写真家の目 「いい写真」とは②

09.07.23 by   カテゴリー: コラム, 写真家の目

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 写真は映像のように連続したものではないので、見るものは一枚の写真とキャプションから前後関係を読み取る。例えばカメラマンが前後の写真を差し替え、ドラマティックに見えるような配列に組み替えて「フィクション」を作ってしまう事が可能であり、意図的でなくとも撮影者の誤った解釈で全く事実とは異なる方向に流されていってしまうこともある。「写真は真実を写す」と広く信じられているからこそ、その事が実に見逃されやすい。ユージン・スミスは「写真は平気でうそをつく」と端的に述べている。特に加工技術が高くなっている今日、「うそをつく」事がより簡単になった。その写真が事実を伝えなければならないものならば(というのも広告写真で今や修正していないものを探す方が難しい)撮影者の姿勢と意識はとても重要である。

 しかしながら姿勢という点で、写真を撮る事を仕事にしている自分も、ときに怠惰になってはいないだろうかと常に自分に問いかける。五感をとぎ澄ます事なく、その場を「一応」という気持ちで撮ってしまっている事はないだろうか。シャッターを押した事で安心し、被写体を注視することをおろそかにしていないだろうか。

 初めて暗室でプリント作業をしたときに思わず感嘆の声をあげてしまった、画像が印画紙に表れるプロセス。フィルムの現像からプリント作業までは手間と時間がかかるものだった。そして撮影したものがきちんと撮れているかどうかはプリントされるまで判らないので、そのプロセスの間は緊張感にあふれていた。しかし今は撮影した直後に画像が確認出来るのでずいぶんと楽になった反面、技術的な撮影ミスを犯してはならないという気持ちは以前に比べ薄まっている気がする。たとえミスをしたとしてもある程度はコンピュータ上で修正出来てしまう。以前の一連したマニュアル作業はカメラマンの撮影に対する緊張感を、意識下で保つ事に役立ってはいなかっただろうか。

 ある美術館でのこと。有名な絵がそこかしらに展示されている前で、携帯やデジタルカメラで撮影に勤しむ人たちがいた。人によってはただ撮影し、次の絵に移る。複写された絵が印刷されどこの国でも見る事が出来るが、そこにあるのはたったひとつのオリジナルであるのに、肉眼で見る事なくカメラに収める。「見た」という再確認を後日するためなのか、それとも撮って帰らないのは「惜しい」気がするからなのか。その絵のタッチはどれだけ複雑なライティングをもって撮影された画像でも、本物を目の前にする空気感は再現出来ない。だからこそ遠い美術館に出向いて私たちは対面するしかないのである。

 いい写真とは果たしてどんなものか。それは勿論個人個人によって尺度が違ってくるだろうが、撮影する時の感覚や想いがそれに非常に関わってくると思う。(写真:「2008年 ロンドン」) 

 

 

 

 

写真家の目 「いい写真」とは

09.07.21 by   カテゴリー: コラム, 写真家の目

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  時々友達から「うまい写真が撮りたい」や「どうしたらきれいに撮影出来るの?」と聞かれる事がある。そしてどんな写真を撮っているのかと見せてもらうと、友人曰く「下手な写真」は大抵そんなことはなく、その人の何か雰囲気のようなものがありいい写真だと思う。特に子供やペットの写真は、構図云々よりも撮影者の愛情が伝わってきて、まさにその人しか撮れない写真になっている。

「いい写真」という定義はもちろん人それぞれ違うが、私は時間が経っても色褪せない写真が「いい写真」ではないかなと思う。

 学生の時以来、強く私の心に残っている一枚の写真がある。それを撮影したドキュメンタリー写真家として有名なアメリカ人のユージン・スミス。彼は撮影のために熊本の水俣市に居を移し「水俣病」と呼ばれるチッソ株式会社が引き起こした水質汚染と、それによって大きな被害を受けた住民の暮らしを記録し続けた。そしてその一枚は社会の教科書にも使われ多くの人々に知られる写真となる。

*)元パートナーであるアイリーン・スミスさんによって、水俣病を世界に知らせたその代表的な写真(母と娘の入浴シーン)は、被写体になった娘さんのご遺族の意向をくんで2000年より公開しない事に決められた。

 彼が3年余りの年月を水俣で費やした、問題に向き合う姿勢と目線が込められた彼の写真は、見る私たちに我々の環境の背景に起こっている出来事を見つめ、そして問い直す機会を与えてくれる。さらに彼の撮影技術と暗室でのプリントテクニックは、彼の伝えたい状況を際立たせ、見るものに強い印象を与える。

 おそらくカメラが特別なものだった時、カメラマンは記録することや外に向けての「伝える」という役目が今よりも大きかっただろう。カメラ、そしてそれに付随する技術の発達と普及率の高さにより、メディアは大多数へ向けられていたものから、より個人のニーズに向けられたものへと変化し、それに比例するように写真の用途も変化をしていく。

 記録媒体の変化も大きいだろう。フィルムが主流だった時代はフイルム、現像、プリント代が必要であったのがデジタル主流になってからは撮れるだけ撮り、要らないものは捨てればいいという気軽さも「写真はお金がかかる」という概念を大きく変え、ますます手軽なものへと変わっていく。そして今や誰もが記録する機会を持ちあわせている。例えば大きな災害や事件が起こるとアングルの違う複数の映像がテレビで流れる。これらの映像はカメラマンでなく、偶然にそこに出会わせた人からによるものも多い。そして撮影された数分後には世界でその映像を誰もがインターネット上でシェアする事が可能な時代である。

 技術の向上とともに、撮影をする側の意識または姿勢も比例しているのだろうか。特にカメラマンにとって被写体に向けて写真を撮る事は、自分がその写真に対して責任を負う事。大げさに聞こえるかもしれないが、時には自分が撮影した一枚の写真によってそこに写された人の人生をも変えてしまうこともあり得るのだ。カメラマンにとってその意識を保つ事は必須である。(続く)(写真は「2008年 ロンドン」)

 

 

 

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