『自由の扉』 世界中の傷つき苦しむ性犯罪被害者へのメッセージ

09.05.30 by   カテゴリー: レビュー, 日々の出来事

jiyu2  7年前の2002年4月、神奈川県内の駐車場の車中で一人の女性がレイプされた。犯人は米空母キティーホーク所属の米兵、被害者はオーストラリアの女性だった。彼女への加害はなおも続く。駆け込んだ警察署でセカンドレイプに遭うのだ。男性警官によって、受診もできないまま傷ついた心身への配慮もなく、一晩中質問攻めにあう。さらに再現写真撮影という理由で、「レイプの格好がどんなものであったかをすべて教えろ」と迫られる。深刻なPTSD(心的外傷後ストレス障害)に陥り、生きていくのがつらく、困難になったジェーンさん(仮名)がVICTIM(被害者)からSURVIVORとして再生していく心と行動の軌跡を手記と絵でつづった本書は、世界のすべての性犯罪被害者と戦争被害者へのメッセージである。本書は御茶の水書房から刊行され、6月初めに店頭に並ぶ。 

 とても変わっていて、不思議な、そして美しいつくりの本である。著者ジェーンさんの、心の奥の奥からつむぎだされる言葉。彼女が自ら描く絵が、その言葉によりいっそうの切実さと現実感を添える。カラー印刷の本書は、黒く重く沈む色づかいから始まる。それが次第に明るい色調に変化する。絶望から再生へ、まるで彼女の心の風景のように。それは、彼女と二人三脚で本書をつくりあげた編集者橋本育さんの、本書にかける思いをあらわしているようでもある。 

 著者は自らに問い詰める。なぜこんな理不尽なことが。そして彼女はたたかいに立ち上がる。ひとに語りかけ、裁判に訴え。米軍横須賀基地と横須賀警察署に被害届けを出すが、不起訴。しかし加害米兵を相手に提訴した東京地裁では勝訴。しかし犯人は本国に逃亡。現在、非人間的な捜査に対する損害賠償を求めて横須賀警察署を相手に最高裁で争っている。 

 彼女にとって徹底的な転機となったのは沖縄との出会いであった。2008年2月沖縄で中学生の少女が米兵に性暴力を受ける事件が発生した。彼女は集会の呼ばれた。集会の前日、彼女は彫刻家金城実さんの彫刻にふれる。彫刻に刻み付けられた沖縄の人びとの表情に出会い、彼女はその夜スピーチ原稿をすべて書き直す決心をする。 

 「一睡もしないで一行一行書いていくうちに、私の頬を涙が幾筋も流れました。日本語を確かめようにも、辞書をもってこなかったので、原稿は私の心から直接生まれたものでした。沖縄、沖縄……。考えつく限りのすべてを書こう、沖縄へ、沖縄へ。私の愛しい沖縄へ。どうしてそんなにひどくあなたを扱えるのか、あなたは何も悪くないのに。どうして米軍は沖縄人を、もう何十年もレイプし殺害し続けるのですか。なぜ私たちは戦争をするのでしょう。なぜ私たちは世界を平和にできないのでしょう。なぜひとびとは何も聞こうとしないのでしょう。なぜこのいまわしいレイプと殺人の数々をやめさせるために何もしないのでしょうか」 

 彼女は本書で、24時間体制のレイプ緊急支援センターの設立を軸とする性犯罪の防止と被害者の支援のための提言をまとめ、日本社会と日本政府に公開書簡を出している。日本にこの種の施設がひとつも存在しないことは想像もしていなかった、と彼女は書いている。彼女自身、被害者になって初めて気づいたことだ。オーストラリアにはたくさんの24時間体制のセンターが公的支援を受けて運営されているという。 

 そのセンターでは被害者は国籍、民族、言葉などによって一切差別されず、敬意を持って扱われ、プライバシーや自分の意見が尊重されなければならない、と彼女は強調する。 

  最後に彼女の提言を列記しておく。この提言にこめられた思いと意味を詳しく知りたい方は本書を読んでほしい。 

1 24時間体制のレイプ緊急支援センターの設立 

2 アメリカ軍人による日本における犯罪防止策と被害者のケア 

3 児童性虐待者による子供への接近の禁止 

4 性犯罪被害者の立場を理解するための警察官の研修 

5 被害者バッシングをやめること-ジャーナリズムの責任- 

6 性犯罪に理解について、社会全体に必要な教育と情報 

7 裁判所での性犯罪被害者の権利の向上 

8 性犯罪の再発防止の取り組みの推進 

9 日本政府は、国連による日本人の人権改善のための勧告を受け入れること 

 

