核・原子力 「団結して子どもを守ろう!」 南相馬市の“ぬまゆ”さんが本当に訴えたいこと
「今日、ここにいる人たちで団結し、子どもたちを守りましょう!」“ぬまゆ”さんこと沼内恵美子さん(42歳)は1月28日(土)、南相馬市原町地区で開かれた野呂美加さん[*1](NPO法人チェルノブイリへのかけはし代表)のお話会終了後、そう呼びかけながら来場者ひとりひとりに名刺を配っていた。
ー ブログを始めた理由は、子どもたちを守りたかったから
“ぬまゆ”さんをご存じない方のために説明をしておくと、“ぬまゆ”こと沼内恵美子さんは南相馬市で塾を経営している先生だ。昨年8月からご自身で書き始めた「ぬまゆのブログ」の中で、脱毛、下痢、水疱、アゴ痛、歯が抜ける、血が止まりにくい、体がだるい……といった自らの身に起こっている原因不明の症状をつづったことがキッカケで、「被ばくの症状ではないか」と一部で憶測を呼び、インターネットで話題となった。
フリージャーナリストの岩上安身さんも、ぬまゆさんを取材されていたので、ご覧になった方も多いだろう。(http://the-news.jp/archives/8947)
しかし、こうした症状を発表したために、「風評被害を生む」「南相馬の復興の妨げになる」などと誹謗中傷されることも少なくなかったという。
それ以来、体調に関してばかりクローズアップされている彼女だが、じつはブログを書き始めた本当の理由は、健康被害を訴えたかったからではなく、「子どもたちを守りたかったから」なのだという。今回、“ぬまゆ”さんが南相馬市で開かれた野呂美加さんのお話会を訪れ、終了後に参加者に訴えかけた内容を以下にご紹介する。
ー学校は子どもを守ってくれない
私は、「ぬまゆのブログ」を書いております、沼内恵美子と申します。今日、野呂さんもお話されていましたが、今私に現れている症状は“ぶらぶら病” [*2]とそっくりです。
正直言って、今こうして2時間以上座ってお話を聞いていることも辛く、途中で退席しようかと何度も思ったほど体がだるいのです。でも、昨年の8月まではすごく元気だったのですよ。夏以降です、異変が起きたのは。水のような下痢、脱毛、手足にできた水疱、アゴの痛み、手のしびれなど原因不明の症状が現れ、虫歯でもない健康な歯が、根本からグンニャリととれてしまう、という不可解なことも起こりました。痛みを我慢できずに抜いてもらった歯も含めると、すでに8本も歯が抜けてしまっております。
頭髪も、驚くほど薄くなりました。ロングヘアーだったんですが、ハゲが目立つのがイヤで五分刈りにしたんです。今日はウィッグを着けていますが、とってみましょうか?(ぬまゆさんはウィッグをとって)ほら、ここお分かりになりますか。 ハゲているでしょう?
私はまだ42歳です。普通、こんなふうにはなりませんでしょう? ストレスじゃないかと言う方もいます。しかし、以前私は高校の教師をしていましたが、その頃に比べたら、震災後のストレスなんてゼロも同然ですよ。私はもともと体が丈夫で、ちょっとしたことで風邪なんかひかなかったし、歯も頑丈でした。私は、自分の身に起きている体調の異変を、すべて放射能のせいにするつもりはありません。おそらく原因の特定もできないでしょう。今は信頼できるホームドクターにかかっていますし、定期的に血液検査をするなどして経過を観察するしかないのです。私はあと80年生きるつもりですが、私が死んだあと、遺体の解剖をしたときに明らかになればいい。そう思っています。
みなさんは、「最近、疲れやすいな」と思うことはありませんか? 風邪かな、更年期かな、ストレスかな、と見過ごしがちですが、今私たちが浴びている放射能の線量は、野呂さんがおっしゃったように「チェルノブイリでは廃村」になったレベルの放射能なんです。大人はまだいい。でも放射能の影響を受けやすい子どもたちは、あらゆるリスクから守らねばなりません。そのためには保護者が声をあげないといけないんです。
私は18年間、高校の教師をしておりました。なぜ辞めたかというと、学校にいると本気で子どもを守れないと思ったからです。学校にいる限り、上の命令通りに動かなければなりません。ちょっとでも反論すると、私のように学校からはじき出されてしまいますから。縦割り社会の弊害です。現に今だって、自分の子どもは県外に逃がしている先生が多いけど、生徒たちには放射能の危険性を訴えることもできないわけでしょう。辛いですよね。
残念ながら、私が18年間見てきた学校の現実はそうでした。だから私は、3年前に学校を辞めて、自分で塾を開くことにしたんです。それなら、誰に文句を言われることもなく、存分に子どもに愛情を注げますから。私はこの場をかりて、保護者の方に申し上げたいのです。「声をあげて、子どもを守ってください」と。残念ですが、学校にだけ任せていたのでは、子どもを守りきれませんよ。
例えば、学校給食ひとつとってもそうです。みなさん、福島の学校給食に、どんな食材が使われているかご存じですか? 私のブログに、福島のある学校で給食部長を務める方が書き込みをしてくれました。「ろくに測定もしていない福島の食材が、学校給食で使われています」と――。こんな現実があっていいのでしょうか? 子どもたちの内部被ばくを防ぐためには、せめて学校給食だけでも、遠方から取り寄せた野菜を使ってもらいたい。いくら家庭で親が気を配っていても、学校がこのようなことをしていたら元も子もありません。だから、どうかお母さん、お父さん、「学校のやっていることは正しい」と、うのみにしないでください。学校で一番力を持っているのは、保護者のみなさんですよ。先生でも校長でもありません。おかしな先生がいたら罷免することもできるんです。
だから今、私たちが団結して、子どもたちを守りましょう。声をあげましょう。やってできないことはありません。福島県内の学校では、牛乳を飲むことを拒否した子どもが、教員から「おまえは福島県民じゃない」と言われたという話も聞こえてきます。こんなことを容認してはいけません。
ー経済第一、命は後回し
“ぬまゆ”さんがこう呼びかけたことで、最後まで会場に残っていた参加者約15名も、それぞれ重い口を開き始めた。
「小学生の孫が心配」と話すある女性は、「一刻も早く福島を離れたい」という実の娘と、「経済的に困窮するより福島に残ったほうがいい」という娘婿の間で板挟みとなり、悩み続けていることを吐露してくれた。また、「小学生の娘がいる」という母親は、「給食で出る牛乳は本当に飲ませても大丈夫なのか」「ホールボディカウンターで計測してほしいが、市から台数が足りないと言われてまだ計測できていない」といった心配ごとを、せきを切ったように話してくれた。じつは南相馬市をはじめ福島県下では、放射能に対する不安があっても、声を出せない雰囲気があるのだ。だから参加者のみなさんは、抱えていた思いをやっとこの場で話せたのだろう。
今回、お話会のコーディネートをした南相馬市在住の佐藤晃一さんは、お話会の開催にあたり「公共の施設を借りようと思ったが、どこも貸してくれなかった」と話す。
なぜなら南相馬市は、避難した人たちを戻すことに必死で、帰還の妨げになるような講演会には場所を貸してくれないからだ。そのため今回は、佐藤さんが経営する託児所が会場となった。「妨害が入るかもしれない」とのことで、開催場所は一切公開せず、申し込みのあった人にのみ会場を教えるという警戒ぶり。「経済第一で人命は後回し。町全体がそんな雰囲気なので、みんな不安があっても口をつぐんでいます」と、佐藤さんは語った。
また、参加者のひとりで、市民団体「安心安全プロジェクト」の代表を務める吉田邦博さんは、次のように吐き捨てた。「南相馬で避難・保養を訴え続けているのはうちの団体くらいですよ。他はすべて除染・復興モード一色。僕らのほうが間違っているのかと思って、気持ちが暗くなります」
