「ペルーと日本の架け橋に」 静岡県吉田町のハローワークで働く日系ペルー人3世、タカラ・カレンさんの軌跡
高良カレンさんは、日系ペルー人3世で現在26歳。デカセギのために来日した両親を追って、10歳で来日。以後、ペルーと日本を行き来しつつ、両国の文化を学びながら成長してきた。現在は、静岡県榛原郡吉田町という人口約3万人の小さな町で、母や姉夫婦と共に暮らしている。
ここ数年は、ずっと町内の食品加工工場で働いてきたが、今年2月からは堪能な日本語をいかし、吉田町のハローワークで仕事を失った外国人のための相談員として就業している。
そんなカレンさんに、これまでの生い立ちや、日本語を教えてくれた先生についての思い出をお聞きした。
―デカセギの両親とともに転々した小学校時代
「両親が日本に『デカセギ』に行ってしまった後は、どうしたらいいか分からないくらい淋しかった…」と、ひとりペルーに残された時のことを振り返るカレンさんは、当時まだ9歳。
「言葉も分からない日本に連れて行くよりも、ペルーで教育を受けたほうが良い」という両親の判断でペルーに残り、親族の家から学校に通っていたという。
しかし、まだ両親が恋しい年頃―。離ればなれの生活に我慢ができなくなり、一年後、10歳で両親が働いている九州の宮崎へとやってきたのだ。
「両親は朝から晩まで工場で働いていましたから、私ひとりで家に居るのも淋しいでしょ。だから、いつも両親にくっついて工場に行き、休憩所で勉強していたんです」
と、カレンさんは来日当初の思い出を語る。
そんな生活が数ヶ月続いたあと、カレンさんは地元の公立小学校へ入学することになった。しかし、まったく日本語が分からないため、授業について行けないのはもちろんのこと、友だちすらできない日々が続く。
そのうえ、「派遣」で働いていた両親は、契約が終了するごとに仕事場を移るため、その都度引っ越しせねばならない。そのためカレンさんも、1年も経たないうちに転校することが度々あり、学業はもちろん、日本語をマスターすることも困難だった。
「日本語が分からない、授業について行けない…」
すっかり自信を失っていたカレンさんに転機が訪れる。
宮崎から佐賀の小学校に転校したとき、カレンさんの担任となった若い女性教諭との出会いだった。
「内田先生っていうんです」
16年経った今でも、カレンさんは先生の名前を覚えている。
「私のためにスペイン語の辞書を用意して、ひとつずつ単語をひきながら、私が理解するまで教えてくれました。両親もまったく日本語が分からなかったので、わざわざ家庭訪問までして、両親にも学校のことを説明してくれたんです」
内田先生と出会ってから、カレンさんの日本語は急速に上達。学校へ通うのも楽しくなっていった。
しかし、日常会話は理解できても、授業についていくのは容易ではない。
「このまま日本で勉強を続けていても、高校・大学まで進学できるほどの学力を身につけるのは難しい」
そう考えたカレンさんの両親は、彼女をペルーに帰らせ、母国で進学させることを決意する。
―ペルーでも戸惑いの日々
来日から5年経った15歳の春、ふたたび家族と別れ、カレンさんはペルーに戻った。
しかし、成長期の子どもにとって「5年」 という歳月は、大人の2倍以上の重みがある。
ペルーの学校に通い始めたものの、カレンさんは大きな違和感を覚えていた。
「日本とは、なにもかも違いました。ペルーの子どもたちは、日本人と比べてずいぶん大人びているから、15歳でもクラブに行って遊んでいます。でも、私は行ったことがない。友だちとの共通の話題が見つからないんです…。それに、むずかしいスペイン語は理解できなくなっていたから、授業についていくのも大変だった」
自分の居場所が見つけられずに、学校の帰り道、いつもひとり泣いていた。
しかし、日本では両親が身を粉にして働きながら、カレンさんを「大学まで通わせたい」と願っている。ここで負けるわけにはいかない。
カレンさんはその後、なんとかペルーで義務教育課程を終え、地元の大学進学を目指すことになった。しかし今度は「入学金が足りない」という問題が浮上した。
「すでに還暦を迎えようとしている両親に、もうこれ以上頼ることはできない。今までさんざん私たちのために働いてくれたんだから―」
そう考えたカレンさんは、学費を稼ぐために17歳でふたたび来日を決意する。
―機械の一部となって働き続ける
家族が住む静岡県榛原郡吉田町に戻ったカレンさんは、朝8時から夜10時まで、学費を稼ぐために来る日も来る日も工場のラインで働いた。
「片時も手を休められないし、立ちっぱなしで足は固まっていくんです」
気づけば自然と涙がカレンさんのほほを伝っていた。
心配した日本人の上司が、カレンさんにイスに座って作業するよう勧めてくれたが、涙が出たのは作業がきついからではなかった。
「自分がまるで、『機械の一部』になってしまったような気がしたの。それが悲しかったんです」とカレンさんはいう。
しかし、他の日系人たちは、来る日も来る日も、「機械の一部」となって働き続けている。カレンさんも、大学の入学資金を貯めるため、2年間工場のラインで働き続けた。
―ペルーで大学に進学、しかし学費が底をつき…
カレンさんが、大学の入学資金を貯めてペルーに戻ったのは19歳。すぐに予備校へ通い、半年間猛烈に受験勉強をして、みごと経営学部に合格した。
それから1年間、カレンさんはペルーで大学生活を送るが、親からの援助を受けずに、毎年継続的に学費を支払っていくのは大変なことだった。
「結局、学費が底をつき、また日本で働かなければならなくなったんです」
大学に休学届けを出したカレンさんは20歳で日本に戻り、ふたたび工場で働き始める。
せっかく苦労して入った大学にも通うことができず、ふたたび単調な工場での仕事―。自暴自棄になっても不思議ではない境遇だが、カレンさんは違った。
