アーカイブ:トルコ、表現の自由の行方 -スカーフ着用をめぐる政治対立の深層 (下)
(日刊ベリタに2007年7月12日掲載された記事の転載です。日時、役職などは当時のものであることをご了解ください。)
トルコでは国民の99%がイスラム教徒であるにもかかわらず、政府機関や大学でイスラム教のスカーフ着用が許されていないため、この問題が大統領選をめぐる世俗派と親イスラム勢力の対立の象徴にまで位置づけられている。それはなぜなのか。どのような解決策がのぞましいのか。著書『トルコのベール問題─公的世俗主義と大衆のイスラム主義』(1998年)などで、フェミニズムの観点から政治の流れとスカーフ着用の意味を追ってきた、中東工科大学のエリザベス・オズダルグ社会学教授にひきつづき聞いた。(アンカラにて)
ーー大学では着用の自由を認めるべき
―トルコの世俗主義は行過ぎていると思うか?
教授: それがまさに私が本の中に書いたことだ。現在、イスラム系政府であることもあって、世俗主義グループの組織化に熱心な人々もいる。例えば、先日、(トルコの首都)アンカラで集会があり、イスラム系グループに対する反対の声をあげた人々がいる。現在の首相が大統領候補になることを希望していたため、軍部をはじめとする世俗主義からの反発が大きなデモ行為に発展した。エルドアン首相の妻はどこに行くのでもスカーフをかぶる。デモは、大統領に立候補するな、すれば問題が起きることを警告していた。
大統領は国家の最高の職であり、国家と一体だ。国家の維持、国家の価値観の維持がこうしたグループにとっては非常に重要となる。非常に保守的なグループだ。
―しかし、近代的な、政教分離社会では、スカーフをかぶろうがかぶるまいが、自由なはずだ。
教授:そうなるべきだ。イランでは着用が義務だ。世俗主義者たちは、もしスカーフ着用を許せば、トルコ全体がそうなってしまうと懸念する。このグループは支持者を増やしている。
少なくとも大学では着用が自由になるべきだ。そうすれば、もっと自由にこの議題に関して議論ができる。スカーフ着用は必要ないと思うイスラム教徒もたくさんいる。現状では自由な議論ができない。
―小中学校では宗教の授業はあるのだろうか?
教授:ある。道徳教育と宗教研究と呼ばれている。しかし、学校で教えられている宗教は、本当に宗教的な人からすると、物足りない。表面的だからだ。宗教教育はいらないと考える人もいる。宗教は任意で選ぶ科目であるほうがいいと思う。
―言論の自由を奪う法律として、301条が国内外でずいぶんと話題になっている。この法律の違反で有罪となったアルメニア系ジャーナリスト、フラント・ディンク氏が、1月末、世俗主義者の青年に殺害された事件は未だ人々の記憶に新しい。トルコの言論の自由をどう評価するか?
教授:言論の自由はもちろんある。しかし、トルコ人らしさを規定する301条は、自分が進めたい特定の議題を持つ人々、特に軍部や民族主義者たちに利用される可能性がある。こうした人々は、ゆるく設定されている301条を使って、(ノーベル賞文学賞の)オルハン・パムク氏やその他の作家など、トルコでは大きな論争を呼ぶクルド人への抑圧やアルメニア人の虐殺問題を自由に話す人々を攻撃するために使っている。
トルコ人らしさの定義は難しい。検察や判事がこの法律をどのように解釈するかによる。いかようにも解釈できる。民主主義を嫌う人、トルコが自由になって欲しくない人、EUに加盟して欲しくないと思っている人が、それぞれの政治的目的を果たすために使う。
ーーなぜ首相の妻は着用を止めないのか
―エルドアン現首相はどのような人物か。
教授:イスラム系政党AKPの党首でもあるが、党のイデオロギーはリベラルではない。伝統を重んじる、保守政党と言っていいだろう。結党は2002年だった。
イスラム系政党の政治家たちは、EUへの加盟が自分たちへの自由を保証するものと見ている。自由な社会、といっても宗教の面から自由な社会を目指す。 トルコのイスラム系運動は常にEU加盟には反対だったがエルドアン氏とその支持者はEUへの加盟を達成しようとした。加盟のためには、リベラルにならざるを得なかった。経済の自由化など様々改革を進めた。
―(2007年)5月の大統領選を巡り、トルコは大きな政治危機の状態に入った。何故100万人規模のデモが多発したのか?
教授:きっかけはエルドアン首相が大統領候補となることを希望していたからだった。大統領職はトルコでは非常に、非常にセンシティブな問題だ。大統領は世俗主義そのものだ。エルドアン氏の妻はどこに行くのでもムスリムとしてのスカーフをかぶる。これが大きな問題だった。トルコでは公式行事に政治家が出席するとき、妻も出席する。妻がスカーフをかぶるようでは、招待されない。与党は副首相を大統領候補に出したが、これもうまくいかず、11月の総選挙が今月末に前倒しとなった。与党側はこれで心機一転を狙っている。
―今月末の総選挙はどうなるか。
教授:代わりになりそうな政党がないので、現在の与党が政権をまた握るだろう。
―首相の妻はスカーフをかぶることを止めないのだろうか?
教授:止めないと思う。個人の非常に深い問題だからだ。比較できるものが他にないかもしれない。ムスリムとしてのスカーフは自分のアイデンティティーの一部だ。政治目的で脱ぐわけにはいかない。
女学生の中にはスカーフをかぶることを許されないというので、欧州人権裁判所に訴えた人もいる。支持は得られなかった。欧州の裁判所は、トルコの憲法裁判所が訴えを却下した点に何の問題も見られない、とする判断を下したからだ。
―裁判に負けたということか。
教授:そうだ。女性たちは大きな望みをかけていたのだが。欧州を見ると、イスラム嫌いが強い。この問題に関してはリベラリズムを期待することはできないのだろう。
私が見たところでは、欧州裁判所がトルコでスカーフをかぶらないということは高等教育を受ける権利を否定された状態であることを、本当に分かっていたのかどうか、疑問だ。私立の大学でもしスカーフ着用が自由なら、そこに行く可能性もあった。しかし、トルコでは私立でも国立でもスカーフ着用を許す大学はないのだから。
大学でのスカーフ着用をまず許可するべきだと思う。大学とは様々な概念を自由に議論をする場所なのだから。公的機関で働く場合に一定の規制があるのは理解できるが、大学でダメといえば、女性が高等教育を受ける権利を否定することになる。多くの人がこの問題に怒りを感じている。
フェミニスト運動の面からすれば、女性が大学に行き、専門職に就くことを望むのか、家庭に入ることを望むのか。欧州のフェミニストたちはトルコのスカーフ問題にもっと目を向けてもいいのではないか。 頭が良く、インテリジェントな女性たちは、宗教的であるという点以外は他の女性と同じなのだ。
ただし、全身をおおい、目だけが見える(イスラム教徒女性が身に着ける)ニカブについては、私は許容しない。公的場所では互いの顔が見えるようにするべきだ。(終)
アーカイブ:トルコ、表現の自由の行方 ー西欧化と国家の統一性維持のジレンマ
(2007年4月5日、日刊ベリタのウェブサイトに掲載された記事の再掲載です。数字などは当時のものであることをご了解ください。)
2007年、3月25日、欧州連合(EU)は欧州統合の基礎を作ったローマ条約調印から50周年を迎えた。加盟国は当初の6カ国から27カ国にまで増え、加盟希望国は増えるばかり。80数年前から西欧をモデルとして近代化を進めてきたトルコも加盟を望む国の1つだが、少数民族への文化的抑圧や「トルコ人らしさ」で作家たちを縛る刑法301条など、欧州諸国と比較すると、不自由感がつきまとう。首都アンカラで、近代国家建国までの歴史をたどってみると、何故表現の自由に逆行する動きを捨てきれないのかが見えてくる。(アンカラにて)
ーここは西欧ではない
トルコの首都アンカラの空港前には、バス数台とタクシーの列が並ぶだけで、人口7000万近くを抱える国の首都にしては、ひっそりとした印象があった。側にある高速道路を車がひっきりなしに行き来する音が響く。タクシーの運転手たちは車の外に群がり、たばこをふかしたり、互いに話したりしており、こちらに近づいてくる様子はなかった。
