ドキュメンタリー「テレビに挑戦した男・牛山純一」が24日まで、渋谷で公開
テレビドキュメンタリーのパイオニアといわれる牛山純一氏を紹介するドキュメンタリー作品「テレビに挑戦した男・牛山純一」(企画:佐藤真、監督:畠山容平)が、オーディトリウム渋谷にて、24日(土)まで上映中だ。
午前11時からの本編上映後には、ゲストによるトークも開催される。22日以降のゲストは以下。
22日(水)山川建夫さん(フリーアナウンサー)「朝ワイドで起きた1つの事件」
23日(木)森口豁さん(沖縄を語る一人の会・ジャーナリスト)「撮る側と撮られる側」のことなど
24日(金)岡村淳さん(記録映像作家)「一兵卒のみた牛山天皇」
―料金
前売券(劇場窓口にて公開前日まで販売中)1000円
当日一般=1400円 学生・シニア1000円 映画美学校生800円
ーオーディトリウム渋谷の場所
TEL. 03-6809-0538
以下は、ウェブサイトより、作品内容の紹介:
http://a-shibuya.jp/archives/2460
ー作品
「テレビに挑戦した男・牛山純一」 Ushiyama Junichi:Our Wonderful Television
日本語/カラー/DVカム/日本/82分/2011年/ドキュメンタリー
企画:佐藤真 監督:畠山容平 製作:藤本美津子 編集:秦岳志
撮影:大津幸四郎、牛山純一ゼミ生 整音:小川 武 音楽:スガダイロー
配給・宣伝:お問い合わせ=牛山純一研究会(株式会社シグロ内・畠山、藤本、石田) ©2011 NPO法人映画美学校+牛山純一研究会、 2011年山形国際ドキュメンタリー映画祭 招待作品
ー牛山純一とは
本作品の主人公である牛山純一(1930〜1997)は、テレビドキュメンタリーの草分け的な人物として、テレビが放送を開始した1958年から享年の1997年に至るまでテレビ制作の第1線で活躍しました。牛山の本職はあくまでプロデューサーでありますが、テレビ草創期の自由な雰囲気の中で成長した牛山はテレビ局の中で必要とされる仕事を何でも経験してきました。牛山は67歳で他界するまで、あらゆる仕事において「初めて」と形容される体験を繰り返してきました。産まれたばかりのテレビというメディアと取り組み、新たな地平を切り開いてきたパイオニアとして、時にはかなり強腕な手段も発揮したが、そうしなければ実現不可能なことばかりだったに違いありません。
―あらすじ
牛山のテレビ局での最初の仕事は政治担当の放送記者からスタートしました。報道番組の新企画を次々に生み出してきましたが、牛山の評価を決定付けたのは皇太子御成婚パレードの中継放送でした。「中継の牛山」として放送界では認知されました。その後報道部から社会部に移り、「ノンフィクション劇場」という民放では初となるドキュメンタリー番組を制作。次々に話題作を作り上げていきました。ドキュメンタリーの確たる方法論など無かった時代に牛山と制作スタッフ達の試行錯誤が続きます。そして「ベトナム海兵大隊戦記」という多くの問題を孕んだ番組について当時の技術スタッフから労働組合まで様々な角度から証言を集めてきました。ベトナム以後に牛山は転向したのかしないのか、「すばらしい世界旅行」を作り続ける中で、ドキュメンタリー映像を社会に広めていくアーカイブ活動も積極的に行います。牛山純一とは如何なる存在だったのか、映画と共に考えていきます。
―畠山容平監督の言葉
テレビドキュメンタリーの世界に牛山純一という名プロデューサーがいた。その牛山がプロデュースしたドキュメンタリー番組「ノンフィクション劇場」の1作品、「忘れられた皇軍」(1963年製作)を見た衝撃が今でも忘れられない。それはぼくにとってテレビドキュメンタリーというジャンルを意識した最初の番組だったと思う。監督には映画監督の大島渚が起用されていて、そのことからもこの番組が大きな野心を持って作られたことが伺えた。その番組の最後に小松方正のナレーションが響き渡る。「日本人よこれでいいのだろうか?!」性急に問い掛けられたその声に僕は驚いたというよりも嫌悪感を抱いた。20分程の短い時間ではあったけど、韓国籍の傷痍軍人達の苦労や苦悩が描かれた今迄の時間は何だったのか?このナレーションがそれまでの流れを台無しにしていると思えたのだ。しかし、考え直してみればこれこそまさに映画とは違うテレビ的な表現の誕生だったのではないかと思えた。そもそもドキュメンタリーとは常にある定型をはみ出す何かであって、テレビとか映画とかいうジャンル分けの境界を超える自由な冒険心に溢れているものだ。そう考えたら何だか楽しくなった。当時の制作者達の息吹を感じた事が本作品への制作へと自分を駆り立てたものだと確信している。
サッチャー元首相の伝記映画公開 ー今も英国に影落とす「遺産」
国で初の女性の首相で、11年にわたる長期政権を維持したマーガレット・サッチャー(在任1979-90年)の伝記映画「マーガレット・サッチャー 鉄の女の涙」(原題「The Iron Lady」)が、1月上旬、英国で公開となった。英国でもっとも著名な首相経験者の一人の伝記、しかもサッチャーを演じるのは、2度のアカデミー賞受賞経験がある、米国の名女優メリル・ストリープとあって、公開前から話題が沸騰した。日本でも3月16日からTOHOシネマズ日劇などで全国上映される。
これを機会に、月刊「メディア展望」(新聞通信調査会発行)2月号に出した筆者原稿に若干補足したものが以下である。
元首相を知る人々にとって衝撃だったのは、映画がサッチャーを認知症に苦しむ、孤独な老女として描いたことであった。亡夫デニスが登場し、これを現実と錯覚するサッチャーが夫と会話しながらこれまでの人生を回想する設定だ。
数々の政治的業績がフラッシュバックのように流れるが、じっくりとは描かれておらず、政治家の伝記映画であるにもかかわらず、「政治的要素に欠ける、不思議な映画」(ガーディアン紙、1月8日付)と評された。サッチャーがまだ存命中に認知症の老女として登場させるのは残酷とする声も出た。
しかし、サッチャー支持者も非支持者もおおむね認めるのがストリープの名演技だ。「信念の政治家」として、国民や内閣の反対にもかかわらず、自分が正しいと信じる政策を貫いたサッチャーの最盛期や年老いた現在の姿を、発声から顔の表情の一つ一つ、身体の動かし方まで生き生きと再現してみせた。政治映画としての評価はまちまちだが、人間ドラマとしての評価は一様に高い。
ー欧州問題に影落とす
サッチャーが首相の座を降りてから20年以上が経つが、その「遺産」は現在でも政治や社会の様々な局面で顔を出す。
その具体例の1つが英国の対欧州政策である。1980年代、EC(欧州経済共同体、後の欧州連合=EU)は域内での市場統合、さらには通貨統合から政治統合へと向かう動きを議論していた。サッチャーは通貨統合への環境整備となる欧州為替相場メカニズム(ERM)への参加や、その先の政治統合に対し、強く反対の姿勢をとった。その強硬な反欧州の姿勢に加盟賛成派のローソン財務相が辞任し、同じく賛成派で長年サッチャーに忠誠を尽くしてきたハウ外相が実質的な権限がない副首相に更迭された後、90年11月、辞任した。ハウは議会での辞任演説で強い口調でサッチャーの独善的政治手法を批判。その演説から2週間もしないうちにサッチャーは首相の座を失った。
「過激なほど反欧州の右派政党」―そんなイメージが、その後も保守党について回った。サッチャーを引き継いだメージャー政権を経て、1997年、18年間の野党生活の後に成立したブレア労働党政権は、当初、親欧州の姿勢を見せた。しかし、EUの共通通貨ユーロへの参加を見送ったことで、欧州との間に一定の距離を置く、相変わらずの政治姿勢となった。
2010年発足の連立政権で首相となったキャメロン保守党党首は、昨年末、欧州債務危機を収拾するための欧州理事会会議で、財政安定化に向けての基本条約には参加しないことを決めた。ドイツ、フランスの両国はEU27カ国全体の合意となることを望んだが、英国が反対したためにEU条約の改定とはならず、一部関係国間での合意を目指すことになった。
この一件は英国では「キャメロンが(条約改定に向けて)拒否権を発動した」と報道された。交渉に参加した27カ国中一国のみ合意しないという状況は、キャメロンが「国益のために合意しないことにした」と説明すればするほど、反欧州強硬派サッチャーの影が色濃く見えるようであった。サッチャーはEC農業補助金にかかわって割戻金を獲得するなど、自国の利を最優先したからだ。
もともと、独立独歩の精神が強い英国民の中にはEUへの不信感が強く、「欧州懐疑派」が少なからず存在する。1対26カ国という結果になったことで、キャメロンの交渉手法は「稚拙だった」という声が政界、メディア界では強かったものの、「拒否権発動」以来、キャメロンおよび保守党の支持率は上がっている。保守系歴史学者ニール・ファーガソンは「英国がEUから脱退しても問題はない」、「むしろその方が経済的、政治的に好都合」と何度となく述べ、一定の支持を得ている。
欧州の債務問題の解決に時間がかかり、フランスをはじめとしたユーロ圏数カ国の格付けが下がる中、ポンド維持の強みが日々、顕在化している。めぐりめぐって、欧州統合には一定の距離を置くのが得策として、「やっぱりサッチャーは正しかった」という結論が出ないとも限らないこの頃だ。
―国を二分した首相
サッチャーの「鉄の女」の映画公開日、イングランド北部ダービシャーで数十人の元炭鉱労働者たちが抗議デモを行った。プラカードの一つには「真の鉄の女たち」と書かれていた。映画は「サッチャーが男性優位の既得権を持つ層に勇敢にも立ち向かい、男女同権運動の主導者であったかのように描いている」が、これが「まったくの虚構だ」ということを訴えたかったという。
サッチャーは国営企業の大規模な民営化を続々と実行し、労働法の改正によって労働組合を改革した。公営住宅の払い下げによる住宅取得を奨励して中流階級の拡大を目指す一方で、採算の取れないビジネスとなっていた炭鉱を閉鎖し、大量の失業者を生み出した。イングランド地方北部、スコットランド、ウェールズ地方は、炭鉱閉鎖や製造業の衰退でもっとも大きな影響を受けた地域である。住民は、サッチャー政権が貧富の差を拡大させたことを忘れていない。
現在、キャメロン政権は政府債務の削減に躍起で、緊縮財政を実行中だ。大幅な公的部門の雇用削減や地方自治体の予算削減で打撃を受けやすいのが、官の雇用の比率が高いイングランド北部だ。ロンドンがあるイングランド南東部と比較して、北部は失業率が高い。英国の中で南北に経済格差がある状況は数世紀にわたって変わらないが、人々の記憶に残っているのは、サッチャーの自由主義的経済政策が失業や貧困などの痛みをもたらしたことだ。
北東部での雇用創出のために、「人権擁護の面では不十分な(外国の)政権」にも、「武器売却を行う」必要性があるー。昨年末、こうした言及がある書類も含め、1981年以降の様々な政府の機密文書が一般公開の運びとなった。
武器売却にかかわる一連の書類を分析したBBCラジオ4の特別番組「UKコンフィデンシャル1981」(昨年12月30日放送)によると、イラン・イラク戦争(1980-88年)時に、英国は戦争には加担せず、中立であること、両国どちらにも弾薬などの殺傷兵器を売却しないなどの取り決めを政府として掲げていた。しかし、「大きな市場となる可能性」(政府筋)から、「殺傷兵器」の定義を「できうる限り狭める」ことを、サッチャーのお墨付きで、政権内で極秘に合意したという。
「中立」の立場から表立って武器売却ができない状態にいた英国に、イラク・フセイン大統領から「英国製戦車を補修してほしい」と依頼が来る。元は英側がイランに売った戦車だったが、これを戦争中にイラクが獲得したのである。しかし、直接イラクに出かけて補修するわけにはいかないので、第3国としてヨルダンを選んだ。ヨルダンでの補修はまもなくイラクでの作業に取ってかわり、武器売却ビジネスが拡大してゆく。
2003年、ブレア首相が米国とともに攻撃を開始したのはフセイン政権下のイラクであった。何とも皮肉なめぐり合わせだ。サッチャーが撒いた種から育った風土や仕組みの中に、現在の英国民の生活がある。(終)(「英国メディア・ウオッチ」より)
新聞通信調査会ウェブサイト http://www.chosakai.gr.jp/index2.html
ディケンズ生誕200年を祝う -読者とともに生きた作家
小説「クリスマス・キャロル」や「大いなる遺産」などで知られるのが、ビクトリア朝を代表する作家チャールズ・ディケンズ(1812-1870-年)だ。来年2月には生誕200周年を向かえ、英国各地で様々なイベントが開催される。「英国ニュースダイジェスト」(12月22日号)にディケンズの生涯や作品群を振りかえるコラムを書いた。以下はそれに若干付け足したものである。
ニュースダイジェストのウェブサイトでは、きれいな表をつけたものが載っているので、PCで見ている方はそちらへどうぞ。
http://www.news-digest.co.uk/news/news/in-depth/8317-charles-dickens.html