(「日刊ベリタ」掲載分から転載)

http://www.nikkanberita.com/read.cgi?id=200905301438356

 

 

 

「途上国の子供たちに音楽を!」 世界を回った音楽家の旅記録

09.05.25 by   カテゴリー: 世界の窓, , 文化

ju 在英バイオリニストのデービッド・ジュリッツさん(52歳)は、2年前、バイオリンと空っぽの財布を手にロンドンの家を出て、世界中をバスキングして回った。路上でバイオリンを弾きながら、通りがかりの人が恵んでくれるチップを生活費にしながら、50都市を旅した。

 室内楽オーケストラ「ロンドン・モーツァルト・プレイヤーズ」のコンサートマスターという本職を持ち、BBCの音楽フェスティバル「BBCプロム」でソリストとして演奏したこともあるジュリッツさん。ひとたび英国を離れると、「誰も知らない、ただの人」になった。プロの音楽家として多少は持っていたプライドは、「完璧に粉々になった」という。バスキングの目的は発展途上国の子供たちに音楽を学ぶ機会を与えるための募金活動だった。「ミューズクオリティー」というチャリティー団体を立ち上げるための第一歩だ。

 ・・・と書くとすごく理想主義的な人に聞こえるだろうし、何だか、格好良すぎるかもしれない。しかし、ロンドン在住のジュリッツさんに話を聞けば、音楽大好き人間が「ひょいと」世界の旅に出てしまった・・・というのが実態に近いようだ。「一応自分はプロのバイオリニストなんだし、通りで演奏すれば、一発で通行人は『これはすごい』と分かるはず。ざくざくチップも集まるだろうな・・」という、当初の「軽―いアイデア」をもとに、ふと行動を開始したのだった。

「ミューズクオリティー」のサイト上や英国の新聞「ガーディアン」などでジュリッツさん自身が旅の体験談を書いている。その中から一部を紹介してみよう。

***

  「50歳目前になって、これまでとは何か違ったことしてみたいなと思ったのがきっかけです。今でなければできないことーそれがチャリティーのために世界中をバスキングして回ることでした。

 バスキングのアイデア自体は2分でできたもので、こんな風に物事が進むと思ったんです、つまり

1.楽器とリュックサック、空っぽの財布を持って家を出る

2.近くの地下鉄の駅に行ってバッハを演奏する

3.次に進めるほどのお金が集まるのを待つ。

 妻のジェーンには、バスキングから戻って来たら、一生寝床にお茶を運んでくると約束し、子供たちには絶対にひげを生やしたり、体臭を匂わせたり、サンダルの下に靴下を履いて帰ってこないという条件で、バスキングの旅に出ることを承認してもらいました。

 旅に出る前に、一体どんなチャリティーのために演奏をしたらいいのだろう、と考えました。ベネズエラのエル・システマや南アフリカのバスケードという音楽チャリティーのプログラムについて、すごいなあと以前から思っていました。どちらのチャリティーも児童を対象とした音楽教育の振興を目的としていて、音楽を学ぶだけでなく演奏できるようにすることに力を入れていました。音楽教育は人生で何かを成し遂げるためのスキルを教えるものだ、という見方をしていました。

 それで私は、発展途上国で同様のプロジェクトを始めようと思っている先生たちを応援できないかと思いました。既存の音楽プロジェクトはいろいろあったんですが、音楽プログラムを始めるという最初の大きなハードルを越えるために、先生たちを支援するチャリティーというのはほとんどなかった。そこで、ミューズクオリティーはこれを専門にしようと思ったのです。

 ―バスキングの旅の開始

  西ロンドンにある自宅を出たのは2007年6月9日です。友人が作ってくれた真新しいバイオリンを持っていきました。自宅近くの駅前でバイオリンを弾くと、近所の人たちがずいぶん集まってくれていて、たくさんチップをくれました。

  現実に直面したのは英国を出てからです。チューリッヒではアマチュアのオーケストラによるコンサートを聴きに来た人たちを前に演奏したのですが、あまりうまく行きませんでした。20分間演奏して、2スイス・フラン(2009年5月現在、約175円)だけ。ここのコンサートホールで前に演奏した時は、この400倍ぐらいの収入があったのに。ベルリンもあまり良くなくて、1日に平均11ユーロ(同約1,464円)。ライプチヒでは2時間で284ユーロを稼げたのですが、これは、ピアノの腕が立つ、当時の英国大使が自宅で私が演奏する募金集めのコンサートを開催してくれたからです。室内でバイオリンを演奏できるなんて、なんて贅沢なことだったかと後で思ったものです。宿泊費を節約するために、よく駅構内や列車の中でも寝ましたよ。