スーツケースを引きずって運転手の一人にホテルの住所を見せると、輪の中から若者が出てきて、一台のタクシーに誘った。近場で見ると、どのタクシーもかなり古い様子で、車体の塗料がはげていたり、さびついた箇所が見えた。
中に入って座席に腰を下ろし、内装から見ても20年は経っている車だなあと観察していると、走って数分もしないうちに、運転手の若者がクラッチを思うように動かせないのか、苦闘している様子が見えた。「ホテルまでこの車は持つかだろうか?」と、不安が心をよぎった。
車が大きな交差点まで来た。左右からの車の流れがとめどない。突然、軽いパン!という音がして、車が停止した。運転手が車から降り、後ろに回って点検していたが、どうやらパンクしたようだった。「降りてほしい、ここまでだ」という手振りをする。自分も後ろに回ってみると、後輪のタイヤの一つが外れていた。「ホテルは?」と聞き、指び差す方向を見ると、看板が遠くに見えた。タクシーのメーターの数字を見て札を渡すと、釣りが返ってこない。「釣りが欲しい」と言うと、英語は理解できない、という顔をされたが、繰り返しているうちに、あきらめたように硬貨をこちらにほうった。受け止めた途端、運転席のドアが、ガタンとはずれた。ポンコツ同然の車だった。
スーツケースを引きずりながらホテルに着くと、昨晩電話で済ませたはずの予約が入っていなかった。どうやら、電話では「はい、はい」と答えていた人物が、実は英語を十分に分かっていなかったようだった。空いている部屋を見つけるために頭を悩ませる数人のホテルの従業員の中で英語を比較的流暢に話せるのは一人だけ。欧州の数カ国に出かけた際には、ホテルなどの観光業に勤務する人ばかりか、通行人の誰に声をかけても、英語を話せる人がほとんどだった。このホテルは三ツ星だったが、ここは西欧ではないことをしみじみと実感した。
外に出てアンカラの通りを歩いていると、建物に大きな垂れ幕がかかっているのによく出くわす。垂れ幕には黒い燕尾服を来た、ハンサムな、しかし眼光の鋭い男性が描かれている。あまりにも垂れ幕が大きく、そこに描かれているイメージも大きいので、その度、目を奪われた。
この男性が、近代トルコ建国の父と言われる、ケマル・アタテュルク(1881年―1938年)だった。
ーオスマン帝国からトルコ共和国へ
アンカラにはアタテュルクの巨大な霊廟がある。国内で産出した石材のみを用いて作ったと言われる壮大な霊廟に到達するには、長い一本道を歩く。霊廟は様々な政府の式典の開催場所としてもよく使われ、私が訪れた日は、家族連れや学校の授業の一環として連れてこられた子供たちで一杯だった。
墓の他にはアタテュルクが生前使用していた車、愛用の小物類、書籍などが展示あるいは販売されており、生涯をつづった映画を上映するための施設や共和国建国までの歴史にまつわる資料を年代ごとに並べた博物館が併設されている。
使用していた櫛などの身の回りの装飾品、スーツなどがガラスの箱に入っている様子を他の参列者とともに見ていると、アタテュルクがいわば人気スターのような、非常に愛着を持たれた存在として国民が見ている、あるいはそのようなアタテュルク像を提示したいことが伝わってきた。
巨大な霊廟と博物館を見学しながら、私は近代トルコの誕生までを振り返ってみた。
現在の中東と呼ばれる地域、バルカン半島近辺、東欧や北アフリカの一部を含む広大な領域を一時支配下に置いたのが、現在のトルコの前身オスマン帝国だ(1301年―1922年)。
その没落がいつ始まったかに関しては諸説があるが、後に「欧州の病人」と呼ばれるようになったきっかけの1つは、17世紀末、現在のウイーンを征服しようとして失敗したこと(第2次ウイーン包囲)だったと言われる。ここでオスマン帝国は史上初めて領土の削減を経験し、東欧の覇権はハプスブルク家のオーストリアに奪われた。
オスマン帝国拡大の要因はスルタンをトップに置いた中央集権制度と強い軍隊だったが、17世紀、18世紀を通じて強力なスルタンが登場せず、その支配力は弱まり、中央集権制度も効率性を減じていったと言われる。スルタンは行政を他人任せにするようになり、人々の声にもあまり耳を傾けなくなった。同時に、インドや極東からの廉価な物資の到来、オスマン帝国を通らない貿易路の繁栄、失業率の増大などから経済も困窮を極めるようになった。一方の欧州では、英国を始めとした産業革命が起きていた。
19世紀までにエジプト、バルカンの諸民族などの独立が相次ぎ、帝国はロシア、英国、フランスなどの列強の勢力拡大に悩まされるようになる。スルタンは軍の西欧化、中央政府の近代化、留学生の西欧への派遣などを通じて近代的法治国家への道を歩み始める。
かつては文化的後進地としてさげすんでいた西欧を改革のモデルにせざるを得なくなるとは、何と皮肉なことだろう、と私は思わざるを得なかった。
スルタンの専制政治が続く中、西欧式教育を受けた青年将校が中心となって「青年トルコ人運動」が起きるが、1918年までに、国土の大半は英国やフランスなどの連合国によって占領されてしまう。
帝国分割の危機に立ち上がったのが第1次世界大戦の英雄だった将校ムスタファ・ケマルで、後にトルコ共和国の首都となるアンカラでトルコ大国民議会を組織し、抵抗政府を結成する。
1920年、講和条約として連合軍側が出したセーブル条約は、オスマン帝国領の大半を連合国に分割するものだった。この国家的危機に、ケマルをリーダーとするトルコ軍は奮起し、連合国側の支援でトルコ中央部に侵攻していたギリシャ軍を破り、ギリシャの間に休戦協定を結ぶ。
これがきっかけとなって、新たにローザンヌ講和条約が締結され、ケマルが率いるアンカラ政府とスルタンを抱くオスマン帝国政府が、1922年、講和条約締結に参加。スルタン制が廃止され、帝国政府はここで滅亡した。
1923年、大国民会議が共和制を宣言し、トルコ共和国が生まれた。ケマルは初代大統領となった。
▽アタテュルクの近代化革命
アンカラのアタテュルク廟にある博物館で共和国の改革の歴史をたどると、ムスタファ・ケマル(後のケマル・アタテュルク)が徹底した西欧化、近代化を文字通り血と汗で築き上げてきた様子が分かる。
1924年、アタテュルクは議会にカリフ制の廃止を決議させ、新憲法を採択させる。マドレッセと呼ばれる宗教学校やシャリア(イスラム法)法廷を閉鎖し、1925年には神秘主義教団の道場を閉鎖して、宗教勢力の一掃をはかった。
当初アタテュルクは、野党の存在の必要性を認めていたが、野党進歩共和党が改革への抵抗を見せ、少数民族クルド人指導者たちが反乱を起すようになると、反対派を一斉に逮捕し、政界から追放。自分が党首を務める共和人民党の一党独裁体制を樹立する。
博物館内の歴史展示のコーナーには、神秘主義教団の関連者と見られる数人の人物、その道場などの写真があった。隣にある年表には教団関連者らが逮捕され、即時あるいは翌日処刑された、とあった。クルド人の「反乱」の際にも捕まった者は投獄の上、処刑された、とある。脱イスラム国家、新たな統一国家を建設するため、相当に厳しい手段が取られたことに衝撃を覚えた。
新たな文化の導入が始まる。アタテュルク大統領は、1928年、憲法からイスラムを国境と定める条文を削除し、アラビア語表記を思わせるトルコ語の表記をアルファベットに変える運動を開始する。男性がかぶるターバンやトルコ帽(「フェズ」)は着用を禁止された。男性も女性もこれまでのトルコ風服装ではなく、スーツ、西欧風ドレスなど西欧化が奨励された。女性のイスラムのベールは法律で禁止はされなかったが、あまり望ましくないもの、とされた。
1934年には、西欧人のように、それまで姓を持たなかったトルコ人に姓を持つことを義務付ける創姓法が施行された。アタテュルクは「父なるトルコ人」の意味でつけられた。
展示の中には、ブラウスとスカートはき、短髪の女性たちが教室で机に向っている様子や、アタテュルク自らが戸外の集まりの中で黒板に向かってアルファベットの読み書きを教えている写真もあった。
ートルコ独自の「表現の自由」?