また、いま非常に評判が高いディケンズの伝記で、私も読んでいる最中なのが以下の本である。
Charles Dickens: A Life 著者:Claire Tomalin
***
いよいよ、今年もクリスマスの時期がやってきた。この時になると頁をめくりたくなる小説の1つが、けちで意地悪な商売人スクルージが心を入れ替えるまでを描いた作品「クリスマス・キャロル」だろう。「スクルージ」といえば「守銭奴」として英語の語彙にもなっている。「クリスマス・キャロル」や、「オリバー・ツイスト」、「大いなる遺産」など、いまや英国の社会や文化の一部となった作品をたくさん書いた小説家チャールズ・ディケンズの生誕から、来年2月で200年となる。
ディケンズが生まれたのは、イングランド地方南部ハンプシャー州ポーツマス郊外、ランドポートであった。
父は海軍の会計士。中流階級の長男として生を受け、お金には不自由なく暮らせるはずであった。ところが、両親はそれほど金銭感覚に長けた人たちではなかったらしく、負債が急増。1820年代初期、一家は破産状態となり、ディケンズは12歳で靴墨工場で働くことになった。ディケンズの小説にはロンドンの債務者監獄マーシャルシーの様子が出てくるが、実際にこの頃、父親がこの監獄に収監されている。
法律事務所で働き出したディケンズは、速記を学ぶようになり、ジャーナリストを目指した。日刊紙「モーニング・クロニクル」の記者となったのは1834年、22歳頃のこと。靴墨工場での勤務から、独立独歩でここまでやってきたディケンズは、意思が相当強い人間であったに違いない。
記者の仕事の合間に「ボズ」という筆名でエッセイを書き始め、雑誌に掲載されるようになる。エッセイを集めた作品が1834年に出版され、ディケンズは夕刊紙「イブニング・クロニクル」紙編集長の娘キャサリン・ホガースと結婚した。公私ともに、また1つ階段を上がったわけだ。
―いよいよ、作家に
ディケンズが長編小説「オリバー・ツイスト」を、自分が編集する雑誌「ベントリーズ・ミセラニー」に発表したのは1837年であった。その数年後には「クリスマス・キャロル」を出版。後者はその後も毎年刊行するようになる、クリスマスに関わる本=「クリスマス・ブックス」の最初であった。その後も次々と小説を発表し、国民的な人気を得る作家となってゆく。作家であると同時に複数の雑誌(「ハウスホールド・ワーズ」、「オール・ザ・イヤー・ラウンド」)編集長でもあった。また、自分の作品の公開朗読も英国内の各地や米国で積極的に行った。米国にも出かけ、朗読会を敢行している。
ディケンズの作品はリアリズム、喜劇的表現、優れた散文表現、性格描写、社会評論では群を抜くといわれているが、過度に感傷的と批判する人もいる。
小説では主人公が貧しい少年・少女で、幾多の事件を乗り越えて、最後は幸せを掴むというパターンがよく見受けられる。幼少時の貧困の体験、自力で成功していったことなど、ディケンズ自身の人生とダブるようにも見える。しかし、暗い話ではあっても楽天主義とユーモアが隅々に顔を出し、読者に充実した読後感を与えてくれる。
ディケンズはビクトリア朝(1837-1901年)の時代を生きた。英国が最も繁栄した時代だったが、貧富の差が拡大した時でもあった。晩年のディケンズが目を向けたのは社会の底辺層を救うこと。小説やエッセイを通じて、貧困対策や債務者監獄の改善などを主張した。
1865年、ディケンズは列車事故に遭遇し、九死に一生を得たものの、その5年後、1870年6月8日、ケント州の邸宅で脳卒中の発作に見舞われた。亡くなったのは翌日である。書きかけの「エドウィン・ドルードの謎」は未完成となった。享年58。各地を回った朗読会が死期を早めたという説がある。
妻キャサリンとの間には10人の子供をもうけたが、本当に結婚したかったのはキャサリンの妹メアリ(後、病死)であったといわれている。夫人とは亡くなる12年ほど前から別居していた。ディケンズの遺体はウェストミンスター寺院の詩人の敷地に埋葬された。
小説を書くばかりか、朗読会で読者と直接つながる場を持ち、社会問題の解決にも言論人として積極的に関わったディケンズ。いまもし生きていたら、ブログやSNSでたくさんのファンを作る人気者となっていたかもしれない。生誕200周年を記念するイベントや作品は、英社会の貧富の差について考えたり、ユーモア精神を楽しむ良い機会になりそうだ。
―関連キーワード Christmas carol:クリスマス・キャロル(=クリスマス聖歌)。キャロルには元々、踊りのための歌という意味があるが、共同体の「祝歌」あるいは宗教儀式などにおいて歌われる賛美歌の一種とされるようにもなった。クリスマス・イブの夜に歌うのがクリスマス・キャロル。「清しこの夜」、「もりびとこぞりて」など複数の歌が日本でも著名だ。チャールズ・ディケンズの「クリスマス・キャロル」で冒頭部分に使われているのが、1830年代に出版された「世の人忘るな」(God Rest Ye Merry,Gentlemen)というクリスマス・キャロルである。
***
「生誕200年」を記念するイベント、ウェブサイト
「ディケンズ2012」
ディケンズの生誕200周年を記念する各種のイベント、テレビ番組の放映予定など、あらゆる情報を集約するウェブサイト
「ディケンズのロンドン」展(ミュージアム・オブ・ロンドン、2012年6月10日まで) http://www.museumoflondon.org.uk/London-Wall/Whats-on/Exhibitions-Displays/Dickens-London/Default.htm
「チャールズ・ディケンズ生誕地での祝賀会」(ポーツマス、2012年2月5日―12日) http://www.portsmouthmuseums.co.uk/events.htm
「チャール・ディケンズ・レクチャー・シリーズ」(大英博物館、2012年2月21日―24日)http://www.bl.uk/learning/tarea/secondaryfehe/dickenslectures/dickenslectureseries.html
サイモン・カウエル著「チャールズ・ディケンズと世界の大きな劇場」の紹介(ニューシアターロイヤル劇場、ポーツマス、2月7日) http://www.newtheatreroyal.com/index.php/whats-on/simon-callow
ディケンズの映画回顧展(2012年1月ー3月、BFI Southbank、ロンドン http://www.dickens2012.org/event/dickens-screen )
BBCのディケンズ特集(現在―2012年2月) http://www.bbc.co.uk/mediacentre/mediapacks/dickens/
(ブログ「英国メディア・ウオッチ」より)
TUP速報第935号 「マラライ・ジョヤから日本の皆さんへ」《マラライ・ジョヤとアフガニスタンの今|最終回》
(Translators United for Peace =「平和をめざす翻訳者たち」が12月2日に配信した速報の転載です。マラライ・ジョヤさんは10月末来日し、講演会を行っています。ーニューズマグ)
◎シリーズ「マラライ・ジョヤとアフガニスタンの今」最終回
アフガニスタンの軍事占領・人権抑圧と闘うマラライ・ジョヤから日本の皆さんへ
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シリーズ前書き(岡 真理/TUP)はTUP速報第926号に。
http://www.tup-bulletin.org/modules/contents/index.php?content_id=3D958
マラライ・ジョヤが日本を去ってから1ヵ月以上が経過したというのに、私はまだ、彼女のメッセージが残した余熱を感じている。このシリーズ「マラライ・ジョヤとアフガニアスタンの今」の最終回は、彼女の講演ツアーの様子を、たとえ概要なりとも伝えるものとしたい。
いずれの会場でもマラライは、柔軟に、その場で湧いてくる想念を聴衆と分かち合い、そのため、講演はなおのこと生気に満ちた力強いものとなっていた。それでも、言うまでもないが、基本的な内容は全会場で一貫しており、その基調は変わらない。マラライが講演のベースとして用意した原稿に基本的内容は含まれているはずだ。そう考えてTUPは彼女にその原稿の翻訳・配信許可をお願いし、快い承諾を得た。特に、講演会に参加できなかった皆さんにとって、アフガニスタンの実情についての理解をさらに深める上でお役に立てばうれしい。また、その理解を通じて、アフガニスタンで進行する悲劇に少しでも胸が痛むというとき、私たちが今果たすべき役割について考え、それを見出すきっかけになることを願う。
マラライはたびたび聴衆を「平和を愛し正義を求める日本の皆さん」と呼んだ。その話を聴いた者の胸には、アフガニスタン政府やその背後にいる諸勢力ではなく、アフガニスタンの民衆の真の友となるには私たちはどうすればいいのか、という鋭い良心の問いかけが残された。何よりも、この重い問いかけをもたらしてくれたことをもって、私はマラライ・ジョヤが来日でき、日本の私たちに直接語りかけることができたことに深く感謝している。
彼女の存在そのもの、彼女と聴衆との「熱い」触れ合いを通じて、次のことが実感できた ―― マラライはいつわりなくアフガニスタンの民衆と一つになっている、彼女は民衆の一人であって、苦しむ人々と悲しみ、怒り、希望を分かち合っている、そしてアフガニスタンの民衆こそがマラライの力の源泉なのだ。
だからこそ、目の前でマラライが情熱的に語りかけるとき、この無敵のアフガン女性の明晰な思考と人間性に感銘を受け、それを賞賛しつつ、「自分は何をなすべきか」と自らに問いかけないではいられない者が多かったのだろう。
注記:原稿内の小見出しと[ ]内はこの速報のためにこちらで挿入した。シリーズ最終回前書き・翻訳:向井真澄/TUP
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●マラライ・ジョヤ 2011年10月16日 29日の講演基調
◯挨拶 (原稿外)
◯講演会を準備した関係者一同への感謝
◯日米両政府とは天と地ほども違う、平和を愛し正義を求める日本の皆さん
に囲まれて光栄に感じているとの表明
◯戦争と占領に苦しむアフガニスタンの人々と、かつて戦争と占領に苦しみ、
今なお米軍基地に苦しむ日本の人々がつながる理由:共通の敵と責任
◯地震・津波・原発事故で愛する家族を亡くされた方々へのお悔やみ
◯講演のテーマ:アフガニスタンの(特に女性をめぐる)極限的な現状、
米国・NATOによる「対テロ」戦争の実相、そしてイスラーム原理主義の
残酷さ
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1.いわゆる「対テロ」戦争が10年続いた今日のアフガニスタンの現状
10年前の10月7日、人権、女性の人権、民主主義のためという偽りの名目で、米国とその同盟国がアフガニスタンを占領しました。しかしアフガニスタンは10年経った今も、世界で最も不安定で腐敗した、戦禍に苦しむ国であり、その国民、特に女性の暮らしは悲惨な状況に置かれています。
10年前、米国とその同盟国は前近代的なターリバーン政権を転覆し、国民はそれを歓迎しました。しかしまもなく明らかになったのは、米国とNATOがアフガニスタンに居座っているのは、自らの戦略的、経済的、地域的利益のためにほかならず、この目的のためには、彼らは不幸なアフガニスタンの民を今一度犠牲にするのだということでした。
米国とNATOは、北部同盟を構成する軍閥らの、最も犯罪的で残酷な政権を押し立てることによってアフガニスタンの民を裏切りました。軍閥らは考え方においてターリバーンと同じであり、同じぐらい邪まで残忍で無知な連中です。アフガニスタンが何十年間も平和と安定に向かってこなかった主な原因はそこにあります。
いわゆる「対テロ戦争」がもたらしたものは、ただただ、流血、犯罪、野蛮な破壊行為、人権侵害および女性に対する権利侵害の増加のみであり、私の同胞の悲惨な状況と悲しみは倍増しました。この血なまぐさい年月に、何万人もの罪のない市民が占領軍とテロリスト集団によって殺戮されてきました。
最近、カルザイ傀儡政権は、クナール州で外国軍に10人の子どもが殺され(2011年3月1日)、また同州で22人の女性と30人以上の子どもを含む64人が
殺された(2011年2月16日)と発表しましたが、実際の死者の数ははるかに多いと確信します。
オバマ大統領が2008年に就任して以降、アフガニスタンの人々に最初にもたらしたものは、紛争と戦争の激化です。
残念なことに、オバマはこの2年の間に、自らが戦争屋であることを明らかにしました。その証拠に、オバマ政権になってから市民の死者は24%増加しました。アフガニスタンの人権監視機関(Afghanistan Rights Monitor)によると、2010年には毎日7人の市民が殺されました。オバマが行った軍隊の増派によって、罪なき市民に対する殺戮・暴力、破壊、苦痛と悲劇が増大しました。そのため、米軍・NATO軍の占領に反対して立ち上がる市民は以前よりずっと多く、日を追って増えています。今やオバマは第二のブッシュであり、より危険なブッシュです。