ー 声を上げて権利を勝ち取る覚悟を
こんなふうに話す参加者に対して、野呂さんは最後にこう訴えかけた。「みなさんはその不安や不満を市町村にぶつけていいんですよ。いろいろ文句を言ってくる人がいるだろうけど、そんな人はほうっておけばいい。チェルノブイリだって、最初の一年間は除染をしていましたが、数値は下がらないし除染に動員された市民たちが次々と亡くなったので、除染してもムダだということになった。それですぐやめたんです。それよりも、移住の権利をきっちり獲得し、移住しない人は定期的にホールボディカウンターの測定を受けて、数値が高ければ保養に出してもらわないといけない。そういったことを、みなさん自身が市町村と交渉し、権利を勝ち取っていかなくちゃならないんですよ」
“ぬまゆ”さんは野呂さんからのメッセージを聞き、「ここ南相馬から声をあげていきたい」と感想を述べた。さらに“ぬまゆ”さんは、福島に住む子どもたちの複雑な胸のうちも、次のように代弁してくれた。
「私の塾には、いまだ子どもたちが10人も通っています。できれば早く避難してほしい。でも非常に難しい状態です。うちの塾に通っている中高校生たちは、『結婚しても子どもは産まない』とか、『福島県人以外とは結婚できない』と言っています。福島から出るのが怖い、出たくない、とも……。人間不信になっているんでしょうね。どこか人生を諦めてしまったようなところがあるんです」
“ぬまゆ”さんの塾に通う、あるひとりの中学生は、いったん他県に転校したそうだが、数ヶ月で福島に戻ってきたのだという。その理由は、「福島の人は可哀想」という同情的な目で見られることに耐えられなかったからだ。「決していじめられたわけではないんです。とても良くしてもらったと本人も言っていました。でも多感な年頃ですから、特別な目で見られることがイヤなんでしょう。彼らが福島を出るまでには、とても高いハードルがあるように思えます」と“ぬまゆ”さんは話す。
こうした閉塞的な状況を打破するには、福島の方自らが声をあげることはもちろん、他県の人たちも“他人事”ではなく“自分事”として考えていく必要があるだろう。こうしたお話会の取り組みが、両者の間をつなぐ第一歩になることを願わずにはいられない。
[*1]野呂美加さん……NPO法人チェルノブイリへのかけはし代表。1992年より、チェルノブイリ原発事故で健康被害を受けた子どもたちを日本に受け入れ、“転地療養”を行ってきた。3.11以降は、これまでの経験をもとに全国各地を講演にまわり、放射能の影響を心配する母親たちにレクチャーを行っている。
[*2]ぶらぶら病……原爆で内部被ばくした被害者に現れた症状。体がだるい、集中力が続かず仕事ができないなどの状態になり、日常生活を送るのにも苦労した。血液検査などに以上は現れず、周囲からは怠け者扱いされた。(日刊ベリタより)
【福島・東西しらかわ農協の挑戦】(上) 7000か所で土壌の放射線測定、20ベクレル以上のコメは出荷停止した
メディアでも報道されず、都市に住むほとんどの人に知られていないが、原発事故と放射能禍の只中で、地域に住むさまざまの人たち、諸組織がそれぞれの場で生きるための懸命の努力を続けている。そのひとつの事例をJA農協にみた。福島県中通りの南に位置する東西しらかわ農協。組合員約7000人、コメ17億円、野菜16億円、畜産5億円を売り上げていた同農協は独自検査をもとに独自の基準を設け、1キロ当たり20ベクレルを超えたコメは出荷していない。そして今、春の作付けに向け、管内7000か所の田畑の土壌の放射線量を計るマップ作りに取り組んでいる。同農協の鈴木昭雄組合長にインタビューした。(聞き手:大野和興)
ー放射能は人災なのです
同じ震災を受けても、福島が宮城や岩手と違うのは、放射能被害です。放射能は怖いものである。そうは言っても、私たち福島の者には、受け入れざるをえない状況にあります。私どもは、ここから逃げるわけにはいきません。どうしたら頭の上の黒い雲を払しょくできるのかということに努力しなければならない。原発事故後しばらくの間の状況を申しますと、4月頃には、「市場に持ってきてくれるな」と言われました。持ってきても全部廃棄するよ、価格は1円だよ、という状況でした。
福島県の人びとは、何をしたというのでしょうか。放射能は、人災以外の何ものでもありません。生産者のプライドを守るために売らなくてはいけません。売るためには、消費者に分かってもらわなくてはなりません。「何でこんなことになっちまったんだ」と、毎日毎日悩んでいます。安全安心、有機栽培、自然栽培を続けてきたのですが、すべてが福島という名前の前には通用しなくてなってしまいました。
ー自主基準で20ベクレル超えは出荷停止した
そんな状況を跳ね返そうと、福島の農協は出来る限りのことをやってきました。その上で2012年の作付けに向け、私どもの農協の管内では田畑7000か所で自前の土壌検査などにも取り組みます。みなさまの一番関心の高い食の安全への取り組みから報告させていただきます。 コメについていいますと、県が旧市町村単位に二カ所ずつ調査しました。私ども東西しらかわ農協管内では四、五十になりますか。それでは不十分だということで、私どもでは三〇〇ヶ所ほど計りました。いずれもND(検出せず)となり、出荷できるということで進めてきました。計測機器は農協でかなり高性能なものを思い切って購入しました。自然界にある放射性カリウム40を分離できるもので、15分かけて20ベクレルまで計れます。
農協が出荷するものはその範囲までで、20ベクレルを越えて放射能が計測されたものは出荷していません。といっても、農家には生活がありますから、コメ代金は農協が立て替えて農家に払っています。これに加えて、出庫するトラック単位でも計っています。一台のトラックに二品種とか三品種とか積む場合もありますから、その場合は三個体ということで検査します。
ー 春耕に向け管内7000か所で土壌検査
土壌については、この春の作付け向け、管内7000ヶ所の水田、畑で、土壌中の放射線検査をやります。管内には水田が約5000ヘクタール、畑が2000ヘクタールありますから、一ヘクタールに一ヶ所ということになります。測定方法やサンプルの取り方などに関しては東京農業大学の指導を得ながら土壌汚染マップをつくろうという取り組みです。雪が降ったり、土壌が凍結したりという問題はありますが、ぜひ次の作付けには間に合わせたいと考えているところです。
ほとんどは基準値以下だとは思いますが、生産者の不安は出来るだけ取り除かなければなりません。現に農協に「うちを是非計ってほしい」という声がたくさん寄せられています。これまでの行政の取り組みは、対症療法というか、汚染された場所に駆けつけて処理するということできています。私どもは体質からというか、面的に根本的なところからやっていかなければいけないと思っているのです。(続く)(筆者は農業ジャーナリスト「ベリタ」編集長)
危険運転致死傷罪適用–検察はあきらめないで
実は飲酒も嫌いではなく、自分に甘いことでは人後に落ちないと家族に指摘されそうな私だが、飲酒運転だけはするまい、そしてまわりの人間にもさせまいと心に決めている。
飲酒運転については、お酒を飲まない側の幼い子供たちが何人も犠牲になるなど、悲しい事件がぱっと思い出せるだけでもいくつも発生した。書き始めるときりがないほどだ。そのご遺族たちの悲痛な努力に共鳴した多くの人たちの力によって法改正が実現し、過失ではなく故意犯としての危険運転致死傷罪の新設(2001年)、そして過失犯の場合でも、従来の業務上過失致死傷から切り離しての自動車運転過失致死傷罪の新設(2007年)と、刑法上厳罰化の道をたどっている(厳罰化と言うのも、従来が諸外国の例を見ても軽すぎたようなのだから適正化と言うべきだが)。