「今、置かれている環境で、できるだけのことをしたい」と考え、日本語能力試験を受けることにしたのだ。
―「日本語能力検定1級」に合格
そんな彼女の思いを支えたのが、吉田町国際交流協会のボランティアスタッフたちだった。
吉田町には、人口の4%にあたる約1000人の外国人が住み、地域の製造工場や食品加工工場などで働いている。
吉田町国際交流協会では、外国人が増え始めた95年以降、「彼らが日本の生活に困らないように」という思いから、週に1度有志が集まり、ボランティアで日本語を教えていた。
カレンさんの場合、日常会話は問題なかったが、読み書きが弱かった。とくに漢字の習得は、漢字圏ではない外国人にとっては大きなネックだ。
そこで彼女は、吉田町国際交流協会が主催する日本語教室に通い、徹底的に漢字をマスターすることにしたのだ。
「ボランティアの先生たちは、本当に親身になって教えてくれました。仕事が忙しくて教室を休みがちになったこともあったんですが、わざわざ家に様子を見に来てくれて、『検定試験、もうすぐだからがんばろう!』と励ましてくれたこともありました」
カレンさんは工場で働きながらも、一日一時間は日本語の勉強に充てていた。そして22歳で、「日本語能力検定1級」に合格したのだ。
勉強の励みになっていたのは、「いつかカレンさんが、日本とペルーの架け橋になれるといいね」といってくれた吉田町国際交流協会のボランティアスタッフの言葉だった。
―ハローワークで生活相談員に
自分の学費を稼ぐために日本に戻ったカレンさんだったが、「家族や親戚を少しでも楽にしたい」という思いから1年また1年と年月は過ぎ、26歳となった現在もまだ帰国のめどはついていない。
カレンさんは得意な日本語を活かして、今年2月から吉田町のハローワークで通訳の仕事を始めた。経済不況のあおりを受け、雇い止めになった外国人たちの就職や生活の相談にのっているのだ。
先日は、失業中の両親と子どもが相談のために訪れた。
「解雇されて学費を支払えないが、どうしても子どもを高校に進学させてやりたい」という相談だった。
カレンさんは進学で苦労した自分自身の体験と重ね合わせ、「なんとかこの子を学校に通わせてあげたい」と必死に策を考えた。司法書士とともに県の社会教育委員会にかけ合い、低額の融資を受けられるように段取りを整えたという。
「高校に進学できることが決まったときは、子どもさんも両親も、とても嬉しそうだった。私、やっとペルーと日本の『架け橋』になれたのかな…」
と照れたように笑うカレンさんは、とても嬉しそうだった。
―将来はペルーと日本を結ぶビジネスを興したい
「大学では経営を学んでいたんです。いつか日本で起業したいと思って…」
そう将来の夢を話してくれた彼女は、まだペルーへ帰って復学する夢を捨てたわけではない。
卒業後は、ペルーから質の良いシルバーアクセサリーを輸入して、日本で販売することを計画しているのだ。
「ビジネスがうまくいけば、ペルーの貧しい若者たちにも雇用が生まれます。 学校に通えない子どもたちも大勢いるから、なにかしてあげたいんです」
カレンさんのように、ふたつの国を背負うミックスルーツの子どもたちが、今日本には増えている。
異国で生活していくには困難がともなうが、日本社会が彼らに学ぶ環境さえ用意できれば、かならず「架け橋」となる人材が育っていくことだろう。
(日刊ベリタ記事の転載)
http://www.nikkanberita.com/print.cgi?id=200906181509174
体感する多文化コミュニケーション 多様なルーツ、多様な文化を歌に乗せ交流
100余年前から、多様な文化を許容してきた港町・神戸。そんな異国情緒ただよう街にふさわしいイベントが、6月19日、メリケンパーク近くの神戸上屋劇場で開催された。今年2度目となる「Shake Forward! (シェイクフォワード!)2009」と題したこのイベントは、ミックスルーツなアーティストたちが集い、若者の音楽「ヒップホップ」にのせて、自らのアイデンティティを認識し、多文化コミュニケーションをはかろうというものだ。「ミックスルーツ」とは、様々な文化や国のルーツを背負っている人々のことを指す。ハーフやクオーター、在日外国人などが含まれる。
イベントを主催しているのは、多文化共生をすすめるネットワーク「ミックスルーツ関西」。その代表を務める須本エドワードさん(27歳)自身も、父がベネズエラ人で母が日本人というミックスルーツをもつ人物だ。3歳から日本で暮らしているというが、ものごころついたころから自らのルーツを考えるようになり、「見た目や国籍でステレオタイプに判断される」ことに対して違和感を抱いていたという。インターナショナルスクールに通っていたエドワードさんは、同じ悩みを抱える友人らとともに「ミックスルーツ・ジャパン」を立ち上げ、音楽や芸術活動を通して多文化共生をすすめるイベントなどを開催してきた。
そんななか、「日本で暮らすミックスルーツたちの“ロールモデル”になりたい」と、自らのアイデンティティをヒップホップにのせて歌うアーティストらと出会い、意気投合。この「Shake Forward!」を開催するようになったという。
―それぞれのルーツを歌にのせて
この日ステージには、ミックスルーツをもつアーティストたち9組がステージに立っていた。
元Jリーガーという異色の経歴をもつGeneZ(ジーンズ)のボーカル・矢野マイケルさんは、ガーナと日本のミックスルーツ。「いつも人の視線が気になってしようがなかった」というマイケルさんは、この日ステージでも「ガーナと日本のハーフということで悩んだこともあったけど、それをプラスに変えてがんばっていきたい。ひとりが100歩進むより100人が1歩ずつ踏み出すことで、世界は変えられる」と訴えた。
また、「両親がボートピープル」というベトナム人のナムさん(20歳)は、自らのルーツを綴った『俺の歌』のなかで、こんなメッセージを伝えてくれた。