公式の統計によると、アフガニスタンの復興には550億ドルが投じられてきましたが、その資金の大半は軍閥、麻薬王、国内外のNGO関係者らに横領されています。復興名目で巨額の資金が投入されているにもかかわらず、アフガニスタンは国連人間開発指数でいうと182カ国中181番目に位置しています。
鉱山省の大臣によると、アフガニスタンには約3兆ドル相当の鉱山資源が眠っています。しかし世界第二の腐敗国なので、その鉱山収入は政府役人や軍閥のふところを潤すことでしょう。
2.アフガニスタンの女性の今日の状況
この10年で、アフガニスタンは麻薬マフィアの拠点となっただけではありません。UNIFEM(国連女性開発基金)によると、女性の居場所として世界で最も危険な国となっています。
欧米のメディアは女性の境遇の改善について大々的に取り上げていますが、アフガニスタンの多くの州で、女性は人間の生活とは呼べないような暮らしを強いられています。レイプ、誘拐、殺人、焼身自殺、酸による攻撃、家庭内暴力が急速に増加しています。
女性の手、鼻、耳が切り取られ、命を奪われ、あるいは死に至るまで鞭打たれています。実際、このような女性に対する残虐な犯罪が、ほかでもない14万の軍隊の鼻先で起こっているのです。
最近、17歳の少女がクナール州議会の議長にレイプされました。クァジ・カービル・マージバン議員の甥、アブドゥル・バシルは、ある少女に結婚を強制し、結婚後、少女の頭と顔を何回も銃撃しました。
このように、強い者がしたい放題にできる弱肉強食がまかり通っている州が多く、ターリバーン時代とそっくりです。アフガニスタンの女性は1960年代、70年代にはもっと多くの権利を享受していました。
タハール州では、二人の幼い女の子と成人の女性一人が武装兵士と何人かの司令官によってレイプされたとの報道もあります。(2011年6月28日)
バードギース州では、公衆の面前で200回鞭打ちの刑を課した後、頭部を三回銃撃するという方法でビビ・サヌバール[という女性]の処刑が行われました。(2011年5月19日)
戦争が女性の助けになることは決してなく、機会があれば、女性は自らを解放するし、進歩的男性も女性を支援するだろうというのが私の考えです。これには、皆さんも同意してくださると思います。私たちは、自らの解放をもたらすために団結して闘わねばなりません。
3.アフガニスタンの傀儡政権と米国のシナリオに沿ったカルザイによる犯罪者たちとの妥協
カルザイ傀儡政権は、腐敗した軍閥、麻薬王、何十年にもわたって人々を殺し、拷問し、その富を略奪してきた犯罪人などでいっぱいです。
庶民は、飢え、貧困、失業、治安の悪さ、腐敗、その他の災いに苦しんでいます。庶民は[選挙戦の]勝者にも敗者にも反対しています。その両方ともが庶民の敵であり、実施されたのは選挙ではなく選抜[つまり権力者による仲間うちの人選]だったからです。どうか、この種の胸が悪くなるような茶番にだまされないでください。
もう一つ、今演じられている悲劇的なドラマがあります。この欺瞞的な政府が、和平とか和解の名の下で、ターリバーン及びグルブッディーン・ヘクマティヤルと交渉しようとしています。北部同盟(政府)というテロリスト集団がターリバーンとヘクマティヤルらを招いて権力を分け合おうというのですから、その結果は流血と悲劇の増加です。彼らが互いに仲良くしていても、争っていても、民、とりわけ女性が犠牲にされます。しかし、今までの政府よりももっと腐敗した、マフィアだらけの邪まな政権ができても、そうしてアフガニスタンがいつまでも遅れた国にとどまることになっても、米国にとってはそれには何の重大性もありません。
巨大な軍事体制と最新兵器を備えた超大国が、ターリバーンのようなちっぽけな、前近代的で無知な集団を負かす力を本当にもっていないとは、誰も信じることができませんが、実はターリバーンはパキスタンを通じて間接的に米国政府の支援を受けてさえいます。
米軍・NATO軍は2014年中にアフガニスタンから撤退するといいますが、米国とその同盟国が居座っているのは、自らの利益のためだということを私たちは知っています。アフガニスタン軍と警察を動員しようという場合も、それは、米兵の死傷者を減らす目的で、アフガニスタンの兵士や警官を使い捨ての兵員とするためにほかなりません。彼らはアフガニスタンを、アジアにおける米国・NATO諸国の軍事と諜報活動の拠点としたがっています。
新たなボン会議も、アフガニスタンの民の運命をもてあそぶ危険なゲームです。この会議は最初のボン会議と同様、軍閥、麻薬王、西側技術官僚が居並ぶもので、唯一つの違いは、今回はターリバーンまでが出席する、ということです。人々はこの会議に何の希望も見てはいません。それは民衆の不倶戴天の敵を結びつけ、占領を合法化し、米軍基地を拡張するものだからです。ゆえに私は西側諸国の皆さんにお願いします。こんな動きに欺かれないでください。このような会議には反対の声を挙げてください。
西側諸国の政府はアフガニスタン国民だけでなく、自国民をも裏切っています。西側諸国は大企業とアフガニスタンの一握りの犯罪的支配者の利益のために、納税者の税金ばかりか自国兵士の血をも浪費しています。
4.真の民主主義への道
独立と正義の欠落した民主主義は無意味です。アフガニスタンには民主主義も正義もありません。市民に敵対する軍閥と犯罪者のための「民主主義」と「自由」があるばかりで、アフガニスタンの民には民主主義は存在しません。
現在、私の国では二つの種類のレジスタンスが起こっています。一つは、米国が針小棒大に騒いできた反動的なターリバーンの抵抗、もう一つは一般のアフガニスタン人の抵抗で、これには老いも若きもが参加しており、日ごとに大きくなっています。これは私の国の未来にとって大きな希望だと感じています。
アフガニスタンの問題の解決は、軍隊の撤退なしにはありえないと考えます。国内に反動的で残酷で邪悪な勢力があって、真に民主的な勢力の大きな障害物となっています。外国の軍隊はその反動的勢力の方を勢いづけ、正義をめざす私たちの闘いをその分困難にしています。
アフガニスタンの民は3つの敵に挟まれています。ターリバーン、原理主義的軍閥、そして軍隊の3つ。外国の軍隊がアフガニスタンから撤退したら、私たちは国内の2つの敵に立ち向かうことになり、その闘いは敵が一つ減る分、容易になります。ターリバーンが再び政権の座について内戦が勃発する可能性があるという人がいます。しかし、私の同胞は、数々の戦争で傷つき、疲弊し、希望を失ってはいても、軍閥とターリバーンを葬るまで、最後まで断固として闘い抜くはずです。というのは、彼らは軍閥もターリバーンのことも憎悪しているからです。国に解放をもたらすことができるのはその国自身だけだということは歴史が証明しています。
いつの日かアフガニスタンでも中東で起こったような、原理主義的独裁者に対する輝かしい決起が起きるでしょう。というのは、今も、小規模な決起が、クナール、タハール、ナンガルハール、パクティヤー、ローガル、ガズニーなどの州で発生しています。この動きは高まっていて、私たちみんなの希望の源となっています。(ほかにも、ヘルマンド、ファラフ、カーブル..などで)。
そこで、平和を愛し正義と民主主義の実現をめざすすべての団体、グループ、政党、個人の皆さんに、私の国の進歩的で民主的な勢力に力を貸してくださるようお願いします。私たちには皆さんの支援と連帯が必要です。皆さんへのメッセージとして、私の同胞に教育面での支援をお願いします。解放への鍵は教育にあるからです。
結び ―― マーチン・ルーサー・キング・ジュニアの言葉
「沈黙に甘んじるとき、我々の生は終焉に向かう。抑圧者が自発的に自由を与えることは決してない。自由は、被抑圧者が自ら要求し、勝ち取らねばならない」
────────── マラライ講演基調おわり ──────────
●訳者追記
マラライ・ジョヤの講演ではスライドを使って視覚的に訴える工夫がされていた。
迫害され、救いの求めようもなく焼身自殺を図った女性の写真、米国の手で再び権力を与えられた軍閥たちがターリバーン政権以前の内戦時代に市民に対して加えた暴力・殺戮の写真、現在も続く女性に対する残忍な犯罪の証拠写真なども「人として正視に堪えないけれど、見て知る必要があるのでお見せします」と言って提示していた。
また、主流メディアが決して報じないもうひとつの事実として、ツアー後半からは、各地で占領に抗議して立ち上がっている市民の姿も示された。「教育の機会を奪われてきた女性たちも、こうして危険を顧みず立ち上がっています。この政治的目覚めがアフガニスタンの希望です。これこそが民主主義への道です」という言葉とともに。
ツアーの一部に参加する中で、講演以外でも多くの意味深い言葉に触れることができた。
たとえば――敵の敵が味方であるとは限らない。米国の敵として振舞っているからといってイスラーム原理主義者[と呼ばれる、「民衆を支配するツールとしてイスラームをねじまげ悪用する勢力」]を支持するなら、民衆を裏切ることになる――などは、現にそうした勢力の支配下で甚だしい人権侵害に苦しんできた人々(特に女性)の切実な声として銘記すべきことと思う。
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TUP速報930号 アフガニスタンの「殺人部隊」によって明かされた真実 《シリーズ「マラライ・ジョヤとアフガニスタンの今」第4回》
(Translators United for Peace =「平和をめざす翻訳者たち」が今年10月23日に配信した速報の転載です。マラライ・ジョヤさんは同月末来日し、講演会を行っていますーニューズマグ
◎シリーズ「マラライ・ジョヤとアフガニスタンの今」第4回
アフガニスタンの「殺人部隊」によって明かされた真実
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シリーズ前書き(岡 真理/TUP)はTUP速報第926号にあります。
http://www.tup-bulletin.org/modules/contents/index.php?content_id=958シリーズ4回目となる今回の速報は、2011年3月30日に『ガーディアン』に掲載されたマラライ・ジョヤの論説の元原稿である下記アドレスにある論説を翻訳してお届けします。したがって『ガーディアン』に掲載されているものとは異なります。
【出典】http://www.malalaijoya.com/dcmj/joya-in-media/605-the-truth-revealed-by-the-qkill-teamsq-in-afghanistan.html
[訳者注:本訳文中に言及されている画像は上記アドレスでいくつか見ることができますが、気分を害されるかたがおられるかもしれません。ご自分で御判断願います]シリーズ第4回翻訳:福永克紀/TUP
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アフガニスタンの「殺人部隊」によって明かされた真実
Zマグ 2011年3月31日(木)
――本論説は、昨日『ガーディアン』紙に掲載されたマラライ・ジョヤの論説記事の完全オリジナル版である――
マラライ・ジョヤ 2011年3月31日 Zマグ
先週メディアで公表されたこの忌まわしくも心痛む数々の写真は、アフガニスタン戦争の陰惨な真実をやっと広く公衆の目にさらすこととなりました。この戦争が民主主義と人権のためであるという宣伝のすべては、殺されてバラバラにされた無辜のアフガニスタン市民の遺体と共にポーズをとっている米兵の写真で跡形もなく消えうせてしまいます。
アフガニスタン人は、これがわずかなごろつき兵士の話だとは考えていないことをお伝えしなければなりません。こういう「殺人部隊」の残虐行為は、軍事占領全体の要である武力による侵略行為と人種差別を暴露しているのだと私たちは考えています。この写真は目新しいものでも、無実の人の殺害はそうではありません。こうした市民に対する犯罪が、アフガニスタンでの多くの抗議を招き、アフガニスタン庶民の間に反米感情を激化させてきました。
殺害したアフガニスタン人を弄ぶ米軍「殺人部隊」のこのような画像を、米国主要メディアが公表したがらなかったことには別に驚きません。何と言っても、アフガニスタンの現実を米国民の視界から隠す組織的取り組みが行なわれてきましたから。ともかく、米国が主導する占領の現責任者ペトレイアス将軍は世論に向けた「情報戦争」に多大な重点を置いていると言われており、その戦略に則り、ペンタゴンはこういう犯罪を隠蔽するのに多大な努力を払ってきたのです。
