映画「フロストxニクソン」②フロストの経歴と評価
映画「フロストxニクソン」の英国人司会者デービッド・フロストは1939年4月、ケント州に生まれた。父はメソジスト教会の牧師だった。成績優秀な児童が進む「グラマー・スクール」で勉強し、ケンブリッジ大学(専攻英語)へ。
大学時代に学生新聞や文学雑誌を編集し、「フットライツ」演劇集団でも中心的な存在となる。ケンブリッジ大のフットライツは1960年代以降、英国で盛んになったコメディ・風刺ブームを担う人材を数多く生み出した。モンティ・パイソンのジョン・クリーズ、米国でも活躍する俳優のヒュー・ローリー、女優のエマ・トンプソンなどがほんの一例だ。後にBBCの理事長となるジョン・バートもフットライツの仲間だった。(バートは映画「フロストxニクソン」にも出てくる。)
時事風刺番組「ザット・ワズ・ザ・ウイーク・ザット・ワズ」(1962年―1963年)の司会者となり、フロストは1960年代の英国の風刺番組ブームの火付け役となった。同番組は米国版も制作されている。別の風刺番組「フロスト・レポート」(1966年)も大人気となった。これは視聴者をスタジオに入れて収録した、英国で初めての時事番組だった。「ロンドン・ウィークエンド・テレビジョン」(LWT)や 「TVam」といったテレビ局の立ち上げもフロストとその仲間たちの手になるものだった。
クイズ番組の司会者や著名人のインタビューで知られるフロストは、1964年以降の英国の全首相(最後はブレア元首相)の単独インタビューを行っている。
私生活では喜劇俳優故ピーター・セラーズの最後の妻となったリン・フレデリックとの結婚後、ノーフォーク卿の娘と再婚。現在、自分自身が押しも押されぬ超有名人の一人となった。
―マードックと一戦?
LWTでフロストがインタビューした人物の一人に、オーストラリア出身のメディア王ルパート・マードックがいた。ジェローム・タッチルの書いたマードックの自伝「ルパート・マードック」によれば、フロストはマードックを攻撃するようなインタビューを行った。きっかけは、「プロフューマ事件」だ。1960年代半ば、ジョン・プロフューマという当時の英国防大臣が、ロシアのスパイとの間で、図らずも愛人を「共有」していたことが発覚した。プロフューマは辞任し、世間から一切姿を消して、ボランティア活動に従事していた。それから5年後、当時の愛人が告白話をマードックが所有していたタブロイド紙に売った。新聞は飛ぶように売れたが、英国民が忘れたがっていた過去を思いださせたマードックに対し、嫌悪感が国民の中に湧いた。こうした声を代弁しての厳しいインタビューだったが、マードックはフロストに対し強い怒りを感じたらしい。1970年、経営が悪化していたLWTの支配権を握ったマードックは、即フロストを首にしたという。
―フロストはこの映画をどう見たか?
フロスト自身は「フロストxニクソン」をどう見ているのだろう?「サンデー・タイムズ」紙の別冊「カルチャー」1月18日号のインタビュー記事から一部を紹介してみよう。
2006年の舞台劇が監督ロン・ハワードによって映画化されたわけだが、ハワードは「素晴らしい仕事をした」とフロストは絶賛する。
舞台劇を作る前に、台本を書いたピーター・モーガンは、フロストに対し「自分は言ってみれば『知的なロッキー』を作るつもりだ」と語ったという。これに感銘したフロストは英国での上演に関して何の報酬も要求しなかった。
映画化にあたってはロイヤリティー料金を受け取ることにした。その比率は語らなかったが、脚本の書籍化、オリジナルのインタビューのDVDなどが発売されているので、相当額の報酬を得るようだ。
少々不満なのはニクソンをインタビューする前のフロストが司会者としては盛りを過ぎていたようなニュアンスが出ている点だ。しかし、「どんなことも最後は真実が明らかになる」とし、芝居・映画ができたことを「非常に喜んでいる」そうだ。
―元同僚の意見は?