建国の父の事績を記した『アタテュルク:近代化国家の創始者』(題名仮訳、原文英語)の中で、アタテュルクの真の偉大さは、トルコ共和国建国までの軍人として功績よりも、建国後の新たな国家体制作りにあった、とする指摘があった。
オスマン帝国の社会状況の正当性の基礎となったのがイスラム教国家としてのアイデンティティーだったが、アタテュルクはこれに歯向かい、「全く新しい政治的正当性を作り上げなければならなかった」からだ。スルタンとカリフ制度を廃止した後、新たな建国の原理を緊急に構築しなければ政治的空白ができてしまう。この空白を埋めたのが国家主義・民族主義だった。
しかし、この過程で、新たなイデオロギーにあわない動きはトルコ国家に反する、危険な動きと見なされてきた。
イスラム教自体は禁止されておらずイスラム派政党も存在するが、イスラム主義が政教分離の原則を脅かすほどに伸張していると判断されれば、場合によってはケマリ主義を信奉する軍部がクーデターを起したり、検察が解党令を出す、といった事態がこれまでにも数度発生した。
トルコの国としての統一性、正当性に何らかの疑問を呈するような議論は反国家と見なされ、法律で罰せられる。その具体例がトルコ人らしさにそぐわない動きを罰する刑法301条だ。英語圏のメディアはこの法令に言及し、トルコの表現の自由の不足を頻繁に指摘する。
しかし、トルコに来て住民に聞いてみると、知識人の中にも「表現の自由に不自由感を感じていない。ほとんど西欧同様に何でも話せると思っている」という声を多く聞いた。一方では、「トルコの『表現の自由』は他の国とは定義が違う」という声も。
私には、トルコでは、何世紀も続いたイスラム教国家を何とか西欧をモデルにした新しい近代国家に変貌させようとしたケマリストたちの努力が、未だ続行中のように見えた。絶対にイスラム国家に後戻りさせたくない、国家をばらばらにしたくないという強い決意が、軍事クーデター、刑法違反の烙印、スカーフの公的場所での着用を許さない頑なさという、どう見ても西欧のリベラルな価値観とは対立する現象を生み出してしまうのではないか。
アタテュルクがまだ生きていたら、現在のトルコをどう見るだろうか?未だ改革半ばと見るだろうか、それとも?答えが出ない問いを考えさせるアンカラだった。(つづく)
(参考資料:BBC,ウイキペディア、Ataturk: Founder of a Modern State edited by Ali Kazancigil and Ergun Ozbudun他)
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アーカイブ:トルコ、表現の自由の行方 「抑圧受けても誇り高く生きたい」
(2007年3月7日、日刊ベリタに掲載された記事の転載です。)
トルコ語の通訳を買って出てくれたメティン・オゼリクさんと共に、取材の拠点にしていたクルド文化センターに戻った。オゼリクさんと目が合い、「トルコに住むクルド人って大変だね。言葉を使っちゃいけないし、放送時間だってあんなに短いとはね」と言うと、オゼリクさんはにっこり微笑み、「僕たちはここで生まれ育ったんだ。もう慣れてるから、たいしたことはないんだよ。ずーっとこのままなんだから」。(トルコ南東部・ディヤルバクルにて)
オゼリクさんは文化センター内にある、ディヤルバクル観光事務所の職員。「ディヤルバクルのことを世界中の人に知って欲しい。通訳として助けたい」と声をかけてくれたのだった。米俳優トム・クルーズが出演した「ラスト・サムライ」にすっかり感銘を受け、「僕はサムライだ!」と自己紹介した。日本のサムライのように、誇り高く生きたいのだと言う。
クルド語の規制は「特に1980年代が一番ひどかった。家の中でも、友人同士でもクルド語を話していけない雰囲気があった。今は普通に話せる。あ、学校や病院、銀行、駅、政府の建物の中とか公的な場所では今でも話してはいけないけれどね」。
「それでも状況は大分良くなったし、もっと良くなって欲しいと願っている。母国語や文化を維持することは非常に重要なことだと思っている。僕たちの子供のたちの世代にとってもそうなんだ。これからもっと良くなるー僕は楽観主義者だよ」。
ー消された声
ディヤルバクルでは紀元300年頃から作られたという長さ5キロほどの城壁が旧市街を囲んでいる。夜になると城壁の一部に明かりがつけられ、少年たち数人がサッカーをしている様子が、ホテルに戻る車の窓から見えた。
通りには小さな店が建ち並ぶ。金物屋、乾物屋、駄菓子屋などの店内には裸電球がつき、日本で言うと戦前を思わせるような雰囲気があった。
ギュン・テレビのドアン氏はその日午後8時から、クルド語放送があると言っていた。ホテルのテレビからギュン・テレビのチャンネルが映ることを確認して、時を待った。
時間通りにチャンネルをつけて見た。画面の様子から、あるトピックに関して街頭インタビューをしていることが分かった。しかし、不思議なことに音声がほとんど出ないのだ。画面も粗い粒子が流れまともに顔かたちが判別できない。私は他のチャンネルを回してみた。全て画面は通常通り映っていた。私はチャンネルをもう一度ギュン・テレビに合わせた。コマーシャルになっても、「ザー、ザー」という音が出るばかり、画面の識別不能は変わらなかった。どこかで誰かがスクランブルをかけているような画面だった。
もちろん、「たまたま」このチャンネルだけをホテルにあるテレビが映し出さなかったのかもしれない。しかし、「もし」これが何らかの形での番組遮断だったとしたら、検閲されるとはこういうことか、ある番組の視聴を不可能にさせるとはこういうことか、と思った。何とか画面の動きを識別しようと目をこらしながらも、ある番組、あるテレビ局の放映がブロックされた時の恐ろしさが胸に迫る思いだった。
ー「パラノイア」
在ロンドンの非営利団体「カーディッシュ・ヒューマンライツ・プロジェクト」が出版した『トルコのクルド人』の中で、著者ケリム・イルディズ氏は、「文化面や言語の面でトルコ政府が行った譲歩は一見画期的であるが、よく見るとEU加盟のためのリップサービスに過ぎなかった」と指摘する。
トルコは未だに国家主義を推進することに力を入れており、クルド人の文化的・言語上の権利を拡大させれば、トルコ共和国が分裂してしまうという「パラノイア」に捕らわれている、と言う。トルコ当局はクルド人の文化的・言語上の権利の拡大をすれば、クルド人反政府武装組織に力をつけさせ、反政府武装攻撃を加速させると考える、と見ている。これに対し、著者は、むしろ文化的状況を緩和すれば、クルド問題に関する「平和的、恒常的」解決につながる、と主張する。
この本のメッセージはどうやらトルコ政府あるいは民族主義者たちには届かないようだ。
2007年2月、ディヤルバクル市のある地方自治体のトップが、自治体の職場内でクルド語も含めたほかの言語の使用が可能になるべきだと発言した。
これは、トルコの外に住む人からすれば、それほど大きなことのようには聞こえないだろう。しかし、「国を分裂させるような価値観や考え方は危険であり、特にトルコ民族が住む国がトルコという公式見解を揺るがせるようなアイデンティティーの表現は、例えそれがいかに平和的でかつ穏健なものであっても、国家の品位を脅かす」(『トルコのクルド人』)とするトルコでは、国家の存在を危うくする問題発言となる。この件は裁判に持ち込まれ、現在でも継続審理中となっている。
2006年11月、EUが発表した、EU加盟のためのトルコの改革進展報告書は、ディヤルバクルを含む南東部で人権侵害が続いていると指摘し、トルコ語が母語でない子供たちへの言語教育が不十分で、特にクルド人が母語を学ぶ教育機関が現在存在しないことに懸念を寄せる。加盟交渉は、トルコがEU加盟国であるキプロスの国家承認を拒んでいることから現在凍結中となっているが、トルコのクルド人たちは、EU加盟交渉を機に、改革がさらに進展することに一筋の望みをかけている。(つづく)
アーカイブ:トルコ、表現の自由の行方 -クルド語テレビ放送は1日45分まで
EU(欧州連合)加盟をのぞむトルコ政府は、少数民族クルドの権利擁護をアピールするため、近年クルド語の使用制限を緩和する政策を打ち出すようになった。そのひとつがクルド語放送の解禁だが、実態はどうなのか。クルド人が人口の過半数を占める南東部の都市ディヤルバクルで、私は地元テレビ局「ギュン」を訪れた。クルド語番組のスタッフは、当局の同化主義の壁に阻まれながらも必死に母語による放送の拡充に取り組んでいた。(トルコ南東部・ディヤルバクルにて)
ークルド語を教える教育現場がない
クルド語新聞「アザディヤ・ウエラット」紙の前編集長でイルディリム氏の前任者となるのが、サミ・タン氏だ。氏は現在、トルコの中心都市イスタンブールにある、クルド語と文化を守る民間団体「カーディッシュ・インスティテュート・オブ・イスタンブール」の一員だ。クルド語の国際会議に出席するためにディヤルバクルを訪れていたタン氏に、クルド語の現状を聞いてみた。
タン氏によると、トルコではクルド人に対して同化の圧力が強く、クルド人がトルコでクルド語の教育を受ける権利が「基本的にはない」。去年、クルド語を教えるコースがいくつか開始されたが、現時点では閉鎖されたという。理由の1つは、「人々がコースではなく学校教育の場で学ぶ権利が保障されるべきだと言ったからだ」。
トルコ全体の大きな障害は、クルド語を教える教育の場がないことだ。クルド語を教える正式な教師がおらず、大学もないので、「もっぱら自習するしかない」。テレビやラジオでは限定的にクルド語放送が始まったばかりだ。
クルド語の使用禁止状態はトルコ共和国建国の1923年から続いており、「建国当初から1938年頃までに大分騒乱があったが、その度に治安警察に抑えらてきた」という。トルコ語は共和国の改革でアラビア文字表記からアルファベット表記に変わったが、同時にクルド語の地名や人名をトルコ語に変えられた。
「現在でも、公式な場所ではクルド語を使ってはいけない。プライベートのみ。クルド人同士でも話してはいけない」。
何故トルコではクルド語の抑圧状態が続いているのだろうか?