こういう写真の兵士たちはほんのわずかしか訴追されていませんが、それは米国がアフガニスタンで行なっているさらに大きな人権侵害を隠す努力の一環だと思います。2月中旬にクナル州のガジアーバードで女性と子供65名を殺害した者たち、2009年10月にクンドゥズ州で民間人150人を殺害した者たち、2009年5月にファラフ州のバラブルクで民間人140人以上を殺害した者たち、2008年9月にヘラート州のアジーザーバードで子供と女性100人を殺害した者たちなど、ペンタゴンが「遺憾」に思うと述べるだけであとは忘れてしまうこのような数多くの非人間的犯罪に責任を負うべき者たちを、米国は何よりもまず訴追すべきです。もし米国が真に公正であるのなら、ロバート・ゲイツからデービッド・ペトレイアスに至るまで、その指揮下でこのような戦争犯罪が行なわれたすべての米国高官がまず最初に裁判にかけられなければならないと思います。
それでも、米国とNATOはアフガニスタンでの戦争犯罪に精を出している一方で、カダフィを人権侵害で罰するとしてリビアを攻撃しているのです! 米政府がわが国でもっと汚れた大勢のカダフィもどきを誠心誠意支えているのを見るとき、これは私たちにとってはまったく馬鹿げた冗談に聞こえます。
実際先週には、最初の米国入国ビザ申請が却下されて、支援者が私の入国する権利を要求してくれるなか、私のこの出版記念講演米国ツアーが延期されました。とはいえ軟化するように圧力をかけられた米国政府は、私の訪問を許さざるを得なくなりました。最終的にはアフガニスタン戦争の真実を隠し通すこともできなくなるでしょう。
この「殺人部隊」の画像はヨーロッパと北アメリカの多くの人にはショックであっても、アフガニスタン人にとっては何ひとつ新しいことではありません。ここ10年間、私たちは米軍やNATO軍が虫けらのごとく無辜の人々を殺害してきた事例を数知れず見てきました。
例えば、彼らは最近クナル州の山でまきを集めていた9人の子供を殺しました。数知れずある無辜の民間人大虐殺のひとつが発生したのは今年の2月中旬で、米軍主体の軍が65人の何の罪もない村人を殺害し、その大半は女性と子供でした。この事件では、地元当局者たちが犠牲者は一般民間人だと認めているにもかかわらず、多くの他の例と同様、抵抗分子を殺害したにすぎないとNATO軍は主張しました。事実の暴露を防ぐためにNATO軍は、大虐殺の現場を訪れて報道しようとしたアル=ジャジーラの記者二人の逮捕まで行なったのです。
米国とNATOは、死亡者すべてをテロリストや抵抗分子と呼ぶことでこういう民間人の死を隠そうと懸命に努めてきました。こんな嘘は彼ら側からの追い打ちであり、彼らに無残に殺された最愛の者に対する侮蔑だとアフガニスタン人は見做しています。
歴代の米当局は、市民を守り今まで以上の注意を払うと言ってきましたが、実際には自らの犯罪を隠し、メディアでそれが公表されるのをやめさせる努力に注意を傾けてきたに過ぎず、したがって多くの恐怖の殺人が報道されることはありませんでした。通常、米軍、NATO軍、並びに国連アフガニスタン援助派遣団の事務所が民間人死者数の統計を公表していますが、その数字は占領軍に殺害された人数を過小評価したものです。しかし現実は、オバマ大統領がアフガニスタン駐留米兵の数を増加して以来、民間人死者数が増えています。オバマのいわゆる「増派」は、すべての陣営が暴力を拡大させる結果を招いているだけなのです。
信じられないかもしれませんが、占領軍は犠牲者の家族の買収まで試みようとして、家族の死者一名につき2000ドルを提供してきました。アフガニスタン人の命は米軍やNATO軍にとっては安いものでしょうが、どんなにお金をつまれようとも、私たちは血にまみれた金銭など望んではいません。
皆さんもこのすべてをひとたび知れば、この身の毛もよだつ「殺人部隊」の写真をひとたび見れば、なぜアフガニスタン人がこの占領に嫌悪を抱くのかより明確に理解されるでしょう。カルザイ政権というのは北部同盟の悪名高い残忍な軍閥だらけの政権で、この政権はかつてないほど忌み嫌われています。占領軍の助けを借りて、脅迫と買収をもって支配しているだけなのですから。アフガニスタン人はこれよりもっとましな政権を享受するに値します。
しかしながら、こうしたことすべてのために復古的なターリバーンのいわゆるレジスタンスを支持するアフガニスタン人が増えているわけではなく、そのターリバーンも自爆攻撃で無辜のアフガニスタン人を殺し続けているのです。私たちは今、非常に困難な条件下で、アフガニスタンの学生、女性、貧しい一般市民が率いる別の形のレジスタンスが成長しているのを目の当たりにしています。こういう人たちが、民間人の虐殺に抗議し、戦争終結を要求して街頭に繰り出しています。最近このようなデモがカーブルで、マザーリシャリーフで、ジャラーラーバードで、クナルで、ヘラートで、また国内の別のところでも行なわれました。
このレジスタンスは、エジプトやチュニジアのような他国の運動に触発されたもので、アフガニスタンでも「民衆の力」を見たいものだと思っています。それにはもちろん、NATO諸国での平和を愛する民衆の力による支援と連帯も必要です。費用ばかりかかる偽善的なこのアフガニスタン戦争に反対する声が、多くのところから新たに上がっています。その中には何人かのNATO軍兵士がいます。
この前の英国訪問時に、アフガニスタン戦争に抵抗して何カ月もの牢獄生活を経験した良心的兵役拒否者ジョー・グレントン氏とお会いする栄誉を得ました。グレントン氏は、獄中期間に触れて「最近の情勢で、実刑判決に服したことは名誉の証だと思えます」と言われました。
つまり、世界が慄きながら「殺人部隊」の写真を目の当たりにしている今こそ、ジョー・グレントンの勇気とヒューマニティは、アフガニスタン戦争が永遠に続く必要などないことを思い起こす重要な役割を果たすのです。
【原文】The Truth Revealed By The “Kill Teams” In Afghanistan
【URL】http://www.malalaijoya.com/dcmj/joya-in-media/605-the-truth-revealed-by-the-qkill-teamsq-in-afghanistan.html
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TUP速報929号 ロヤ・ジルガにおけるマラライ・ジョヤの勇気ある歴史的演説 《シリーズ「マラライ・ジョヤとアフガニスタンの今」第3回》
(Translators United for Peace =「平和をめざす翻訳者たち」が今年10月17日に配信した速報の転載です。マラライ・ジョヤさんは同月末来日し、講演会を行っていますーニューズマグ)
◎シリーズ「マラライ・ジョヤとアフガニスタンの今」第3回
ロヤ・ジルガにおけるマラライ・ジョヤの勇気ある歴史的演説―――――――――――――――――――――――
シリーズ前書き(岡 真理/TUP)はTUP速報第926号にあります。
http://www.tup-bulletin.org/modules/contents/index.php?content_id=958「ロヤ・ジルガ」とは本来「大会議」を意味するパシュトゥー語で、アフガニスタン国民大会議のことです。在京アフガニスタン大使館のHPには、以下のように説明されています。
ロヤ・ジルガは、国家にとって重要であるとみなされる主要な事柄、問題、変革を扱うために召集される、名士、部族長、宗教指導者たちによる国民議会である。そもそも 1747 年、アフマド・シャー・ドゥッラーニーによって集められ、近代アフガニスタンの建設を支えるために、すべての民族集団のメンバーが招集された由緒正しい伝統であった。部族構造において長老、部族長、一族、氏族、集団、家長による議会のことを指すパシュトゥン人の制度であったジルガを基にしており、事実上アフガニスタン独自の合意形成機構である。
http://www.afghanembassyjp.com/jp/life/?pn=6
2003年12月、各州から選出された500人あまりの代表者が参加し、新憲法制定のためのロヤ・ジルガが開催されました。25歳のマラライ・ジョヤもファラフ州の代表として参加しました。その議場でジョヤは、内戦によって国を破壊に導いた軍閥の指導者たちが新憲法制定の場にいることを厳しく批判します。
議長を務めるムジャッディディも、ジョヤが批判する軍閥政治家の一人でした。
この発言により会場は怒号が渦巻き、途中でマイクのスイッチが切られ、ジョヤは会場から連れ出されます。その生々しい模様は以下のYou Tube の映像で見ることができます。
http://www.youtube.com/watch?v=iLC1KBrwbck
ロヤ・ジルガでのこの3分間の演説によって、マラライ・ジョヤの名は一躍、アフガニスタン内外に知れ渡るとともに、ジョヤは政敵によって、以後今日までその命を狙われることになります。
今回は、その歴史的スピーチの全文をお届します。
■マラライ・ジョヤ日本講演ツァーが始まりました
昨日16日(日)、広島でジョヤさんの講演会がありました。明日18日(火)の晩は沖縄で、以後、大阪、京都、名古屋と続きます。
*ジョヤさん講演会詳細については、「RAWAと連帯する会」HPをご覧ください。
http://rawajp.org/?page_id=302
*ジョヤさん広島訪問については、こちらを。
http://mainichi.jp/area/hiroshima/news/20111016ddlk34040328000c.html第3回前書き・翻訳:岡 真理(TUP)
シリーズ「マラライ・ジョヤとアフガニスタンの今」
第3回 ロヤ・ジルガにおけるマラライ・ジョヤの勇気ある歴史的演説
2003年12月17日
私はファラフ州から選出されたマラライ・ジョヤといいます。参加者のみなさまのお許しを得て、神と、自由への道の途上で斃れた殉難者たちの名において、数分間、お話しさせていただきます。
わたくしの同胞であるみなさまがたすべてに対して批判申し上げたいことがあります。私たちの国をこのような状況に追いやったあれらの重罪犯罪者がこの場にいることで、このロヤ・ジルガの正当性と合法性が疑問視されるのを、なぜ、許しておられるのですか。
このロヤ・ジルガを信仰にもとるもの、基本的に神への冒涜に等しいと言う者たちがいることを残念に、そして非常に悲しく思います。しかし、実際にここに来てみて、こうした発言もむべなるかなと思うようになりました。委員会を見てください。人々が何とうわさしているか、知ってください。どの委員会の議長も、あらかじめ選ばれた者ばかりです。これらの犯罪者たち全員をひとつの委員会に連れて来たらどうでしょうか。彼らがこの国をどうしたいのか分かると思います。これらの者たちこそ、私たちの国を内戦と国際戦争の焦点にした張本人です。
彼らはこの社会における最大の女性差別主義者であり、彼らのせいで私たちの国はこのような状況に追い込まれました。しかし、彼らは今また、同じことをしようと目論んでいます。かつて政権の座にあり、犯罪者であることが明らかになった者たちにもう一度、政治を任せるなど、誤ったことだと私は思います。彼らは、国内外の法廷に引き出され、裁かれなければなりません。彼らがたとえこの国の人々、靴すら履けないアフガン人から許されたとしても、私たちの歴史は決して彼らを許しはしません。彼らの犯した罪は一つ残らず、祖国の歴史に刻まれています。
原文: http://en.wikipedia.org/wiki/Malalai_Joya#cite_note-13
TUP速報928号 マラライ・ジョヤと過ごした一日 《シリーズ「マラライ・ジョヤとアフガニスタンの今」第2回》
(Translators United for Peace =「平和をめざす翻訳者たち」が今年10月13日に配信した速報の転載です。マラライ・ジョヤさんは同月末来日し、講演会を行っていますーニューズマグ)
◎ シリーズ:マラライ・ジョヤとアフガニスタンの今 第2回
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シリーズ前書き(岡 真理/TUP)はTUP速報第926号にあります。
http://www.tup-bulletin.org/modules/contents/index.php?content_id=958今回の速報では、2011年春の米国でのスピーキング・ツアーでマラライをインタビューしたジャーナリストによる記事の翻訳をお届けします。
第2回翻訳:向井真澄(TUP)
シリーズ「マラライ・ジョヤとアフガニスタンの今」
第2回 マラライ・ジョヤと過ごした一日
「昨日、私はメリーランド州の南部で、同州セントメリーズ大学での講演を控えたマラライとひとときを共にした」
ロバート・ドレフュス
The Nation
2011年4月14日
アラブ世界やイランを席巻する反乱とアフガニスタンにおけるはるかにやっかいな状況をくっきりと分ける境界線など存在しない。アフガニスタンの革命家や民主主義をめざす活動家は、30年続いた戦争と米国・NATOによる占領、そして邪まな軍閥や狡猾な政治屋による支配に疲弊している上に、新たな課題に直面している。エジプトとは異なり、たとえばフェイスブックやツイッター、その他のソーシャル・ネットワーキング・サイトへのアクセスはなく、電気や電子機器が不在の地域も多い。
