターはバンコク市民の多くの支持を得たものの、軍による暫定政権はみるべき成果を挙げられないまま公約どおり07年12月に民主体制への復帰をめざす総選挙を行った。しかし、旧愛国党の流れをくむ国民の力党が勝利を収め、サマック内閣が発足する。これに反発する反タクシン派は、PADを中心に反政府集会から首相府占拠へと戦術をエスカレートさせ、タクシン支持派勢力との衝突で死傷者が出る騒ぎとなった。
退陣を拒むサマックは、テレビの料理番組への出演が違憲行為だとする憲法裁判所の判決で08年9月に失職。後任のソムチャイ首相もタクシンの義弟であることから、PADは反タクシン攻勢の手をゆるめず、ついに11月末バンコク郊外のスワンナプーム国際空港を占拠し、日本人など多数の観光客らが出国できなくなった。
前後して憲法裁判所が、ソムチャイ政権の連立与党に対して選挙違反を理由に解党命令を下し、政権は崩壊。新首相にPADが支持する民主党のアピシット党首が選出された。これを受けてPADは空港封鎖を解いた。
一連の混乱による主産業の観光収入の落ち込みに、米国発の世界不況が追い討ちをかけ経済は低迷した。この非常事態を考えれば、両者は経済対策を優先させ、対立の先鋭化は避けざるをえないのではないかとも見られたが、そうはならなかった。
年明けとともに「反独裁民主戦線」は反撃にでた。総選挙の洗礼を受けていないアピシット政権の退陣を求める集会をバンコクで開始し、さらに4月に中部のリゾート地パタヤで開催される東南アジア諸国連合(ASEAN)関連の国際会議を中止に追い込んでいった。
―両派とも「民主主義」を旗印に
タクシン派と反タクシン派はいずれも民主主義を旗印に掲げているが、その対立は基本的にはエリート層内部の権力争いと見られている。前者は、タクシンに代表される新興ビジネスエリートを基盤としている。後者は、彼らに既得権益を脅かされると警戒する王族、国軍などの旧権力層、タクシン派と利権対立するビジネスエリート、PADなどの都市中間層である。
タクシン派の強力な支持基盤となっているのが、貧しい農民や都市の貧困層である。タクシンは民主的な選挙によって権力の座に就きながら、首相としての反民主主義的な言動によって都市住民の反発を買ったものの、国民の多数を占める農村と都市の貧しい人びとは彼の貧困政策を支持してタクシン派に投票をし続けた。
タクシン派は、民主的な選挙の結果と議会を尊重すべきだと主張する。
一方、経済発展の受益者として登場した都市中間層は、タクシンの農村重視政策を快く思わないだけでなく、貧困層は無学で政治に参加する資格がないと蔑視している。しかし反タクシン派は、農民層などの貧困層に支えられ民主的に選出された親タクシン政権を再び軍を動かして打倒することができないと見ると、司法を味方につけて政敵を追い込んでいった。憲法裁判所の一連の判決がそうであり、PADの暴走を警察が黙認したのもそうである。だから、彼らの勝利は「司法のクーデター」とも評された。
反タクシン派は、既得権益を守るために、選挙は貧困層の買収などで腐敗していて民主的とは言えないと主張し、投票権の制限や下院の権限縮小も検討しようとしている。
では今後、タイはどこへ向かおうとしているのだろうか。それを展望するには民主化の歩みへの歴史的な視点が必要である。(つづく)
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日刊ベリタより
http://www.nikkanberita.com/print.cgi?id=200904181539126