2007年の道交法改正では、運転手本人に限らず、運転すると知りながら酒を提供した側、飲酒していると知りながら車を提供した側、そして飲酒運転の同乗者にも罰則が設けられた。だから、ぜひ本人だけでなく周囲も誰かが飲酒運転をしようとしたら止めてもらいたいものだが、残念ながら年末年始になると飲酒運転がらみの悲劇を毎年のように耳にする。
今年の元旦、埼玉県東松山市で初詣に出かけた親子3人が歩道にいたところ、飲酒運転の車が突っ込み、父と息子が亡くなり、母が軽傷を負ったという報道が新年早々にあった。新しい年に臨み、家族仲良く心新たに神仏の加護を祈りに行ったはず・・・と思うと、心が痛む。
東松山といえば、2008年2月に熊谷市で起きた9人死傷事故の被害者のご家族が現在お住まいの場所であり、このご家族は飲酒運転撲滅のために様々な活動をしてきていただけに、地元でのこの悲劇には悔しさを感じたそうだ。現場に足を運んで祈りを捧げ、現場写真もご自身のブログに掲載していた。
この件に関して情報を集めていたこのご家族によると、あくまで「過失犯」としての自動車運転過失致死傷容疑と道交法違反(酒酔い運転)での立件に止まりそうだとの見方が強かったそうだが、その後の捜査によって「運転する前から酒に酔っており正常に運転できない状態だった」との判断がなされ、さいたま地検は20日、「故意犯」としての危険運転致死傷容疑に罪名を切りかえて廃品回収業者を起訴した。
埼玉県警とさいたま地検は、このご家族の巻き込まれた熊谷9人死傷事故でも運転手を危険運転致死傷罪で立件し、16年の実刑を勝ち取って確定させているだけでなく、同乗者についても危険運転致死傷罪の幇助犯として立件し、全国初の裁判員裁判の結果、実刑2年を勝ち取った実績があるのだから(高裁でも判決は維持され、現在被告人は上告中)、ここで危険運転の適用をあきらめるはずがない・・・と密かに期待していた。ひとまず危険運転として裁判の入口には立てたということなので、今後は法廷での審理の行方を見守りたい。
もう1件、年末には痛ましい事故があった。兵庫県加西市で、皆既月食の観測に出かけ帰宅しようとしていた小学生の兄弟が、ちょっと母親が車のキーを取りに戻ったすきに飲酒運転の軽トラックにはねられてしまい、死亡したというものだ。兵庫県警は自動車運転過失致死傷容疑で運転手を現行犯逮捕したが、危険運転致死容疑で追送検するところまで持っていった。
それなのに、神戸地検は危険運転ではなく、自動車運転過失致死と道交法違反(酒気帯び)にとどめて起訴したとの報道があり、私は大いにがっかりした。
兵庫県警は10日ほど前には、運転手の建築業者に酒類を提供した飲食店経営者とスナック経営者を道交法違反(酒類提供)の疑いで書類送検もしている。危険運転致死傷罪については、構成要件にある「正常の運転が困難な状態」の立証が簡単なことではないのだとは聞くが、このように警察はやる気があって立件してきているものを、裁判所の判断を仰ぐ前に検察がひとりあきらめてしまっては、何のための法改正だったのだろうと思う。
現在は裁判員制度も導入されている。危険運転致死傷罪は裁判員裁判の対象になる。元々は遺族という市民の要望でできた法律だからこそ、検察が自己規制などせず、裁判で市民の考えを反映させた判例を積み上げて、法律として成熟させていくべきなのではないかと思う。
この運転手の呼気からは、基準値を大幅に超えるアルコールが検出されたという。当然のことかと思うが、この兄弟のご両親は「過失で息子たちが殺されたとは思えない」と考え、神戸地検に対し危険運転致死罪に訴因変更するよう求めるため、署名活動を21日から始めたそうだ。多くの方が署名に賛同くださることを祈るばかりだ。
* * *
署名活動と言えば、昨年4月に栃木県鹿沼市の登校中の児童6人がクレーン車にはねられ死亡した件のご遺族も、署名活動を始めている(http://kirinsan.blog.ocn.ne.jp カテゴリー【全国署名のお願い】【署名用紙】内)。12月の宇都宮地裁判決では、被告人のクレーン運転手に自動車運転過失致死罪の最高刑である懲役7年が言い渡されている。
だが、本来、持病のてんかんを隠して免許を取得し、医師の指示にも従わずに運転を続けた挙句、前夜に薬も飲まずに事件直前に発作の予兆を感じていたという被告人は、「過失」である自動車運転過失致死罪ではなく、「故意犯」である危険運転致死罪で裁かれるべきなのではなかったのか・・・との疑問は、私も感じたし、法曹関係者を含めて多くの人たちが歯噛みしたところだったと聞いた。 しかし、残念ながら危険運転致死傷罪の4つの構成要件の中には、飲酒や薬物の影響下にある場合は含まれているが、飲むべき薬物を飲まずに・・・とは書かれていない。だから、その点を法改正してほしいと幼いわが子を失ったご遺族が考えるのも当然のことだろう。
ここで、思い出したのだが、この構成要件の中に無免許運転が含まれていたら、どうだったろう。
このクレーン車の運転手は、持病を隠して免許を取得し、それ以降、12件の事故を起こし、このうち少なくとも3件はてんかんの発作が原因だと認識していたそうで、「本来許されない運転行為」だと判決で認定されている。つまり、ありのままの病状を申告していたとしたら、運転の適性がないとして免許は与えられなかった・・・つまり無免許と同等だったのではないか。
そうすると、もし、構成要件の中に無免許運転が含まれていたとしたら、危険運転致死罪を適用する道も開けたかもしれない。
確か、この危険運転致死傷罪が新設される2001年の刑法改正時に、署名活動を展開した遺族たちの要望の中には、無免許運転が含まれていた。確認したところ、参議院法務委員会の参考人として、東名事故で2児を失った遺族が「無免許自体が危険運転に直結しないとはそうかもしれないが、心の問題。車のハンドルをその時点で握ってはいけない」と指摘し、「今後もぜひ、無免許運転、無免許で危険運転を犯し、人を死傷させてしまった人にもこの罪が適用できるようにご検討いただけたら」と述べていた。
悲しいことに・・・先見の明があったのは立法府ではなく、遺族の方だったということか。(ブログ「ネコといっしょに七転び八起き」より)
モンサンミッシェルのプラーおばさんのオムレツの秘密
注:「モンサンミシェル」とは、フランス西海岸、サン・マロ湾上に浮かぶ小島に築かれた修道院。カトリックの巡礼地のひとつであり「西洋の驚異」と称され、1979年「モンサンミシェルとその湾」としてユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録され、1994年10月にはラムサール条約登録地となった。サン・マロ湾はノルマンディー地方南部・ブルターニュとの境に近い位置にある。
***
この地方の産業に鍋やフライパン作りがある。銅の赤鍋がやたら吊るしてあった。どうもここになにか秘密があるようだ。
現代の一流といわれるシェフのいるレストランの厨房を覗くと、たしかに鍋はこの銅鍋を使用していることが多い。私の想像だが、シードルを入れて泡の立った卵を急激に閉じ込める方法は、熱伝導が良い銅のフライパンが最適だということになる。しかしそれだけではない。鉄のフライパンの場合だと油を流すと鉄独特の匂いが出てこれがタンパク質のオムレツに簡単に移ってまずくなる。が、銅の場合だと匂いを移さない。
ユネスコの世界遺産目録の恩恵はいうまでもないことだが、このあたりの組み合わせに田舎の旅籠料理が世界的に有名になった、秘密ではない秘密のしかけがあったのではないか。
モンサンミッシェルのプラーおばさんのオムレツの製法は、企業秘密というと大げさだが一応秘密なので、何をどのようにして作るのかわからない。しかし、味は全部同じだとは思えない。その時々で変わるようだし、その意味では秘密は守られてないのではないかと思ったりはする。
