ノマドのまなざし②~イランの首都テヘラン~

 「えっ!イランのテヘラン!?一体どんな所なの?」
 私は6歳の時、父の転勤で中東・イランの首都テヘランに家族で引っ越しすることになりました。父が手当たり次第に買い集めてきたイランに関する本を開いてみると、そこには砂漠やラクダ、モスク(イスラム教寺院)などの写真が出ていました。しかし当時はテヘランの生活に関する情報はとても少なかったので、私達家族は自分達が一体どのような環境で暮らすことになるのか想像もつきませんでした。
 いざ訪れたテヘランで、私が生まれて初めて会話をした外国人は、空港に迎えに来てくれた、父の会社で運転手をしているホセインさんというイラン人男性でした。私はとても緊張していましたが、日本で一生懸命練習してきた「マイ・ネーム・イズ・ヨウコ」のフレーズを思い切って言ってみました。すると彼はとても喜んで「ヨゴジャン!」と言って私を抱きあげてくれたのです。なんだか変な発音だなと思ったのですが、後でペルシャ語では日本語の「ちゃん」と同じニュアンスの愛称として「ジャン」という言葉があるのだと知りました。今思えば異文化との交流は、最初から私の想像を超えるものでした。

ープラタナスの街並み

 ホセインさんの運転する車から見た空港周辺の景色は、それまで目にしたこともない、茶色の地肌がむき出しの荒れ地で、私は長旅の疲れも忘れて窓ガラスに張り付きっ放しでした。ところが、やがて到着したテヘラン市内は対照的に緑豊かで、ペルシャ語でチェナールと呼ばれるプラタナスの街路樹がある現代的な街並みでした。イメージしていた砂漠やラクダの風景とは全く違っていたので、とても驚いたことを覚えています。
 それからの日々は、私にとって未知の世界との遭遇でした。実際に行ってみるまでは「暑いところ」というイメージしかなかったテヘランですが、思いのほか寒暖の差が激しく、冬には雪も降りました。秋になると市内のチェナール(プラタナス)が黄色く色付き、とても綺麗だったことが特に強く印象に残っています。また、高地にあるため乾燥状態は想像以上で、洗った食器は置いておくとそのまま乾いてしまうので、拭く必要もありませんでした。夏には学校の体育の授業で、校庭で運動する生徒達に先生が脱水状態にならないように、ホースで水をかけて気を配ってくれるのですが、それもあっという間に乾いてしまいました。
 生活インフラに関してはその頃のテヘランではまだ頻繁に停電や断水がありました。学校から帰宅すると母に「電気がついている間に宿題をしなさいよ!」と言われるのですが、私と弟はついつい外で遊んでしまいました。結局いつも停電になってしまってからロウソクや懐中電灯の光を頼りに宿題をしていたものです。
 その一方で、革命以前のテヘランでは様々な物資を調達することが可能でした。その中でも乳製品はとても美味しく、私達兄弟はピンクやグリーンの綺麗な色のバケツに入れて売られている、ヨーグルトやアイスクリームが大好物でした。また、パン屋さんに行く代わりに、おじさんがロバの背中に乗せて売りに来る焼きたてのヌーン(インドのナンと同様の中東風のパン)を、毎日買って食べていました。

ー異なる時間の観念

 私達家族が接したテヘランの人々は、日本人から見ると全く違う時間の観念をもっているように見えました。運転手のホセインさんは毎朝のように遅刻して到着しました。治安の関係で送迎の車以外には移動の手段がなかったので、父はいつもとても困っていました。また、お手伝いのパリーさんが来るべき日に来ない、といったことも日常茶飯事でした。初めの方こそ様々な事が予定通りにならない状態に、家族全員で振り回されていましたが、時間が経つにつれて、この「予定通りにならない状態」やイランの人達の超マイペースにも徐々に慣れていきました。
 そんなイランの人々にとって宗教=イスラム教だけは全く別のもので、革命以前の当時でさえ驚くほど厳格に教えが守られているのには本当に驚きました。私がイランのことを思い出す時に、まず脳裏に浮かぶのは、一日5回聖地メッカの方角に向って一斉に祈りを捧げる人々の姿です。他のことでは時間を見て生活しているのかと思うことさえあるイランの人々が、モスクの中だけでなくあらゆる場所で一斉にひざまずいて、時間通りに祈りを捧げます。イランのどの街を訪れても見かけるその風景は、私の心を捉えて離しませんでした。

ー砂漠、星空

 私達家族は週末や休暇になると、ホセインさんの運転する車に乗って、イラン北部のカスピ海、中部の都イスファハーンにあるモスク、南部のシラーズにある古代遺跡ペルセポリスなど各地を訪れました。私は一本道を何時間走っても続く砂漠の広大さや、まるで降ってくるかと思うくらいの満天の星空に驚き、想像を遥かに超える遺跡やモスクの壮大さに夢中になりました。日本にいた頃から乗りたいと思っていたラクダに初めて乗った時には、立ち上がると2メートルを超える高さに、怖くて声も出ませんでした。ただ、その高いラクダの背中の上から眺めたペルセポリスの遺跡の光景は今でも脳裏に焼き付いています。
 このような体験を通して「日本とは全く異なる世界、そして日本人である自分たちとは異なった価値観を持つ人々が存在するのだ」ということを子供心にも知ったことは、私にとって衝撃的な体験でした。そしてその体験を通して、新しい文化に出会い、新しい価値観を知ると、自分の世界が驚くほど広くなることを肌感覚で覚えたのです。
 もちろん、そのようなことを当時の私が頭で理解出来ていたわけではなく、ただぼんやりと感覚的に感じ取っていただけです。それでもこれらの体験は、私の未知の異文化への好奇心をかき立て、「大人になったらもっともっと世界中の知らない国を訪れてみたい!」と強く思うきっかけになったのです。

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関連記事:「ノマドのまなざし」-プロローグ http://www.newsmag-jp.com/archives/313

 

 

ダライ・ラマの一日とは?

09.04.27 by   カテゴリー: ニュースあれこれ,

 チベット仏教最高指導者ダライ・ラマ14世は(現在訪米中)は一体どうやって一日を過ごすのだろう?ふと、疑問に思ったことはないだろうか?英サンデー・タイムズ紙(4月26日付)に、自分で一日の生活をつづったコラムが掲載されている。

 これによると、起床は午前3時半。すぐに祈る。そして、「仏陀とは何か」「自己とは何か」など、分析を含めた瞑想に入る。「人間は全て同じなんだ。みんなが幸せを求め、苦しみたくないと考えている」。

 次に、運動用マシーンに乗って、40分ほどジョギングをする。レール部分につかまっていると、ジョギングをしながら、祈り、瞑想も出来るそうだ。しかし、しっかりつかまっていないと、「落ちてしまう!」

 朝食は午前5時半で、おかゆのようなものを食べる。次にトイレで「重労働」。ここで「??」と思ってしまった。昨年10月、たんのうの手術をしたそうである。時々、「ふんばらないと」いけないそうだ。本当にそんなことを書いているのかなと思わず、この箇所を数度読んでしまった。

 ラジオをよく聴くそうで、主にBBCだが、アメリカからのチベット語放送も聴く。その後、5時間ぐらい瞑想する。

 昼前に事務所に行き、様々な用事を片付けたり、会議に出る。チベットの経典を研究したり、(現在住んでいる)インドの新聞や米タイム、ニューズウイークを読んだりする。そしてお昼。

 時々、どこが「家」なのか?と人に聞かれることがあるという。生まれてから25年間チベットに住み、50年ほどをインドに住んでいるので、住居があるダーラムサラが「ホーム」だと考えている。