「感謝する、戦争で生き残ったじいちゃん。感謝する、死なずに海を越えたことに。大声を出して出てきたぜ、この世に。さぁ、ここからが俺の人生の始まりだ…」
ナムさんは、「小さい頃ベトナム人であることが嫌でたまらなかった」というが、現在は自身のルーツに誇りをもち、ベトナムの大学に留学している。
この日、「はじめて息子のステージを見た」というナムさんのお母さんは、「ずいぶん成長してくれたわね」と、顔をほころばせながら息子の晴れ姿を見守っていた。
―会場にはミックスルーツの子どもたちの姿も
多様なのはステージに立つミュージシャンだけではない。
「ここは外国だろうか?」と思うほど、観客たちも多様な人種であふれていた。なかでも印象的だったのが、親に連れられて来ていた小・中学生くらいの子どもたちが多かったことだ。はじめは、「ライブイベントに子どもを連れてきて大丈夫なんだろうか…」と心配したが、彼らにはこのイベントに参加する大きな理由があったことを、後から前出のエドワードさんから聞き、納得した。
この日、会場にはナイジェリアのルーツをもつ小学生の女の子が来ていた。このところ、「なぜ自分だけ見た目がちがうのか」ということに悩んでいたようで、ステージで堂々と歌う同じルーツの兄貴分たちを見て号泣してしまったという。きっと、小さい胸に抱えていたものがあふれ出したのだろう。
このほかにも、「引きこもりになっていたミックスルーツの子どもが、ライブを観てから学校に行けるようになった」という嬉しい報告もあったようだ。
―ワークショップを開催し、子どもたちと交流
さらにライブ翌日は、「たかとりコミュニティセンター」にて、ライブに出演したアーティストたちと地元の子どもたちが参加して、ワークショップが開かれた。
ワークショップの内容は、「アーティストと一緒に、ラップミュージックを作ろう」というもの。子どもたちとアーティストが一緒になってチームを作り、テーブルに配られている色紙から連想するワードを画用紙に書き出していく。そして、書き出したワードが歌詞になるように、うまくつなぎあわせていくというものだ。
「My Skin、バナナの色、神の栄光でもある地球の色」など、それぞれが思いつきで出したとは思えないほど、深い意味合いの込められた歌詞ができあがっていく。
そして最後は、作ったばかりの歌をアーティストと子どもらが一緒になって歌い、2日間にわたるイベントは幕を閉じた。
このワークショップに参加していた学生たちに感想を聞くと、次のような答えが返ってきた。
「生まれも育ちも日本ですが、ハングルネームを使っているので、いまでも自己紹介するときはドキドキします。今日は、いろんなルーツをもつミュージシャンと出会えて、とても勇気がわきました」(在日コリアン、女子高校生)
「いろんなルーツをもつ人たちの中にいると、不思議と安心します。ふだんは意識していないけど、いつも心のどこかに居場所のなさを感じているのかな…」(在日中国人、女子高校生)
多様なルーツをもっていること、そして多様な文化を背負っていることは、プラスであって決してマイナスではない。しかし日本では、まだその多様性の素晴らしさが充分に認められていないようだ。こうした活動を続けることで、肌の色や国籍ではなく、ひとりひとりのパーソナリティが尊重される社会へと近づいていくだろう。
*ステージで熱唱するミックスルーツのアーティストたち(右上)
***
(日刊ベリタより転載)
http://www.nikkanberita.com/print.cgi?id=200906241141153
トップの見方:「私たちはレガシー・ビジネスだ」(広告会社WPPのマーティン・ソレル会長)
世界中の一人一人が、それぞれ異なる人生を生きている。例えば、世界でも最大規模の広告会社の1つ、WPP(従業員は世界107カ国に13万5000人)の創立者マーティン・ソレル会長(64歳)はどんなことを考えて、どんな風に世界が見えるのだろう?そんなことを思いながら、今月上旬、ソレル氏のロンドンでの会見(外国プレス協会)に行ってみた。心に残ったのは「私たちはレガシービジネス」という言葉だった。
「レガシー」というのは、通常は「遺産、相続財産」などの意味で使われる。コンピューター用語では「新しいものが出現したが、長年使われ、いろいろな事情で完全に捨てることができない古い技術や仕様など」を指すこともあるようだ。昨今、特に先進国では、新聞やテレビなどの既存のメディア業界がネットの攻勢や広告収入の減収などで苦戦している。かといって、ネットだけにもできない、それでは収入が少なすぎるからだ。ジレンマがある。大きな変化をすぐに実行できないのは、既にそれ相当の資産・貯めてきたものがあるから。ソレル氏がWPPのことを「レガシービジネス」という言葉でくくって表現した時、「捨てられないほどの何物かがある」ーこれは必ずしも悪いことではないのではないか?そんなことをふと思ったのだ。
ソレル会長は、「本題に入る前に」と、集まった外国報道陣を前にして言った。「事実とそうでないことをきちんと書き分けて欲しいーこんなことを最初に言っていやかもしれないけどね」―。
氏の業界予測、景気予測は、英国では結構注目の的で、「ソレルがこういった」と書けば、それだけで1つの記事がでてしまう。さて、氏の景気ウオッチングだが、「今年は難しい。何しろ、2007年の夏以降、米ベアスターンズの経営悪化、サブプライムの焦げ付き、それに昨年秋の米リーマンブラザースの破綻があった。米政府はリーマンを救済しなかった。これは重要な意味合いを持つのだと思う。社会、それに世界全体への影響だ」
「つまり、人々の消費行動や投資行動がそれほど大きく変わるということはないかもしれないが、長期的な影響があるのではないかと思っている」