タン氏は、「トルコの公式なイデオロギーが、一つのホモジニアスな国家を作ることだからだ。一つのアイデンティティーを作ること。クルド語使用禁止は同化に必要だからだ」
徹底的な世俗主義の堅持とトルコ人によるまとまりのある国家、という建国時からの原則を死守しようとする民族主義者たちは、「トルコ国家とクルド人との間で戦争が起きている、と考えている。国家の態度はクルド人は同化される(処理される)べき存在。これが現在まで継続している。トルコの大部分の人々もそれを望んでいる」。
タン氏は、クルド語使用の完全自由化は、「トルコとEUの関係で今後変わる。政治状況の変化が鍵を握る」という。
トルコ政府は、EU加盟交渉準備のために2002年ごろから法改正などを実行。この1つの結果がクルド語使用の緩和だった。遅すぎるとは言え、エルドアン・トルコ首相は2005年、「クルド問題」の存在をトルコ政府高官として初めて認めた。
タン氏は、「クルド語の保護のために活動を続ける。クルド語を学校教育の場で教え、学ぶことができるようにがんばりたい」と語る。
ー2つの名前
トルコでは、1920年代からクルド語の使用は厳しく規制されてきたが、この結果、例え私立の学校でさえもクルド語を学習したり、教えたりすることが不可能になった。
しかし、EU加盟交渉のための一連の改革の中で民間企業がクルド語を教えるコースを提供することは可能になった。数箇所でこうしたコースが設立したが、現実はスムーズには進まなかった。地方自治体は民間のクルド語学習コースに許可を与えることを嫌がり、「緊急用ドアがない」、「教室のドアが規定より小さい」など様々な理由をつけて、殆どの場合、言語学校に許可を与えなかった。教える内容や教師、コースの長さなどにも細かな規制がついた。
クルド語の教育は通常の国立の教育体制の中では許されていない。憲法第42条が、「トルコ語以外の言語は、トルコ国民に母語として教えられてはいけない」としている。したがってクルド人の子供たちは母語を専ら家庭で学ぶことになる。
クルド語が公的場所では使えない言語とされたため、長い間、クルド人の親たちは子供に2つの名前をつけた。公的場所で使うためのトルコ語の名前と家族の間で使うクルド語の名前だ。しかし、改革により、「トルコの文化、習慣、伝統」にふさわしくないと考える場合以外の名前が可となった。
それでも、トルコ語のアルファベットにないアルファベットは人の名前に使ってはいけないことになっている。これは、q, w, x などクルド人の名前に良く使われるアルファベットが使われないことを意味している。
ー放送内容にも規制
案内をしてくれた映画作家ゼイネル・ドアン氏がかつて編集長だったのが、同じくディヤルバクルにある地方テレビ局「ギュン・テレビ」。元々は1994年、「メトロラジオ・テレビ」として始まり、2001年に「ギュン」(「日」の意味)となった。ディヤルバクル市の人口は約55万だが、近隣に住む150万人の視聴者向けに、一日に16時間放送を続けている。
トルコでの放送は元来トルコ語のみに限られてきたが、少数民族に文化的及び言語上の権利を与えることがEU加盟交渉で必須とされたため、トルコ政府は少数民族の権利の改善のために2001年、憲法を修正。その後のいくつかの改革政策の後で、放送で使用される言語に関する新法が施行され、2004年からクルド語での放送が可能になった。クルド語は「1つの方言」としての位置づけだったが、国営テレビTRTが放送を開始した。
ギュン・テレビを含む民間放送業者数社は早速放送認可を申請したが、様々な書類の提出の義務付けなどの条件がつき、申請は直ぐには降りなかった。認可を得ずにクルド語放送をした放送局は罰金を課せられたり、放送免許を停止された。同じくディヤルバクルにある「ART TV」が、2003年8月クルド語のラブ・ソングを放映したところ、「国家の不可分の統一の原則を」を侵害したということで、2004年3月、閉鎖に追い込まれている。
ギュン・テレビも定期的に迫害にあっている。例えば、あるシンポジウムの中継中に、出席していた2人の政治家がクルド語とクルド人のアイデンティティーが認識されるべきだ、と発言したところ、ギュン・テレビは1ヶ月の放送停止にあった。
ギュン・テレビのジェマル・ドアン編集長は、申請から2年後、放映認可がおりた日付を記憶している。「2006年3月24日」。
ところが、放送許可といっても放送時間は非常に限られたものだった。「テレビでは一日に45分、1週間では4時間まで。ラジオは一日に1時間で、1週間で5時間まで。トルコ語に翻訳する必要も課せられるので、トルコ語の字幕がつく。ラジオは後で翻訳した番組を放送する」ことになっているという。
放送内容にも規制がつき、ニュース、音楽、伝統文化の放送のみが許される。子供用の番組や映画は禁止されている。またテレビの場合字幕をつける必要もあって許可された時間内に放映するには事実上生中継は難しく、録画・録音された番組の放送となる。
「内容を広げるよう、今申請しているところだ。政府の考え方を何とかして変えたいのだが」。
「トルコにいるクルド人はクルド語を話すなと言われてきた。国民がばらばらになるから、と。私はそうは思わない。人権の問題なのだと思う」とドアン氏。
「私はクルド人だ。しかし、自分がクルド人だというだけで、トルコを分裂させようとしている、分離主義者だ、テロリストだ、とこれまでは見られてきた。しかし、状況は少しずつ明るくなってきていると思う。トルコ全体で、国民の多くがクルド人が苦しんでいると分かってきた。だんだん議論ができるようになっていると思う」。
ドアン氏は既存のクルド語放送拡充に加え、ネットでの番組配信も将来的に計画していると言う。
トルコに住むクルド人の間で人気が高いのが、デンマーク・コペンハーゲンに本社を置き、ベルギーからクルド語番組を放映している衛星テレビ局「ロッジTV」だという。「鳥インフルエンザの到来を刻々とクルド語で放映したので、母親たちがずい分助かったと言っていた」。ロッジテレビは昨年秋、一時トルコからは視聴不可能になった。ドアン氏やトルコに住むクルド人の間では、「トルコ政府が通信をブロックした」というのが定説になっている。
クルド語放送のテレビ局と聞いて、24時間クルド語を放送していると思った私は、1日に45分のみ(ラジオは1時間)という規制に驚き、落胆もした。特に、ラジオ番組では後にもう一度翻訳した番組(トルコ語)を放送する、というやり方に滑稽ささえ感じたが、それでも冗談ではなくこれが現実なのだ、と思い直した。それにしても、これは「クルド語放送が許可された」と言えるのだろうか?(つづく)
東日本大震災 「1学期を終えて伝えたいこと」 -福島県教員のインタビュー
新学期が始まって間もない4月上旬。私は、郡山市の小学校教員・川口真理さん(仮名・32歳)に電話インタビューを行い、「子どもたちを被ばくから守りたい!」という悲痛な叫びを受け取った。あれから3ヶ月――。学校はすでに夏休みに入っている。郡山市内の状況や、子どもたちの様子はどう変化したのだろうか。1学期をふり返っての感想を、再び川口さんにうかがった。(以前のインタビュー記事「Twitterでつぶやいて!福島県の教員の訴え」はこちら http://newenergy-hideinu.blogspot.com/2011/04/twitter.html
)。
ー声をあげることがタブーではなくなった
「おかげさまで、なんとか1学期を終えることができました」。開口一番そう話す川口さんの声には、3ヶ月前とは違う力強さが感じられた。
この3ヶ月でもっとも大きく変わったことは? と尋ねると、「最近は、堂々と放射線のリスクについて話せるようになったことですね。学校が始まって間もないころは、タブー視されていましたから」という答えが返ってきた。