 庭には様々な花や植物があって、これを眺めるのも好きらしい。石や数珠を磨くこともある。メカニックなことが得意で、前に米国人のジャーナリストが取材に訪れてカメラが壊れたというので、見てみたら、直せたことがあったという。

 午後にまた事務所に戻り、取材を受けたり、チベット亡命政府の関係者に会ったりする。

 昨年3月、チベットで僧侶を中心とした暴動が起きた。中国側は「いつもダライ・ラマが暴動を起こした」というけれど、チベット人には「働くように、デモはしないように」といっている。

 午後5時、お茶を飲む。1時間か2時間、瞑想する。7時には眠る。よく眠れるそうだ。後どれぐらい生きているか分からないが、チベット人と中国人の間で解決策が見つかればいいと思っている。「難しい」。もし問題が解決するなら、明日死んでもいい、と思っているそうだ。

 ジャーナリストに「あなたは最も尊敬されている指導者です」と言われたとき、「私はただの僧侶なんです」と答えている。1000年前のチベット人の師が、「多くの人があなたを尊敬するとき、自分は最も低い人間だと思いなさい。そうすれば、偏見や傲慢さを持たないようになる」といったという。ダライ・ラマは常にこれを実践するようにしているそうだ。

 なんだか、ダライ・ラマに一歩近づいたような思いがするコラムだった。

 

「本棚のまわりで」 もうひとつの絵が立ち上ってくる

09.04.26 by   カテゴリー: コラム, 本棚のまわりで

kmurakami 小説やエッセイを読んでいると、新たなイメージがわきあがってくるときがある。美しい比喩、巧みな風景や心象の描写に喚起されて、それまで見たことのなかった映像が自分の中で立ち上ってくる。架空のアジアの小国で朽ち果てるままに捨て置かれた寺院であれ、甘ったるくも喧噪に満ちたブエノスアイレスの夜であれ、未知の映像が鮮やかに描きだされる瞬間は、本を読む時ならではの大きな喜びを感じる。

だが村上香住子の新著『恋愛、万歳』(新潮社)は、読んでいるかたわらで、自分の過去の小さな物語、かつて自分がその場にいたときの映像が、もう一度現れてくるような不思議な感覚を味わった。ガラス窓に濡れて張りついていた落ち葉が、乾いて少しずつはがれ落ちるように、見知った、だけど記憶の中に埋もれていた絵が窓の中に浮かび上がってきた。

彼女が読んでいた本や住んでいた家に始まって、家庭環境や年齢、仕事上の経験は、私のそれとはことごとく異なっている。だが、もしその場面が紙でできているならばくしゃくしゃに丸めたくなるような感覚、その風景をぼんやりと思い出すときに味わわずにいられないざらりとした感触、といったものに、共通点を多く発見した。それは、どんな内容の話であれ、底に流れる乾いた孤独感が私の個人的なそれに通じるものがあるからなのかもしれない。

フランス語翻訳家としても知られる著者は、長くマガジンハウスのパリ支局長を務めた。時折雑誌で見かけるその名前は、銀線の入ったグラスのような「ムラカミカスミコ」という語感と、彼女が提供する彼の地のファッションや美術など流行の話題とが相まって、フランス文学や文化に精通した、おしゃれで知的な人というイメージを抱かせた。

いや、正しくはそんなイメージしか抱いていなかったのだと、『恋愛、万歳』を読んで気がついた。

昭和初期、著者の母は両親に決別の手紙を送る。著者が、母の死後にそれを初めて読んだことから、この回想録が始まる。自由と愛を追い求めた母の人生に重ねながら、著者は自らのこれまでの自らの道――二十歳でのフランス人との結婚、駐日フランス大使との交流、70年代の文化を先導する華やかな人々との交遊、パリでの生活――を振り返っていく。

『恋愛、万歳』には、いたるところに、ひりひりとした孤独が見え隠れしている。パリの魅力をつづった、彼女の『巴里ノート 「今」のパリをみつめつづけて』(文藝春秋)にあるような、たんたんとした、でも透明感や明るさに満ちた筆致とは趣を異にする。でも、このぬぐいきれない影、澱のようなものが同書を魅力的な一冊にするとともに、著者の新たな顔を発見させることにつながっている。

駆使される数々の比喩は、時に過剰に思えないでもない。だが、著者の隠し立てをしないもの言いに中和され、バランスが取られている。その風通しのよさは、書くものもスタイルも全く違うが、岩井志麻子の著作に通じるとさえ感じられた。

 当初は『恋愛、万歳』というタイトルがやや唐突に、あるいはあまりに直截的に思えた。読む前から読者を突き放すようなところがあるようなタイトルだと感じた。だが本書の最後で、この言葉が何に由来しているのかを知った今、これ以上ふさわしいタイトルはないように思える。そしてその高らかな叫びは、張りついた孤独感で凄みを増している。

 

               *** 

 (「本棚のまわりで」コラムのイラスト:Hiroyuki Nakamura 

 

村上香住子: 二十歳で渡仏し、二年後に帰国。1974年よりフランス語通訳、翻訳家として活動。1985年にマガジンハウスのパリ支局長として再度渡仏。以後2005年までフランスで取材・執筆活動にあたる。 

 

 

 

 

 

SNSサイトにアクセスしたために解雇された、スイスの従業員

09.04.26 by   カテゴリー: ニュースあれこれ

 体具合が悪く、コンピューターを使えないという理由で仕事を中断していた女性が、ソーシャル・ネットワーキング・サービスのサイト「FACEBOOK」(フェースブック)にアクセスしたために解雇される事態が、スイスで起きた。
 スイスの無料紙「20ミニッツ」が伝えたところによれば(BBCニュースが25日付で報道)、ナショナーレ・スイス社に勤務していたある女性は、上司に対し、偏頭痛がひどいので、コンピューターを使った作業を中止し、暗室に横たわっていたいと申し出た。会社側は、この間、女性がフェースブックのサイトにアクセスしていたことを知り、従業員に対する信頼感が崩れたとして、女性を解雇した。
 しかし、この女性が20ミニッツ紙に語ったところによれば、ベッドに横たわった状態で、携帯電話アイフォーンを使ってサイトにアクセスしていたという。コンピューターを使えないほどの頭痛があったというのは嘘ではない、と述べる。
 また、会社側は、フェースブックへのアクセスが発覚した経緯を、「同僚が、女性がアクセスしていたことをたまたま発見したので」と説明している。しかし、この女性は会社が常に社員の行動を監視していたと思っている。会社が、ある人物を彼女の「友人」としてフェースブックに登録させ、行動をチェックしていた、というのだ。その証拠に、女性の解雇が実行されるや否や、その「友人」は姿を消したという。
 会社側は、フェースブックが使えるほどの偏頭痛であれば、コンピューターを使って仕事をすることは可能だったと主張している。
フェースブックを巡る労使の論争はこれが初めてではない。勤務中の使用を一切禁じている会社があったり、フェースブック上で会社に関する悪口を書いて解雇された会社員もいる。
 コンピューターでのSNSサイトへのアクセスは禁じることができたとしても、アイフォーンなどのスマートフォーン・携帯電話でのアクセスを禁止することは事実上不可能ではないか?そんな疑問も湧くニュースだ。
(写真はイメージ http://www.bigfoto.com/ )

タイの混乱は新たな民主的変革への陣痛 メディアに欠ける歴史的視点(下)