しかし、そんな状況にあっても、マラライ・ジョヤの行動にブレーキがかかることはない。
昨日、私はメリーランド州の南部で、同州セントメリーズ大学での講演を控えたマラライとひとときを共にした。これは公立の大学で、小さなセントメリーの町にある。マラライは注目に値する若い女性で、1990年代にパキスタンで難民として、またある時はRAWA(アフガニスタン女性革命協会)が運営する学校で教育を受けた活動家である。ターリバーン時代にはアフガニスタン国内の非合法学校で教師を務め、故郷のファラフ州では無料診療所と孤児院を設立した。2003年、25歳のときに、アフガニスタン国民大会議で立ち上がって、ターリバーンのみならず、米国を後ろ盾にして国政を握ろうと勃興した数多の軍閥を糾弾したことは世界的なニュースとなった。2005年に国会議員として選出された。当時のアフガニスタンの国会は現在同様、超保守派、軍閥、腐敗した政治屋が牛耳っていた。その2年後にマラライは、アフガニスタンの議会と政府を鋭く批判して議会から追放された。それ以来、マラライは半地下生活を送り、一連の暗殺未遂を生き延びてきた。2010年に、タイム誌はマラライを世界で最も影響力のある100人の女性の一人に選んだ。
ジョヤは、米軍とNATO軍にただちに撤退してもらいたいと言う。「撤退すべきです。将来の内戦が現在の内戦より危険性を増すことはありません」と述べている。彼女はターリバーンに激しく反対しているが、2001年に米国が支援した、昔からの北部同盟とその同盟者を動かすギャングやカルザイ大統領にも同じぐらい強く反対している。
彼女は今米国ツアー中で、その目的の一つは、新著『軍閥に囲まれた女』のプロモーションである。その旅には邪魔が入った。米国国務省が、アフガニスタンでは身を隠していて職に就いていないと彼女が述べたこともあって、当初ビザの発行を拒んだからだ。この決定は世界的な抗議が起こるまで撤回されなかった。大使館の官吏が「あなたのことはよく存じています」と言ったことを彼女は思い出す。
マラライが組織化に取り組むアフガニスタンの状況は、困難という形容では足りない。メディアはほぼ完全に政府とその同盟者の管理下にある。インターネットは、彼女の言葉によれば「アクセスできるのはほんの一握り。フェイスブックやツイッターにアクセスしているアフガニスタン人は、人口のわずか2%だけで、主として医者など」だ。カルザイ政権が絶望的に腐敗していてターリバーンに傾いているばかりか、議会にも希望はもてない。彼女は「民主主義を擁護する立場の議員は片手の指で数えることができる」と言う。アフガニスタンにも進歩的な―彼女の言葉では「原理主義に反対し」「民主主義を擁護する」―政党やNGOが少しはあるが、その組織化は進んでおらず、多くは地下に潜伏しているか、政治的力が弱い。彼女がそのような団体として挙げるのは、RAWA、アフガニスタン連帯党、アフガニスタン女性の能力向上団体、その他数団体である。
マラライ・ジョヤは、自分が直面しているほとんど絶望的な困難にもかかわらず、次のように述べている。「選択肢は二つです。沈黙しているか、闘うか、です。でも私は生きています。生きていられるとは思っていませんでした」。それでも、彼女はアフガニスタン国内では旅行はできない。いろいろな州を訪問することはできない。カーブルでは、身の安全のために、滞在する家を常に変えている。
セントメリーズ大学での講演では、約100人の学生が出席し魅了されたが、その中でマラライは、アフガニスタン戦争についての見解を述べた。彼女は、伸び上がってやっとマイクに届くほど小柄で、長い黒髪をもち、決意を秘めたその眼は輝いている。黒っぽいパンツスーツを着て、明るいピンクのスカーフを首に巻き、当然ながら頭を布で覆ってはいない。彼女の声は抑えた怒りを帯びていて、叫びに近いほど大きくなることがある。聴衆は、こざっぱりした顔をした若者だったが、たじろいでいるように思われた。だが、講演が終わるともっともな質問が続いて、聴衆が彼女のメッセージを受け取ったことを示していた。
「バラク・オバマの対外政策、すなわち増派がわが国にもたらしたものは、虐殺の増加です」と彼女は述べる。2001年以降、米国はアフガニスタンを「一つの災難からもっとひどい災難へと」追いやった。女性がターリバーンや社会制度について保守的な立場をとるその他のアフガニスタンのイスラーム主義者の犠牲になることを防ぐため、米国はアフガニスタンに駐留し続ける必要があると主張する人々に対しては、マラライは言う。「戦争がアフガニスタンの女性を助けることは決してありません」
マラライ・ジョヤは、米国とカルザイが、戦争終結のためにターリバーンと政治的取引をする必要性には耳を貸さない。ターリバーンは、米国とサウジアラビアやパキスタンにいる米国の同盟者が生み出し、支援したもので、自らの利益になるのであれば、結局米国はターリバーン主導あるいはその影響下にある政権をもう一度受け入れる可能性がある、と彼女は言う。その上、ターリバーンとその敵、つまり、大半がタジク人やウズベク人で構成されている北部同盟とは、ほとんど、あるいはまったく違いはなく、北部同盟の指導者には1990年代前半の最も血なまぐさい内戦の責任があるのだと言う。また彼女はターリバーンや軍閥を装う政治的イスラームには断固として反対している。「彼らはイスラームを政治に持ち込んで、人々を支配するために利用します」
彼女は長い闘いになることを覚悟している。自分の仲間は、ターリバーンを、また政府内のターリバーンの敵をも等しく憎んでいるアフガニスタンの無辜の民だとマラライは言う。「レイプの犠牲となった女、十分な食べ物がない人々、米国とNATOに爆撃されている人々。彼らこそが私のヒーローです」と述べている。
The Nationの寄稿編集者であるロバート・ドレフュスは、バージニア州アレクサンドリアの調査報道ジャーナリストで、政治と国家安全保障を専門としている。”Devil’s Game: How the United States Helped Unleash Fundamentalist Islam”(『悪魔のゲーム:米国はいかにして原理主義的イスラームを解き放ったか』)の著者であり、Rolling Stone、 The American Prospect、Mother Jonesに頻繁に寄稿している。
原文:
http://www.thenation.com/blog/159955/day-malalai-joya
***
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TUP速報926号 ーシリーズ:マラライ・ジョヤとアフガニスタンの今 第1回 マラライ・ジョヤ、アフガニスタンの隠れたヒーロー、ヒロインを代表して語る
(Translators United for Peace =「平和をめざす翻訳者たち」が今年10月7日に配信した速報の転載です。マラライ・ジョヤさんは同月末、日本に来日し、講演会を行っていますーニューズマグ)
◎シリーズ:マラライ・ジョヤとアフガニスタンの今
2001年9月11日の出来事を受け、10年前の10月8日、米軍とNATO軍はアフガニスタン空爆を開始します。以後、今日まで続く「対テロ戦争」の始まりでした。こうして、ソ連の撤退以後、世界の忘却の中に打ち棄てられてきたアフガニスタンは9・11という出来事によって世界の耳目の中心となりました。けれども、2003年にイラク戦争が起こると、世界の関心はイラクに移り、アフガニスタンは再び忘れ去られていきました。
2014年末までに外国軍が完全撤退することが発表されてはいるものの、10年たっても外国軍の駐留は続き、アフガニスタン国内は「平和・安定」とはほど遠い状況です。「対テロ戦争」の開始から10年、アフガニスタンは今、どうなっているのでしょうか。
アフガニスタン空爆さなかの2001年11月、ローラ・ブッシュ大統領夫人(当時)は、全米向けラジオ演説で、空爆はターリバーンに抑圧されるアフガン女性解放のためと語り、アフガニスタンの女性の人権を理由に攻撃を正当化しました。しかし、10年後の現在、アフガニスタンでは女性の焼身自殺があとを絶ちません。多くの女性たちにとって、自ら命を絶つことが、絶望的な現実から救われる唯一の道だからです。
今月、アフガニスタンの女性人権活動家、元国会議員のマラライ・ジョヤさんが「RAWAと連帯する会」の招聘で来日し、広島・沖縄・大阪・京都・東京・名古屋でアフガニスタンの現状について講演会をおこないます。
(詳細はこちらをご覧ください。http://rawajp.org/?p=244)ジョヤさんは、2005年の議会選挙で、最年少で国会議員に選出されました。しかし、国会の内外で、内戦で国を破壊し、国民を虐殺した軍閥政治家を戦争犯罪者として糾弾し、その処罰を求め続けたために議員資格を停止されてしまいました。
現在、国内で、暗殺の危険にさらされながら、ターリバーン、軍閥、外国軍の占領という三重の敵と闘いつつ、女性のための人権活動に挺身しています。
日本もまたアフガニスタンの惨状と決して無縁ではありません。アフガニスタンに自衛隊が上陸こそしていないものの、インド洋に自衛隊を派遣し、米軍に燃料補給し、アメリカの「対テロ戦争」を支えてきました。また民主党政権は2009年、ジョヤさんがその腐敗を告発してやまないカルザイ政権に対して「2010年から5年間にわたり50億ドルの民生支援」をすることを発表しました。
マラライ・ジョヤさんが来日されるこの貴重な機会に、TUPは、これまでのジョヤさんの主張ならびにアフガニスタンに関する記事を速報として発信し、忘却にふされていたアフガニスタンの<今>をお伝えするとともに、私たちの責任について考えたいと思います。
シリーズ第1回は、本年5月、アメリカにおけるジョヤさんの発言です。ジョヤさんの主張のエッセンスが凝縮した文章です。
シリーズ前書き : 岡真理(TUP)
第1回翻訳:岡 真理
シリーズ「マラライ・ジョヤとアフガニスタンの今」
第1回 マラライ・ジョヤ、アフガニスタンの隠れたヒーロー、ヒロインを代表して語る
「合衆国はそもそもの最初から、汚いシナリオをもってやって来た」 — マラライ・ジョヤ、ナジュアン・ダードレ
Peace X Peace、
2011年5月16日
マラライ・ジョヤは、2005年に国会議員となったが、2007年半ば、戦争犯罪者が国会の場にいることを公然と弾劾したために、国会を追放される。最近、[自伝]“A Woman Among Warlords” (軍閥に囲まれた女)を出版、講演ツァーのため合衆国を来訪した。コネクション・ポイント・プロジェクトのマネージャー、ナジュアン・ダードレが、ワシントンDCのユニオン・ステーションでマラライ・ジョヤにインタビューした。マラライは以下のように語った…。
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私はマラライ・ジョヤ、人権活動家です。アフガニスタンでは、民主的な心を持つ活動家は多くの困難、危険、障害に直面しています。私とほかのアフガン人活動家の違いはただ、私が有名だということだけ。私たちはみな、マフィア同様の傀儡体制、そして占領と闘っています。私たちは祖国に、正義、平和、民主主義、女性の権利、そして人権をもたらすために闘っています。
今、私が重要だと思うのは、アフガニスタンの人々、とりわけ女性の政治的意識を高めることです。女性は人口の大きな部分を占めていますが、その大半は教育を受けていません。女性の人権について彼女たちと話をすることはたいへん重要であると思います。彼女たちは自らの立場について目覚める必要があります。
私の仕事のひとつは、合衆国の集会に参加し —今、ここにいるのもそのためですが—、アフガニスタン国民のメッセージを伝えることです。そのメッセージのひとつは、アフガニスタンでは、軍事的な戦争だけでなく、プロパガンダの戦争も起きている、ということです。主流メディアは、強力な政治家の代弁者であり、世界の良心的な人々の目を曇らせています。私は、合衆国の良心的な人々に、彼らの政府の間違った振る舞いを知らせ、彼らにイスラーム原理主義者、ターリバーン、そして軍閥の精神構造がどういうものであるか語ることで、主流メディア〔の報道〕に対抗しています。同時に、国際的な連帯も求めています。
今回の合衆国訪問で、私は未来への希望を得ました。そして、アフガニスタンの政治や政治家の若い世代に対する信頼を築きました。アフガニスタンの人々を代表し、光栄にもノーム・チョムスキー教授にお会いすることもでき、たいへん嬉しいです。今日は “Devil’s Game: How the United States helped Unleash Fundamentalist Islam”(『悪魔のゲーム 合衆国はいかにして原理主義的イスラームを解き放ったか』)の著者であるロバート・ドレフュス氏ともお会いすることになっています。彼は、アフガニスタンのみならず他の無数の国におけるCIAの政策を暴露した、たぐい稀なアメリカ人です。