 欧州の次はアフリカに向かいました。そこでミューズクオリティーが支援することになる音楽プログラムの参加者たちに会えたのですが、ほんの少しの資金でいろいろなことができるものだということを実感しました。

 ウガンダのカンパーラ、南アフリカのケープタウンやソウェトでやって、オーストラリアに向かいました。バッハの好きな人がオーストラリアには多いことを初めて知りました。EBAYで自分を売る(誰かの自宅でコンサートをする権利を売る)こともやってみました。シドニーでは通行人の一人が私にバイオリンのアドバイスをしてくれました。「お金を稼ぐんだったら、もっと音符を長く弾かなきゃ」。

 シンガポールに行った後はインドに渡るつもりでしたが、必要なビザを持っていなかったので台北に飛び、その後ひとまずは英国に戻りました。イングランド地方南西部ドーセットで開かれる、バートン・ブラッドストック・フェスティバルの監督をしているんです。

―日本へ

 8月末からはまたバスキングツアーの開始です。香港は路上ミュージシャンにとってやりにくい場所だと話に聞いてはいましたが、実際、その通りで、最初の2,3日は警備員のような人たちに追いかけられながらの演奏でした。そのうち、バスキングにちょうど良い場所を見つけて演奏をしていたら、泊まる場所を提供してくれる人に出会って、2週間後に再度戻ってきてプライベートなコンサートで演奏し、非常に良い募金活動ができました。上海でも警備員に追いかけられながらの演奏です。天安門広場ではバスキングはまずいだろうと知人に脅かされていました。とりあえず、写真撮影のためにバイオリンを箱から出してポーズをとりました。

 東京の代々木公園では、周りはロックバンドのアンプのきいた演奏があって、とてもシュールな環境での演奏となりました。

 そのあとはソウル、香港、ブエノスアイレス、リオ、ベネズエラ、北米(バンクーバー、トロント、シカゴ、ボストン、ニューヨーク)・・・全部で24カ国、50都市を回りました。最も稼いだのは米スタンフォード大学でのバスキングで1時間480ドル(約4万6000円)。最も少なかったのは、サンタモニカで、3時間で10ドルでした。

―学んだ5つのこと

 ツアーで私が学んだ5つのこととは

1.無視されるのは非常に簡単だ。コンサートホールの外が一番やりにくい場所でした。

2.どんなに宣伝に力を入れてもこれをお金に結びつけるのは至難の業だ。

3.世界にたくさんの良い人たちがいる。バイオリンケースの中に約1000ポンド(約15万円)の現金を入れて持ち歩いていましたが、一度も窃盗・強盗にあったことがありませんでした。

4.音楽は人の人生を変える、特に自分のアイデンティティーを見つけようとしている子供にとっては。音楽はいつも私を正気に戻してくれました。どんなにつらい日でも、1時間でも演奏していれば、またやるぞという気持ちがわいてきました。

5.最後に。家庭ほど素晴らしい場所はない。「簡単なアイデア」というものは存在しない。 

―世界バスキング・ツアーを続けるために集めたお金:1万3000ポンド(旅費、食事、洗濯代、たまにビール代、約196万円、2009年5月計算)

―ミューズクオリティーのために集めたお金:2万5000ポンド(約377万円)(次回、ジュリッツさんの自宅でのインタビューにつづく)

***

(写真はMusequality

 

 

 

「世界バスキング・ウィーク」6月8日―14日 参加者を募集中

09.05.25 by   カテゴリー: ニュースあれこれ, 文化

david 発展途上国の子供たちに音楽を楽しむ機会を与えるために募金活動を行っている、在英チャリティー団体「Musequality」(ミューズクオリティー)が、来月、「世界バスキング・ウィーク」を開催する。「バスク」とは、音楽を奏でて道行く人からチップをもらうこと。「バスカー」とは、路上ミュージシャン。でも、このバスキング・ウィークに参加するには、プロのミュージシャンである必要はない。年齢制限もない。楽器の演奏が得意ではない、あるいは楽器を持っていない人は、歌うのでもいい。

 通りに出て知らない人の前で演奏したり、歌うのが恥ずかしかったら、学校や職場、あるいは家でミニ・コンサートでもよい。時間がない?バスキング・ウィークの最終日、6月14日の昼の12時から25分間だけ、演奏するあるいは歌うというのはどうだろう?世界中で、それぞれの時間帯の昼の12時に相当する時間に、一斉に演奏したり歌を歌えば、世界的な記録にもなるかもしれない。

 興味がある人は、ミューズクオリティーの中の、「世界バスキング・ウィーク」のサイトから、「このプロジェクトに参加したい」(あるいは「もっと情報が欲しい」など)という旨のメール(英語)を送ってみよう。

busk@musequality.org

ーミューズクオリティーとは?