したがって、食べてみて、他のオムレツと相当の隔たりがあるとは思えない。それは鶏を食べるのと卵で作ったオムレツを食べるのとの違いほどはないということだ。ではどこに違いの秘密があるのか考えてみた。
推測できるのは、卵焼きの中身の泡をどう作るかに、この店のコツがあるようだ。材料はフランス一般に使用されている無塩バターではなくて、ブルターニュ特産の塩入りバター、卵、ひょっとしてビールのかわりにシードル(リンゴのサイダー)が入っているのかもしれない。シードルはドービルなどのカルバドス地方も近いし特産物でもある。リンゴの糖分が二酸化炭素とアルコールに分解したもので瓶の底にはわずかにオリが残るのはブドウ酒の場合とおなじだ。あの発泡性のオムレツの中身はこれが秘密だと思える。
プラーの名物オムレツ作りの実演は、店先から見れる。泡立て器を手にして何度もかき回しているが、それにコツがあるとは思えない。人によって器具の回転のさせかた、速度、丁寧さなどに異なりが見られる。むしろ写真の右にある赤がねのボールに謎があるようだ。バターはみんな同じだと一流のコックさんでも思っているようだが、この地方で夏の間だけとれるバターは、ドービルで一度だけ食べたことがあるがうまかった。市販されているものでは桶に入ったエシキエーのものを思い出してほしい。いずれにしても、ここブルターニュはバターの国である。(ブログ「フラネットーパリ通信」より。)
十年ぶりのピョンヤン(1) パラソルと携帯
ほぼ十年ぶりのピョンヤンだった。1990年代末から2000年代初め、相次ぐ天災やら経済の停滞やらで、北朝鮮の困難が続いていたとき、3度連続して訪れ、以来十年が過ぎた。8月末のピョンヤン。ショーウインドーの町をちょっと見たくらいで、この国の現実が分かるわけはないのだが、街の通りを見て、やはり十年がたっているのだな、という印象を受けた。
夏だということもあるのだとは思うが、通りに色彩があった。十年前は、モノトーンで男も女も若い人も年寄りも、みんな早足で黙々と通り過ぎていた。いま、通りの女性の見た感じ8割方は色とりどりのパラソルをさし、その色に合わせるように来ているものもそれなりに色彩豊かなのだ。色の豊かさと歩調は反比例して、足取りもどことなくゆったりしていた。
携帯電話の普及ぶりにはびっくりした。ホテルのロビーでぼんやり座っていると、携帯を耳に当てて何事かを話しながら足早に過ぎていく男性、片隅で携帯に話しかけている女性、などなどが目についた。数えてみると、5人に3人は携帯を使っている。外国人は空港で携帯は預けさせられるから、みんなこの国の人とみてよい。(日刊ベリタより)
アーカイブ:トルコ、表現の自由の行方 -スカーフ着用をめぐる政治対立の深層 (下)
(日刊ベリタに2007年7月12日掲載された記事の転載です。日時、役職などは当時のものであることをご了解ください。)
トルコでは国民の99%がイスラム教徒であるにもかかわらず、政府機関や大学でイスラム教のスカーフ着用が許されていないため、この問題が大統領選をめぐる世俗派と親イスラム勢力の対立の象徴にまで位置づけられている。それはなぜなのか。どのような解決策がのぞましいのか。著書『トルコのベール問題─公的世俗主義と大衆のイスラム主義』(1998年)などで、フェミニズムの観点から政治の流れとスカーフ着用の意味を追ってきた、中東工科大学のエリザベス・オズダルグ社会学教授にひきつづき聞いた。(アンカラにて)
ーー大学では着用の自由を認めるべき
―トルコの世俗主義は行過ぎていると思うか?
教授: それがまさに私が本の中に書いたことだ。現在、イスラム系政府であることもあって、世俗主義グループの組織化に熱心な人々もいる。例えば、先日、(トルコの首都)アンカラで集会があり、イスラム系グループに対する反対の声をあげた人々がいる。現在の首相が大統領候補になることを希望していたため、軍部をはじめとする世俗主義からの反発が大きなデモ行為に発展した。エルドアン首相の妻はどこに行くのでもスカーフをかぶる。デモは、大統領に立候補するな、すれば問題が起きることを警告していた。
大統領は国家の最高の職であり、国家と一体だ。国家の維持、国家の価値観の維持がこうしたグループにとっては非常に重要となる。非常に保守的なグループだ。
―しかし、近代的な、政教分離社会では、スカーフをかぶろうがかぶるまいが、自由なはずだ。
教授:そうなるべきだ。イランでは着用が義務だ。世俗主義者たちは、もしスカーフ着用を許せば、トルコ全体がそうなってしまうと懸念する。このグループは支持者を増やしている。
少なくとも大学では着用が自由になるべきだ。そうすれば、もっと自由にこの議題に関して議論ができる。スカーフ着用は必要ないと思うイスラム教徒もたくさんいる。現状では自由な議論ができない。
―小中学校では宗教の授業はあるのだろうか?
教授:ある。道徳教育と宗教研究と呼ばれている。しかし、学校で教えられている宗教は、本当に宗教的な人からすると、物足りない。表面的だからだ。宗教教育はいらないと考える人もいる。宗教は任意で選ぶ科目であるほうがいいと思う。
―言論の自由を奪う法律として、301条が国内外でずいぶんと話題になっている。この法律の違反で有罪となったアルメニア系ジャーナリスト、フラント・ディンク氏が、1月末、世俗主義者の青年に殺害された事件は未だ人々の記憶に新しい。トルコの言論の自由をどう評価するか?
教授:言論の自由はもちろんある。しかし、トルコ人らしさを規定する301条は、自分が進めたい特定の議題を持つ人々、特に軍部や民族主義者たちに利用される可能性がある。こうした人々は、ゆるく設定されている301条を使って、(ノーベル賞文学賞の)オルハン・パムク氏やその他の作家など、トルコでは大きな論争を呼ぶクルド人への抑圧やアルメニア人の虐殺問題を自由に話す人々を攻撃するために使っている。
トルコ人らしさの定義は難しい。検察や判事がこの法律をどのように解釈するかによる。いかようにも解釈できる。民主主義を嫌う人、トルコが自由になって欲しくない人、EUに加盟して欲しくないと思っている人が、それぞれの政治的目的を果たすために使う。
ーーなぜ首相の妻は着用を止めないのか
―エルドアン現首相はどのような人物か。
教授:イスラム系政党AKPの党首でもあるが、党のイデオロギーはリベラルではない。伝統を重んじる、保守政党と言っていいだろう。結党は2002年だった。
イスラム系政党の政治家たちは、EUへの加盟が自分たちへの自由を保証するものと見ている。自由な社会、といっても宗教の面から自由な社会を目指す。 トルコのイスラム系運動は常にEU加盟には反対だったがエルドアン氏とその支持者はEUへの加盟を達成しようとした。加盟のためには、リベラルにならざるを得なかった。経済の自由化など様々改革を進めた。
―(2007年)5月の大統領選を巡り、トルコは大きな政治危機の状態に入った。何故100万人規模のデモが多発したのか?
教授:きっかけはエルドアン首相が大統領候補となることを希望していたからだった。大統領職はトルコでは非常に、非常にセンシティブな問題だ。大統領は世俗主義そのものだ。エルドアン氏の妻はどこに行くのでもムスリムとしてのスカーフをかぶる。これが大きな問題だった。トルコでは公式行事に政治家が出席するとき、妻も出席する。妻がスカーフをかぶるようでは、招待されない。与党は副首相を大統領候補に出したが、これもうまくいかず、11月の総選挙が今月末に前倒しとなった。与党側はこれで心機一転を狙っている。
―今月末の総選挙はどうなるか。
教授:代わりになりそうな政党がないので、現在の与党が政権をまた握るだろう。
―首相の妻はスカーフをかぶることを止めないのだろうか?