兵士の方々や、アフガニスタンに兵士として赴いた息子や娘を亡くした方々にもお会いしました。私は彼らに言いました「どうかその悲しみを街頭行動に変えてください。悼むだけでは十分ではありません。アフガニスタンにおける占領とこの残虐な戦争に反対する声をもっと大きく上げてください」
私は講演の中では、アフガニスタンの民主的な心をもった女性や男性のことを「隠れたヒーロー、ヒロイン」と呼んでいます。なぜなら、彼らはなかなか合衆国へ来たりすることはできません。私が、可能な限り、招待に応えるのはそのためです。彼らのメッセージを届け、良心的な人々の目から企業メディアがいかに現実を隠しているか、プロパガンダ・マシンの実態をあばくためです。
3月、合衆国政府は、私にビザの発給を拒否しましたが、それは政治的理由のためだと思います。過去に合衆国その他の西側諸国に行ったとき、私は戦争屋たちの欺瞞的な政策を暴露しました。正義を愛する人々に、納税者の何十億ドルというお金が軍閥や麻薬王、そしてターリバーンの懐に流れていることを話しました。占領軍による爆撃や集団虐殺について話しました。今回、ホワイトハウスはこれが耐えがたくて、ビザを拒否したのだと思います。
数年前、傀儡政権は私を国会から追放し、旅行を禁じました。今回は合衆国政府が、私の声を封じようとしています。西側の政府は、私の国を爆撃し、無辜の市民を殺しています。その大半は女性と子どもたちです。民主的な心を持った人々には、それぞれの政府に圧力をかけていただきたいと思います。これらの政府は、アフガニスタンにおける女性の権利や人権を主張していますが、バカげたことです。真実ではありません。
10年にわたる占領で、彼らは何千人もの無辜の市民を殺しながら、恥知らずにも、主流メディアで、これらの人々を暴徒やテロリストと呼んで、犠牲者の数を少なく発表してきました。そうすることで彼らは、アフガニスタンの人々の傷ついた心に塩を擦りこんでいるのです。これは、アフガニスタンの人々を裏切るだけでなく、アメリカの人々をも裏切ることです。納税者の何十億ドルというお金を浪費し、兵士たちの血を無駄に流しているのですから。政府は兵士たちに、ターリバーンと闘っているのだと言い聞かせながら、同時に、テロリストであるムッラー・オマル[ターリバーン指導者]に対し、マフィア同様の傀儡政権に加わるよう呼びかけているのです。
そもそもの最初から、合衆国は汚いシナリオをもってやって来ました。アフガニスタンがコントロールできれば、合衆国は中国、ロシア、イランなどのコントロールもより容易にできるようになり、中央アジアの共和国における天然ガスや石油へも手が届きます。アフガニスタンにおけるターリバーンや軍閥の存在を利用し、彼らは状況を危険なままにして、それを口実に占領を正当化しているのです。
アフガニスタンにおける不法行為の廉で数名の兵士を法廷で裁く代わりに、合衆国は、ロバート・ゲイツ[ブッシュ、オバマ両政権下の国防長官]やデヴィッド・ペトレイアス将軍[2010年7月~2011年7月、アフガニスタン国際治安支援部隊(ISAF)司令官兼アフガニスタン駐留米軍司令官]こそ、部隊に爆撃命令を出し、市民を殺害した廉で法廷で裁くべきです。オバマ政権もまた問題にされなくてはなりません。その対外政策はブッシュのそれにもまして危険なものです。最悪の集団虐殺は、オバマ政権下で起きているのです。公式の報告によれば、オバマが政権の座に就いてから、民間人の死者の数は24%も増加しています。
合衆国はなおも、アフガニスタンの女性の惨状を悪用しています。女性がなぜ、地獄のような状態に置かれているのか、誰も問いません。大半の州で、強かん、家庭内暴力、学校に通う少女たちに対する[硫酸や塩酸などの]酸や放火、毒物よる攻撃、強制結婚、性的虐待その他もろもろの悲惨な出来事が起きており、その数は増加しています。TIME誌が、[アフガニスタンの]女性の身に起きていることを報じていますが、同誌は、それが占領下で女性の身に起きていることでもあるについては、何も語っていません。
アフガニスタンのよく知られたことわざに、殺人者に妥協したらあなたも共犯者だ、というのがあります。アフガニスタンでは枚挙にいとまがないくらい、こうしたことが起きています。今やターリバーンと交渉しようとさえしているのです。状況はますます血塗られ、悲惨なものになっていくだけです。アフガニスタンの人々は、軍閥、ターリバーン、占領という3つの強大な敵によって、ぼろぼろになっています。これらすべてと闘うことは決して容易なことではありません。だからこそ、私たちは占領を終わらせたいのです。占領軍が立ち去りさえすれば、私たちは、国内の二つの敵と闘うことができるようになるからです。
いかなる国であれ、ほかの国に解放を与えることができるとは思いません。国はみずからの力によってこそ解放できるのです。私は多くの脅迫にさらされていますが、恐れてはいません。私が恐れるのはむしろ、これらの不正義に対して沈黙してしまうことです。
私は、ひとりの人間、大海の小さな一滴にすぎません。でも、この小さな一滴が、私の責任なのです。確かなことは、私よりも勇敢な「マラライ」がほかにもたくさんいるということ。私など較べるべくもないような、でも、誰も知らない「マラライ」たちがほかにも大勢いるのです。私の声は彼女たちの声でもあります。声なき者たちの小さな声です。
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原文
•http://www.peacexpeace.org/2011/05/malalai-joya-speaks-on-behalf-of-the-secret-heros-and-heroines-of-afghanistan/
•http://www.malalaijoya.com/dcmj/joya-in-media/680-malalai-joya-speaks-on-behalf-of-the-secret-heros-and-heroines-of-afghanistan.html
[注]マラライ・ジョヤ自伝日本語版は、耕文社より10月刊行の予定です。
***TUPのウェブサイト http://www.tup-bulletin.org/
やす鈴木のNY役者人生 -ヨガ・インストラクターの資格を取得 ny1page.com
11.11.26 by ny1page.com カテゴリー: 世界の窓, 人
(ニューヨークの情報を伝えるウェブサイト、ny1page.comから、俳優やす鈴木さんのコラムを転載しています。)
日課として毎朝ヨガを続けていたが、200時間のティーチャー・トレーニングを受けようと思い立ち、細かい仕事を整理して、4週間に渡るトレーニングに参加した。その約1ヶ月に渡ったトレーニングも無事終了して、晴れてヨガ・インストラクターの資格を取得。毎朝6時に起きて、午前8時から三時間のヨガのアサナ、一時間の昼食と二十分の休憩を午前と午後に一回ずつはさみながらヨガの哲学、歴史、スートラ、ティーチング・テクニック、解剖学、アユールベーダなどを午後5時まで毎日みっちりと習う。
最近は日本も江原啓之さんのおかげでスピリチュアルという言葉が定着したせいか、時々「自分の前世は何だと思いますか?」という質問をされることがある。
目くじらを立てて、信じる信じないの議論をするつもりは無い。僕はひとつの哲学として自分の人生に輪廻転生を受け入れている。だから「前世はなんだと思いますか?」という質問には結構まじめに答える。
もちろん確かめる手だては無いのだけれども、自分が何度も兵隊さんだったような気がしてならない。戦いで何度も命を落としているような気がするのだ。
そしてもうひとつは修行僧。
以前、ギリシャの旅行記でも書いたのだけれども、アテネの港町を一人で歩いていると、導かれるようにギリシャ正教の教会に足を踏み入れていた。
そこでは丁度、茶色いローブを纏った神父さん達が独特の調子のお祈りを捧げていて、それを静かに聴き入っていた時、自分でも思ってもいなかった涙が頬を伝った。 僕はキリスト教でもなければ、特定の宗教を持っているわけでもない。それはもちろん確証はできないのだけれども「魂の記憶」なんじゃないかと思った。
今回の一ヶ月に渡ったヨガの修行僧生活もきつかったけど、朝起きて「今日は行きたくないな」と思った日は一日もなかった。早朝のアサナの前にはサンスクリット語でお経のような調子のヨガスートラを瞑想をしながらみんなと一緒に数回唱えるのだが、その時もなぜか自然に涙がこぼれてきた日が何度かあった。二週間ほど経った頃、「これを一生続けて生きていくこともできるな」とふと思ったほどだった。それぐらい今回の修行僧生活が自分に合っていたのだ。
これで、ピラテス、エアロビクス、ヨガ、のインストラクターの資格を取得したので、これだけのことを日本語と英語の二カ国語で教えられれば、世界中の半分ぐらいの国、だいたいの先進国ならば、どこででも生きていけられる自信がついた。世界中を飛び回れる自由な翼を手に入れた気分である。
しかしこの「自由」という言葉とは、ずっと今までじっくりと向き合って、ある時は格闘し、ある時は勇気づけられながら生きてきた感がある。
父はずっと同じ会社で50年以上立派に働き上げた会社員だが、僕は学生の頃からどうしても自分が会社員になれるような気がしなかった。社会人としてどこかに所属している自分というのが、どうしてもしっくりと想像できない。
大学を卒業してニューヨークに渡って、ウェイターのバイトをしながら演技とダンスと歌のレッスンを始めた頃は、やっと自分だけの自由を手に入れたと思った。言葉も不慣れできつかったけど楽しかった。うれしさ、楽しさ、怒り、全ての感情をメーターが振り切れるほど全開で受け止めて生きていた。
そんなある日、当時90歳を超えていた祖母と電話で短く話す機会があった。おばあちゃんは短くぼそっと「もう会えんかもしれんね...」と言った。電話を切った後、一人のアパートに残されて涙が止まらなかった。「日本に帰りたい、うちに帰りたい」と初めてその時心から感じた。ニューヨークの冷たい一人の部屋で流しても流しても涙が溢れて止まらない。あの時の冷たい市松模様のリノリウムの床の感触を今でも忘れない。
あの冷たい感触が僕にとっての「自由」だった。
自由とは与えられるものではなくて、大きな代償を払って選択するものなのだと思い知らされた。その時、台所の流しのそばにかかっていたキッチンペーパーのロールが目についた。
そのキッチンペーパーには、可愛らしいカモメが空を優雅に飛んでいて、眼下に広がる教会やら民家やら畑やらを見下ろしているイラストが描かれている横にこんなキャプションが付いていた
“The most important thing in life is Freedom”
「人生で一番大切なものは自由です」
「バカヤロー!!」 一人きりの部屋でキッチンペーパーのロールに向かって怒鳴ってしまった。「キッチンペーパーごときが自由というものが何たるかを俺に語るんじゃねえ!!」怒りがおさまらなかった。もう僕の顔は涙と鼻水でぐしょぐしょである。
こっちは大好きなおばあちゃんに会えないかもしれない寂しい思いをしてまでも「自由」という選択をして、異国の地の一人の部屋で暗く冷たいリノリウムの床を踏みしめながら顔を涙と鼻水でぐしょぐしょにしているのに、キッチンペーパーのカモメにのんきに空を飛びながら人生と自由を語られた。
今から思えばこれは笑うしかない。
所帯を持った今、責任もしがらみも増えたし、時間に追われることも多いけど、年を重ねるごとに心が自由になっている気がしている。自分でどこへでも好きなところへ歩いて行ける心と足があるからだ。大変だったけど、自分の好きなことをやらせてもらってきているし、やりたくないこともあったけど、自分で選択してきた事がわかっているから。
自由については、ヨガのスートラを解説した本の中にある言葉がある。
「この世界に自分が拘束されているか、自由かというのは自分自身の精神の問題である」。
政治犯として植民地支配者に投獄されたあるヨガのグルは、自分を拘束している牢獄を自分に与えられた使命の場として捉え、囚人達を相手にヨガの哲学を教え始めた。何年も牢獄された後、政治的な風向きが変わり、グルはある日突然、釈放を言い渡されたが、彼は「私はまだ、彼らに教えられることを終えていない」と釈放を断って、納得するまで牢獄に残ったという。
この人にとっては、世界中どこにいようが、どんな状況になろうが、自分の使命がある限り、果てしなく自由な精神でいられるのだろう。うらやましいような、うらやましくないような...。
TUP速報933号後半 ブライアン・ウィルソンへのインタビュー:ベトナム帰還兵から徹底した平和主義者
前書き: 樋口淳子/TUP (TUP速報第933号前半をご覧ください)
翻訳: 樋口淳子(前半)、向井真澄(後半)/TUP
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デモクラシー・ナウ!