 在英バイオリニストのデービッド・ジュリッツさん(室内オーケストラ「ロンドン・モーツァルト・プレイヤーズ」のコンサートマスターでもある)が、1997年立ちあげたチャリティー団体。発展途上国に住む子供たちが参加する音楽プロジェクト支援のために募金活動などを行う。プロの音楽家を育てるのが目的ではなく、恵まれない環境にいる子供たちに音楽を演奏する技術を学ぶ機会を与え、貧困、麻薬、暴力、犯罪といった悪循環から抜け出せるようにすることを目指している

  ジュリッツさんは、チャリティー立ち上げ時、4ヶ月かけて世界24カ国50都市を自らバスキングして回った。その時の様子やジュリッツさんの音楽哲学は経済誌「東洋経済」(2009年5月23日号)でも紹介されたばかり(上部写真、中央の白いシャツ姿がジュリッツさん)。

  世界バスキング・ウィーク開催に先駆けて、ジュリッツさんのバスキング・ツアーの様子や音楽に対する思いを何回かに分けて紹介したい。

  ミューズクオリティーのサイト

 http://www.musequality.org/

  ジュリッツさんのサイト

 http://www.davidjuritz.com/

 

 

 

 

 

「本棚のまわりで」 澄み切った虚無の匂い

09.05.16 by   カテゴリー: コラム, 本棚のまわりで

tmpphpu16w8d 中学から高校にかけて、ビートルズを夢中で聞いた。聞き出したきっかけは、もういらないからと友人がくれた3枚のアルバムだった。ご多分にもれず、私も当初はAnd I Love HerNorwegian Woodといった、いわゆる前期の作品に夢中になったが、ほどなくして後期に作られた曲により大きな魅力を感じるようになった。眠れない夜など、Aからアルファベット順にビートルズの曲名を思い浮かべて楽しむことができるようになる頃には、私にとってのビートルズのナンバー・ベスト3が生まれ、その一位がA Day in The Lifeだった。

辞書と照らし合わせながら訳してみても、ティーンエイジャーの私に歌詞の意味はおぼろげにしかわからなかったが、ジョンとポールの歌声は、この世は虚ろで無常であると説いているかのようで、なんとも抗いがたい魅力を放っていた。

だが10代の人間が感じる「虚無感」など、小池真理子著『ストロベリー・フィールズ』(中央公論新社)の主人公・夏子に言わせれば、観念的なそれでしかない。「…死は遠く、未だ、観念の中にとどまっている。病や老いですら、現実味がない。将来に向けて、無邪気な夢を見続けていられる。少なくとも、将来、と呼ぶにふさわしい時間が、彼らの前に広大無辺に拡がっている」人間にとって、「虚ろな感じ」は舌先で遊び半分に転がしてみるだけの飴玉にすぎないのだ。

ビートルズのStrawberry Fields Foreverからタイトルをとった本書の主人公・夏子は、40代半ばの医師。夫と、その連れ子である大学院生の娘と鎌倉扇ガ谷の家に暮らしている。表立った問題は抱えてはいない。だが、草木が鬱蒼と生い茂った廃園のような庭を抱くそこを、何の屈託もなく我が家だと言えないでいる。

時に芝居がかった言動を見せる夫は、日常の様々な場面でかすかな違和感をかきたてる。「夏子ママ」、「夏子さん」、「夏子先生」と気分に応じて呼び名を変える娘には、「母親としての無償の愛」という感覚を常に起動させずにはいられない。

だが娘の友人の兄と出会うことで、それまで曖昧模糊としていた自らの孤独や渇きが急速に形を伴ってくる。その男性、旬もまた、青年期特有の孤独や挫折感、不安を抱えている若者でしかないのだが、彼の勤めるロック・バーで聞いたうらさびしいStrawberry Fields Foreverに促されるように、夏子は旬への恋情と友情、さらには彼の庇護者であるかのような思いをないまぜにしてつのらせていく。

だが夏子は、いたずらに虚ろな時間をやり過ごしはしない。あきらめに似てはいるものの、その実、自発的な、選択という行動とともに、自らの虚無感を受け入れていく。

どんなに苛立ちや、猜疑心、嫉妬心に駆られることがあっても、夏子は崖っぷちのぎりぎりのところで潔さを保つ。時には歯がゆいと思えるほどの自制を働かせ、醜い姿を晒してしまうことがない。清々しすぎるほど身の丈を知っている。