教授:止めないと思う。個人の非常に深い問題だからだ。比較できるものが他にないかもしれない。ムスリムとしてのスカーフは自分のアイデンティティーの一部だ。政治目的で脱ぐわけにはいかない。
女学生の中にはスカーフをかぶることを許されないというので、欧州人権裁判所に訴えた人もいる。支持は得られなかった。欧州の裁判所は、トルコの憲法裁判所が訴えを却下した点に何の問題も見られない、とする判断を下したからだ。
―裁判に負けたということか。
教授:そうだ。女性たちは大きな望みをかけていたのだが。欧州を見ると、イスラム嫌いが強い。この問題に関してはリベラリズムを期待することはできないのだろう。
私が見たところでは、欧州裁判所がトルコでスカーフをかぶらないということは高等教育を受ける権利を否定された状態であることを、本当に分かっていたのかどうか、疑問だ。私立の大学でもしスカーフ着用が自由なら、そこに行く可能性もあった。しかし、トルコでは私立でも国立でもスカーフ着用を許す大学はないのだから。
大学でのスカーフ着用をまず許可するべきだと思う。大学とは様々な概念を自由に議論をする場所なのだから。公的機関で働く場合に一定の規制があるのは理解できるが、大学でダメといえば、女性が高等教育を受ける権利を否定することになる。多くの人がこの問題に怒りを感じている。
フェミニスト運動の面からすれば、女性が大学に行き、専門職に就くことを望むのか、家庭に入ることを望むのか。欧州のフェミニストたちはトルコのスカーフ問題にもっと目を向けてもいいのではないか。 頭が良く、インテリジェントな女性たちは、宗教的であるという点以外は他の女性と同じなのだ。
ただし、全身をおおい、目だけが見える(イスラム教徒女性が身に着ける)ニカブについては、私は許容しない。公的場所では互いの顔が見えるようにするべきだ。(終)
アーカイブ:トルコ、表現の自由の行方 ー西欧化と国家の統一性維持のジレンマ
(2007年4月5日、日刊ベリタのウェブサイトに掲載された記事の再掲載です。数字などは当時のものであることをご了解ください。)
2007年、3月25日、欧州連合(EU)は欧州統合の基礎を作ったローマ条約調印から50周年を迎えた。加盟国は当初の6カ国から27カ国にまで増え、加盟希望国は増えるばかり。80数年前から西欧をモデルとして近代化を進めてきたトルコも加盟を望む国の1つだが、少数民族への文化的抑圧や「トルコ人らしさ」で作家たちを縛る刑法301条など、欧州諸国と比較すると、不自由感がつきまとう。首都アンカラで、近代国家建国までの歴史をたどってみると、何故表現の自由に逆行する動きを捨てきれないのかが見えてくる。(アンカラにて)
ーここは西欧ではない
トルコの首都アンカラの空港前には、バス数台とタクシーの列が並ぶだけで、人口7000万近くを抱える国の首都にしては、ひっそりとした印象があった。側にある高速道路を車がひっきりなしに行き来する音が響く。タクシーの運転手たちは車の外に群がり、たばこをふかしたり、互いに話したりしており、こちらに近づいてくる様子はなかった。
スーツケースを引きずって運転手の一人にホテルの住所を見せると、輪の中から若者が出てきて、一台のタクシーに誘った。近場で見ると、どのタクシーもかなり古い様子で、車体の塗料がはげていたり、さびついた箇所が見えた。
中に入って座席に腰を下ろし、内装から見ても20年は経っている車だなあと観察していると、走って数分もしないうちに、運転手の若者がクラッチを思うように動かせないのか、苦闘している様子が見えた。「ホテルまでこの車は持つかだろうか?」と、不安が心をよぎった。
車が大きな交差点まで来た。左右からの車の流れがとめどない。突然、軽いパン!という音がして、車が停止した。運転手が車から降り、後ろに回って点検していたが、どうやらパンクしたようだった。「降りてほしい、ここまでだ」という手振りをする。自分も後ろに回ってみると、後輪のタイヤの一つが外れていた。「ホテルは?」と聞き、指び差す方向を見ると、看板が遠くに見えた。タクシーのメーターの数字を見て札を渡すと、釣りが返ってこない。「釣りが欲しい」と言うと、英語は理解できない、という顔をされたが、繰り返しているうちに、あきらめたように硬貨をこちらにほうった。受け止めた途端、運転席のドアが、ガタンとはずれた。ポンコツ同然の車だった。
スーツケースを引きずりながらホテルに着くと、昨晩電話で済ませたはずの予約が入っていなかった。どうやら、電話では「はい、はい」と答えていた人物が、実は英語を十分に分かっていなかったようだった。空いている部屋を見つけるために頭を悩ませる数人のホテルの従業員の中で英語を比較的流暢に話せるのは一人だけ。欧州の数カ国に出かけた際には、ホテルなどの観光業に勤務する人ばかりか、通行人の誰に声をかけても、英語を話せる人がほとんどだった。このホテルは三ツ星だったが、ここは西欧ではないことをしみじみと実感した。
外に出てアンカラの通りを歩いていると、建物に大きな垂れ幕がかかっているのによく出くわす。垂れ幕には黒い燕尾服を来た、ハンサムな、しかし眼光の鋭い男性が描かれている。あまりにも垂れ幕が大きく、そこに描かれているイメージも大きいので、その度、目を奪われた。
この男性が、近代トルコ建国の父と言われる、ケマル・アタテュルク(1881年―1938年)だった。
ーオスマン帝国からトルコ共和国へ
アンカラにはアタテュルクの巨大な霊廟がある。国内で産出した石材のみを用いて作ったと言われる壮大な霊廟に到達するには、長い一本道を歩く。霊廟は様々な政府の式典の開催場所としてもよく使われ、私が訪れた日は、家族連れや学校の授業の一環として連れてこられた子供たちで一杯だった。
墓の他にはアタテュルクが生前使用していた車、愛用の小物類、書籍などが展示あるいは販売されており、生涯をつづった映画を上映するための施設や共和国建国までの歴史にまつわる資料を年代ごとに並べた博物館が併設されている。
使用していた櫛などの身の回りの装飾品、スーツなどがガラスの箱に入っている様子を他の参列者とともに見ていると、アタテュルクがいわば人気スターのような、非常に愛着を持たれた存在として国民が見ている、あるいはそのようなアタテュルク像を提示したいことが伝わってきた。
巨大な霊廟と博物館を見学しながら、私は近代トルコの誕生までを振り返ってみた。
現在の中東と呼ばれる地域、バルカン半島近辺、東欧や北アフリカの一部を含む広大な領域を一時支配下に置いたのが、現在のトルコの前身オスマン帝国だ(1301年―1922年)。
その没落がいつ始まったかに関しては諸説があるが、後に「欧州の病人」と呼ばれるようになったきっかけの1つは、17世紀末、現在のウイーンを征服しようとして失敗したこと(第2次ウイーン包囲)だったと言われる。ここでオスマン帝国は史上初めて領土の削減を経験し、東欧の覇権はハプスブルク家のオーストリアに奪われた。
オスマン帝国拡大の要因はスルタンをトップに置いた中央集権制度と強い軍隊だったが、17世紀、18世紀を通じて強力なスルタンが登場せず、その支配力は弱まり、中央集権制度も効率性を減じていったと言われる。スルタンは行政を他人任せにするようになり、人々の声にもあまり耳を傾けなくなった。同時に、インドや極東からの廉価な物資の到来、オスマン帝国を通らない貿易路の繁栄、失業率の増大などから経済も困窮を極めるようになった。一方の欧州では、英国を始めとした産業革命が起きていた。
19世紀までにエジプト、バルカンの諸民族などの独立が相次ぎ、帝国はロシア、英国、フランスなどの列強の勢力拡大に悩まされるようになる。スルタンは軍の西欧化、中央政府の近代化、留学生の西欧への派遣などを通じて近代的法治国家への道を歩み始める。
かつては文化的後進地としてさげすんでいた西欧を改革のモデルにせざるを得なくなるとは、何と皮肉なことだろう、と私は思わざるを得なかった。
スルタンの専制政治が続く中、西欧式教育を受けた青年将校が中心となって「青年トルコ人運動」が起きるが、1918年までに、国土の大半は英国やフランスなどの連合国によって占領されてしまう。
帝国分割の危機に立ち上がったのが第1次世界大戦の英雄だった将校ムスタファ・ケマルで、後にトルコ共和国の首都となるアンカラでトルコ大国民議会を組織し、抵抗政府を結成する。
1920年、講和条約として連合軍側が出したセーブル条約は、オスマン帝国領の大半を連合国に分割するものだった。この国家的危機に、ケマルをリーダーとするトルコ軍は奮起し、連合国側の支援でトルコ中央部に侵攻していたギリシャ軍を破り、ギリシャの間に休戦協定を結ぶ。
これがきっかけとなって、新たにローザンヌ講和条約が締結され、ケマルが率いるアンカラ政府とスルタンを抱くオスマン帝国政府が、1922年、講和条約締結に参加。スルタン制が廃止され、帝国政府はここで滅亡した。
1923年、大国民会議が共和制を宣言し、トルコ共和国が生まれた。ケマルは初代大統領となった。
▽アタテュルクの近代化革命
アンカラのアタテュルク廟にある博物館で共和国の改革の歴史をたどると、ムスタファ・ケマル(後のケマル・アタテュルク)が徹底した西欧化、近代化を文字通り血と汗で築き上げてきた様子が分かる。
1924年、アタテュルクは議会にカリフ制の廃止を決議させ、新憲法を採択させる。マドレッセと呼ばれる宗教学校やシャリア(イスラム法)法廷を閉鎖し、1925年には神秘主義教団の道場を閉鎖して、宗教勢力の一掃をはかった。
当初アタテュルクは、野党の存在の必要性を認めていたが、野党進歩共和党が改革への抵抗を見せ、少数民族クルド人指導者たちが反乱を起すようになると、反対派を一斉に逮捕し、政界から追放。自分が党首を務める共和人民党の一党独裁体制を樹立する。
博物館内の歴史展示のコーナーには、神秘主義教団の関連者と見られる数人の人物、その道場などの写真があった。隣にある年表には教団関連者らが逮捕され、即時あるいは翌日処刑された、とあった。クルド人の「反乱」の際にも捕まった者は投獄の上、処刑された、とある。脱イスラム国家、新たな統一国家を建設するため、相当に厳しい手段が取られたことに衝撃を覚えた。
新たな文化の導入が始まる。アタテュルク大統領は、1928年、憲法からイスラムを国境と定める条文を削除し、アラビア語表記を思わせるトルコ語の表記をアルファベットに変える運動を開始する。男性がかぶるターバンやトルコ帽(「フェズ」)は着用を禁止された。男性も女性もこれまでのトルコ風服装ではなく、スーツ、西欧風ドレスなど西欧化が奨励された。女性のイスラムのベールは法律で禁止はされなかったが、あまり望ましくないもの、とされた。
1934年には、西欧人のように、それまで姓を持たなかったトルコ人に姓を持つことを義務付ける創姓法が施行された。アタテュルクは「父なるトルコ人」の意味でつけられた。
展示の中には、ブラウスとスカートはき、短髪の女性たちが教室で机に向っている様子や、アタテュルク自らが戸外の集まりの中で黒板に向かってアルファベットの読み書きを教えている写真もあった。
ートルコ独自の「表現の自由」?