エイミー・グッドマンによるインタビュー
2011年10月28日放送
http://www.democracynow.org/2011/10/28/blood_on_the_tracks_brian_willsons
『血ぬられた轍』:ベトナム帰還兵から徹底した平和主義者への方向転換を遂げたブライアン・ウィルソンの回顧録 後半
エイミー・グッドマン:ではその線路での事件に先立つ17年に及ぶ旅路についてお話しください。
ブライアン・ウィルソン:私は1972年にロー・スクールの課程を修了していて、すでに修士号を取得していました。裁判所の審理手続きには従えないと感じていたので、法廷弁護士にはならないつもりでした。とにかく、いかなる権威ある人物であっても、自動的に尊敬することは二度とはできなかったのです。それはまったく無理なことでした。自分のことを、命令や指示に服従できる人間だとはとても思えませんでした。努力なしにはできないことでした。それで法律から離れて刑務所問題でいろいろ活動しました。受刑者に加えられる不正義-受刑者公正制度と呼ばれていますが私に言わせれば受刑者不公正制度の問題に取り組んだのです。さまざまな団体の顧問弁護士として活動していたのですが、法廷弁護士ではありませんでした。この活動は何年間も続け、その中にはマサチューセッツ州でのジャック・バックマン上院議員の補佐官としての職務も含まれていました。実はその中でベトナム体験のフラッシュバックに襲われたのでした。1981年のことで、それは実際ずいぶんきついものでした。帰還兵支援の取組みでは数年間活動しました。
エイミー・グッドマン:そのフラッシュバックはどういう意味をもっていたのですか。何を見、何を体験したのですか。
ブライアン・ウィルソン:ウォルポール州立刑務所の独房棟で受刑者に面談しているときのことでした。その独房棟にいる間に、説明のつかないことですが、二人の看守が、私が勤務していたのと同じ棟、同じ階にある独房からある受刑者を引きずり出しました。私は床続きの場所にいたわけです。その男性を、看守らが長靴を履いた足で踏みつけ、警棒で殴りつけていました。彼は-受刑者は叫び声をあげていました。そして、ご存知のように、刑務所はコンクリートやスチールや鉄でできていて、音が非常に大きく反響します。その瞬間、私の中にベトナムが甦り、そのまま刑務所内にいることが耐えがたくなりました。実はその時私はその棟の反対側の端のほうで別の受刑者と面談していました。実際、私はその階の廊下をよろめきながら歩き始めていました。死体を踏み越えて歩いていたのですから。独房の扉によりかかかってようやく体の平衡を保っていました。そして私は現実に-私の心の中では-村に、爆撃後に調査を行った数々の村の一つにいました。私は泣いていました。看守がどう思ったかは知りませんが、看守が開閉する扉を七つ通り抜けて、駐車場の自分の車にたどり着きました。そこで1時間半座り込んで、こんな風に震えて、どうしようもなくすすり泣いていました。運転することができませんでした。
そしてその時、私はベトナム帰還兵というものになったのです。その体験を思い出すことに特別な関心があったわけではなかったのに。実際、私はそれほど無知だったことを恥ずかしく思っていました。一方で、それは私が啓示を得たできごとでもあり、そこから私の人生の方向がすっかり変わりました。世界についての一定の強い感情を伴って。そして興味深いことに、支援を求めて最初に接触したラップ・グループに、「このトラウマ的な体験から癒される方法は、自分が巻き込まれた政策としての戦争の非道さに向き合うほかはない」と言いました。でも、そのグループの誰も賛同しませんでした。グループのまとめ役が「ここじゃ政治は議論しないんだ」と言いました。そこで「政治だって?これは、自分自身の体験の一部だよ。自分たちが関与していた絶対的な大虐殺を理解することなしに、この体験を乗り越えて前へ進むことはできないよ」と私は言いました。私たちは東南アジアの民を11年間にわたって毎日平均2,100人殺戮したのです。まったく、国の魂という問題まで掘り下げることぬきに、どうやってそれを説明するのです?私は自らの魂の問題に向き合う必要がありました。
それで、その後2年間出張支援センターを運営して、他の帰還兵のために、PTSDや枯葉剤に関わる補償要求の申し立てをしました。それから、その職を退いてニカラグアへの最初の旅に出て、レーガンが、ソ連の足掛り、マルクス=レーニン主義者と呼んでいた人々について学びました。もちろん、それは、自決権を求めて組織化に取り組む貧しい人々を指す隠語だということはわかっていました。最初の旅でニカラグアの山中に入って1週間は、スペイン語を話せませんでした。いつも誰かに通訳してもらう必要がありました。コントラ、レーガンのコントラ・テロリスト、つまりサンディニスタ革命を崩壊させるためレーガンが訓練し武装させていた人々は、3つの農業協同組合を襲撃し、11人を殺害しました。私はそのうち6人の遺体が納められた無蓋の棺が荷馬車でエステリの墓地に運ばれるのを見ました。それを見て私はただただ泣きました。そしてその時悟ったのです。すべての文明はそうやって-搾取と信じがたい残酷さと殺人と身体の切断を踏み越えて-発展してきたのだと。
そしてその後、私は文明の歴史を真剣に学びました。というわけで、何も、本当に歴史について何も知らないということを悟って、歴史を本気で学ぶ学徒となったのです。私は文脈がわかっていませんでした。抑圧されている他者の実際の感じ方を知りませんでした。つまり、もちろん知ってはいたし、感覚的にはわかっていましたが、数千年にわたってこのことがどれほど広範囲に起こっていたのか本当に知りたかったし、自分が育った背景を、この-私の今生のうちに理解したかったのです。また、ニカラグアでのその体験がきっかけとなって、その後何度もニカラグアへの旅に出ることになり、米国の政策を研究し、多くのニカラグア人に出会いました-出会った人々のうち50人のニカラグア人の友人や知人をコントラのせいで失いました。彼らは殺されたのです。またエルサルバドルでは、知り合った人のうち15人が殺人部隊に殺されました。ですから、このことは大変...パーソナルな体験となります。家族が殺されているようなものです。家族が殺戮されるときには何らかの反応が起きるものです。
エイミー・グッドマン:それで、ついに線路の上に座り込んだ...
ブライアン・ウィルソン:線路の上に座り込みました。
エイミー・グッドマン:蓮華座で。
ブライアン・ウィルソン:列車は-あの武器は、私の体をどけることなしには動かせません。そうなのです。中米で暮すあの人々は、私の家族、私の家族の一部なのです。そしてもう二人の帰還兵ももちろん同じように感じていました。そのように感じる人は大勢います。言いたいことは、私にとってはまったく初めての経験だったということです。人間性と共感のこのような畏怖すべき性質を発見するのも初めてなら、協力・共同体・探究心・好奇心よりも個人主義・競争・モノの獲得を推進する社会で育ったために、このような感情をいかにわずかしか表現することを許されてこなかったのかを理解することも初めてでした。私の探究心は非常に盛んになりました。大学院でも大学でも、真の意味で深く研究する
ようには訓練されていませんでした。
エイミー・グッドマン:ベトナム帰還兵のブライアン・ウィルソンさんをお迎えしています。その回顧録の書名は『血ぬられた轍-ブライアン・ウィルソンの人生とその時代』(仮訳)です。まもなくこの対話を再開します。
休憩
エイミー・グッドマン:(今お聴きになったのは)ブルース・スプリングスティーンの『USA生まれ』でした。実際、ブライアン・ウィルソンさんは1941年7月4日に生まれました。では、ベトナム帰還兵の平和主義者ブライアン・ウィルソンとのインタビューに戻りましょう。1987年9月1日に、彼は列車に轢かれて両脚を失いました。その時彼は、米国の対外政策に対する抗議の一環として米国の武器輸送列車を止めようとする非暴力行動に参加していました。私は、ブライアン・ウィルソンさんに、自身の体と心の回復について話を聞きました。最初にたずねたのは、その日、1987年9月1日に両脚を失ったことに気がついたのは入院してから何日後だったのかということでした。
ブライアン・ウィルソン:2週間ぐらい経ってからでした。病院では包帯でぐるぐる巻きになっていました。というのは、おびただしい数の傷があったので全身に包帯を巻かれていたのです。19箇所の骨折と腕と肩の全体に切り傷と擦り傷がありました。
エイミー・グッドマン:正確には列車はどんなふうにあなたを轢いたのですか?あなたは...
ブライアン・ウィルソン:私の体全体を轢きました。
エイミー・グッドマン:今はどんな具合だったかおわかりになるのですね。線路を横切るような姿勢だったのですか?
ブライアン・ウィルソン:私は上体を起こして座っていました。
エイミー・グッドマン:ええ。
ブライアン・ウィルソン: その場にいた友人に話を聞いて、何が起こったか教えてもらいました。私は押し倒されて列車の下敷きになってつぶされたのです。排障器とレールの間の空間に自分の体がどうやって納まったのか、わかりかねる-そんなことができるとは想像しがたいのですが。大きな体をしていますし。機関車の下でぬいぐるみの人形みたいに引きずり回されて、それでも列車は止まらなかったと聞きました。加速していたのです。人々が言うには、列車の前方にいた2名の監視員はただ頭を振っただけだったそうです。「いや、通行するとも」(というように)。だから、殺人未遂だった、というのが真相です。またそれが、裁判に備えて私たちが雇った模擬裁判用陪審員が下した結論でした。殺人未遂の意図的行為であったと。そこで、和解戦略を追求することになりました。故意だった場合には政府を訴えて勝訴することはできませんから。過失でないとだめです。
それから、2週間から2週間半ぐらいして、両脚のギブスを交換するつもりだと聞かされました。足には幻肢痛がありました。無くなった足が四六時中痛んでいたのです。それで、ギブスを切り裂いて新しいギブスを装着するまで本当には実感がなかったのですが、その時初めて切断された脚の残りを目にしました。しかと実感したのはその時でした。本当に両脚とも無くなったのだ、と。それでもまだ足の幻肢痛は残っていました。
エイミー・グッドマン:で、あなたの脚は-脚はどのあたりで切断されたのですか?