『虹の彼方』の主人公、志摩子もそうだ。『冬の伽藍』の悠子もそう。愛憎がどう描かれようと小池真理子の小説がどれも通俗な感じを与えないのは、虚無感を漂わせながらも、主人公が透徹した空気をまとっているからだろう。

夏子はStrawberry Fields Foreverに空虚を読み取った。だがタイトルを実在する孤児院、Strawberry Fieldから取ったという同曲は、孤独と同居する清冽な魂の伴奏曲としても響き渡る。

 *** 

 (「本棚のまわりで」コラムのイラスト:Hiroyuki Nakamura 

 

小池真理子: 小説家。2005年、『恋』で直木賞

 

 

 

 

「高次脳機能障害と仲間たち」⑥下「忙しかった日々」

09.05.14 by   カテゴリー: 日々の出来事

 高次脳機能障害の「ペテン師」(40代)は2003年、脳内出血で救急病院に運ばれた。母と暮らしていた部屋の中で意識を失った。気が付いたら病院だった。記憶をなくした時から現在までの日々を語ってもらった。

 

―自分が誰だか分らない

 

 目が覚めた時、どっかの病院の中にいた。記憶はなかったけど、「探検」はした。いろいろ病院の中を歩き回ったらしい。どこの病院か、自分がどこにいるのか分からなかった。

 病院で会った親の顔を見て、誰だか分らなかった。俺を知っていそうなんだけど、自分がどこの誰なのかがさっぱり分らない。自分で自分を理解できなかった。

 親に俺の母だと言われたが、自分に親がいるとは思えなかった。

 そのうち、母と住むアパートに戻ったが、全然記憶がなかった。それで戻ってしばらくし、親に聞いた。「ここは俺の家か」と。親は「そうだ」と答えたが、俺の頭の中には記憶がなかった。いらいら感はなかったが、自分の親が誰か分らず、住んでいたはずの家が分からなかった。自分で自分の事が理解できなかった。

 自分の意識は2004年のままで、平成の年月だけが進んだ。どっかへんなところに迷ったのかなあと思っていた。ドラマの主人公になったような。昔、NHKか何かで「未来から来た少年」というドラマがあったと思うけど、そんな感じだった。

 自分がどこにいるのか分からず、何者なのかわからず、親族の顔を見ても誰なのか、さっぱり分らなかった。

 ようやく自分の居場所が分かってきたのは、病院から出てきてから5年後ぐらい。去年ぐらいから、やっと思い出したのだ。

 昨年引っ越しをしたんだけど、今年の2月頃、やっと、なんか、これが親なんだなと感じることができた。昔のことも思い出してきた。

―職探し

 仕事のことだけど、細かくは覚えていないけど、東京都職業センターに行って、検品作業をした。これが、どういう意味を持つのかさっぱり分からずだった。むかついたのが、そこの教官に「貴様、なにしに来てんだ!」と言われたこと。よく覚えている。俺は人の話を聞くのが苦手で、他の人より先に作業をしていたら、怒られた。そんないやな教官に会って、知らないうちに、時間が過ぎた。何を検品していたのか、今では思い出せない。

 今の仕事は、品川にある。ある企業の社員食堂で働いている。食器を片づけ、洗浄する仕事。1年ぐらい続いているらしい。始めてから23か月だと思っていたけど、人からそう言われたんだ。

 もう仕事は覚えたよ。毎日、そこの従業員のおばさんがおにぎりを一個くれるんだ。みんなにくれるんだよ。ほかの人はその場で食べるんだけど、俺は家に持って帰って、母にあげるんだ。土日が休みだよ。

 たまに病院に行く。脳外科の先生と精神病の先生、それから目も調子が悪いので、眼下の先生にも診てもらう。脳外科の先生からは、「ずいぶん良くなったな」と言われている。

 今は、自分のいるところも、親の事も、自分が誰かもわかるー多分。将来はこうしたい、というのは今考えていない。でも、またトラックを運転してみたい。思いっきり走ってみたいな。

「ごめんなさい」と謝罪する新聞

09.05.13 by   カテゴリー: ニュースあれこれ, メディア

  発行部数低迷に悩むロンドンの夕刊紙「イブニング・スタンダード」紙が、起死回生策として、イメ・チェンを実行中だ。ロンドンでは朝刊無料紙「メトロ」を含む約100万部以上の無料紙が、平日、通勤客を中心に配布されている。この中で割を食っているのが夕刊有料紙のスタンダード紙だ。無料で新聞が読めるのに、わざわざ、50ペンス(約70円)を出して買う人が少なくなるもの当然だ。