「WPP社の売り上げを見ても、これまでは毎年4-5%は上昇していたし、まあまあ満足がいく数字だったと思う。しかし、金融危機のインパクトが出てきたのは2008年後半からだ。わが社は今、英国には1200人の従業員がいるが、それよりもずっと多くの人数をインドや中国に置いている。危機はWPPにとって、本当にグローバルな影響になる」
「今後は、今年後半は前半よりもややよいのではないかと予測している。世界中の経営者の会議に出て、他の企業トップと会話をしていると、やや自信がついてきたような感じがする。おそらく、年末から年明けにかけて、景気はややよくなるのではないか。落ちて、そのまままっすぐが続く、つまりL型の景気だ」
「心配なのは、(英政府の)財政出勤の大きさだ。『量的緩和』なるものをまさかこの政府がやるとは思わなかった」
「(株価上昇という)今市場で起きているのは、世界が終わったわけではない、ということを示している」
「長期的には、世界中のGNPの20%分が無くなったわけだから、これは大きいし、どこまで影響があるのか、計り知れない部分がある。今後は、政府が(財政出勤に使った)税金をどうやってこれから処理していくかに関心がある。英政府は、ウェールズ地方への大きな投資など、既に税金をたくさん使っていたのだから、ここまででかい財政出勤をしてしまう(銀行救済など)と、どうやって抜け出すのかなと思う。失業率もEU諸国の中では高いほうになっているしー」
「今後のWPP社の戦略は、新市場に投資することだ。今、米国に37%、西欧諸国に37%、そのほかの市場は25-6%、投資している。新市場、つまりアジア、中東、アフリカ、ラテンアメリカだが、これから伸びる可能性は計り知れないほど大きい。今後は各地域で三分の一ずつにしたいと思う。イラン、ロシアにも注目だ」
「何故新市場が非常に重要だと思うか?考えてみて欲しい。国民の貯蓄率の高い国ばかりだ。逆に西欧の私たちはお金を使ってばかりだ。例えば日本、ブラジル、中国、インドー貯蓄率が高い。新市場の伸びを抑えることはできない。焦点もこちらにシフトせざるを得ない。日本が米国を打ち負かすことだってあるかもしれない。といっても、米国市場をあなどることはできない」
「西欧には問題がたくさんある。英国やドイツも同じだ。産業やビジネスのやり方を変える必要がある。米国は簡単だ。起業家精神が高い。これは非常に大きい」
「メディア界に目をやれば、ネット・メディアが発展しているのに比べ、既存メディアはがたがた状態だ。新聞の発行部数も先進国ではがた落ちだし、新聞自体は媒体として残るだろうが、ニューヨークタイムズがなくなってしまうこともあるんじゃないかな。私自身は(米国の携帯読書端末)キンドルを使っている」
「西欧は高齢化も進んでいるし、生き残りは難しいと思う」。
会場から質問が飛ぶ。
*どうやって世界中に拡大したWPPを統括しているのか?
「重要なのはコミュニケーションだ。これはどこの企業のトップの課題でもある。WPPでも。中央から調整しようと思っても、ローカルの人に頼らざるを得ない」
*温暖化に取り組むなど、環境対策は不景気になれば、企業はやらなくなるのではないか?
「そんなことはない。これをしないと、人が集まってこない。それと、いかにコストをカットするか?トップはいつもそういうことを考えている」
* WPPの創立者だが、次期トップの人選はもう始めている、ということだが?
「そんなこと、どこで聞いたの?」
* メディアで報道されていた。
「言った覚えはないな。ちゃんと勉強してから質問して欲しい。事実とは何か」。
*ニューメディアの話があった。新市場、ネット=ニューメディアが大事だというなら、WPPもそうしたらいいのではないか?すべてをネットでやるようにしては?組織を極力小さくする。どうしてそうしないのか?カリフォルニアのシュワルツネッガー知事も、これからは教科書をなくして、オンラインだけにする、と発表したのではないか。ソーシャルネットワーキングをもっと利用する、というのはどうか。
「(ちょっと考え込んだ表情になり)それは・・・最初に何もなければ、いつでもゼロからはじめられる。失うものがないからだ。しかし、WPPのようにレガシービジネスの場合だと、まず企業を『もんでから』行動をおこさないといけない。そんなには早く人は動けないものなんだよ」
「ソーシャルネットワーキングか。大成功だけど、あまりお金をもうけてないよね。TWITTERも大評判だけど、数字はどうなんだろう。格好いいけどね。でも、ものごとはよく見なくては。浮き沈みがはげしいよね」
「WPPはヤフーやグーグルみたいに、ハイテク企業じゃないんだ。メディア企業の経営陣としては責任があるんだよ。オンラインは利益が少ないから」
「ただ、ドイツの伝統産業なんかは、動きがゆっくり過ぎる。ビジネスに関わる仕組みが厳格すぎる。やっぱりアメリカだ。それと、市場としてはアジア、中東、アフリカ、中南米だな」。
* **
WPPの年次報告書に使われているのが、ブラジルのアーチスト、Jose Francisco Borgesのほのぼのとした作品だ。
http://en.wikipedia.org/wiki/WPP_Group
http://en.wikipedia.org/wiki/Martin_Sorrell
「本棚のまわりで」 美しいだけでない雑誌
09.06.21 by Tokyo57577 カテゴリー: コラム, 本棚のまわりで
買いそびれたアルネ(Arne)のバックナンバーを探していたら、この雑誌が12月に30号で終了すると知った。2002年10月にスタートしたアルネは、イラストレーターの大橋歩が企画、撮影やインタビューから原稿、紙面のデザインまですべてを手がける雑誌で、人物や食べ物、身の回りのこと、本や映画の話など、すべてのページに彼女ならではの視点が息づいている。