ライアン・ウィルソン:膝下5ー6インチのところで。
エイミー・グッドマン:両脚とも。
ブライアン・ウィルソン:両脚とも。残っている組織はきわめて健全なので、義足でまったく不都合なく歩けます。歩行できるようになるまで数ヶ月かかりました。脳の損傷が思考にどう影響するのかははっきりしませんでした。神経系の検査をたくさん受けました。そして覚えていますが、なんとまあ、韻や謎ときが下手になっていました。まあ、最悪の結果がそれだというなら、たぶん、まあ我慢できるな、と思ったのです。頭蓋骨にはプレートが挿入されています。
私の回復は非常に速く進みました。病院ではすばらしい看護を受けました。支えてくれるすばらしい友人もいました。そして私の友というのは-本の表紙の写真を見てもらえればわかりますが、それが私の出血を止めてくれた友人たちです。私が轢かれた2分後に海軍の救急車が到着しましたが「そいつは海軍の施設に横たわっていたわけじゃない」と言って救援を拒んだもので。そして海軍の連中は行ってしまいました。とんでもないことです。それから郡の救急車が来るまで17分かかかり、その分病院へ行くのが遅れました。
エイミー・グッドマン:その遅れについて説明してください。
ブライアン・ウィルソン:海軍の救急車が私の救援を拒否し、搬送も拒否したので、仲間は必死でほかの救急車を呼ぼうとしたのです。そして海軍の消防隊が来るには来て、少なくとも私の生存兆候(血圧や心拍)を記録する手助けはしました。ところで当時の私のパートナーは助産婦で、救急車を、別の救急車を待つ間に、彼女がただちに静脈注射をしてくれました。生きていられるのはまったく幸運です。そうだということはよくわかっています。一人も、私が知るかぎり一人も、加速している機関車に正面からはねられて生き延びている者はいません。その様子は五人の写真家と映像記録者によって記録されました。つまり、それ自体が本質的に驚愕すべきできごとなのです。そして24年経った今、私は自らの政治活動を続けています。
エイミー・グッドマン:当時だけでも現在だけでもなく、事故の後まもなく早々と旅に出ていましたね。
ブライアン・ウィルソン:そのとおりです。私は-そうですね、私が初めて外国へ旅をしたのは1988年3月のことで、二回目の手術の後でした。その時プレートが挿入されたのです。脳膜の縫合箇所がうまく治癒しているか確認してからプレートが挿入されました。ニカラグアに行ったのですが、まるで英雄扱いでした。空港で何千人ものニカラグア人に歓迎されました。オルテガ大統領がタラップを上ってきて、駐機場に向かって降りていく間、私の手を握っていました。そして私はオルテガ大統領のジープに乗り込みました。クリス・クリストファーソンが私に同行していました。彼はジープの後部座席に座っていました。それから群集の間を縫ってマナグアの街をゆっくりと進み、群集は「ブリアン!ブリアン!ブリアン!」と言いながら車の中まで手を伸ばし、私の腕に触ろうとしました。するとクリストファーソンがジープの後部座席から私の肩をたたいて、「この状況をどう受け止めてるの?」と言いました。
エイミー・グッドマン:「ブリアン」と言うのはどういう意味ですか?
ブライアン・ウィルソン:ブライアンのことです、スペイン語で。で、「わからないな。受け入れようとしているだけだ」と言いました。でもそれは、毎日自分たちの命を奪っている武器の流入を止めようとした誰かに感謝しているニカラグアの人々の姿だったのです。
エイミー・グッドマン:いくらかはその試みに成功したと感じていましたか?
ブライアン・ウィルソン:そうですね、たぶん、その問題への関心を高めたと思います。成功とか失敗とかについて明確な線引きができなくなりました。旅の途中のようなものです。私の著書のテーマの一つは、人生は目的地ではなく旅路なのだということです。ひたすら歩く-歩き続けるのです。もう一つのテーマは、人らしい生き方は寿命の長さに勝るということです。つまり、どれだけ長く生きられるかということは気にかけないで、その瞬間を精一杯生きることです。そして、ご存知のとおり、主要なテーマの一つは、アメリカ式生活様式、それも西洋文明におけるそれは、この星で最も危険な力であるということであり、人類がアーキタイプ[注]としてもっている共感と互いへの敬意の回復は、今日の人類、特に西側諸国にいる我々にかかっているということです。そしてそうなる可能性はかなり高く、まったくあり得ないこととは言えません。しかし、占拠運動はおそらく、これらのアーキタイプ-私に言わせれば太古からのアーキタイプ-が最後には姿を現すことを示す兆候です。なぜなら人々は抑圧が永遠に続くことには耐えられないから。
[注]アーキタイプ(元型):心理学者カール・ユングの用いた心理学用語で、人間の心の深層にあって遺伝的に伝わり、集合的無意識を作り上げている心と行動の基本的な型をいう。
ところで、9月1日以降のできごとは実際、私に数多くの扉を開けてくれました。世界中の人々が私に会いたがっています。私は中東を訪れ、パレスチナのキャンプで長時間過ごしました。少年らは私の切断された脚を撫でさすりながら夜通し話しかけてきたものです。それまでに脚を失ったパレスチナの人をたくさん知っているからです。そして全員が、ジャック・ロンドンが1907年に書いた”Iron
Heel”(『鉄の踵』)を読んでいました。私は読んでいなかったのですが。少年らは言ったものです。「ジャック・ロンドンの『鉄の踵』ってどう思う?」と言うのです。全員がこの本を読んでいました。物質至上主義にとりつかれた場合に西側の民主主義諸国で起こる可能性のあることについて予言をする本でした。この本はオーウェルの本に42年も先行しています。面白かったですよ、こういう経験は。自分が今や歓迎されていたのですから、疑問を投げかかられることもなしに。
エイミー・グッドマン:ブライアン・ウィルソンさん、占拠運動の拠点もいくつか訪問していますね。どこにいらっしゃいましたか?
ブライアン・ウィルソン:ポートランド。
エイミー・グッドマン:オレゴン州ポートランドですね。
ブライアン・ウィルソン:オレゴンです。10,000人が占拠行動の開始にあたって行進し、今では市役所前に約400人が野営しています。それも、今のところは市長や警察の賛同を得ています。それから、シカゴ、クリーヴランド、ボストン、マンチェスター、ニューハンプシャー、コンコード、ポートランド、メイン(に行きました)。2日前にニューヨーク市で列車を降りてから、私たち一行はまっすぐウォール街でのニューヨーク占拠行動に向かったのですが、それはなかなか凄い光景でした。私は実際、ビリー牧師に紹介してもらって群集に話をしました。それまではビリー牧師に会ったことがありませんでした。
エイミー・グッドマン:それで群集には何と言ったのですか?あなたのメッセージは?
ブライアン・ウィルソン:基本的には、それまでに立ち寄った7箇所の占拠行動の拠点からの祝福を伝えたいというメッセージと、そして、ごく簡単に、それらの場所で体験したことを話しました。それからまた、みんながニューヨークでの行動に鼓舞されてきたし、それが最初の行動でしたからね、私も元気をもらった、おそらく、これは垂直構造の体制への服従を置き換える水平的な革命の始まりなのだろう、そうして、長く続いた服従の歴史のパターンに大きな断絶をもたらすだろう、と語りました。私の本のもう一つのテーマは、ピラミッド型社会への服従は非常に不自然、不健康であり、また危険でもある、ということです。つまり、垂直的な国民国家のままでいるよりも、水平主義、すなわちアルゼンチンの人々や(メキシコの)サパティスタ国民解放軍が言うところの水平的な社会のほうが、未来への展望ははるかに明るいというのが私の見解です。
エイミー・グッドマン:スコット・オルセンというイラク帰還兵は、イラクで2期12回の任務を務めて帰還したのですが、警官からの発射物に撃たれました。
ブライアン・ウィルソン:頭部を。
エイミー・グッドマン:オークランドで。
ブライアン・ウィルソン:頭蓋骨を、オークランドで。
エイミー・グッドマン:今は入院しています。
ブライアン・ウィルソン:入院しているのですね。
エイミー・グッドマン:これを放送している今、彼は意識不明です。彼の友人の一人と話をしました。そしてこれらの占拠行動拠点を訪れてみると、湾岸戦争の帰還兵、イラク帰還兵、ベトナム帰還兵が大勢います。国中で帰還兵が参加していることについてはどう思われますか?ルイズヴィルでは、ある青年が私に「2008年から2010年までイラクで軍務に就くことで国に奉仕していましたが、今はここでルイズヴィル占拠運動に参加することで国に奉仕しています」と言いました。
ブライアン・ウィルソン:帰還兵の役割はきわめて重要だと思いますし、1970年にベトナムから帰還して反戦ベトナム帰還兵の会(VVAW)に入会してからずっとそう思ってきました。私たちのほとんどは政府の説明をおおかた信じて体制に対して相当従順な大人になり、それから、戦争についての数々の嘘を、わが国の起源についての数々の嘘さえをも発見しました。だから、私たちが思いきってわが社会の神話や仮説のすべてを問う人々の動きに合流するならば、それによってエネルギーは大きく高まり、本当に、平和運動の経験は豊かになります。
そして、一週間前のボストンでは、午前1時20分に警察が占拠行動の参加者を占拠された一角から排除するために出動し、平和をめざす帰還兵の会(VFP)がそのうわさを耳にして、メンバーが必ずその場に姿を現し、揃って占拠行動参加者の前に立ち、警察と直接対峙することにしました。すると警察は帰還兵らを打ちのめし、殴り倒しました。彼らは反撃しませんでした。つまり、殴り返さないことによって、暴力を振るっているのは占拠している市民ではなく州当局だ、ということを公衆の目に明らかにしたのです。このことを肝に銘じておくことは大変重要で、証拠からも警官の振舞いからも、暴力を誘発しているのは私たちではないということは、たびたび思い起こさせたいと思います。暴力を加えるのは警察の方なのです。そして遅かれ早かれ、たぶん、そのことがはるかに多くの人々の間での次のことの理解につながるでしょう-私たちは全員が、一部の者の利益を守る政府に包囲されている、この社会は保安用の門や壁で防御されたゲーティド・コミュニティであり、庶民を食いものにしているのであり、警官も99%の一人なのに、今までのところはこのゲーティド・コミュニティの住民一同を防衛しているのだ、という理解に。警官のほとんどは、ホワイトカラーの管理職を除いて、99%に属しています。クリーヴランドでは、少なくとも私がそこにいた間は、警察は占拠を応援していました。悲しいことに、昨日か一昨日に聞いたところによると、クリーヴランドの占拠やテントは排除されたそうです。わかりませんが、時に政治が先鋭化するときがあります。
でも、これは世界的な広がりをもつ運動で、基本的にはいわゆる耐乏生活への反応だと思うのですよね。人々はこんな状態をいつまでも耐え忍びはしません。自由と自治と解放への深い渇望があります。それが長期にわたって抑圧されることはあり得ます、特に私たちが国家のイデオロギーを受け入れる場合は。でも、ある時点で痛みを感じ始めるのです。そして痛みと逆境は、箱から飛び出して「今こそ仲間の人間たちに合流して、『こんなのはおかしい。もうたくさんだ』と声をあげなくては」と言わせるための大きな刺激となります。占拠運動の火はこの冬の間に消えるかもしれません。北部の気候が厳しくなると、どうなるかわかりません。しかし、本当に破壊されてしまう可能性があるとは思いません。というのは、この運動は、古くからアーキタイプ[注]として存在した共感・敬意・協同・平等、あるいは公正さへの感覚を掘り起こしているからです。そのような価値は私たちの遺伝情報に埋め込まれた太古から伝わるアーキタイプなのです。それらは存在しないと誤認させるイデオロギーがあり、それこそ、私がベトナムで発見したものです。私の中にあったイデオロギーは、地面に
倒れている人々を見て、彼らは私の家族だと理解したときに、5分ほどで消えてなくなりました。そしてそれは、私が書き換え不能な知識と呼ぶものでした。古いイデオロギーを再生する方法は-再生することは不可能でした。もう現実世界に当てはまらなかったのです。完全にくいちがっていました。実際、古いイデオロギーは私を非人間化していたのです。だから、今、私たちが人間として果たすべき任務は自らの人間性の回復だと思うのです。
[注]アーキタイプ(元型):心理学者カール・ユングの用いた心理学用語で、人間の心の深層にあって遺伝的に伝わり、集合的無意識を作り上げている心と行動の基本的な型をいう。
エイミー・グッドマン:ブライアン・ウィルソンさん、1987年9月1日に起こったできごとを悔やみますか?
ブライアン・ウィルソン:そうですね、両脚を失ったことは残念に思います。でも、その場に居たことは後悔していません。する、と宣言したことを実行したのです。海軍の兵員たち、彼らもベトナム帰還兵だったのですが、その兵員と海軍に雇用されていた三人の民間人は命令どおりに行動しました。そして、私はもう命令には従いません。命令への服従というのは、悟ったのですが、私の性に合いません。
エイミー・グッドマン:平和主義者、ベトナム帰還兵のブライアン・ウィルソンでした。その回顧録の書名は『血ぬられた轍-ブライアン・ウィルソンの人生とその時代』です。
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