 ロシアのオリガルヒ(新興財閥)アレクザンダー・レベジェフ氏が今年年頭、たったの1ポンドでこの新聞を英出版社DMGT社から買収し(1ポンドとは驚きだが、つまりは他に誰も買う人がいなかった)、これまでよりもやや高級な、知的な新聞に変えようと努力してきたが、思うように部数が伸びない。そこで新たに販促キャンペーンを展開中だ。

 例えば、夜一定の時間を過ぎた場合、通常50ペンスのところ、10ペンスで売ってしまう、一部を無料で配るなどの価格面でのハイブリッド策を実行。さらに、新聞の顔となる1面のデザインを11日から大きく変えた。初日は通常の部数をはるかに多く上回る65万部を無料で配布していいる。

 また、11日の本格的デザイン変更前から始めたのが、謝罪広告。例えば、「(読者との接点を)見失ってごめんなさい」、これに「否定的でいて、ごめんなさい」、「読者を当然のように扱ってごめんなさい」、「答えが分かるような編集でごめんなさい」などといった文句がついた広告を、ロンドン市内の電車やバスに出した。広告自体にはイブニング・スタンダードの名前はないが、スタンダード紙を買う時に使えるプリペイドカード「エロス」のロゴは入っているという憎いもの。

 こうしたネガティブ広告が果たして功を奏するのかどうかに関しては、広告業界専門家の間でも意見が分かれているようだ。しかし、新聞が謝罪する広告というのは珍しく、目立ったことだけは確かだ。最悪の広告は誰にも気づかれないということだから、話題になったという意味では成功したのだろう。

 英高級紙インディペンデント(紙名は「独立」という意味)は、かつて、「独立している。あなたは?」という文句がついたポスターを作った。経済紙フィナンシャルタイムズは「ノーFT(FTはフィナンシャルタイムズの略)、ノーコメント」という広告を出したことがある。

 

参考記事

http://www.guardian.co.uk/media/greenslade/2009/may/04/london-evening-standard-alexander-lebedev

「婚活」―メディアにあおられたくはない

09.05.08 by   カテゴリー: メディア, 日々の出来事

 「アラフォー」、「アラサー」など、雑誌「AERA」を読んでいると、時々、女性を分類化する新しい言葉に出くわす。前者は40歳前後(アラウンド・フォーティー)、後者は30歳前後(アラウンド・サーティー)の意味の略語だが、主に女性を指しているようだ。

 ある時、知人との会話で「コンカツ」という言葉が出てきた。就職活動の略がシュウカツとしたら、結婚活動なるものなのだろうとしばらくして分かってきた。「結婚をするために活動する」、と。

 言葉が時代を反映するとしたら、こんな略語もまさにその具現なのだろうが、アラフォー、アラサー、婚活・・・。少々時代をさかのぼれば、作家酒井順子さんが「負け犬の遠吠え」というベストセラーを書いていた。「負け犬」=一定年齢のシングルの女性たちだ。

 負け犬、アラフォー、あるいは婚活など、ずいぶんと女性の人生のある状況を分類化した言葉が目につく。私はこういう言葉を聞いて、一定の不快感を持った。

 不快感の根っこにあるのは、プライベートな人生の決定事項について「人に勝手に分類化されて(善悪の判断をされて)、ああだこうだと議論されたくない」という気持ちと、「一体だれのためにこんな分類化をしているんだろう?」という疑問。それに、「一見、全体のことを要約しているように見せながら、実際はほんの一部の人のことを語っているのではないか?」という思いもあった。

―「バツイチ=マイナス条件」って、ひどくはないか

 さて、最新号のAERAの特集「婚活時代」を見てみよう。「40代対20代の婚活闘争」ではいかに女性たちが結婚相手を見つけようと苦心するかを描写する。

 「年収800万以上、初婚で35歳以下が条件」のミキさん(23歳)は、年収1200万円の大手不動産会社の勤務の30代の男性と会ったが、「不動産業界という浮き沈みの激しい業界と、小脇に抱えるセカンドバッグがダサくてマイナス」、帰り、彼の車が高級車レクサスで思わずにっこり。次は年収800万円の20代後半の公認会計士。「結婚しても働き続けるよね」と暗に共ばたらきを示唆されたので論外に。

 「アラフォーには『ナナメ婚』」という記事では、一回り、ふた回り違いの相手とのナナメ婚を勧める。「あなたの婚活を疑え」では外資系企業で働くC子さん(36)が、マスコミ勤務の3歳年上の男性と居酒屋で出会う。「彼はバツイチ。通常はマイナスになるような条件も、離婚経験がむしろ家庭を築くことへの真摯な姿勢につながればいいと前向きにとらえ」、入籍。「理想を100%かなえる相手じゃないかもしれない。でも、ここだけは譲れないという部分さえあっていればどうにかなると思います」と語る。