写真やレイアウトがすっきりしていて美しく読みやすいのは、彼女のこれまでの長い間の仕事ぶりやそのセンスを思えば当然のこと。だがインタビュー記事になると、彼女が好きな人やその仕事などについていささかつんのめるようにして話を聞く様子がうかがえて面白い。大橋歩だからこそ取材を引き受けた人も多いらしく、意外なエピソードや、思いもよらない写真が記事中にひそんでいることがある。
柳宗理、深澤直人、飯野和好、もたいまさこ・・・どのインタビューにも、大橋歩が魅かれる各氏のものの見方がくっきりと描かれたり、人となりがにじんでいたりする。中でも出色は村上春樹のインタビュー記事だろう。彼の自宅を訪ねたときの模様が、ふんだんな写真とともに10ページ(全体の約五分の一)を費やして綴られている。仕事部屋にかけられた、ニューヨーク・シティ・マラソンに参加した時の写真、レコードの棚や地下の資料庫、村上宅の昼ご飯、ランニング用のスニーカーの列・・・。はては赤い琺瑯びきの生ごみ入れまで写真に収められていて、インタビュー嫌いと言われる彼のことを思うと、その贅沢な内容に唖然とする。
昨今、美しい食器や気のきいた調度品、手間ひまかけた料理などを楽しもうと唱える雑誌が多い。だが、たとえば「スローライフ」や「古いものを大事にする生活」を提唱しようと、どれも薄っぺらに感じられてならない。雑誌名は異なれど、紹介される物や人物には大差なく、アルネから読み取れるような観察眼がない。単に流行に乗っかっただけの体裁で、深みに欠けているのだ。
アルネにはもちろん大橋歩のエッセイも網羅されている。些細な、でも許せないちょっとした人の悪意、いくら流行といえど首をかしげざるをえない風潮などが、小さなエピソードを交えてさらりと綴られていて、いつも腑に落ちるものがある。
中学生の頃、ちょっと目のつったきつそうな顔に長い手足がついた女性のイラストにひかれ、大橋歩のエッセイを読むようになった。そこには、おしゃれなイラストを描いて成功しているイラストレーターも、若い頃は悩みや引け目に思うことをたくさん抱えていたのだと記されていた。華やかな世界にいる(ように見える)彼女にもそんな時代があったのだとは、コンプレックスでいっぱいだった中学生には意外な発見だった。彼女の包み隠さぬ正直な物言いには、親近感が湧いただけでなく、僭越な言い方だが、この人は「信頼できる」とも思った。
伊藤まさこ著『あの人の食器棚』(新潮社)は、19人の台所を紹介する一冊だが、最後に大橋歩の富浦の家が出てくる。ともすれば「台所まわりの品選びに一家言あり」という名のもとに雑多になりがちな他の人の台所やダイニングルームと異なり、彼女のそれはすっきりと清潔だ。アクセントのようにタイマーをつけただけの冷蔵庫、端にキャンドルと数点の小さな品だけを置いたカウンターが全体の空間をきりりと締めている。掃除の行き届いた床は清々しい。大橋歩本人そのままのようで、彼女のページだけを熱心に見てしまった。「ほっこり」などといった手垢のついた表現でまとめられていなくてほっとした。
アルネの魅力は、大橋歩の審美眼とともに、彼女のちょっと気難しいところもうかがえ、口当たりのいい写真を連ねただけのライフスタイル誌に終わらないところにある。だからこそ、同誌の終了を残念に思いつつも、彼女の「30号で全部をお伝えできると思い、終了を決めました」(イオグラフィックのウェブサイトより)とのコメントは、実に潔く、彼女らしいと思った。
***
(「本棚のまわりで」コラムのイラスト:Hiroyuki Nakamura )
北アイルランドのジャーナリスト、取材源の守秘裁判で勝訴
英領北アイルランドのジャーナリスト、スザンヌ・ブリーンさんが、18日、警察から武装組織「真のIRA」に関わる情報の提出を求められていた裁判で勝訴し、取材源に関わる情報の守秘を維持した。
今年3月、北アイルランドの英軍基地内で英兵2人が射殺される事件があった。カトリック系過激組織アイルランド共和軍(IRA)の分派「真のIRA」が犯行声明を出した後、日曜紙「サンデー・トリビューン」の記者ブリーンさんが真のIRA代表者にインタビューを行った。警察から取材源の情報の提出を求められたブリーンさんは「報道の自由」の原則と、「もし情報を渡せば、(報復などのために)身に危険が迫る」としてこれを拒否し、裁判沙汰になった。もし敗訴していたら、情報を警察に渡すばかりか、5年の禁固刑となる可能性もあった。
北アイルランドの中心都市ベルファーストの裁判所は、「もしブリーン記者が取材にまつわる情報を警察に渡せば、命が危なくなっていた」と判断した。
裁判の過程で、情報を警察に渡せば殺害するという警告を真のIRAがブリーンさんに送っていたことが明らかになった。
勝訴の判決が出たあと、ブリーンさんは裁判所の前に立ち、集まった報道陣に対し、「画期的な判決となった。これが先例になって欲しい。他のジャーナリストが私のように裁判所に行って戦わねばならない状況にさらされないことを願う。もし情報を渡さなければ、5年間の禁固刑にされるという状況が起きないことを願う」、と述べた。
北アイルランドでは、長年に渡り、プロテスタント住民とカトリック住民との間の争いが続いてきた。プロテスタント系、カトリック系の民兵組織による暴力事件も数多く、1970年代以降、3000人以上が犠牲となってきた。現在、両宗派を代表とする政治家が北アイルランド自治政府を成し、融和に向かっているように見えるが、住民同士の憎しみや民兵組織による暴力事件は完全になくなってはいない。「真のIRA」が未だに殺人もいとわない組織であることが、5月、「独立監視委員会」(民兵組織の停戦状態を監視する団体)が発表した報告書が指摘していた。
ホームレス・サッカーワールドカップ、9月にミラノで開催