川口さんが、「タブー視されていた」と話すのには、以下のような理由があった。福島県が4月始めに行った調査によると、県内の小中学校のうち約75%で、“放射線管理区域”レベルの高い放射線量が観測されていた。川口さんは、「まさか学校が始まることはない。子どもたちはみんな避難することになるだろう」と思っていたという。
しかし実際は違った。文部科学省はあっさりと、子どもにまで「年間被ばく限度量20ミリシーベルト」を適応し、校庭などの屋外活動に関しても、毎時3.8ミリシーベルト以内なら通常通りでかまわない、との見解を発表したのだ。
これを受け、新学期は開始されることになった。福島県内の学校には、県の放射線リスク管理アドバイザー・山下俊一氏からの助言が書かれた通達文が一斉に配られた。『今回の事故はチェルノブイリ事故とは違う。市民の皆さんに健康リスクはまったくない』その通達文には、こんな文言が書かれていたため、放射線のリスクを危惧していた教師たちも、口をつぐまざるをえなくなってしまったのだ。
ー文科省は口だけ、実際の除線は保護者の手で行われた
しかし、そんな状況が変わり始めたのは、 「子どもの20ミリシーベルト問題」が、マスコミでも取り上げられるようになった5月中旬ごろからだったという。
「新聞やテレビで福島県内の汚染状況が伝えられるようになってからは、保護者の間にも“このままではまずいのではないか”という危機意識が広がってきたんです。県外の人たちが声をあげてくださったことも大きかったと思います」と川口さんはふり返る。
こうした世論の高まりを受け、高木文明文部科学大臣は5月27日、「子どもの年間被ばく限度量1ミリシーベルトを目指す」との会見を行った。
「でも、文科省は会見を開いただけで、実際には何にもしていませんからね。結局、学校の除線も、すべて保護者の手を借りて行いました」
川口さんの学校では、休日返上で保護者が学校に集まり、放射線計測器を片手にデッキブラシで校舎を洗浄したという。また、校庭に関しては、業者に依頼して表土を剥ぎ取った。
「郡山市内の小学校は、かなり早くから危機感を持っていました。でも、中学・高校に関しては、除線をする前から校庭で部活動を再開していたし、除銭した後も、汚染された土を集めたいわゆる原発山のとなりで、当たり前のように部活動をしています。なぜ、子どもの未来のことより、目の前の部活動を優先するのか……。本当に腹立たしい」と、川口さんは憤る。
ー自分で運命を切り開く力をつけてあげたい
一方で子どもたちは、放射線のリスクと、どう向き合っていたのだろうか――。
川口さんが受け持つクラスでは、「窓を開ける、空けない」に関しても、子どもたち自らが、話し合いによって決定したという。
「最初のうちは、放射性物質のついた土ぼこりを吸い込むリスクを考えて、『窓を開けたくない』という子どもが半数以上でした。しかし7月に入ると、クーラーのついていない教室内の温度は、35度を超えるようになった。これはいよいよガマンができない、ということで、再び子どもたち自身が話し合った結果、時間を決めて窓を開けることになったんです」
子どもたちは、放射線のリスクもしっかり把握したうえで、今できる最良の方法を選択していたのだ。
川口さんは、子どもたち自身が自分で考えて判断ができるよう、放射線に関する知識をしっかり教えたうえで、自主性に任しているという。
「自分の手で未来を切り開いていく力をつてやりたいんです。悲しいことですが、福島の子どもたちは今後、差別や偏見ともたたかっていかなければならないでしょう。今はまだ、“福島の子どもたちはかわいそうだね”って同情してもらえますが、あと数年もすれば忘れ去られてしまう。だからこそ、自分で考え、自分で行動しなければ。それが、私が子どもたちに教えてあげられる唯一のことだと思っています」
ー子どもたちが安全に遊べる場所を
インタビューの最後に、改めて「今後、福島の子どもたちに必要な支援は?」と川口さんに問いかけてみた。
「町に1カ所でもいいから、完璧に放射線の管理ができていて、土遊びも水遊びもOKという場所を作ってほしいですね。残念ながら現在は、町全体の除線作業はちっとも進んでいません。だから、子どもたちが思う存分遊べる場所がないのです。私は今でも、子どもたちを安全な場所に逃がしてやりたいという気持ちに変わりはありません。でも、どうしても福島から出られない子どもが大勢いる。残った子どもたちのために何ができるのかを、今後は考えていきたい」
子どもたちに被害が出てからでは遅い。日本全国の人たちがこの問題に関心を持ち続け、国を動かす努力を続けていくしか、子どもたちを守る方法はないのだろう。(日刊ベリタより)
アーカイブ: トルコ、表現の自由の行方 -ジャーナリスト殺害で民族主義者が台頭か
(日刊ベリタ・サイトに2007年4月2日掲載された、アーカイブ記事の転載です。年数、役職などは当時のものであることをご了承ください。)
2007年1月末、トルコにとってはタブーとも言えるアルメニア人虐殺問題に言及してきたジャーナリストが、民族主義者の青年によって射殺された。言論の自由が踏みにじられた象徴的事件としてトルコ内外で大きな注目が集まった。この事件は現在のトルコにとってどんな意味を持つのだろうか?5月の大統領選挙やその後に続く総選挙に向けて、民主化への改革派勢力と反改革派勢力の確執が強まるなか、民族主義者たちが世論を扇動すれば、「何らかの暴動など、危険な状況が発生する可能性がある」と見る人もいる。
ー新聞社前での銃殺
トルコのアルメニア系ジャーナリスト、フラント・ディンク氏(52歳)は、2007年1月19日白昼、イスタンブールにある週刊紙「アルゴス」の事務所がある建物の前で、何者かに銃撃され、死亡した。
「アルゴス」はアルメニア語とトルコ語の新聞で1996年に創刊。ディンク氏はこの新聞の発行者だった。
ディンク氏はトルコが否定する、第1次世界大戦中のオスマン帝国の「アルメニア人虐殺」に関する記事や発言で、刑法国家侮辱罪301条で起訴され、2005年に執行猶予付きの有罪となるなど、数度の訴追を受けていた。
トルコ警察が翌日逮捕したのは17歳のオギュン・サマスト容疑者だった。地元紙の報道によると、少年は知人の民族主義組織のトップ、ヤシン・ハヤル氏に殺害を依頼されたという。ヒュリエト紙によると、ハヤル氏はディンク氏を敵視しており、「政府が何もできないのなら、我々が手を下す」などと語っていたという。サマスト容疑者自身は、後の警察への供述の中で、ディンク氏は「トルコ人を侮辱したために殺害した」と述べていると報じられた。
殺害後の記者会見で、エルドアン・トルコ首相は、「民主主義と言論の自由に弾が撃たれた」と述べた。ディンク氏への攻撃は「トルコとトルコの統一と安定への攻撃だ」と続けた。
23日、イスタンブールで行われたディンク氏の葬儀には約10万人が参加し、多くの人が「我々はアルメニア人だ」と書かれたプラカードを掲げていた。
2月上旬になって、この犯行は一部の民族主義者たちによる事件として容易に片付けられないような展開があった。サマスト容疑者が、拘束後、トルコの治安機関職員数人と、トルコ国旗の下に並んでいる映像がテレビ放映されたのだ。近代トルコ建国の父ケマル・アタテュルクのポスターも貼ってあった。
国家体制の中に今回の殺害を間接的に支持する動きがあった可能性を示唆する映像として受け止められ、「ディンク氏殺害事態よりも、この映像の方が重い」とする地元メディアの報道が続いた。
ーアルメニア人の「虐殺」
第1次世界大戦中、トルコに住んでいたキリスト教徒のアルメニア人の大量殺害を「虐殺」と定義するかどうかは、国によって意見が分かれる。フランスを初めとする多くの西欧諸国やロシア、カナダ、ウクライナなどは虐殺と見なしている。
歴史を振り返ると、オスマン帝国がロシア軍と闘った際、一部のアルメニア人たちがロシア側に同調する動きがあった。1915年4月、帝国軍はアルメニア人指導者たちを殺害。5月、200万から300万人ほどのアルメニア人たちはトルコからシリアやメソポタミア(現在のイラク)に強制的に移動させられた。この過程で命を落としたアルメニア人もかなりいるという。