建国の父の事績を記した『アタテュルク:近代化国家の創始者』(題名仮訳、原文英語)の中で、アタテュルクの真の偉大さは、トルコ共和国建国までの軍人として功績よりも、建国後の新たな国家体制作りにあった、とする指摘があった。
オスマン帝国の社会状況の正当性の基礎となったのがイスラム教国家としてのアイデンティティーだったが、アタテュルクはこれに歯向かい、「全く新しい政治的正当性を作り上げなければならなかった」からだ。スルタンとカリフ制度を廃止した後、新たな建国の原理を緊急に構築しなければ政治的空白ができてしまう。この空白を埋めたのが国家主義・民族主義だった。
しかし、この過程で、新たなイデオロギーにあわない動きはトルコ国家に反する、危険な動きと見なされてきた。
イスラム教自体は禁止されておらずイスラム派政党も存在するが、イスラム主義が政教分離の原則を脅かすほどに伸張していると判断されれば、場合によってはケマリ主義を信奉する軍部がクーデターを起したり、検察が解党令を出す、といった事態がこれまでにも数度発生した。
トルコの国としての統一性、正当性に何らかの疑問を呈するような議論は反国家と見なされ、法律で罰せられる。その具体例がトルコ人らしさにそぐわない動きを罰する刑法301条だ。英語圏のメディアはこの法令に言及し、トルコの表現の自由の不足を頻繁に指摘する。
しかし、トルコに来て住民に聞いてみると、知識人の中にも「表現の自由に不自由感を感じていない。ほとんど西欧同様に何でも話せると思っている」という声を多く聞いた。一方では、「トルコの『表現の自由』は他の国とは定義が違う」という声も。
私には、トルコでは、何世紀も続いたイスラム教国家を何とか西欧をモデルにした新しい近代国家に変貌させようとしたケマリストたちの努力が、未だ続行中のように見えた。絶対にイスラム国家に後戻りさせたくない、国家をばらばらにしたくないという強い決意が、軍事クーデター、刑法違反の烙印、スカーフの公的場所での着用を許さない頑なさという、どう見ても西欧のリベラルな価値観とは対立する現象を生み出してしまうのではないか。
アタテュルクがまだ生きていたら、現在のトルコをどう見るだろうか?未だ改革半ばと見るだろうか、それとも?答えが出ない問いを考えさせるアンカラだった。(つづく)
(参考資料:BBC,ウイキペディア、Ataturk: Founder of a Modern State edited by Ali Kazancigil and Ergun Ozbudun他)
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アーカイブ:トルコ、表現の自由の行方 「抑圧受けても誇り高く生きたい」
(2007年3月7日、日刊ベリタに掲載された記事の転載です。)
トルコ語の通訳を買って出てくれたメティン・オゼリクさんと共に、取材の拠点にしていたクルド文化センターに戻った。オゼリクさんと目が合い、「トルコに住むクルド人って大変だね。言葉を使っちゃいけないし、放送時間だってあんなに短いとはね」と言うと、オゼリクさんはにっこり微笑み、「僕たちはここで生まれ育ったんだ。もう慣れてるから、たいしたことはないんだよ。ずーっとこのままなんだから」。(トルコ南東部・ディヤルバクルにて)
オゼリクさんは文化センター内にある、ディヤルバクル観光事務所の職員。「ディヤルバクルのことを世界中の人に知って欲しい。通訳として助けたい」と声をかけてくれたのだった。米俳優トム・クルーズが出演した「ラスト・サムライ」にすっかり感銘を受け、「僕はサムライだ!」と自己紹介した。日本のサムライのように、誇り高く生きたいのだと言う。
クルド語の規制は「特に1980年代が一番ひどかった。家の中でも、友人同士でもクルド語を話していけない雰囲気があった。今は普通に話せる。あ、学校や病院、銀行、駅、政府の建物の中とか公的な場所では今でも話してはいけないけれどね」。
「それでも状況は大分良くなったし、もっと良くなって欲しいと願っている。母国語や文化を維持することは非常に重要なことだと思っている。僕たちの子供のたちの世代にとってもそうなんだ。これからもっと良くなるー僕は楽観主義者だよ」。
ー消された声
ディヤルバクルでは紀元300年頃から作られたという長さ5キロほどの城壁が旧市街を囲んでいる。夜になると城壁の一部に明かりがつけられ、少年たち数人がサッカーをしている様子が、ホテルに戻る車の窓から見えた。
通りには小さな店が建ち並ぶ。金物屋、乾物屋、駄菓子屋などの店内には裸電球がつき、日本で言うと戦前を思わせるような雰囲気があった。
ギュン・テレビのドアン氏はその日午後8時から、クルド語放送があると言っていた。ホテルのテレビからギュン・テレビのチャンネルが映ることを確認して、時を待った。
時間通りにチャンネルをつけて見た。画面の様子から、あるトピックに関して街頭インタビューをしていることが分かった。しかし、不思議なことに音声がほとんど出ないのだ。画面も粗い粒子が流れまともに顔かたちが判別できない。私は他のチャンネルを回してみた。全て画面は通常通り映っていた。私はチャンネルをもう一度ギュン・テレビに合わせた。コマーシャルになっても、「ザー、ザー」という音が出るばかり、画面の識別不能は変わらなかった。どこかで誰かがスクランブルをかけているような画面だった。
もちろん、「たまたま」このチャンネルだけをホテルにあるテレビが映し出さなかったのかもしれない。しかし、「もし」これが何らかの形での番組遮断だったとしたら、検閲されるとはこういうことか、ある番組の視聴を不可能にさせるとはこういうことか、と思った。何とか画面の動きを識別しようと目をこらしながらも、ある番組、あるテレビ局の放映がブロックされた時の恐ろしさが胸に迫る思いだった。
ー「パラノイア」
在ロンドンの非営利団体「カーディッシュ・ヒューマンライツ・プロジェクト」が出版した『トルコのクルド人』の中で、著者ケリム・イルディズ氏は、「文化面や言語の面でトルコ政府が行った譲歩は一見画期的であるが、よく見るとEU加盟のためのリップサービスに過ぎなかった」と指摘する。
トルコは未だに国家主義を推進することに力を入れており、クルド人の文化的・言語上の権利を拡大させれば、トルコ共和国が分裂してしまうという「パラノイア」に捕らわれている、と言う。トルコ当局はクルド人の文化的・言語上の権利の拡大をすれば、クルド人反政府武装組織に力をつけさせ、反政府武装攻撃を加速させると考える、と見ている。これに対し、著者は、むしろ文化的状況を緩和すれば、クルド問題に関する「平和的、恒常的」解決につながる、と主張する。
この本のメッセージはどうやらトルコ政府あるいは民族主義者たちには届かないようだ。
2007年2月、ディヤルバクル市のある地方自治体のトップが、自治体の職場内でクルド語も含めたほかの言語の使用が可能になるべきだと発言した。
これは、トルコの外に住む人からすれば、それほど大きなことのようには聞こえないだろう。しかし、「国を分裂させるような価値観や考え方は危険であり、特にトルコ民族が住む国がトルコという公式見解を揺るがせるようなアイデンティティーの表現は、例えそれがいかに平和的でかつ穏健なものであっても、国家の品位を脅かす」(『トルコのクルド人』)とするトルコでは、国家の存在を危うくする問題発言となる。この件は裁判に持ち込まれ、現在でも継続審理中となっている。