 特集は、編集部が作った「婚活チェックリスト」で終わる。ステップ4の1つに「自分にとって何が大事かを考え、条件は必要なものだけにする」・・・・。

 「バツイチ=マイナス」、「理想を100%かなえる相手じゃないかもしれない」、そして「条件」・・・。なんだか、お買物のリスト作りを思わせる。しかし、相手は人間である。離婚ぐらいでマイナスの視線で見られたらたまらないだろう。「条件」が常にお金に関わることであるのが物悲しい。男に頼る人生を最初から選んでいいのだろうか、女性としては?これでは男女雇用機会均等法が泣く。

―一体どれほどの女性を代表しているのか?

 ふと考える。本当に、「相手の男性は年収xxx万円以上でないとダメ」と考えるような女性って、どれぐらい日本にいるのだろう?AERAで紹介された女性たちは、東京近辺に住むホワイトカラーの女性たちが大部分だった。

 といっても、「統計を示した方がいい」なんてことを言いたいわけではない。実際にはたくさんの女性がこの特集やこれまでのAERAのあるいは他の雑誌の婚活記事を読んでいる・読んできたはずだ。共感を持った人も、私のように不快感を感じた人もいるだろう。しかし、チェックリストまでついている点を考えても、こうした記事は「そうだ、私もなんとかしなきゃ」と思わせる、女性たちをあおる感じがするのである。

 男に頼って生きるために、計算ずくで行動し、条件の良い相手を見つけるためにこれだけ情熱を注ぐ、こんな女性たちって・・・本当にどれぐらいいるのだろう?

 

「高次脳機能障害と仲間たち」⑥上「忙しかった日々」

09.05.03 by   カテゴリー: 日々の出来事

  高次脳機能障害の「ペテン師」(40代)は2003年、脳内出血で救急病院に運ばれた。母と暮らしていた部屋の中で意識を失った。気が付いたら病院だった。記憶をなくした時までの日々を語ってもらった。

 トラックに乗っていたのは今から15-16年前。その頃はルート配送だった(決まった場所をいろいろ回る)。最低でも8軒回っていた。ほとんど東京と三多摩地区の薬局だった。半分セールスで、売上に応じて日当を払うと言われた。
 雇用体系は社員だった。残業もあったけど、一か月手取り25万円がやっとだった。雇用保険は会社が払ってくれた。仕事は楽しかったけど、やった割には遊びまくっていたから、お金はあまりたまらなかったんだ。
 運送屋をやりたくて、転職。バブル崩壊直前で、まだ20代前半だった。日給は8500円。時給750円-800円。これもあまり大した給料にはならなかった。
 
2、3年たってから、物が売れなくなったので、問屋の客を利用して、物=洗剤を売っていたんだ。最高で、4日間でアタックを100ケース売ったこともあったっけ。1ケースにはアタックが8個入っているんだ。配達先の社長が、「1週間で300以上売ったら、5万円やるよ、ボーナスで」、と言ってくれた。その月の20日に言われて、30日までに売れと言われた。
 張り切って売ったんだけど、130ケースが限度。そしたら、今度こそ300ケース以上売ったら、ボーナスとして5000円くれると言ったんだ。頑張りに頑張っても200以上しか売られなかった。またボーナスはもらえなかった。
 後で友人の話を聞いたら、A君がセールスをやっていて、便器を売っていたんだよ。それで、上司が100売れといって、100売ったら、300売れと言われたそうだ。そんなエピソードも思い出すよ。
 自分の話に戻ると、200ケースを2週間で売ったんだけど、「よく頑張ったね、でも、期間が期間だから(バブル崩壊後の不景気)、ボーナスはないよ」と言われた。
 そしたら今度は「3週間あるから、600ケースを売れ」と言われた。「そしたらボーナスで1万円やるよ」-。
 あまりにも仕事が忙しすぎたんだよ。重いものを持って、ぎっくり腰になっちゃったんだよ。毎月第3土曜日が休みなので、その日は自宅近くの整骨院に行くようになった。
 最後には、ぎっくり腰で仕事はやめざるを得なくなった。2,3カ月自宅待機せざるをえなくなったんだ。母が世田谷に住んでいたので、母と一緒にしばらくくらしていた。当時、27-8ぐらいだった。
 この時あるいバイトをしていた別の運送屋のKさんに指示されて、ある大手運送会社の子会社で、渋谷にある引越し屋に勤めた。腰はこの時にはもう完治していた。
 見習い期間の後、3ヶ月後に正社員として入社したけど、日当は1万円、時給890円。その半年か1年後には新宿のワンルームで一人暮らしを始めたんだ。金にはならないし、働くプレッシャーが強く、仕事をやりながら、荷造り、箱詰め、階段を上って荷物をあげた。引っ越しというよりも、作業員だったな。運転ももちろんした。突然電話がかかって仕事に行くこともあるので、いつも引っ越しナイフを持って歩いていたっけ。
 人がいないと、自分で荷造り、箱詰め、箱卸、すべてをやっていた。いつのまにか信頼されて、夜間便やらされた。そのうち、夜間といえば、仕事が回ってくるようになった。
 夜間をやるとお給料は良かったな。残業をつくから、上がるんだ。不景気で昼間の仕事がなくなっていた。