09.04.24 by   カテゴリー: コラム, メディア, 永井浩のコラム

―民主化への試行錯誤の始まり 
 クーデターによって絶対王政を廃した1932年の「立憲革命」の主役は、欧米への官費留学生エリートたちを中心とする人民党だった。この政変によってタイは、立憲君主制のもとで議会制民主主義への一歩を踏み出したが、人民党内部の軍人と文民の路線対立で政局は不安定化する。やがて軍人が政治の主導権を握るようになり、議会制民主主義は後退を余儀なくされていく。 
 軍人支配が頂点に達したのが、1957年のサリット政権の登場だった。クーデターで政権を握ったサリットは、独裁的な権力のもとで積極的な経済開発政策を開始するとともに、西欧型民主主義はタイの国情に合わないとしてタイ式民主主義をとなえ、国民の基本的な諸権利を抑圧した。また自らの政治的正当性の後ろ盾として、立憲革命後は政治の舞台裏に退いていた国王と王室の権威を高める政策を打ち出した。 
 この「開発独裁」路線によって、日本など先進国からの外資を導入した民間主導型の工業化が軌道に乗り、経済は大きな発展をとげた。だが、その矛盾も深刻化していった。軍人を頂点とする特権層に富が集中し彼らの腐敗がすすむ一方で、都市と農村、都市内部での貧富の格差がひろがっていく。貨幣経済の浸透によって自給自足経済が破壊された農民は、現金収入を求めてバンコクに出稼ぎにいき、開発のすすむ華やかな表通りの裏側には貧しい彼らが不法占拠したスラムが目立つようになった。 
 こうした問題に危機感をいだいた学生や知識人が主導して、時の軍事政権を打倒したのが、1973年の「学生革命」(10月14日事件)だった。民主化を求める学生と市民の非暴力デモに軍が発砲し、77人が死亡、444人が負傷する惨事となったが、流血の拡大をさけるため、プミポン国王の調停によりタノムら軍事政権の指導者は国外に逃亡した。 
 この政変によってタイは「民主化」の時代を迎える。開発独裁政権下で抑えつけられていた労働者や農民は、さまざまな要求を掲げて立ち上がった。労働組合の結成を認められた労働者はストライキや集会で賃上げなどの労働条件の改善を求め、農民は土地改革や小作料の引き下げなどを要求した。学生らは彼らを支援するが、自らの力への過信から一部は過激化し、学生勢力は分裂していった。 
 軍人にかわって登場した文民政権は統治能力に欠けた。加えて1973年の石油危機による経済の悪化と75年のサイゴン陥落と前後したインドシナの共産主義化に危機感をいだいた支配層は民主化への巻き返しに出る。76年、バンコクのタマサート大学で政府への抗議集会を開いていた学生らに警察と右翼団体が襲いかかり、学生40人が虐殺され、逮捕者は3000人以上に上った。これを機に、軍が混乱収拾の名目でクーデターを起こし、権力を奪還する。 
 つかの間の民主化は「冬の時代」に入り、学生指導者や活動家の一部は弾圧を逃れてジャングルで武装闘争を展開していたタイ共産党に合流した。彼らは毛沢東路線をモデルに、農村から都市を包囲して武力で現体制を打倒する革命をめざした。 
 1980年に首相の座に就いたプレム(現・枢密院議長)は、軍人出身ながら権力欲が強くなく清廉なイメージから人望を集め、調停能力にもたけた指導者だった。彼は王室、軍、そして経済発展のなかで発言力を強めてきた実業家や都市中間層などの利害のバランスをとりながら、「上からの民主化」を徐々に進めた。共産党に合流した学生指導者らに対しても恩赦による帰順をうながし、国内の安定を図った。 
 8年にわたるプレム政権のもとでタイは順調な経済発展をとげ、民主化も進んだ。軍の不満分子は2度クーデターをこころみるが、いずれも失敗に終わった。しかし、彼の政策はまだ「半分の民主主義」と評された。 

―貧困問題をいかに解決するか 

 88年にプレムの後継首相となったチャーチャイは、12年ぶりの政党政治家の首相として歓迎されたが、なりふりかまわぬ利権獲得で腐敗し国民の信頼を失っていく。チャーチャイ政権は91年、腐敗政治の一掃を旗印に掲げたスチンダー陸軍司令官のクーデターで崩壊する。だがスチンダーは、「首相にならない」と公言していたにもかかわらず翌92年に首相に就任したため、バンコクを中心にスチンダー首相の辞任を求める集会が連日のように開催されるようになった。 
 この反政府集会で注目されたのが、多数の中間層の参加だった。彼らは出勤帰りに自家用車で集会に参加し、携帯電話で連絡をとりあった。タイのメディアは、これまでの反政府行動の中心だった学生や知識人とは異なるニューフェイスの登場を「中間層の反乱」と呼んだ。 
 だが、彼らが軍人宰相に反対したのは、民主化の流れの逆行への異議申し立てよりも、経済的な理由からだったされる。市場原理にもとづく経済発展によって自らの利益を追求していこうとする彼らにとっては、軍人政権はこうした経済原理を乱す時代遅れな存在とみなされた。失うべきもの持った中間層は急進的な政治改革には及び腰だった。 
 反政府行動は地方にも広がり、同年5月、首都バンコクでは反政府デモと軍・警察が衝突、またしても多くの市民の血が流された。政府側の発表でも死者40人、負傷者600名以上とされたが、実際の犠牲者は行方不明者をふくめこれをはるかに上回るものとみられている。 
 犠牲者の多くは、中間層ではなくスラムの住民をふくめて都市の貧しい人びとだった。つまり国民のあらゆる階層がスチンダー政権打倒に立ち上がったのである。 
 「5月の暴虐」とよばれる惨事は、プミポン国王がスチンダーとデモの指導者チャムロン(現・PADの指導者のひとり)を呼んで和解を求め、スチンダーが辞任したことで落着した。 
 この反政府闘争の勝利をうけて、97年に新憲法が制定された。これはこれまでのタイの民主化運動の成果を集大成したもっとも民主的な内容を盛り込み、「人民のための憲法」と称された。上院議員の民選、下院議員選の小選挙区・比例区併用制、下院議員の閣僚兼任禁止、不正選挙のやり直し、憲法裁判所の設置など、権力の集中排除と選挙の浄化が大きな目的とされた。 
 新憲法にもとづく上院選では、これまでの任命制時代の官僚や軍人らとともに住民運動の指導者や法律家などの新しい顔ぶれも選出された。 
 だが憲法には、議員の要件を大卒以上とする条項も盛り込まれた。貧困のために高等教育を受けることがむずかしい人たちを事実上国政から排除するものである。このため新憲法は「人民のための憲法」を謳いながら、実態は都市中間層の意見を代弁する「エリート憲法」とも評される。 
 タクシンの率いるタイ愛国党が圧勝し、彼を首相の座に就かせた2001年の総選挙は、この新憲法にもとづいて実施された最初の下院選挙だった。 
 タクシンの政治がどのようなものであり、それをめぐりこの数年タイでさまざまな混乱を重ねてきたことはすでに述べたとおりである。 
 後世の歴史家がタクシンをいかに評価するかはわからない。「改革者」としての彼に期待したのは農民や都市の貧しい人びとだけでない。かつての民主化運動の活動家らの一部もタクシン政権の政策助言に参加した。だが彼が「背広を着た独裁者」の顔を見せはじめると、彼らは政権に距離を置くようになり、さらに首相一族の株売却疑惑が明るみにでるにおよんで、バンコクでは首相の退陣を要求する市民の声が高まった。 
 彼の政治の荒っぽさは、企業の最高経営責任者(CEO)的なトップダウン手法やメディアへの介入だけでなく、麻薬対策や南部のイスラム武装勢力への対応にも示された。2003年に開始された麻薬撲滅戦争では、密売などとは無関係の人たちの逮捕や殺害により2600人もの死者がでたといわれる。イスラム武装勢力との闘いでは、平和的な話し合いや南部の開発推進路線をこばみ、武力弾圧をつづけたために流血が拡大し泥沼の状態に陥ってしまった。 
 ただ、タクシンの真意がどこにあれ、彼の政策によって農民や都市の貧しい人びとが自分たちの一票が政治を動かすことができるのだという政治意識に目覚めさせられたことは否定できないだろう。彼らはこれまでの経済発展を縁の下で支えながらその恩恵にじゅうぶんに与れず、開発政策の過程からも排除されてきた。彼らがその過程に参加できる希望を与えてくれたのがタクシンである。 
 彼らにはまだ独自に国政を動かせるだけの組織的な発言力はない。農村部も南部はいまだに反タクシンの民主党の地盤である。だが、都市と農村、都市内部の貧富の格差というこの国のもっとも深刻な問題の解決のためには、開発の成果の公正な分配から取り残された人びとによる「下からの民主化」は不可欠である。 
 労働組合やNGO、学生組織などの市民社会をめざす活動が、UDDやPADとどのような関係をとろうとしているのかはわからないが、これらの勢力もこの点では一致しているはずである。 