世界各国のホームレスの人がサッカー選手として自国を代表して競う「ホームレス・サッカーワールドカップ」大会が、今年はミラノ・イタリアで、9月6日から13日、開催される。アルゼンチンからオーストラリア、南アフリカからポルトガル、カメルーン、ブラジルなど64カ国でホームレスとして暮らす人が参加する。今年は第7回目だが、日本でも代表選手たちが練習の真っ最中だ。
ワールドカップの開始は2003年、オーストリアだった。その後、スウェーデン(2004年)、エジンバラ(2005年)、ケープタウン(2006年)、コペンハーゲン(2007年)、そして昨年はメルボルンへと続いてきた。
サッカー大会の実行委員会によると、世界中にいるホームレスの数は約10億人。米国では350万人がホームレスになっており、一人一人を支えるために年間6万ドル(約6000万円)が使われているそうだ。
ワールドカップの究極の目的はホームレスをなくすること。それには各国の政府の福祉政策や教育政策、富の分配の不公平の是正などが鍵になるとしても、政府の対応を待っていてはらちがあかない。そこで、自分たち(ホームレスの人もそうでない人も)の手で、かつ元気が出る方法で、何とかしようじゃないか、というのが大会開催の趣旨のようだ。
国際的なサッカー大会を開催して、それぞれの国の代表になるためにがんばる、そして自分たちの人生を自分たちの手で変えてゆくーそんな機会を作ることを目指す。
実行委員会の調査によれば、参加者の77%が、サッカー大会で自分の人生が変わったと言っているそうだ。プロ、あるいはセミプロのサッカー選手になってしまった人もいる。
ミラノの本大会までに、世界各地で予備選、決勝戦が開かれるが、こうした試合や練習に参加するのは約2万5000人ほどと予測されている。
日本から今年参加するのは「野武士ジャパン」だ。(以下、公式サイト)
http://www.nobushijapan.com/index.html
「野武士ジャパンサポーターズ委員会」は、寄付をしてくれるサポーターや企業の支援を募集している。関心のある方は上のサイトをのぞいてみてほしい。「熱い」選手の声も盛りだくさんだ。
(写真はホームレスワールドカップ公式サイトから)
http://www.homelessworldcup.org/
映画『オリーブの木がある限り』―オリーブは私たちの文化・歴史、生きた証なのです
あまりよく知られていないことだが、パレスチナの主要産業は農業である。輸出額の25%を農産物が占め、就業人口の14%は農業就業者が占める。主要作物はオリーブ。しかし畑や果樹園はイスラエル軍の検問所や分離壁に囲まれ、生産も輸送も常にイスラエルによって妨害され、オリーブの木は次々と引き抜かれた。
そんなパレスチナの農業を守り抜こうと有機農業とフェアトレードを目指す地元NGO/民衆組織がヨーロッパや日本の市民組織・フェアトレード団体と組んで活動している。この映画は、そうした活動に取り組むパレスチナのNGO「パレスチナ農業復興委員会」(PARC)とフランスのパートナーが制作した。日本語版は、PARCの日本側パートナーである市民資本の民衆交易会社オルター・トレード・ジャパン(ATJ)とアジアの民衆組織のリンケージを掲げるNGO、APLAの協力を得て、国際有機農業映画祭実行委員会(代表:大野和興)が制作した。(大野和興)
この映画の日本での最初の上映は、2008年11月に開かれた国際有機農業映画祭の第2回映画祭においてであった。そしてこの6月12日には都内で開かれた東京平和映画祭で上映された。
2008年11月16日の有機農業映画祭上映当日、この映画の主人公が映画祭会場に現れた。PARCのサリーム・アブー・ガザーレさんとパレスチナ農業開発センター(UAWC)のカレッド・ヒデミさんだ。彼らのオリーブオイルを扱うATJが招聘、日本の消費者との交流の合間の縫って駆けつけてきてくれたものだ。
「パレスチナには1000万本のオリーブの木がありました。この7年間に100万本がイスラエルによって引き抜かれたのです」(サリームさん)。
「オリーブの木を育てること、そこからオリーブオイルを絞り、製品に仕上げることは、私たちにとってたたかいそのものなのです。土地の権利、水の権利はそのまま人間が生きていくための権利、生存権そのものです」(カレッドさん)。
パレスチナはオリーブの原産地のひとつとサリームさんは指摘する。コーランでも神聖な木とされ、オリーブと人との付き合いは3000年以上に及ぶ。
「そのオリーブの木が引き抜かれるということは、私たちの文化や歴史、宗教を根こそぎにされるということなのです。同時にそこで生活の糧を得ている農民の未来を奪ってしまいます。だから私たちは引き抜かれても引きぬかれても植え続けます」
映画は見る人に深い感銘を与えた。
冒頭、ナレーションが語りかける。
「パレスチナといえば、石を投げる子ども、自爆するテロリスト、イスラエル軍と戦う青年など、ステレオタイプ。もちろんそれも事実だが、その背後にもうひとつの現実がある」
「パレスチナの人々の多くが農民であるということを、誰が知っているだろう」
映像は壁を、検問所を写し、カメラは次第にパレスチナの内部に踏み込む。乾いた土地に広がるオリーブ園、一家総出で収穫作業に従事する村人、よちよち歩きの幼児も一人前に畑でがんばっている。
突如ニュース映像が入る。イスラエルの兵士が重機を持ち込み、オリーブの木を引き抜いたり、切り倒したりしている。一人の農民が猛烈な抗議を行うが、たちまち兵士たちに押さえ込まれ、腹をけられ、連行される。
パレスチナの農民たちは協同組合を作り、加工・輸出を目指す経済活動で「もうひとつの」抵抗に乗り出す。しかし、収穫のため、家を出ようとする農民にところにイスラエル軍がやってきて、「今日は外出禁止」だと伝える。自分たちの工場で絞ったオリーブオイルを港に運び出すトラックはしばしば検問所で止められ、船積みに遅れそうになる。それでも農民は「オリーブの木がある限り」がんばる。