最後に、フロストをよく知る人物、デービッド・コックス氏の見方を紹介しておきたい。コックス氏は英ガーディアン紙のネット・コラムニストの1人。主にメディアや環境問題について書いている。LWTの元ニュース部門の統括者で、フロストは仕事仲間だった(ちなみに、LWTは現在民放ITV1の一部になっている)。
コックス氏によれば、「フロストxニクソン」の中にあったような、一人のジャーナリストが政治家を長時間インタビューし、本音を引き出すというやり方は、現在ではほぼ実現不可能だと言う。1990年代以降、丁々発止のやり取りを避けようとする大物政治家が厳しい取材者のインタビューには応じない傾向が出たからだ。
また、2005年まで続いていたBBCの朝のインタビュー番組では、フロストは映画の中で見せたような厳しい質問をしなかったと言う。丁寧な言葉遣いで政治家に話しかけるフロストは、コックス氏の観察によれば、「政治家が困惑するような質問を避けていた」。フロスト自身は「サーガ」という雑誌の取材で、相手を糾弾するような質問の仕方は、期待する答えを引き出すためには「逆効果だ」と説明している。
フロストは、「後年になると、権力者の説明責任を問うよりも、友人となることを重要視するようになった」とコックス氏は語る。毎年フロストが開く夏のパーティーに多くの著名人が招待されるのがその証拠だそうだ。
コックス氏によれば、ニクソンは、大統領職の最後に起きたウォーターゲート事件のためにベトナム戦争の終結や中国との国交成立などの大きな業績が忘れられてしまった。フロストには、1960年代の風刺ブームを作り、「欠点のある大統領を破滅させた」功績がある。しかし、「その後は、フロストも(ニクソン同様)使命を果たさなかった」とし、ジャーナリストとしては大した仕事をしていないと厳しい評価を下している。
主な参考資料:オブザーバー・レビュー(1月18日付け)、サンデー・タイムズ(1月18日付け)、インディペンデント・オン・サンデー(1月25日付け)、Jerome Tuccile “Rupert Murdoch,” デービッド・コックスのブログ及びインタビュー、BBCラジオ
ニクソン・インタビューに関してさらに詳しく知りたい方は以下を参考に。
http://en.wikipedia.org/wiki/The_Nixon_Interviews
http://news.bbc.co.uk/1/hi/programmes/breakfast_with_frost/737846.stm
映画「フロストxニクソン」①ジャーナリズムの映画として観る

3月末から日本で公開される、米映画「フロストxニクソン」。「フロストxニクソン」の「フロスト」とはリチャード・ニクソン故米大統領(任期1969年―1974年)を、「フロスト」とは英国人のテレビ司会者デービッド・フロストを指す。全米を揺るがした政治スキャンダル「ウォーターゲート事件」で失脚し、大統領を辞任したニクソンをフロストがインタビューした実話の映画版だ。
ウォーターゲート事件(1972年)とは、米民主党全国委員会事務所への不法侵入・盗聴事件。事件の調査過程でニクソン大統領が盗聴に関わっていたことが明らかになり、1974年、辞任する羽目になる。任期中に辞任した大統領はニクソンが初めてだ。
米国民はニクソンが公式に謝罪することを望んでいたが、謝罪がないままに時が過ぎた。辞任の翌年、後任のフォード大統領はニクソンに特別恩赦を与えてしまった。
1977年、辞任から3年経ち、ニクソンは英国人のテレビ司会者フロストの長時間インタビューを巨額で受諾する。ニクソンはイメージアップを狙っており、フロストは単なる番組ホストからの脱却を目指していた。巨額のインタビュー費用を借金し、ニクソンとの決戦に挑んだフロストは、果たして、米国民が望む謝罪を元大統領から引き出せるかー?
この映画の元々はロンドンの舞台劇だった。2006年8月、ロンドンのドンマル・ウェアハウス劇場での初演が始まりだ。翌年には米ブロードウェーで上演の運びとなった。台本を書いたのは英国人ピーター・モーガン。モーガンが最初にフロストとニクソンの話を書こうと思い立ったのは、「英国人ジャーナリストの話だったから」(今年1月、BBCラジオでの談話)だそうだ。「英国人が」という部分がきっかけというのは意外である。
モーガンのこれまでの作品には映画「クィーン」(2006年)、ブレア前英首相とブラウン現首相との確執を描いた英テレビのドラマ「ディール」(2003年)などがある。
映画化にあたり、モーガンが監督に選んだのはロン・ハワード(「コクーン」、「ビューティフル・マインド」など)。先のBBCラジオの番組の中で、「台本を素直に映画に出来る監督が欲しかった」とモーガンは述べている。オリバー・ストーン(「7月4日に生まれて」、「JFK」他)ではなく、ロン・ハワードだ、と。ストーンは既に「ニクソン」(1995年)を作っている。ストーンがやったら、原作とは全く違う作品に作り変えられてしまうと懸念したのだろうか?
ニクソン大統領とウォーターゲート事件を扱った映画では、ロバート・レッドフォードとダスティン・ホフマンがワシントンポスト紙の記者に扮した「大統領の陰謀」(1976年)があった。この映画を観て、「ジャーナリストになりたい」と思った人は多いのではないだろうか。「フロストxニクソン」も似たような興奮を呼び起こす作品だ。ジャーナリズムに関する興味深い映画の1つと言えるだろう。
さて、「ジャーナリズム」というのを、どう説明したらいいだろう?