―農民や労働者の声を聞きたい 
 今回のタイの混乱にかんして、日本の新聞はとくにASEAN関連会議が中止に追い込まれたことをとりあげ、「アジアの信頼回復を急げ」(朝日)、「タイの責任は重大だ」(毎日)、「混乱事態で失う国際的信用」(読売)、「タイの秩序回復に日本政府も発信せよ」と題する社説を掲げている。あるいは、東南アジアの「民主化の優等生」とされてきた国の将来への悲観的見通しや、政治的な混乱がタイのみならず日本企業に与える打撃に焦点を当てた報道が目につく。 
 もちろん、それはそれでひとつの事実である。しかし、タイの現代史をたどるなら、それは社会・経済的な変化に適合する民主政治のあり方を模索する試行錯誤の軌跡であり、民主化は複雑な一進一退を経ながら確実に前進してきているといえる。 
 一握りのエリートが「立憲革命」で切りひらいた議会制民主主義が、学生・知識人らが主導した「学生革命」によってそのすそ野を広げ、さらに経済発展とともに新興ビジネスエリートや都市中間層も民主化の舞台に登場してきた。だがそのドラマは、バンコクを中心とした都市で展開されてきた。国民の多数をしめる農民・労働者も当然、しかるべき役割を果たすべきであるにもかかわらず、彼らはこれまで参加を拒まれてきた。 
 いま起きている混乱は、民主化の舞台が都市から農村にまで全国に拡大され、社会の成員すべてをそれぞれの役回りでドラマに巻きこもうとしていることによるものといえよう。 
 その意味で、タクシン派支持者がいう「真の民主主義の実現」や、海外亡命先からタクシンがさけぶ「人民革命」は、反政府運動の参加者へのアジテーションの意味合いはあるにしても、あながち的外れとは言えないのではないだろうか。 
 また、これまでの混乱の調停者となってきた国王が動きを見せていないことは、高齢化と健康問題によるものかどうかわからないが、国王といえども解決に苦慮するほどさまざまな要因が複雑にからみあっているからかもしれない。 
 民主化は西欧をふくめ多くの国で一朝一夕に実現したわけではない。よしあしはべつとして、多くの血が流される混乱のなかで勝ち取られてきた。非西欧の東南アジアの一角で起きている政情不安も、そうした産みの苦しみへのひとこま、と私はとらえたい。 
 そのような視点からメディアにのぞむことをひとつだけ提言したい。タクシン派のデモに参加する農民やバンコクの貧しい労働者たちの何人かに密着取材し、彼らが日々どのような暮らしをしているのか、なぜタクシンを支持するのか、彼らはどのような政治を望んでいるのかなどを時間をかけてレポートしてはどうか。一人ひとりの小さな民の胸のうちに分け入ることで、大上段にふりかざした混乱批判記事ではなく、混乱の底流に何があるのかをうかがい知ることができるはずである。 (おわり)
<参考資料> 
柿崎一郎『物語 タイの歴史』(中公新書) 
石井米雄他監修『東南アジアを知る事典』(平凡社) 
日刊ベリタより

http://www.nikkanberita.com/print.cgi?id=200904201519591

タイの混乱は新たな民主的変革への陣痛 メディアに欠ける歴史的視点(上)

09.04.23 by   カテゴリー: コラム, メディア, 永井浩のコラム

 タイの政治的混乱は、タクシン元首相支持派組織「反独裁民主戦線」(UDD)が軍との衝突による流血の事態を避けてデモを中止したため、ひとまず終息に向かった。だが、火種はくすぶりつづけており、いつ反タクシン派との抗争が再燃してもおかしくない。いま起きていることを歴史的に見るならば、1932年の「立憲革命」と1973年の「学生革命」に匹敵する大きな変革期にこの国がさしかかっているといえるからだ。メディアは目先の動きを追うだけでなく、その底流を見すえた報道もこころがけてほしい。
―タクシン政治の功罪 
 まず、ここ数年の動きを簡単に振り返ってみたい。それを読み解くキーワードは「タクシン」である。 
 警察官僚からビジネスの世界に転じ通信事業で財をなしたタクシンは、タイ愛国党を結成、2001年の総選挙における同党の圧勝で首相に就任した。95年の総選挙でも圧勝し、政権は2期目に入った。 
 この間、タクシンは1997年のアジア通貨・経済危機で破たん状態だったタイ経済の立て直しに大きな成果をあげるとともに、歴代政権が軽視してきた農村の貧困問題にはじめて本格的に取り組んだ。国民のだれもが30バーツ(約90円)で医療サービスを受けられる制度、貧困者への低利融資、村ごとの特産品を作る「一村一品運動」への基金など、公的資金の投入によって草の根の経済開発と内需拡大を図った。タクシンは出身地の北部や東北部の農民層や都市の貧困層から絶大な支持を得た。 
 「タクシノミックス」と呼ばれる政策は、経済成長と貧困の解消を同時にめざすことによってタイを中進国から先進国へと飛躍させることをめざした。 
 だがその一方で、タクシンの独断専行的な政治運営や政権に批判的なメディアへの露骨な介入に対して、国民の批判が高まり、06年1月に浮上した首相一族の株売却疑惑を機に、バンコクでは首相の退陣を要求する市民集会が相つぐようになる。その中心となったのが「民主主義市民連合」(PAD)だった。 
 PADは市民団体と名乗っているが、その中心は首都の中間層やタクシンと対立するビジネスエリートで、背後に王族や軍部がついているとされる。彼らはタクシンの反民主主義的姿勢や農村部へのバラマキ政治を批判、さらには彼の王室軽視まで問題にするようになる。 
 タクシンは議会解散・総選挙で応じるが野党はボイコット、そして憲法裁判所による総選挙の無効とやり直しを命じる判決が出るなど混乱が深まるなか、同年9月、国軍は無血クーデターにより全権を掌握、外遊中のタクシンを追放した。愛国党は総選挙での買収を理由に憲法裁判所から解党命令の判決を下された。 
 国軍によるクーデターはバンコク市民の多くの支持を得たものの、軍による暫定政権はみるべき成果を挙げられないまま公約どおり07年12月に民主体制への復帰をめざす総選挙を行った。しかし、旧愛国党の流れをくむ国民の力党が勝利を収め、サマック内閣が発足する。これに反発する反タクシン派は、PADを中心に反政府集会から首相府占拠へと戦術をエスカレートさせ、タクシン支持派勢力との衝突で死傷者が出る騒ぎとなった。 
 退陣を拒むサマックは、テレビの料理番組への出演が違憲行為だとする憲法裁判所の判決で08年9月に失職。後任のソムチャイ首相もタクシンの義弟であることから、PADは反タクシン攻勢の手をゆるめず、ついに11月末バンコク郊外のスワンナプーム国際空港を占拠し、日本人など多数の観光客らが出国できなくなった。 
 前後して憲法裁判所が、ソムチャイ政権の連立与党に対して選挙違反を理由に解党命令を下し、政権は崩壊。新首相にPADが支持する民主党のアピシット党首が選出された。これを受けてPADは空港封鎖を解いた。 
 一連の混乱による主産業の観光収入の落ち込みに、米国発の世界不況が追い討ちをかけ経済は低迷した。この非常事態を考えれば、両者は経済対策を優先させ、対立の先鋭化は避けざるをえないのではないかとも見られたが、そうはならなかった。 
 年明けとともに「反独裁民主戦線」は反撃にでた。総選挙の洗礼を受けていないアピシット政権の退陣を求める集会をバンコクで開始し、さらに4月に中部のリゾート地パタヤで開催される東南アジア諸国連合(ASEAN)関連の国際会議を中止に追い込んでいった。 
―両派とも「民主主義」を旗印に