アルメニア人側は、オスマン帝国による殺害や飢えで約150万人が亡くなったと主張し、「虐殺があった」としている。トルコ側は、大量のアルメニア人が内戦や世界大戦の中で亡くなったことは認めつつも、「虐殺ではない」がその公式見解だ。
ちなみに国連虐殺条約(1948年)によると、虐殺とは「国家的な、民族上の、人種上の、あるいは宗教上のグループの全体をあるいは一部を破壊する目的」で行為を実行すること、とある。
トルコでは、アルメニア人虐殺があったという認識は刑法301の違反で国家侮辱罪の対象になる。
ー刑法301条、政府は改正示唆も
刑法301条は、トルコのEU加盟交渉を開始するために行なわれた一連の刑法改革の一環として、2005年6月に施行されたばかりの新法だ。トルコをEU諸国の水準に合わせるためという目的だったが、これまでにこの条項にからんで60人近くが訴追されている。
301条によると、トルコ人らしさ、トルコ共和国、トルコ議会を公的に侮辱する者は6ヶ月から3年までの禁固刑で罰せらる可能性がある。同様に、トルコ共和国政府、司法制度、軍隊や情報機関を公的に侮辱する者は6ヶ月から3年の禁固刑。トルコ国外に住むトルコ人が同様の侮辱を行なった場合、禁固刑は3分の1になる。批判を目的とした思想の表現は犯罪にはならない。
2006年ノーベル文学賞を受賞したオルハン・パムク氏は、2005年、スイスの雑誌のインタビューの中で「クルド人3万人、アルメニア人100万人が殺害されたが、私以外には誰もこのことを話そうとはしない」と語り、301条を違反したとされたが、06年1月、取り下げられた。
著名な作家エリフ・サファク氏も、昨年、『イスタンブールの私生児』という作品で「トルコ人らしさを侮辱した」として、訴追されたが、この件も後取り下げられている。
有罪になるところまではいかない場合が多いので、一説には、侮辱した人々を有罪にするためでなく、トルコのEU加盟阻止を狙い、表現の不自由さが内外に宣伝できるように、検察や裁判所が著名な作家たちを次々と訴追している、という見方もある。
しかし、サファク氏自身がCNNのインタビューで昨年秋語ったように、301条が「表現の自由を萎縮させる」働きをしていることは否定できない。改革のための新法が、逆にトルコの足を引っ張るという奇妙な展開となっている。
加盟を望む現政権にとって、内外の批判は予想外で、政権内から301条の適用基準の見直しや条項改正を示唆する発言も出るようになった。
2006年11月、イスタンブールで開かれた国際メディア会議「ニューズ・エクスチェンジ」の会場で、エルドアン首相は刑法301条に言及し、「法律そのものは悪くない。どこの国でも国家を侮辱すれば罰せられる法律はあると思う。ただ、どの程度のことが法律違反になるのか、司法の適用には問題があるのかもしれない」、と述べた。「有罪に至る人は少なく、殆どの場合、取り下げられているという事実も見て欲しい」。
会場にはサファク氏自身も姿を見せ、「実際に301条が適用された側の気持ちも考えて欲しい。表現の自由を縛る悪法だ」と首相に向かって発言していた。
アルメニアから来たというジャーナリストは、「アルメニア人虐殺をトルコ政府が認めないのはおかしい。虐殺だと認めるべきだ」と発言したが、エルドアン首相は、これに動じることなく、国内のアルメニア系トルコ人の融合策の進展を説明し、アルメニア政府と歴史認識のための話し合いの開始を提唱した。
一連の質疑応答の後、エルドアン首相は、座を去る前にアルメニア人ジャーナリストに歩み寄り、「両国間で歴史認識の話し合いを開始したい」と繰り返した。
この2ヵ月半後にはディンク氏が殺害されたことを思うと、何と悠長な会話だったろう、と私は今になって思う。アルメニア政府との溝を埋ようとしている間に、アルメニア人「虐殺」など決して認めない、国内の民族主義者にディンク氏は命を奪われてしまったのだから。
ギュル外相は、ディンク氏殺害後から現在までに、301条の改正を何度か提唱しているが、トルコの英字紙「ターキッシュ・デイリー・ニュース」のコラムニスト、メーメット・アリ・ビランド氏は、3月30日付けのコラムの中で、「いくら外相が変えたがっても首相が変えようと言わなければ変わらない」と指摘。しかし、来月の大統領選を備え、「首相は何かを変えようとはしないだろう」との見方を示した。
アリ・ビランド氏は、「301条を導入する時、首相は、『まず施行して、それから様子を見よう。自然淘汰があって、最後には公正さが実現できるだろう』と言った。私が理解できないのは、法律に間違いがあった時、これを訂正するために、何故先に痛みをこれほど経験する必要があるのかという点だ」と首相の姿勢を批判している。
4月、50数人のノーベル賞受賞者たちが、トルコに対し301条廃止の書簡を送ったが、直ぐに政府が行動を起こす気配は今のところはない。
ー世俗主義を守れと30万人がデモ
1月末、10万人のイスタンブール市民が、ディンク氏の葬儀に参加し、「我々はアルメニア人だ」と書かれたプラカードと人の波の写真が世界中のメディアで報道された。
3ヵ月後、今度は30数万人が首都アンカラでデモに参加した。多くの人が手にしていたのは、トルコ共和国建国の父ケマル・アタテュルクの写真付きプラカードや赤と白のトルコの国旗だった。
このデモが行われたのは、5月中旬に行なわれる大統領選挙のための候補者の選定が2日後に始まることになっていたからだ。現首相のエルドアン氏は次期大統領の座を狙っているといわれる。氏が率いる与党・公正発展党(AKP)はイスラム色が強く、エルドアン氏の出馬をけん制するためのデモだった。首相は大統領になっても政教分離が脅かされることはない、と言い続けているが、軍を中心に世俗主義者の懸念は非常に強い。
「トルコは、永遠に世俗主義国家であるべきだ」、「トルコはイスラム国家になって欲しくない」とデモ参加者たちはメディアのインタビューに答えていた。
大規模なけん制デモの発生に、エルドアン首相は、出馬締め切りの25日直前に自分自身が出馬するかどうかを決定する、と表明することを余儀なくされた。
ディンク氏殺害を一つの機運として、民族主義者力の拡大を英語圏のメディアは盛んに書きたててきたが、オルハン・パムク氏の小説の1つを英訳した、在ロンドンのモーリー・フリーリー氏は、「トルコ国内の勢力間のレトリックを外国のメディアがそのまま報道しているだけ。実態はない。ディンク氏が倒れても、民主化の運動は続く」と指摘する。
しかし、トルコ・サバー紙の新聞監査員でコラムニストでもあるヤブズ・バイダー氏は、「大統領選挙やそれに続いて年内に行なわれる総選挙を控え、AKP党に代表される改革派と変化を望まない世俗主義者たちとの溝は深まるばかり」と見る。「何らかの形で大きな暴力事件が勃発し、暴動につながっていったら、国民は感情的な振り子状態となって、左右に揺れるだろう」と予測する。
「ディンク氏は、アルメニア人殺害という、トルコの暗い歴史を自由に議論するための象徴だった。(トルコ内の)アルメニア人とトルコ人の融合の象徴でもあったそのディンク氏が弾丸で殺されてしまったので、ものを言うと怖い、という思いを人々は抱いている」。こうした緊張感をはらんだ雰囲気の中で、「大きな事件がなく今年が終わるようであれば、トルコは新しい時代に入る。しかし、2大勢力の対立がコントロールできない状態になると、暴力的な事件が連発する可能性もある。私は将来を楽観視していない」とバイダー氏は語る。
トルコのタブーは、建国の精神である世俗主義、トルコ人らしさ、国家そのもの、国家の公定史観(アルメニア人虐殺があったなど)を批判すること。「国家の威信に挑戦する声を上げたものが倒される」(フリーリー氏)。そのトルコで、民族主義者と世俗主義者がともに自らの主張の正当性の根拠としているのが、建国の父アタテュルクの理念である。ではいつか偉大な指導者さえも批判の対象にできるほどの言論の自由は実現するだろうか?少なくとも、批判しても射殺されない程度の自由が?