2007年/フランス/ 23分,日本語字幕版。映像・監督:イヴ・デュシュマン 制作:Solarium A.S.B.L
国際有機農業映画祭実行委員会は『オリーブの木のある限り』(日本語字幕版)のDVDの貸出と販売(上映権付)を行っている。
―貸出 個人 3000円 団体 1万円
―販売 一般 3000円 図書館1万円
お問合せ:国際有機農業映画祭事務局まで info@yuki-eiga.com
(日刊ベリタから転載)
http://www.nikkanberita.com/
実は美しく、味は苦く…「カリナ」にみるロシアの愛
09.06.13 by タチヤーナ ・スニトコ カテゴリー: 世界の窓, 文化

ロシア文学には、幸せをテーマとしているけれど、そこには報われることのないさまざまな困難が待ち構えているといったものが少なくない。主人公は、いつかは幸福になる希望を持って人生を生きぬくが、苦しみにあえぎ続けたり、とうとう死んでしまったり、一生を通じて幸せとは縁遠い人生を過ごしたり、と最後まで幸福にはなれないのである。
ロシアの大地では、5月下旬―6月上旬にかけて北極地方を除く全ロシアの河岸や湖畔に花嫁のベールのような白いアジサイに似た花をつけるカリナの木(左写真)をあちこちに見ることができる。
秋が来ると、カリナの木は火のような緋色の実で真っ赤に染まる(右写真)。「カリナ」は「赤熱」という意味。「恋愛、幸せ、婚礼」の木である。昔は、カリナは「愛、馬鹿」を表すとされた。なぜならば、人間は恋に落ちると、自分を見失うからである。
カリナのハート形の小さい実には薬効があり、昔から薬として使われている。カリナの抗菌効果のため実は腐ることはなく、一年中新鮮さを保っている。カリナの実はレモンに比べてビタミンCは2倍、鉄分は5倍含有している。
お祖母ちゃんのレシピを使って、主婦たちはマーマレード、パスチラ(*ロシアの伝統的お菓子)、ジュース、ジャム、ジェリー、砂糖煮、蜂蜜煮、果汁、シロップ、ソース、酢、カリナ酒、果実酒、リキュール、カリナパイ等を作る。昔はカリナの種をひいてコーヒーのような飲み物を作った。そのカリナの実の苦味は寒くなると消えるので、カリナの実は冬にとるのである。
ロシアでは、カリナは驚くほど人気ある。若い女性はもっときれいになるためにカリナジュースで顔を洗う。婚約者にはカリナの実を刺繍したタオル(縁結びのタオル)をプレゼントする。結婚式ではカリナの実は新婚夫婦にプレゼントとして渡される。その理由は、ロシアでは厳しい冬の寒さのために葉を落とした木々は裸になるけれども、カリナの木だけは炎のように真っ赤となり、新婚夫婦の家庭の愛に似つかわしい象徴なのである。
カリナの木は強度があるので強い魔法の力が備わっていると信じられている。カリナの木の枝を枕の下に入れて寝ると、悪い夢や悲しい夢は見ることはなくて、その反対に甘美な夢を見ることができると信じられている。カリナの大枝を折ってはいけないと信じられている、なぜならば災いが起こるからである。
「カリナ、愛情」は多くの歌のテーマになっている。その中に日本でもよく知られている有名なものとして、「カリンカ」という歌がある。マリンカ(マリナ)は甘く、カリナ(カリンカ)は苦い。
「カリンカ」
カリンカ カリンカ カリンカマヤ
庭には苺 私のマリンカ エイ
……
緑の並木
小松のかげの
あの子を忘れぬわたし
アイリュリ リュリ
アイリュリ リュリ
あの子を忘れぬわたし
………
いとしいあの子
かわいい娘
わたしを愛しておくれ
アイリュリ リュリ
アイリュリ リュリ
わたしを愛しておくれー
「赤いカリナ」は「美しくて若い女性」を意味する。「カリナは熟していない」(歌の言葉)という表現には、「その女性はまだ若くて、結婚するにはまだ早い」という意味がある。縁起のよい「カリナの木の橋」という表現は、結婚式の儀式と歌の人気のテーマである。
カリナの実には苦味がある。カリナパイも苦い味がする。「カリノヴカ」というカリナ果実酒も苦味がある。ロシアの愛には、恋愛にも苦い味がある。ポプラの歌の言葉は、それを語っている、「カリナは苦い、あなたの唇のカリナ」、「甘い実を二人で取った、苦い実を私は一人で取る」などである。
1974年にヴァシリイ・シュキシンの『赤いカリナ』という映画が封切られた(スライド写真参照)。これは、「ゴリェ」(ゴリェは悲哀を意味する)と言うあだ名の泥棒で、前歴を持つ男の愛の映画である。この男は文通で知り合った女性を愛して悲劇の最後を遂げるのである(最後には山賊に殺されてしまう)。
この映画はロシアの謎のひとつである「罪人はいかに純真な人になりえるか、又その逆にいかに純真な人が罪人になりえるのか」という命題を取り上げている。
映画『赤いカリナ』は、いかに人は愛により浄化されるのか、という人間の魂をテーマとしたものである。
カリナという木は不思議な木である。枝葉は細くて折れやすい。実の色は美しく鮮やかであるけれども苦い。初霜が降りる頃になると苦味が消える。
(日刊ベリタ、6月13日掲載分を再掲載)
* パスチラ:「ロシアの伝統的お菓子で、マシュマロのように柔らかく、マシュマロよりも弾力性があり、甘さと酸味が口の中でとろけ、淡白な優しい味わい。真っ白な雪のように見た目も清楚で上品なお菓子である。大の甘党で知られている文豪ドストエフスキーは、いつも書斎の棚にパスチラを置いており、訪問客にもふるまっていたといわれる」(アエロフロート航空機内誌より)http://old.aeroflot.ru/avrora/2008winter/06_taste.html
情報源を明かせと迫られる、北アイルランドのジャーナリスト
英領北アイルランドのジャーナリスト、スザンヌ・ブリーンさんが、取材をした相手に関わる情報を警察に渡すか否かで苦しい選択を迫られている。