 タクシン派と反タクシン派はいずれも民主主義を旗印に掲げているが、その対立は基本的にはエリート層内部の権力争いと見られている。前者は、タクシンに代表される新興ビジネスエリートを基盤としている。後者は、彼らに既得権益を脅かされると警戒する王族、国軍などの旧権力層、タクシン派と利権対立するビジネスエリート、PADなどの都市中間層である。 
 タクシン派の強力な支持基盤となっているのが、貧しい農民や都市の貧困層である。タクシンは民主的な選挙によって権力の座に就きながら、首相としての反民主主義的な言動によって都市住民の反発を買ったものの、国民の多数を占める農村と都市の貧しい人びとは彼の貧困政策を支持してタクシン派に投票をし続けた。 
 タクシン派は、民主的な選挙の結果と議会を尊重すべきだと主張する。 
 一方、経済発展の受益者として登場した都市中間層は、タクシンの農村重視政策を快く思わないだけでなく、貧困層は無学で政治に参加する資格がないと蔑視している。しかし反タクシン派は、農民層などの貧困層に支えられ民主的に選出された親タクシン政権を再び軍を動かして打倒することができないと見ると、司法を味方につけて政敵を追い込んでいった。憲法裁判所の一連の判決がそうであり、PADの暴走を警察が黙認したのもそうである。だから、彼らの勝利は「司法のクーデター」とも評された。 
 反タクシン派は、既得権益を守るために、選挙は貧困層の買収などで腐敗していて民主的とは言えないと主張し、投票権の制限や下院の権限縮小も検討しようとしている。 
 では今後、タイはどこへ向かおうとしているのだろうか。それを展望するには民主化の歩みへの歴史的な視点が必要である。(つづく)

                              ***
日刊ベリタより

http://www.nikkanberita.com/print.cgi?id=200904181539126 

「残り少ないワインを弱者に与えるか、強者に与えるか」?―英劇団の問いかけにあなたなら、どう答える?

09.04.22 by   カテゴリー: ルポ, レビュー

kaiga 英イングランド地方北部の都市リーズで、実験演劇に参加してみた。 

「これから約2時間余り、観客の皆さんと一緒に、この劇を作っていきます」-実験劇団「Blah, Blah, Blah(ブラー、ブラー、ブラー)」の団長アントニー・ハッドンさんは、立ったままで団長を囲んでいた60人ほどの観客を見回して、こう言った。こうした形の演劇に馴染みがない私は、ややどきりとする。「途中で洗面所に行きたくなったら、どうするのだろう?」など、急に不安にかられた。観客の半分は小学生や中学生の子供たち。団長の言葉に他の参加者がうなずく様子を見て、まあ大丈夫だろうと言い聞かせた。

ロンドンから北に電車で2時間半の都市リーズ。オペラ・ノース劇場の中にある、「ハワード集会室」と名づけられた小さな体育館のような場所で、これから「実験劇」が始まる。劇団名の「Blah, Blah, Blah」は、「・・・などなど」という意味で、「くだらない、つまらない話」という時にも使われる。

ハッドン団長は私たち観客の前にあった物体にかけられていた、白い布をさっと取り去った。油彩の絵画だった。暗く、重苦しい感じの色使い。「これは何を表していると思う?」早速、ハッドン氏が私たちに聞いた。「何が見える?」絵画の話になるなら、ずい分と高尚な劇になるのではないか?私はどことなく、しり込み気分だった。「いかだがあるね」、1人がつぶやく。「海があって・・遠くに船が見えるよ」ともう1人。「助けを呼んでいるみたい。でも、船は気づかない」とまた1人。

いかだの上にはほぼ裸同然で横たわっている人や、眠ったように目をつぶっている人もいた。

「一体、何が起きたんだろう?」団長が聞く。

次第に声を上げる観客が増えてきた。船でどこかに行こうとした人たちがいたが、その船は難破し、いかだに乗って逃げざるを得なくなったのだ、というところまでは何とか判明した。いかだに乗っている人たちは「どんな思いでいたのだろう?何を考えていたんだろう?」と団長が重ねて聞く。また観客は頭をひねる。

ある観客が、「これはもしかして、『メデューズ号のいかだ』じゃないかな?」と発言した。「そう、その通り」と団長。

メデューズ号という名前の船がフランスからアフリカのセネガルに向っていたこと、フランス人たちが新天地を求めて乗船したこと、十分な数の救命ボートがなく、150人ほどが1つのいかだに乗って海をさまよったこと、生存者が数人だったことを団長は説明した。

説明後、観客は各自、自分の席に戻った。舞台は観客席と同じ高さで、フランスの画家テオドール・ジェリコー(1791年―1824年)のアトリエとなる。

アトリエの中央には、団長扮するジェリコーが作らせたいかだがあった。ジェリコーは、徹底したリアリズムで生死が隣り合わせとなった人間の姿を描こうとしていた。

女優の1人がジェリコーの弟子役になり、いかだの上で亡くなった人のリアルな表情を描くために、ジェリコーが病院を訪れたり、亡くなった人の体の一部をアトリエに持ち込んで描いたことを語る。

男優が生き延びた人物の役を演じ、いかだでの苦悶を語る。

もう1人の女優は時には生き延びた女性の役を、時にはいかだの上で亡くなった女性の役を演じる。

観客は、「一体、この時、この人はどんなことを考えていたのだと思う?どうしてこんな行動に走ったのだろう?」と、不意に聞かれる。観客自らが答える場合もあれば、俳優たちが特定の観客に答えを聞くこともあった。「一緒に劇を作る」ためには、せりふを覚える必要はなく、緊張する必要もない。自分が思っていることを、発言してみればいいだけだった。

アトリエの片隅にはジェリコーが描いた「メデューズ号のいかだ」が置かれていた。観客自身がいかだに乗り、絵画の中の人物の体の配置を再現してみることになった。それぞれ二人一組になり、一方が絵画の前に集まって、特定の人物の体の位置を記憶する。これを相方に伝えると、相方はその説明通りに、いかだに乗り、同じポーズを再現しなければならない。子供たちの何人かはくすくす笑いを抑えられない。てれくさいし、笑ってしまうのも無理はない。それでも、絵画の一部となっていかだの上で一定の姿勢を維持し、全体の再現図が完成すると、しばしの沈黙があった。いかだに乗った人物の思いが体に伝わってくるかのようだった。

―残り少ないワインは誰が飲むべきか?