トルコは今、表現の自由という観点からは、薄氷を踏むような状況にあるのかもしれない。(つづく)(日刊ベリタに「トルコ表現の自由⑤」として2007年4月掲載された記事の転載です。)
津波と原発の被災地の村と浜から(中)≪原発と農民≫それでも種をまく
放射能は農民のこころを引き裂いた。この春、福島の農民は悩みながら種をまいた。大なり小なり土が汚染されていることは間違いない。そこに種をまき、田植えをして果たして大丈夫なのあろうか。収穫をしたものを食べてくれる人がいるのか、そんな土地に作物をつくっていいのだろうか。それでもみんな種をまき、苗を植え、田植えをした。なぜと問われたら、「百姓だから」というほかはない。
ーそれでも種をまくー郡山の中村さん夫妻―
いつもは明るく、よく話す中村喜代さんだが、その日は寂しげで、不安そうにみえた。東日本大震災の日からほぼ3週間が経った4月初め、福島第一原発の暴走はその行き先も定かではないことが次第にはっきりしてきていた。ふいに喜代さんがまるで歌うようにいった。
「百姓は種まいて百姓、つくって百姓」
そして、さあと掛け声をかけて台所に立って行った。瞼が光っているように見えた。連れ合いの和夫さんはそれを受け、「補償とか、そんなことではなく時期が来れば田んぼを起こして、水を入れ、田植する、それを続けないと百姓としてやっていけなくなる。そんなものです」と自分に言い聞かせるようにゆっくりと話した。
郡山市逢瀬地区で代々の百姓を継ぎ、もう四〇年を超える。有機農業に転換してかなりになる。何年も冬水田んぼもやってきた。その田んぼには時期になると白鳥が百羽以上やってくる。喜代さんは地域の一角に仲間の女たちとビニールハウスで野菜の直売所を作り、生産と販売・加工を手がける事業を続けている。
長年積みあげてきたそうした試みが原発で一瞬にして吹き飛んだ。野菜は放射線が検出されたということで出荷停止や自粛になり、直売所は閉鎖したまま、いつ再開できるかのめどもなかった。
そんな話をお二人から聞きながら、「今年の作く付けは」と質問したときのお二人の応えである。「それでも種をまく」、そんな言葉が頭をよぎった。百姓だから出てきた言葉なのだと思った。
ー「休むと百姓でなくなる」-三穂田の高田善一さんー
同じく郡山市の三穂田地区で集落仲間と稲作生産組合をつくり、六〇ヘクタールを経営する高田善一さんは五月、例年だと否応なく張り切る時期なのに、今年は何とも気合が入らない、と悩みながらトラクターに乗っていた。秋、本当に食べられるものができるのか、なにより放射能が降り積もった土地に作物を植えていいのだろうか、それを考えると、好きな酒も飲めない、仕事の後一杯やるのが仲間の楽しみだったが、あの三月一一日以来、誰も飲もうといわなくなった、と語る。
高田さんは稲作のほか乳牛を八頭飼っている。乳を搾るだけでなく、田んぼに入れる堆肥を手に入れるためにも牛は欠かせない。その牧草からもセシウムが出た。五月半ば、ふらっと訪ね、作業場で待っているとトラクターで帰ってきた。牧草をすき込んできたのだという。「切ないですね」というと、「切ないね」といった。
それでもみんな耕し、種をまき、田植えをした。なぜと高田さんに問うた。中村さんと同じ答えが返ってきた。「百姓だからね、休むと百姓でなくなる」。
種を購入し、肥料をまき、燃料代を消費して機械を動かし、自分の労力は計算に入れなくても結構お金をつぎ込んでいる。そうして作った作物が食べられるものになるのかどうか、誰にもわからない。それでもみんな種をまいた。(日刊ベリタより)
津波と原発の被災地の村と浜から(上) ≪津波と漁民≫浜と海は誰のものか
管首相の肝いりで発足した首相の私的諮問機関「東日本大震災復興構想会議」が6月25日、「復興への提言~悲惨のなかの希望~」を題する答申を首相に提出した。いろいろ修飾語が並べられているが、それらを取り去っていくと、残るのは増税と効率優先の復興路線、という本質が見えてくる。新自由主義的復興とでも言うべき鎧が袖のしたからのぞいて見えるのだ。4月初め以来、原発被災地福島の村々を何度も訪ね、6月初めには法政大学サスティナビリティ研究機構の調査団に同行して、地震と津波の被災地三陸沿岸を北は岩手県宮古市から南は宮城県名取市まで歩いた。
ー日本の食を支えた三陸の浜と海
宮古、釜石、大船渡、石巻、女川、塩釜…。豊かな北洋を控えて名だたる漁港はどこも壊滅状態だった。防波堤、防潮堤は破壊され、漁船は陸地に打ち上げられている。沿岸に並んでいた水産加工場や魚市場はあとかたもない。岩手、宮城、福島の太平洋岸、いわゆる三陸沖は親潮と黒潮がぶつかる世界でも屈指の漁場である。複雑に入り組むリアス式海岸の入り江ごとに漁港があり、沿岸、沖合、遠洋そしてカキやホタテなどの貝類や、ワカメ、コンブ、ノリなどの養殖が盛んに行われていた。
3月11日の津波はこれらすべてを飲み込んでしまった。漁船も養殖のいかだも漁港も水産加工場も卸売市場も、全てが消えてしまった。農林水産省の統計から漁獲高の順位をみると、サンマは1位北海道、2位宮城県、3位岩手県。サケ類1位北海道、2位岩手県、3位宮城県。サメ類1位宮城県、2位北海道、3位岩手県。養殖カキ1位広島県、2位宮城県、3位岡山県。養殖ワカメ1位岩手県、2位宮城県、3位徳島県。魚食を中心とするこの列島の食生活は三陸を除いてあり得ないことが分かる。
被害額は今も正確な数字は把握できていないが、水産庁に報告された5月末までの数字を見ても、陸に打ち上げられてろして被災した漁船が1万8600隻、被害を受けた漁港3県の263漁港のうち258漁港、宮城では水産加工施設の7割が全半壊した。
陸の施設だけではない。湾には大量のがれきが流出し、漁や養殖の再開を妨げている。日本一を誇った防潮堤がもろくも崩れた岩手県宮古市田老の漁港では、壊れた防潮堤の残骸がそのまま湾内に流入し、海を占拠している。
ー漁業権は「入り会い」の権利なのだ
6月25日に出された復興構想会議の提言の柱に、かねて宮城県の村井嘉宏知事が提唱していた水産業特区構想が盛り込まれた。漁業権を外部資本に開放し、復興を推進しようという構想だ。宮城県の漁業協同組合は法的手段に訴えても漁業権は守るという立場を貫いているか、「復興のための有力な方法」とマスメディアを含め、この構想を支持する意見も多い。
しかし、この構想が実際に適用された場合何が起こるかを危惧する漁業関係者は多い。まず起こるのは漁民の浜と海からの排除であろう。宮城県や構想会議の計画では、漁民は参入してくる企業に雇われるから安泰だ、と説明している。だが、漁業は潮の流れ、岩場、産卵場所など地元の海をよく知る手だれの漁師によって支えられてきた。そうした漁師は高齢者である場合が多い。高齢者をわざわざ労働者として雇用する企業があるとは思えない。結局ベテラン漁師から順に浜や海から排除され、働く場所を失った漁師は地域にも住めなくなる事態が起こることが予想される。
参入してくる外部資本は果たして漁業・水産業をやるのかという疑問もある。世界でもまれなリアス式の風光明美な三陸海岸は、豊かな漁業の地であると同時に観光資本の垂涎の地でもある。これまで漁民は漁業権をたてにして開発を防ぎ、海を守ってきた。その漁業権を資本に開放するということは、海がどのように使われても防ぎようがないということを意味する。
三陸の浜は外国資本を含む大観光資本に占拠され、海岸はホテルの占有地となって地元住民は締め出され、海はレジャーボートに遊び場となるという光景が浮かんでくる。
もっと重大なのは漁業権という権利はいかなるものかが、まったく無視されていることだ。宮城県は構想会議のいう漁業権は、県知事により漁協に与えられる免許、というものとみなされている。しかし、本来漁業権は陸の入会権と同じく、その山や土地、海、川を利用する地域に生きる人々の「総有」の権利である。
海や山や土地や川は本来誰のものでもない。その地域の資源を地域に生きる農民や漁民が自分たちの共同のものとして闘いとってきた権利なのである。それは生存権そのものといってもよい。
使う人みんなのものであると同時に、共同利用グループを構成する個人の権利でもあるこの資源は、その個人が一人でも反対すれば譲渡や売買はできない。それが「総有」の意味だ。政府や県が勝手に外部資本に開放できるものではない。この構想が漁民の震災からの復興に立ち上がった漁民の息の根を止めてしまうことになりかねない。(日刊ベリタより)
弘恵ベイリーのやっぱりいいねぇ~NY 「ヤバかった時代のイーストビレッジで起きたヤバい事件」 ny1page.com
11.07.15 by ny1page.com カテゴリー: ルポ, 世界の窓, 日々の出来事
(NYエンターテインメントの情報サイトhttp://ny1page.com/の掲載記事の転載です。)
今でこそイーストビレッジといえば、アベニューAでもBでも白人の若い兄ちゃんや姉ちゃんが闊歩して、こ洒落たバーが立ち並び、日本のファッション雑誌でも「人気のレストラン」なんてお題で紹介されたりしている。
が、私が渡米したばかりの96年は、まだアベニューAから先は、アルファベットシティーと称され、危険なエリアだといわれていた。Cなんてところまで行くと、ラテン系とブラックしかいない。もはやスパニッシュしか聞こえてこないエリアもあり、ここは本当にニューヨーク?って感じだった。街の中心部には、髪の毛を青や緑や赤に染めて、トサカのように立てたパンクに狂ってる若者がいた。その上、わけもなく昼間かっらラリってる兄ちゃんはそこらじゅうにいたし、