2006年11月、EUが発表した、EU加盟のためのトルコの改革進展報告書は、ディヤルバクルを含む南東部で人権侵害が続いていると指摘し、トルコ語が母語でない子供たちへの言語教育が不十分で、特にクルド人が母語を学ぶ教育機関が現在存在しないことに懸念を寄せる。加盟交渉は、トルコがEU加盟国であるキプロスの国家承認を拒んでいることから現在凍結中となっているが、トルコのクルド人たちは、EU加盟交渉を機に、改革がさらに進展することに一筋の望みをかけている。(つづく)
アーカイブ:トルコ、表現の自由の行方 -クルド語テレビ放送は1日45分まで
EU(欧州連合)加盟をのぞむトルコ政府は、少数民族クルドの権利擁護をアピールするため、近年クルド語の使用制限を緩和する政策を打ち出すようになった。そのひとつがクルド語放送の解禁だが、実態はどうなのか。クルド人が人口の過半数を占める南東部の都市ディヤルバクルで、私は地元テレビ局「ギュン」を訪れた。クルド語番組のスタッフは、当局の同化主義の壁に阻まれながらも必死に母語による放送の拡充に取り組んでいた。(トルコ南東部・ディヤルバクルにて)
ークルド語を教える教育現場がない
クルド語新聞「アザディヤ・ウエラット」紙の前編集長でイルディリム氏の前任者となるのが、サミ・タン氏だ。氏は現在、トルコの中心都市イスタンブールにある、クルド語と文化を守る民間団体「カーディッシュ・インスティテュート・オブ・イスタンブール」の一員だ。クルド語の国際会議に出席するためにディヤルバクルを訪れていたタン氏に、クルド語の現状を聞いてみた。
タン氏によると、トルコではクルド人に対して同化の圧力が強く、クルド人がトルコでクルド語の教育を受ける権利が「基本的にはない」。去年、クルド語を教えるコースがいくつか開始されたが、現時点では閉鎖されたという。理由の1つは、「人々がコースではなく学校教育の場で学ぶ権利が保障されるべきだと言ったからだ」。
トルコ全体の大きな障害は、クルド語を教える教育の場がないことだ。クルド語を教える正式な教師がおらず、大学もないので、「もっぱら自習するしかない」。テレビやラジオでは限定的にクルド語放送が始まったばかりだ。
クルド語の使用禁止状態はトルコ共和国建国の1923年から続いており、「建国当初から1938年頃までに大分騒乱があったが、その度に治安警察に抑えらてきた」という。トルコ語は共和国の改革でアラビア文字表記からアルファベット表記に変わったが、同時にクルド語の地名や人名をトルコ語に変えられた。
「現在でも、公式な場所ではクルド語を使ってはいけない。プライベートのみ。クルド人同士でも話してはいけない」。
何故トルコではクルド語の抑圧状態が続いているのだろうか?
タン氏は、「トルコの公式なイデオロギーが、一つのホモジニアスな国家を作ることだからだ。一つのアイデンティティーを作ること。クルド語使用禁止は同化に必要だからだ」
徹底的な世俗主義の堅持とトルコ人によるまとまりのある国家、という建国時からの原則を死守しようとする民族主義者たちは、「トルコ国家とクルド人との間で戦争が起きている、と考えている。国家の態度はクルド人は同化される(処理される)べき存在。これが現在まで継続している。トルコの大部分の人々もそれを望んでいる」。
タン氏は、クルド語使用の完全自由化は、「トルコとEUの関係で今後変わる。政治状況の変化が鍵を握る」という。
トルコ政府は、EU加盟交渉準備のために2002年ごろから法改正などを実行。この1つの結果がクルド語使用の緩和だった。遅すぎるとは言え、エルドアン・トルコ首相は2005年、「クルド問題」の存在をトルコ政府高官として初めて認めた。
タン氏は、「クルド語の保護のために活動を続ける。クルド語を学校教育の場で教え、学ぶことができるようにがんばりたい」と語る。
ー2つの名前
トルコでは、1920年代からクルド語の使用は厳しく規制されてきたが、この結果、例え私立の学校でさえもクルド語を学習したり、教えたりすることが不可能になった。
しかし、EU加盟交渉のための一連の改革の中で民間企業がクルド語を教えるコースを提供することは可能になった。数箇所でこうしたコースが設立したが、現実はスムーズには進まなかった。地方自治体は民間のクルド語学習コースに許可を与えることを嫌がり、「緊急用ドアがない」、「教室のドアが規定より小さい」など様々な理由をつけて、殆どの場合、言語学校に許可を与えなかった。教える内容や教師、コースの長さなどにも細かな規制がついた。
クルド語の教育は通常の国立の教育体制の中では許されていない。憲法第42条が、「トルコ語以外の言語は、トルコ国民に母語として教えられてはいけない」としている。したがってクルド人の子供たちは母語を専ら家庭で学ぶことになる。
クルド語が公的場所では使えない言語とされたため、長い間、クルド人の親たちは子供に2つの名前をつけた。公的場所で使うためのトルコ語の名前と家族の間で使うクルド語の名前だ。しかし、改革により、「トルコの文化、習慣、伝統」にふさわしくないと考える場合以外の名前が可となった。
それでも、トルコ語のアルファベットにないアルファベットは人の名前に使ってはいけないことになっている。これは、q, w, x などクルド人の名前に良く使われるアルファベットが使われないことを意味している。
ー放送内容にも規制
案内をしてくれた映画作家ゼイネル・ドアン氏がかつて編集長だったのが、同じくディヤルバクルにある地方テレビ局「ギュン・テレビ」。元々は1994年、「メトロラジオ・テレビ」として始まり、2001年に「ギュン」(「日」の意味)となった。ディヤルバクル市の人口は約55万だが、近隣に住む150万人の視聴者向けに、一日に16時間放送を続けている。
トルコでの放送は元来トルコ語のみに限られてきたが、少数民族に文化的及び言語上の権利を与えることがEU加盟交渉で必須とされたため、トルコ政府は少数民族の権利の改善のために2001年、憲法を修正。その後のいくつかの改革政策の後で、放送で使用される言語に関する新法が施行され、2004年からクルド語での放送が可能になった。クルド語は「1つの方言」としての位置づけだったが、国営テレビTRTが放送を開始した。
ギュン・テレビを含む民間放送業者数社は早速放送認可を申請したが、様々な書類の提出の義務付けなどの条件がつき、申請は直ぐには降りなかった。認可を得ずにクルド語放送をした放送局は罰金を課せられたり、放送免許を停止された。同じくディヤルバクルにある「ART TV」が、2003年8月クルド語のラブ・ソングを放映したところ、「国家の不可分の統一の原則を」を侵害したということで、2004年3月、閉鎖に追い込まれている。
ギュン・テレビも定期的に迫害にあっている。例えば、あるシンポジウムの中継中に、出席していた2人の政治家がクルド語とクルド人のアイデンティティーが認識されるべきだ、と発言したところ、ギュン・テレビは1ヶ月の放送停止にあった。
ギュン・テレビのジェマル・ドアン編集長は、申請から2年後、放映認可がおりた日付を記憶している。「2006年3月24日」。
ところが、放送許可といっても放送時間は非常に限られたものだった。「テレビでは一日に45分、1週間では4時間まで。ラジオは一日に1時間で、1週間で5時間まで。トルコ語に翻訳する必要も課せられるので、トルコ語の字幕がつく。ラジオは後で翻訳した番組を放送する」ことになっているという。
放送内容にも規制がつき、ニュース、音楽、伝統文化の放送のみが許される。子供用の番組や映画は禁止されている。またテレビの場合字幕をつける必要もあって許可された時間内に放映するには事実上生中継は難しく、録画・録音された番組の放送となる。