ジェリコーが、生き残った男性に、いかだに同乗していたある女性の最後を聞く。「殺したのか?」男性は頭を振る。「病気になって死んだのか?」男性はまたも頭を振る。「では一体何が起きたのか?」

男性は苦しそうに話し出す。「実は、ワインが残り少なくなっていたんだよ」。いかだの上にはワインの樽があった。食べ物も飲み水もなくなった後、人々は1人一日一杯のワインを飲んで生き延びた。「段々ワインが減っていた。最後には、身体が弱っていた人にはワインを飲ませないことにしたんだよ」。

「餓死させたのか?」ジェリコーの問いに、男性はうなずく。

「さて、みんなはどうしたらいいと思う?」男性は役から抜け出し、観客に問いかけた。「身体が弱っている人にもワインを与えるべきか、それとも生き残る確率が高い、元気な人がワインを優先的に飲むべきか?」

観客は「弱者派」と「強者派」に分かれ、それぞれのグループをまとめる役の俳優の周りに集まった。

さて私はどちらを選択するべきなのだろう?しばし、頭をめぐらせた。一瞬、「強者」グループに引かれた。「生き残りの確率が高そうな人がワインを飲むー。世界の歴史を振り返れば、いつも弱肉強食だったじゃないか。それが当たり前なんだ」。

しかし、座席から立ち上がった時、私はいつの間にか「弱者派」のグループを選んでいた。ふらふらっとこのグループに来てしまった。

「何故弱者もワインを飲むべきだろう?」俳優が私たちに聞く。「弱者も同じ人間だからだよ」、「同等に生きる権利があるよ」、「女性は子供を生むかもしれないんだから」、「どうせ残りが少ないんだったら、みんなで分けるのが一番公平だ」、「弱っている人は、強くて元気な人よりも少ない量のワインで生き延びられるよ」―。大人も子供も、一斉に話し出す。

私は心臓が早鐘のように鳴り出した。「メデューズ号のいかだ」や実験劇の話がどこかにかすんで見えた。もろもろの社会の、世界の不公平なことーー何かが具体的に思い浮かんだわけではないーーに対する強い怒りを感じていた。「弱者、弱者と言ったって、人間は誰しも弱いところがあるんだよ。『弱者、弱い人』という特別なグループがあるわけじゃない。『弱い』と思っていた人だって、次の瞬間には強くなっているかもしれない」-そんなことを考えたが、どうにも言葉に出来ない。言葉にしたら、怒りの感情だけが出そうだった。自分自身が病気でふせっている時、もし「弱い奴」ということで斬り捨てられていたら、一体どうなっていただろう?一体、弱い、強いなんて、誰が決めるのだろうー?

誰がワインを飲むかは、「誰が」それを決めるかによって決まるんじゃないか?自分がもし「強者」だったら、「強者が飲むべき」と言うはずだから。

これを言おうと思ったが、何だかトピックからはずれるようで、しばし黙っていた。ひとしきり様々な答えが出た頃を見計らい、思い切って、「弱い、強いって誰が決めるのか?決定する人が誰か、という問題も重要なんじゃないか?」と言ってみた。言ってもしょうがない話かもしれないが、何だかすっとした。

弱者グループと強者グループに分かれた観客は、互いに向かい合うように指示された。そこで今度は、対抗するグループに向かって、それぞれの主張を述べるのだ。「強くて元気な人は生き残る確率が高いんだから、ワインを優先的に飲むべきだよ」と強者グループの1人が言うと、「強い人は飲まなくても大丈夫なんだから、弱者にあげればいい」と弱者グループが言い返す。丁々発止の言葉の掛け合いが続いたが、私の隣にいた8歳ぐらいの女児が、こう言った。「強い人は弱い人を犠牲にして、ワインを飲んで生き延びても、それで一生平気で暮らせるの?良心が傷まないで、平気で暮らせる?」相手のグループからの反論は次第に行き詰まっていった。両グループとも沈黙になったところで、観客は座席に戻った。

俳優が、生き延びた男性の役を再び演じ出した。弱った女性がワインを与えられず、事切れた後、男性は、女性の体の一部を切って、食べざるを得なくなる。女性の太ももの一部を切り落とし、肉を口に入れてかみくだく男性。

リアリズムかもしれないが、参加児童にとっては衝撃が強すぎるのではないか?そんな懸念を感じた。

最後は、俳優たちが素に戻り、観客は拍手をして終りとなった。

 俳優の1人に、食人の場面は子供たちには衝撃が強すぎるのではないかと聞くと、「参加は9歳児以上としているのだけれど、確かにそういう面はあるかもしれない」とうなずく。「メデューズ号のいかだ」の題材はある中学校の先生の発案で、元々は中学生の授業を想定して作られたと聞いた。

―ジェリコーとは

「メデューズ号のいかだ」(1819年)を描いたテオドール・ジェリコーは、神話画、宗教画を好まず、現実社会の描写に深い関心を示したという。この絵画は3年前に、フランスの植民地セネガルを目指したメデューズ号が座礁した事件を扱っている。乗客は救命ボートで非難しようとしたが、乗れる人数が限られており、臨時のいかだに約150人が乗り、海をさまようことになった。12日間の漂流中、殺人、食人などの行為が起きた。フランス政府はこの事件を表ざたにすることをためらったとされる。絵画は一旦はルーブル美術館に購入されたが、作品の展示が行なわれなかったため、ジェリコーは英国で展示を行い(1820年)、好評を得た。

***

 

 サムネイル写真はリーズ市のオペラ・ノース劇場の中にある、19世紀後半に建築された「ハワード集会室」の様子。撮影:リチャード・モラン。記事内にあるのは「メデューズ号のいかだ」。

 

 

 

 

おとり取材のターゲットになった「スラムドッグ&ミリオネア」子役の父

09.04.22 by   カテゴリー: ニュースあれこれ, 世界の窓

  インドの貧しいスラム街に住む少年がテレビのクイズ番組に挑戦する様子を描いた映画「スラムドッグ$ミリオネア」。この映画に出演した女児の父親が、20万ポンド(約2800万円)で自分の娘を売ろうとしている、という報道が出た。
 ネタ元は19日付の英大衆紙「ニューズ・オブ・ザ・ワールド」だ。この新聞は、ゴシップ記事が中心のタブロイド紙。今月中旬、記者数人が中東の裕福な王族に成りすまし、主要キャストの子ども時代を演じたルビーナ・アリちゃん(9歳)の父親におとり取材をした。高額の養子縁組を持ちかけたという。おとり取材の件はインドでも大々的に報じられた。父親は記者らに会ったことは認めているものの、他メディアの取材に対し、人身売買の件を否定した。
 本当に娘を売ろうとしていたのかどうか、真実は当事者以外には不明だが、映画が世界的大ヒットになったものの、出演した子役らは未だにスラムに住み、貧しい生活は変わっていないという厳しい現実が、こうした報道の背景にある。生活が苦しい子役の家族の弱みに付け込んだような、ニューズ・オブ・ザ・ワールド紙の取材に、なんとも後味の悪さが残る。
 「スラムドッグ$ミリオネア」は、今年の米アカデミー賞で作品賞など8冠に輝いた映画だ。「スラムドッグ」とは「スラム街に住む人」を指す。インドの外交官ビカス・スワラップが執筆した小説の映画化で、ダニー・ボイル監督(「トレインスポッティング」など)がインドで撮影しながら作り上げた。
ルビーナちゃんの現在と華やかなハリウッドのイメージがかけ離れているのは確かだ。アカデミー賞授賞式に出席し、米女優ニコール・キッドマンとコマーシャルで共演したものの、ルビーナちゃんは未だにスラム街に住んでいる。
映画は世界で3億ドル(約295億円)の興行収入をあげた。映画制作者たちはムンバイのスラム街に住む子供たちのために、50万ポンド(約7200万円)を寄付しており、この資金はチャリティー団体「プラン」が管理している。子供たちの生活水準の向上に向けた、五ヵ年計画を実行中だ。プランの広報担当者マリー・ストートン氏によれば(ガーディアン紙、4月16日付)、スラム街で生活する人の数は世界で10億人だ。