茶色い紙袋に入れたビールをにぎりしめてる赤ら顔のオヤジ、そしてホームレスは、段ボール箱でそこいら中に寝ている。若い家出娘が、太った腹をTシャツから見せながらピザやのゴミ箱をあさって、ピザを食ってたりもする。たまたま自転車でアベニューCあたりを通りかかったら、警官に捕まっている
ドラッグディーラーらしき黒人の男の子を見た。よくアメリカアクション映画で刑事が犯人を捕らえるシーンに出てくるみたいに、パトカーの上に両手をあてられ、身体検査をうけていた。
「うぉ~~~っ!これがリアルなニューヨークだぁ」とドキドキ興奮したものだった。
私は、そんなアベニューAと1アベニューにルームメイトのジローちゃんと住んでいた。この住まいは、ジローちゃんがサッポロというミッドタウンにあるラーメン店に「ルームメイト募集」の張り紙をしていたことから見つけた。
電話をかけてみたら、朝のニュースでキャスターをやってるような爽やかな声のジローちゃんが、「いつでも部屋を見に来てください」と言うので、その足で向かった。
半地下にあり、ほとんど日中でも真っ暗なこの部屋。普通の女性だったら引いてるだろうけど、前に住んでいたールームメイトが描いたのだという真っ白な壁に黄色やブルー、オレンジで彩られたカラフルな色の的の絵と、赤い玄関のドアと赤いテーブル。
小汚いオレンジ色のラグも、なんだかビレッジらしいと感じた。
そして、CDラックを見ているうちにワクワクしてきた。そこにはジャズやレゲエ、見たことないブラックのアーティストのドラム&ベースなどがCDショップ?ってくらいに並んでいたのだ。
北島サブちゃんやチビでブスな女の演歌歌手のCDはさすがにここにはない。これがニューヨークだぁ~~~と、踊りだしたい気分。
「ここに住む!決めた」と一言。「本当にいいんですか?ベッドを縦に並べて寝ているSTUDIO(ワンルーム)ですよ。
プライベートな部屋はないし、バスタブもないし」「OK」
すぐさま荷物を運び込みビールで乾杯したのだった。
ジロー君と暮らしはじめてからの私といえば、毎日がワクワクのし通しだった。なんせ住みたいってだけでやってきたニューヨーク。目的もなくフラフラしてるだけなのだ。そりゃー楽しいに決まってる。学校に行くわけでもなく、働くわけでもないのだから。日本のテレビ業界に勤めているからか、ジローちゃんは音楽やメディアに詳しく、情報収集しなくてもサブカルチャー的な情報は彼から入ってくる。それもまた好都合。
ところが、それから数週間後に、ヤバイエリアならではな事件が起こるのだった。
ある夜、午前2時近くまでジローちゃんと私、そしてロサンジェルスから来ていたジローちゃんの友人で日本語のできるタイ人のスーちゃん、私がランゲージエクスチェンジで知り合ったブラックの兄さん。この4人のメンバーで部屋で飲んでいた。
すると、いきなりドーンと、玄関で爆弾が落ちたみたいに大きな音がした。
「だめだよージローちゃん開けちゃー。危ないよ、何だかわかんないのにー。」と叫ぶ私を無視して、恐れ知らずなジローちゃんが玄関を開けた。
「オヤジが死んでるー」とジローちゃん。「えー死んでるわけないでしょー」と側に寄ってみると、ブラックのオヤジが、玄関までの急な7段くらいの階段を頭からまっさかさまに突っ込み、蚊の肺活量ほどの呼吸をしていた。
すぐさまジローちゃんは、「911(こちらの緊急連絡は911である)に電話しなきゃー」と冷静に受話器を手にする。私は「オヤジをこのまま置いておくと窒息しそうだから、皆で引き上げよう」と声をかけ、ピクリとも動かないオヤジの身体を持ち上げた。
911が到着したのは、オヤジが冷たくなってからだった。というのは冗談で、オヤジは生きていた。
救急隊員の兄ちゃん達は、オヤジをガッチリと固定してタンカに乗せると、「首の骨が折れてたら大変だから、素人が動かしちゃだめだよ」と軽く注意。さすが救急隊員はプロだななんて思っていると、ジローちゃんに事情聴取をはじめた。
まず名前を聞いて、「日本人か?」と質問していた。ジローちゃんのラストネームがイトウだったので「ジャッジ・イートォー(OJシンプソンのジャッジをやった)の親戚か?」とジョークをとばした。
「まーそんなとこだよ」とジローちゃんも相槌。そこから救急隊員は、しばらく楽しそうに世間話をして、「じゃーまたなー」とオヤジを連れて去っていった。日本の救急隊員みたく緊迫したムードは感じさせず、のんきである。
たまにゴジラの人形がついている消防車が、普通に街を走っていたりするから、ニューヨークの救急隊員って、危険と隣り合わせの仕事中も遊び心は忘れないのだろう。
さて、事件の話に戻そう。
この後、一緒に飲んでいたブラックの兄さんは手にべっとりとついた血を見て、悲鳴をあげ、バスルームに駆け込んだ。石鹸で何度も何度も手を洗っていたようだ。万が一、妙な病気とかに感染したりすれば、たまったもんじゃない。
「飲みなおす?」とスーちゃんとブラックの兄さんに聞いたが、すぐさま二人はオバケ屋敷から逃げ出すかのように部屋を出て行った。
そんなこんなで、まだまだこの地下の部屋にいる限り、いろいろな事件が続くのであった。
そのお話は、また次回!
「憲法記念日ペンを折られし息子の忌」~朝日阪神支局事件から24年
憲法記念日の3日、兵庫県西宮市の朝日新聞阪神支局を訪ねました。一階の入り口に24年前のこの日、散弾銃で襲われ殺害された小尻知博記者(当時29歳)の遺影が花に包まれるように飾られていました。記帳、焼香して、支局3階の「朝日新聞襲撃事件資料室」を見学しました。壁にかけられていたご遺族の句が強く印象に残りました。「憲法記念日ペンを折られし息子の忌」。
24年前の1987年5月3日、朝日新聞阪神支局が目出し帽をかぶった男に襲われ、勤務中だった小尻さんが殺害され、記者一人が重傷を負う事件が発生しました。共同通信などに届いた犯行声明は「日本民族独立義勇軍 別動 赤報隊 一同」と名乗り、「反日世論を育成してきたマスコミには厳罰を加えなければならない。特に朝日は悪質である」などと書かれていました。前後して朝日新聞東京本社なども襲撃され、さらには当時首相だった竹下登氏や元首相中曽根康弘氏への脅迫、江副浩正元リクルート会長宅襲撃と、赤報隊を名乗った犯行が続きました。警察庁広域指定116号事件、いわゆる「赤報隊事件」はしかし、犯人を突き止められないまま2003年3月にすべての事件の時効が成立しました。
そのときからでも、すでに8年の年月が過ぎています。わたしにとって5月3日は、憲法記念日として「表現の自由」の尊さに思いをはせる日であるのと同時に、朝日新聞阪神支局事件という狂気としか言いようがない言論テロを決して忘れてはならないと胸に刻む日にもなっています。新聞の仕事に携わる多くの人が、同じ思いだと思います。
24年前のこの日、わたしは通信社で記者になって5年目の26歳で、初任地の青森から埼玉に転勤したばかりでした。小尻さんは記者歴で2年先輩。事件の衝撃は、今も薄れることはありません。自分が選び取った記者という仕事は、本当に命がけであることを迫られるのかと、身震いするような気持ちになったことをよく覚えています。
後年、新聞労連の委員長として、日本国憲法が規定する「表現の自由」について実地に学ぶ機会をふんだんに得ました。とりわけ痛切に感じたことは、自由な表現活動が担保されない社会は、戦争との親和性が高いということです。あるいは、戦争遂行には自由な表現活動はじゃまになるとも言えます。66年前に日本の敗戦で終結したあの長い戦争で、新聞が戦争の実相を社会に伝えず、戦意高揚の一翼を担っていた歴史はその一例だと思います。
「赤報隊」は一連の犯行声明の中で「反日朝日は五十年前にかえれ」と要求していました。当時から50年さかのぼれば1937年。7月7日の盧溝橋事件で日中戦争が勃発し、1945年の敗戦まで「15年戦争」とも呼ばれるあの長い戦争が始まった年です。異論を許さず社会が戦争遂行一色になっていく、それにすべての新聞が加担していく、そういう時代でした。赤報隊事件は言論テロであることと同時に、歴史に学ぶことなく異論を認めない社会を是としていた点で、二重の意味で決して許すことのできない凶行です。
阪神支局事件を機に、朝日新聞労組は毎年この日、言論の自由をテーマに西宮市などで集会を開いています。息の長い取り組みです。わたしも新聞労連委員長時代は東京から足を運び参加していました。ことし3月に大阪に転勤になり、一個人として久しぶりに参加を考えましたが、スケジュールが固まらず申し込みは見送りました。結果的に時間ができたので、初めて阪神支局を訪ねました。
現在の支局は事件当時と場所は変わらないものの、建物は改築されています。3階の資料室には事件当日、小尻さんらが座っていたソファー、散弾を受けてつぶれたボールペン、体内の散弾を写し出したエックス線写真など、凶行を今に伝える数々の品が置かれています。若い記者、記者を志す若い人たちには、所属組織・企業の違いを越えてぜひ見てほしい資料だと感じました。同時に、若い記者を育てる立場の世代、さらにはその上の立場の人たちにも。
冒頭に紹介したご遺族の句は、旧支局に小尻さんの遺影が飾られていた様子のパネル写真と並んで、壁にかけられていました。遺影の小尻さんは当時のままの姿ですが、わたしを含めこの24年の歳月を生きた者はみなそれぞれに年齢を重ねました。事件を風化させることがないよう次の世代に語り継いでいくことは、記者の仕事を続けてきた者の義務だろうと考えています。(ブログ「ニュースワーカー2」より)