「内容を広げるよう、今申請しているところだ。政府の考え方を何とかして変えたいのだが」。
「トルコにいるクルド人はクルド語を話すなと言われてきた。国民がばらばらになるから、と。私はそうは思わない。人権の問題なのだと思う」とドアン氏。
「私はクルド人だ。しかし、自分がクルド人だというだけで、トルコを分裂させようとしている、分離主義者だ、テロリストだ、とこれまでは見られてきた。しかし、状況は少しずつ明るくなってきていると思う。トルコ全体で、国民の多くがクルド人が苦しんでいると分かってきた。だんだん議論ができるようになっていると思う」。
ドアン氏は既存のクルド語放送拡充に加え、ネットでの番組配信も将来的に計画していると言う。
トルコに住むクルド人の間で人気が高いのが、デンマーク・コペンハーゲンに本社を置き、ベルギーからクルド語番組を放映している衛星テレビ局「ロッジTV」だという。「鳥インフルエンザの到来を刻々とクルド語で放映したので、母親たちがずい分助かったと言っていた」。ロッジテレビは昨年秋、一時トルコからは視聴不可能になった。ドアン氏やトルコに住むクルド人の間では、「トルコ政府が通信をブロックした」というのが定説になっている。
クルド語放送のテレビ局と聞いて、24時間クルド語を放送していると思った私は、1日に45分のみ(ラジオは1時間)という規制に驚き、落胆もした。特に、ラジオ番組では後にもう一度翻訳した番組(トルコ語)を放送する、というやり方に滑稽ささえ感じたが、それでも冗談ではなくこれが現実なのだ、と思い直した。それにしても、これは「クルド語放送が許可された」と言えるのだろうか?(つづく)
東日本大震災 「1学期を終えて伝えたいこと」 -福島県教員のインタビュー
新学期が始まって間もない4月上旬。私は、郡山市の小学校教員・川口真理さん(仮名・32歳)に電話インタビューを行い、「子どもたちを被ばくから守りたい!」という悲痛な叫びを受け取った。あれから3ヶ月――。学校はすでに夏休みに入っている。郡山市内の状況や、子どもたちの様子はどう変化したのだろうか。1学期をふり返っての感想を、再び川口さんにうかがった。(以前のインタビュー記事「Twitterでつぶやいて!福島県の教員の訴え」はこちら http://newenergy-hideinu.blogspot.com/2011/04/twitter.html
)。
ー声をあげることがタブーではなくなった
「おかげさまで、なんとか1学期を終えることができました」。開口一番そう話す川口さんの声には、3ヶ月前とは違う力強さが感じられた。
この3ヶ月でもっとも大きく変わったことは? と尋ねると、「最近は、堂々と放射線のリスクについて話せるようになったことですね。学校が始まって間もないころは、タブー視されていましたから」という答えが返ってきた。
川口さんが、「タブー視されていた」と話すのには、以下のような理由があった。福島県が4月始めに行った調査によると、県内の小中学校のうち約75%で、“放射線管理区域”レベルの高い放射線量が観測されていた。川口さんは、「まさか学校が始まることはない。子どもたちはみんな避難することになるだろう」と思っていたという。
しかし実際は違った。文部科学省はあっさりと、子どもにまで「年間被ばく限度量20ミリシーベルト」を適応し、校庭などの屋外活動に関しても、毎時3.8ミリシーベルト以内なら通常通りでかまわない、との見解を発表したのだ。
これを受け、新学期は開始されることになった。福島県内の学校には、県の放射線リスク管理アドバイザー・山下俊一氏からの助言が書かれた通達文が一斉に配られた。『今回の事故はチェルノブイリ事故とは違う。市民の皆さんに健康リスクはまったくない』その通達文には、こんな文言が書かれていたため、放射線のリスクを危惧していた教師たちも、口をつぐまざるをえなくなってしまったのだ。
ー文科省は口だけ、実際の除線は保護者の手で行われた
しかし、そんな状況が変わり始めたのは、 「子どもの20ミリシーベルト問題」が、マスコミでも取り上げられるようになった5月中旬ごろからだったという。
「新聞やテレビで福島県内の汚染状況が伝えられるようになってからは、保護者の間にも“このままではまずいのではないか”という危機意識が広がってきたんです。県外の人たちが声をあげてくださったことも大きかったと思います」と川口さんはふり返る。
こうした世論の高まりを受け、高木文明文部科学大臣は5月27日、「子どもの年間被ばく限度量1ミリシーベルトを目指す」との会見を行った。
「でも、文科省は会見を開いただけで、実際には何にもしていませんからね。結局、学校の除線も、すべて保護者の手を借りて行いました」
川口さんの学校では、休日返上で保護者が学校に集まり、放射線計測器を片手にデッキブラシで校舎を洗浄したという。また、校庭に関しては、業者に依頼して表土を剥ぎ取った。
「郡山市内の小学校は、かなり早くから危機感を持っていました。でも、中学・高校に関しては、除線をする前から校庭で部活動を再開していたし、除銭した後も、汚染された土を集めたいわゆる原発山のとなりで、当たり前のように部活動をしています。なぜ、子どもの未来のことより、目の前の部活動を優先するのか……。本当に腹立たしい」と、川口さんは憤る。
ー自分で運命を切り開く力をつけてあげたい
一方で子どもたちは、放射線のリスクと、どう向き合っていたのだろうか――。
川口さんが受け持つクラスでは、「窓を開ける、空けない」に関しても、子どもたち自らが、話し合いによって決定したという。
「最初のうちは、放射性物質のついた土ぼこりを吸い込むリスクを考えて、『窓を開けたくない』という子どもが半数以上でした。しかし7月に入ると、クーラーのついていない教室内の温度は、35度を超えるようになった。これはいよいよガマンができない、ということで、再び子どもたち自身が話し合った結果、時間を決めて窓を開けることになったんです」
子どもたちは、放射線のリスクもしっかり把握したうえで、今できる最良の方法を選択していたのだ。
川口さんは、子どもたち自身が自分で考えて判断ができるよう、放射線に関する知識をしっかり教えたうえで、自主性に任しているという。
「自分の手で未来を切り開いていく力をつてやりたいんです。悲しいことですが、福島の子どもたちは今後、差別や偏見ともたたかっていかなければならないでしょう。今はまだ、“福島の子どもたちはかわいそうだね”って同情してもらえますが、あと数年もすれば忘れ去られてしまう。だからこそ、自分で考え、自分で行動しなければ。それが、私が子どもたちに教えてあげられる唯一のことだと思っています」
ー子どもたちが安全に遊べる場所を
インタビューの最後に、改めて「今後、福島の子どもたちに必要な支援は?」と川口さんに問いかけてみた。
「町に1カ所でもいいから、完璧に放射線の管理ができていて、土遊びも水遊びもOKという場所を作ってほしいですね。残念ながら現在は、町全体の除線作業はちっとも進んでいません。だから、子どもたちが思う存分遊べる場所がないのです。私は今でも、子どもたちを安全な場所に逃がしてやりたいという気持ちに変わりはありません。でも、どうしても福島から出られない子どもが大勢いる。残った子どもたちのために何ができるのかを、今後は考えていきたい」
子どもたちに被害が出てからでは遅い。日本全国の人たちがこの問題に関心を持ち続け、国を動かす努力を続けていくしか、子どもたちを守る方法はないのだろう。(日刊ベリタより)