環境に配慮した商品にもワナが!? グリーンウォッシュ広告にだまされないために

09.04.19 by   カテゴリー: ニュースあれこれ, 環境

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eco 「グリーンウォッシュ広告」への苦情が増加している。英国広告基準審査協会(ASA)の最新のデータによると、環境に関する広告への苦情件数が、2006年の117件から、翌年にはその5倍近い561件に増加した。2008年も6月時点ですでに218件と増加傾向である。

「グリーンウォッシュ(Greenwash))とは、環境配慮を意味する「グリーン/green」と、水しっくいやごまかしを意味する「ホワイトウォッシュ/whitewash」からできた造語。企業の環境活動や商品の環境的利点に関して消費者に誤解を与える行動だ。つまり、「環境に良い」というイメージで消費者をごますことを指している。例えば、石油会社シェルのある広告はASAも認めたグリーンウォッシュ広告。この広告には(右上写真)、煙突から出る煙の代わりに花が描かれている。石油会社が与える環境への影響がうやむやにされている良い例である。

最近も英国大手小売店テスコが、「ライトをフライトに変えよう/Turn lights into flights」という企画を広告にした。省エネルギー電球を購入した人に航空会社のマイレージをプレゼントするという内容である。当然のことながら省エネ電球を使うことは、電力の消費を減らすので環境にやさしい。ただ、家庭でささやかにエコ電球を使って二酸化炭素の排出量を抑えたとしても、マイルを貯めて飛行機を使ってしまっては元も子もない。飛行機からは大量の二酸化炭素が排出されているのだから。「テスコは本当は環境のことなど、どうでもいいのでは?」と疑わざるを得ない。

 米環境市場会社「テラチョイス」は、4月5日、「グリーンウォッシングレポート2009」を発表。「グリーンウォッシングの7つの罪」と題して、広告が犯しているグリーンウォッシュ行為の原則を挙げている。98%の商品は、どれかの罪を犯しているという。2、219の一般的な商品をアトランダムに選び、この中で環境に関する主張を分析した。2008年11月から2009年1月までの間に、米国、カナダ、英国、オーストラリアで調査を実行した。

 以下が「グリーンウォッシングの7つの罪」:

1.隠された矛盾:他の深刻な環境問題を隠し、一部の環境に配慮していることを前面に出し矛盾を隠す行為。「エナジー効率がよい」というような電化製品にも、危険な物質が含まれているなど。

2.証拠ゼロ:簡単に手に入る情報や第三者機関などからは、その真実性を立証できない場合。ティッシュペーパーやトイレットペーパーのリサイクル紙の含有率では、立証できる証拠がない商品が多い。

3.あいまいな表現:具体的に定義されていなかったり、本当の意味に幅があったりすることで、消費者に誤解を及ぼす表現。「すべて天然」であることを謳う商品があるが、天然物質にはヒ素やホルムアルデヒドのような危険な物質がある。「すべて天然」イコール「環境に配慮した」商品ではない。

4.的外れの主張:真実を伝えてはいても、環境配慮商品を探している消費者にとって重要ではなく、参考にならない内容に着目すること。フロン類の使用は、すでに20年前に禁止になっているにも関わらず、「フロンフリー」など、フロンを使ってないことが主張されている場合がある。

5.うそ:国際的に認識されている環境基準によって認められている、と誤った主張をしている場合がある。

6.悪から関心をそらす:「オーガニックたばこ」や「エコフレンドリー殺虫剤」などの表現がこの罪の具体例。言っていることは真実かもしれないが、「オーガニック」というイメージの良い言葉を付け、「たばこ」の本当の危険から消費者の視点を反らしている。

7.偽ラベル:言葉やイメージから第三者が認証したように思わせる行為。偽ラベルが貼られていることもある。

 英コンサルティング会社フューテラ(Futerra)も、「グリーンウォッシュガイド」のなかで、「グリーンウォッシュの10の兆候」として、10個のポイントを挙げている。上記以外では、環境活動が大幅に遅れている産業のなかで同業者と比較し、「同産業で最高レベル」と主張することや、科学者だけが確認でき理解できるようなわけのわからない言葉や情報などを利用することが挙げられている。

 テラチョイス社の「グリーンウォッシングレポート2009」によると、環境配慮を明言している商品の数自体が増加している。2007年比で2008―09年は40%から176%に増加した。これは、環境に配慮した商品を購入しようという消費者が増加しているからに他ならないが、このよいニュースの一方でグリーンウォッシュ商品も増えているのが問題であるという。

 さらに、エコラベル付きの商品も増加している。エコラベルをつけた商品は2007年の14%から2008―09年には23%と倍増した。これに合わせるかのように、偽のラベルを貼った商品も増加している。

 調査によると、環境配慮のメッセージに重きが置かれ、グリーンウォッシュ行為が盛んな業種は子ども用品(おもちゃ、赤ちゃん用品)、コスメティック(健康、美容商品)、掃除用品(おむつ、歯磨き、窓磨き)だった。赤ちゃんが生まれたばかりの親は、他のどの環境に感心のある消費者よりも、環境問題について気にかけているという。

 このレポートの中で、英国の特徴が、「ナチュラル」という言葉が利用されている商品の多さだ。他の国の平均値が29.2%だったのに対し、英国は42.7%の商品に使われていた。「ナチュラル」という言葉は、とてもあいまいである。気をつけなければならないという。

「エコフレンドリー」「ナチュラル」「100%オーガニック」という響きに、良いイメージを持ってしまうのは確か。ただ、真に環境に配慮した消費行動をとるには、その広告の真の意味を知るということが必要になっくるようだ。テラチョイス社では、引き続き環境に配慮した商品を購入することを勧めている。そうすることで、需要が上がれば供給も増えるので、さらに環境配慮商品は増えていくからだ。そして、購入の際のポイントとしては、正規のエコラベルがついた商品を選ぶこと。偽ラベルもあるので、正規のエコラベルを知ることが大切だ。また、ラベルがなくても、彼らが挙げている「グリーンウォッシュ7つの罪」の原則に従って、透明性があり、情報豊富な商品を購入することを勧めている。消費者も賢くなければならない時代のようだ。

 参考:

英国広告基準審査協会「環境に関する苦情調査2008

http://www.cap.org.uk/NR/rdonlyres/363BF883-0686-45AE-BEA0-D1D99507869E/0/EnvironmentalClaimsSurvey2008.pdf