「日々の出来事をつづる」という意味で広く解釈するとしても、何らかの形で物事の真実、本質を言い当てるという役目があるとしたら、フロストはこの映画で完璧にジャーナリストだったと言えるだろう。真実を突き止めるためのフロストのやり方は、経験に培われた勘である。調査も十分にやるのだけれど、最後は度胸とその人の感性がものを言う。改めて、それが分かる映画だ。
フロストのインタビューは12日間に渡って行われ、インタビューを収録した番組は4500万人が視聴した。
―フロストとニクソンを演じる
主役の2人の俳優(ニクソンがフランク・ランジェラ、フロストがマイケル・シーン)は、舞台劇の時そのままだ。
マイケル・シーンはウェールズ出身の俳優で今年40歳。尊敬する俳優としてリチャード・バートンを挙げている。英国内で広く注目されたのは、先のモーガンのテレビドラマ「ディール」でブレア元英首相を演じた時だ。その後、映画「クィーン」でもブレア氏を演じた。BBCのドラマで、英国の喜劇俳優ケネス・ウィリアムスを演じ(「ファンタビュロサ」、2006年)、これも高く評価された。実在の人物を演じるのが本当に好きらしい。モーガンとのコンビで、もう一度ブレア首相を演じる予定となっている。
一方のフランク・ランジェラは71歳。イタリア系米国人でニュー・ジャージー生まれ。シラキュース大学でドラマを専攻し、1959年卒業。ブロードウェーの舞台劇と後の映画版「ドラキュラ」(1979年)でドラキュラ役を演じて名が知られるようになる。出演作品は多いが、近年の作品の一つが俳優ジョージ・クルーニーが監督した、米テレビ界の内幕物「グッドナイト・アンド・グッドラック」(2005年)。2007年、「フロストxニクソン」の舞台版での演技で、優れた米演劇に与えられるトニー賞の主演男優賞を授賞している。
「フロストxニクソン」は2月末発表された米アカデミー賞で最優秀作品賞にノミネートされていたが、受賞は逃した。派手な作品ではなく、おもしろおかしい作品でもないが、知的な娯楽作品として、じっくり楽しめる映画だ。おそらく最も似つかわしいのは映画館よりも、くつろげる自宅の居間かもしれない。
―ウォーターゲート事件の経緯
ウォーターゲート事件を振り返ってみよう。
1972年6月17日、ワシントンのウォーターゲート・ビル内の米民主党本部に押し入った5人の男性が逮捕された。男性たちは数千ドルの現金と大統領官邸内の電話番号を持っていた。
同年8月、ワシントン・ポスト紙のボブ・ウッドワード記者とカール・バーンスタイン記者が、ニクソンの大統領再選のための選挙チームが先の強盗の1人に2万5000ドル(現在の換算では約240万円)を渡していたと報道した。「ディープ・スロート」と呼ばれる秘密の情報源からの情報をもとに、記者2人は、与党共和党が民主党を混乱させるため「汚い手口」を使っていたことを突き止める。(2005年、元FBI副長官マーク・フェルト氏が自分がディープ・スロートだったと告白した。フェルト氏は2007年亡くなった。)
11月、事件への関与が噂されていたにも関わらず、ニクソンは再選を果たす。
1973年7月、上院のウォーターゲート事件特別委員会の公聴会で、大統領補佐役の一人が、大統領官邸では執務室の全ての会話が録音されていると証言する。特別検察官アーチボルド・コックスが録音テープの提出を要求したが、ニクソンはこれを拒み続けた。
同年10月、テープの提出を拒むニクソンに委員会への召喚命令が出た。ニクソンはコックス検察官の解雇を要求した。解雇を拒否した司法長官が辞任し、司法次官も辞任。結局、検察官を解雇したのは新任の司法長官代理だった。相次いだ辞任と解雇を「土曜の夜の虐殺」と呼ぶ。
1974年7月30日、最高裁の命令でニクソンはテープを提出するが、一本のテープの中の18分半の記録が消されていた。「秘書があやまって消してしまった」とニクソン側は説明した。一方、下院は大統領の弾劾決議を可決していた。
8月4日、1972年の強盗事件の数日後、ニクソンが事件のもみ消しを画策していたことを示すテープが見つかった。8日、ニクソンはテレビ演説で辞任を表明。翌日、ヘリコプターに乗ったニクソンは大統領官邸を後にした。1ヶ月後、後任となったフォード大統領はニクソン元大統領に対し、無条件の特別恩赦を行うと発表した。
1977年、フロストによるニクソンのインタビューが実現した。3月23日から12日間の間に行なわれ、同年5月、4回に分けて放映された。
―インタビューの後、登場人物はどうなったか?
フロストはニクソン以降、歴代米大統領をインタビューする機会を得た。朝のテレビ番組の司会者として著名になり、1993年から2005年まで続いた「ブレックファースト・ウィズ・フロスト」はBBCの人気番組の1つとなった。2006年からはカタールの衛星放送「アルジャジーラ」の英語版で「フロスト・オーバー・ザ・ワールド」という自分の番組を持つ。1993年、「ナイト」の称号を得た。
ニクソンは辞任後、10冊の本を書き、多くのスピーチの依頼をこなし、精力的に活動を続けた。1994年、政策シンクタンク「ニクソン・センター」を立ち上げて間もなく、心臓発作で亡くなった。(続く。次回デービッド・フロストとは?)