マージンをよこせ、と言われ

 その時驚いたのは、直属の班長が、「1か月俺にマージンよこせ。1万円払ったら、(残業代として)3万円をつけてやる」と言ってきた。175センチぐらいで、体重が100キロぐらい。迫力ある感じ。「もっとお金をもうけたいんだったら」、と。班長が日報を書くときに、残業時間を記入できたので、彼が自由に書きかえられるんだ。
 俺は頭にきたので、いやでも残業代を払わなかった。風当たりが強くなって、残業代をカットされだした。最高で月60時間ぐらい、カットされたんだ。
 すごく頭にきたので、ある日仕事をさぼり、他の運送会社に行った。仕事を見つけるのは簡単だった。相手の会社の募集の広告を見て、電話。「なるべく早く働きたい」と言ったら、「今日は?」と言われたので、「それはちょっと」。すると、明日からということで決まったんだ。でも、働けば働くほど損をする感じだった。
 新しい仕事に移ってから、電話をもらった、先の会社からだった。どうして辞めるのか聞かれたんだ。部長からだった。「残業するにはマージンを払わないとつけない。そんなバカな会社はないだろう」と言ったんだ。部長は「え?それが誰が言ったんだい?」と聞かれた。説明すると、「それは君だけのこと?」と聞かれたので、「同期もみんな一緒だ」。戻るのかと聞かれ、「戻らないからほかの会社で働いているんだよ、xx」と言って電話を切った。
 新しい会社では年下の次長がいて、結構楽しく仕事をしたが、いつのまにか、長距離専門になっていた。京都、小倉、青森、秋田、仙台、ほとんど全部行っていた。家に戻れない日が続いた。大阪に行って、帰りの荷物を積んで、東京でおろして、広島。そんなのは日常茶飯事。競馬の仕事で競馬新聞を運んだり、ドーピング検査(尿)を運んだり。馬事公苑で下して、新橋のJRAに。家には1週間に一回しか帰ることはなくて、高速のパーキングで寝たり、シャワーを使ったり。食べる時間があったら、一刻でも早く目的地に着きたかった。だから、おにぎりや牛乳、サンドイッチをトラックを運転しながら食べていた。4トントラックで走ってたんだ。
 行き先を確かめるために地図を買って、自分で探り当てながら運転した。まだカーナビなどない時代だった。東北出身の自分にとっては、大阪がやっかいで、地図と実際の道がずいぶん違って困った。
 長距離では、夜通し走った。眠気を止めるために、市販の眠り止め錠剤を飲むのが癖になった。
 2000年。疲れ果てて、仕事も生活する意欲もなくなった。部屋代も払えなくなって、母のアパートに転がり込んだ。
 今になって思うとだが、引越し会社に勤めていたころ、深酒の後、アパートの階段から落ちた。頭を強く打った。ブロック塀にぶつけた。当時はそれほど気に留めなかったが、痛みが止まるまで1週間ほどかかった。

記憶がなくなった日

 2003年6月。いつものように晩酌の後、眠った。そのあとの記憶はない。気が付いたら、2004年だった。後で、みんなに「2004年?記憶がない」といって、笑われたが。
 記憶がなくなった晩、倒れたらしい。いっしょに暮らしていた母が、異様ないびきをかいている様子が異常と思い、救急車に連絡。高血圧だったことを既に知っていたし「万が一」と思ったのだ。
 運ばれた先は都内の緊急病院。集中治療室で、検査を受け、頭の中に固まっていた血の処置をした。高血圧と、階段から落ちた時の傷がもとになったらしい。脳内出血。
 全く記憶がなく、母は医師から「手術後、生きていても植物人間になる可能性がある」と言われた。(つづく)

 

 

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