テラチョイス「グリーンウォッシングレポート2009」

http://sinsofgreenwashing.org/findings/greenwashing-report-2009/

コンサルティング会社Futerra「グリーンウォッシュガイド」

http://www.futerra.co.uk/downloads/Greenwash_Guide.pdf

英紙ガーディアン 関連記事

http://www.guardian.co.uk/environment/ethicallivingblog/2009/apr/08/best-greenwash-adverts

 

 

「高次脳機能障害と仲間たち」⑤ 「本人は変われない。家族のあなたが変わらなくては」

09.04.19 by   カテゴリー: 日々の出来事

untitled  介護福祉士として老人施設で働いていた市川ともみさんは、高次脳機能障害の夫に付き添う為に仕事を辞め、一緒にリハビリ生活を続けている。その様子の報告です。

 「私の場合は、高次脳機能障害の中でも特に重度の記憶障害が残っており、記憶が出来ないこと、病識がない為、皆さんに説明するもの、メモを見ないと上手くいかない有様です。」主人が毎回自己紹介で話している内容です。41歳の時にくも膜下出血で倒れて、3年7ヶ月が過ぎました。
 最初病院では障害の説明はなかったですが、リハビリの計画書に「高次脳機能障害」と明記されていたのが、この障害との初対面でした。初めの3ヶ月は、とにかく歩けて、一人でトイレに行けて、一人で食事ができればいいというだけが願いでした。
 リハビリ病院に転院し、以前は頭の傷をかばう為に私がいない時は常に拘束をされていたので、自由に動けるだけでも本人を元気にさせる環境でした。
 しかし、相変わらず「意味不明のことを言ったり」「トイレが頻回で、行っても戻ってこられなかったり」、「タバコを求めて、お金も無いのに病院からタクシーで駅まで行ってしまったり」がありました。記憶も全くできないので、主人の障害が明らかになり、受け止めざるを得なかったのが、この頃です。「重度の記憶障害」で、記憶検査では2分もたないと言われました。また、見当識の低下、発動性の低下、病識欠如等。
 7ヶ月の入院生活後、自宅に戻ることになりましたが、「主人をどうしたらいいか?」「生活の為に働きたいが、主人を預ける場所は?」など不安がありました。ここまで元気になったのだから、後戻りはせず、かなり夢に近い状況でしたが、「社会に出ること」を目標に決めました。病院でも細かく今後の目標を相談にのって頂けました。
 主治医からはまず「体力をつけること」の指示がありました。そのために平日は外に出る事にし、自宅での脳トレ以外に、散歩や「市営のジムやプール」へ通い、リハビリ病院にはあえて週3回に分けて通う事を勧められ、短い時間でも3回に分けて常に一緒に行動していました。外に出るといろんな失敗もあり、主人にとってはいい環境でしたが、私はひやひやドキドキでした。
 また、その頃から「高次脳」とつくいろんな講演会にも参加しました。主人が理解できなくても、自分の事として気付いてくれたらと思いました。実際は一人でおいては出かけられなかったので、連れて行くしかなかったのも事実です。
 主治医は「記憶させるのは難しいが、習慣化していくことを心がけて」と言われました。自宅では1日のスケジュール作成が朝の日課で、記憶できなくても見れば気付けるように、本人の好きな写真や家族の写真入りのスケジュール表を毎月作っていました。
 また、仕事(病気前までは老人施設での管理栄養士)がら料理が得意でもあったので、毎食一緒に作ることを退院後すぐに始めました。どんな時でも、「何したらいい?」「どうしてほしい?」「次はどうする?」という感じで、ひとつひとつ指示を出す状況でした。顔を洗うにも髭を剃るにも、着替えも全て言わないと出来ず、3ついうと1つしか出来ずに戻ってくる感じで、今でもあまり変わってないこともあります。お風呂も体を洗ったことを忘れ、出たり入ったりを繰り返してしまいます。上着を全てズボンの中に入れてしまうことも度々でした。前頭葉の右底部の血流が低下している主人の症状は、日常の基本動作が上手くいかないという症状でした。当たり前に生活してきた習慣が出来ないという現状で、問題に気付かないのです。

ー家族の気持ちの持ちようは
 私が「もう疲れた~!」と言ってしまったこともあります。しかし主治医に「本人は変われないのです。まずは家族のあなたが変わらなくてはいけない」、と言われました。
 この言葉で、失ったものばかり目が行き、「良くしたい、良くなってほしい」という気持ちが先行してしまい、無理をさせていたのではと反省しました。出来ないことをどの様に工夫してあげたらいいか、できる事を伸ばし自信をもたせる考え方に変えていこうと感じました。
 次の目標が「一人での行動」でした。まずはリハビリ病院内を一人で移動することから始め、ファイルに「地図と時間割、先生の写真、全ての手順」を書いて持たせ、私は定位置にいるようにしました。いろいろ確認してきても、「ファイルを見て」と声をかけるだけにしました。何度も私をおいて病院から駅に向かうバスに乗られてしまったかわかりませんが、いい経験をしました。
 実はリハビリ病院に入院してる時から携帯を持つことを言われていました。あくまでもGPS機能で、どこに行ってしまっても居場所を特定する為でしが、その頃からメールも頻繁に練習していました。病気前よりは使い方の範囲が狭まりましたが、経験記憶はしっかりしていたと思います。そして、1日のスケジュールも携帯で管理をしだしました。
 一人で行動をするようになると、かなりの量でメールがきました。「どこに行くの?」「どこで降りるの?」「自宅のある駅はどこだっけ?」10分おきにきて、回答する前に通り過ぎたりもありました。やはりこの時も「メモを見て」「携帯のスケジュールを見て」に統一してました。説明をしてあげたい気持ちを抑え、「習慣化!習慣化!」と自分に言いきかせてました。
 2年が過ぎた頃から、「同じ障害の方々の中に入り、コミュニケーションをとり、自分の障害にも気付く」という目標を言われました。どこに参加したらいいか悩んでいた時に、調布ドリーム(*高次脳機能障害とされた人や家族のリハビリ・親睦団体)を紹介して頂けました。今までになく私が主人と一緒に参加できたことは、主人以上に私にとっても楽しめ、いろんな方の経験を聞け、自分の話も聞いてもらえる場でありました。ひとつひとつが中身の濃い内容で、とても意味のある体験が主人も私もドリームで出来ました。主人が明るくなったのもこの頃です。主人にはドリーム内で役割も頂け、責任感を持って取り組めるのは病気後は初めての経験で、大きな進歩でもありました。
 確実に以前よりは良くなっています。行ったり来たりでも、焦らず諦めず、主人とこの障害と仲良くしていくしかないと思います。
 最近、「昨日の自分も今日の自分も明日も解らないや」、「頭が壊れちゃった」という時もあります。本当に辛いと思います。楽しい事も美味しかったことも全て忘れてしまいますが、過去を振り返らなくても一瞬一瞬が楽しめればいいと今は感じています。
 昨年12月から就労支援を利用して働く手前の段階に入りました。行く場所があるということが、主人の励みにもなり、頑張れると思います。また、家族にとっても安心して着実にいこうと思えます。どんなことがあっても迎えてもらえる居場所と理解してもらえる環境が本人も家族にも必要です。
 ここまで来れたのは、病院での沢山の方との出会いと先輩家族の沢山の助言、そしてドリームの仲間との出会いがあったからです。ドリームでは代表の矢田さんをはじめ家族の方々やボランティアの方々の積極的な関わりで本当に明るく前向きにしてもらえました。
 失ったものは大きいですが、得たものはそれ以上に大きいです。

***

(写真はご主人の様子。)

 

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