ブリーンさんは日曜紙「サンデー・トリビューン」紙の記者。今年3月、英兵2人が北アイルランドの英軍基地内で射殺される事件があった。カトリック系過激組織アイルランド共和軍(IRA)の分派「真のIRA」が犯行声明を出した後、ブリーン記者は真のIRAの代表にインタビューを行った。英兵の殺害者を捕まえる必要がある警察は、記者に対し、取材に関わるメモを渡すよう主張したが、ブリーンさんはこれを拒否。とうとう裁判沙汰になった。
今月11日、北アイルランドの中心都市ベルファーストの刑事上級裁判所で、ブリーンさんは、取材相手の身元情報などを明かせば、「自分の身に大きな危険が迫る」として、情報源を明らかにすることを拒否する理由を説明した。
法廷にはメディア評論家ロイ・グリーンスレード氏やBBCのジャーナリスト、ジョン・ウェア氏などベテラン・ジャーナリストたちが証言者として出席し、いずれも、ジャーナリストには情報を提供してくれた人の秘密を守る義務がある、と主張した。
ブリーン記者はジャーナリストの仕事は「情報を集め、これを公にすること」であり、「政府の工作人として行動するのが仕事ではない。私たちはジャーナリストになることを選択したのであって、探偵になることを選択したのではない」と述べた。
3月7日に射殺されたのは、23歳と21歳の兵士。北アイルランドのアントリム州にある英軍基地にいた2人の兵士は、ピザを注文。配達された際に基地に潜入した武装犯人によって、射殺された。ピザを配達した男性も同時に射殺された。
ブリーン記者は、「英兵にピザを配達した、それだけで配達の男性は(真のIRAから)敵と見なされた」と指摘し、警察に協力して情報を渡せば、記者自身はそれよりもさらに大きな敵と見なされて、自分自身が暗殺の対象になるのは必須と述べた。
一方、警察側は情報は捜査上の「証拠となる価値を持つ」として引渡しを主張し、現在、ブリーン記者の殺害予告は出ていない、と指摘した。
情報源の秘蔵というジャーナリズムの原則が問われている裁判の判決が下るのは、来週の予定だ。
英領北アイルランドとは、アイルランド半島の北東部にあるアルスター地方の6州で、人口約168万。アイルランド半島は長年英国の支配下にあったが、1920年代、カトリック教徒が主体の南部26州が「アイルランド自由国」として自治権を得た際、プロテスタントが多数だった北の6州は英国への継続した帰属を選択した。そこで「英領」北アイルランドとなった。
地域内ではプロテスタント住民とカトリック住民との紛争が長く続き、1970年代以降、3000人以上がテロ行為などによって命を落とした。
1998年の和平合意で軍事衝突はほぼ終結したが、南北アイルランドの統一を支持するカトリックの住民と英国の一部であることを望むプロテスタント住民との間の対立が絶えない。英軍兵士は、カトリック住民の一部にとっては敵と見なされる。
一人の音楽家がチャリティーを立ち上げるまで②
在英バイオリニストのデービッド・ジュリッツさんが音楽チャリティーを立ち上げる背景を自宅で聞いた。
―音楽チャリティー「ミューズクオリティー」と世界のバスキングの旅ですが、このチャリティーを始めるためにツアーに出かけたのですか?
デービッド・ジュリッツさん:そうです。バスキングの旅をしようと思ったのは、50歳になることへの大きな恐怖感があったからです。世界中をバスキングで回るというのは学生のころ考えたことだったのですが、今を逃したら絶対できないだろうと思ったのです。
1990年代初期、私がほんの少し関わったチャリティーで、ロンドンでバスキングをやって、南アフリカのソウェトの音楽プログラムを支援しよう、というものがありました。ローズマリー・ノーデンと言う人がやっている素晴らしいプログラムで、「バスケード」、あるいは「ソウェト・ストリング」と今呼ばれています。
これに関わった子供たちは南アフリカでも非常に貧しい地域で育ちましたが、音楽をやったために自分に自信を持つことができて、生活を前進させることができました。そこで音楽プログラムを開始する人を支援できたら素晴らしいと思ったのです。
今後1-2年の狙いは、1つか2つの新しいプロジェクトを毎年立ち上げて、3年かそれ以上支援を続けることです。ウガンダでやっている2つのプロジェクトでは、年上の生徒たちが下の生徒を教えるまでになっています。ほとんど何もない状態で生まれた子供が、突然、ほかの子供に与えるものがあることに気付くのです。非常に前向きで、自分に自信がつく体験です。
―アフリカの子供たちを支援するというのは、ジュリッツさんご自身が南アフリカの出身ということもあるのでしょうか?
そうですね。特に1994年からは南アフリカ出身であることを非常に誇りを持つようになりました、利便性のために今は英国籍のパスポートで旅行をしますし、英国人であることを誇りにも思ってはいますけれども。何かを母国に返したいという思いもありました。
ーご自身のチャリティープロジェクトを始める前に、何かチャリティーとの関与はあったのでしょうか?
いつも何かしらのチャリティー活動はやっていて、私自身は信心深い方ではありませんが、教会でコンサートを開くとか、妻がチャリティー関係のデザインを手掛けたりなど、家族ぐるみでやってきました。チャリティーには相手に何かを与えるだけでなく、こちらも得るものが大きく、多くの人がもっとチャリティーに関わるべきと思っています。
―それにしても、本業を停止して、4ヶ月半も世界を回ってチャリティーを立ち上げる、というのは、非常に大きな決断のように思いますが。
確かに大きいです。まあお金がどれくらいかかったかの詳細は言わないとしても、旅に出かけずに家にいて、バスキングで得たお金と同じ額をチャリティー団体に寄付することもできたわけですね。しかし、そうやっていたら、うまくいかなかっただろうと思います。何かを始めようとする時、達成したい計画について他人にうまく説明ができるだけでは十分ではなく、同時に、あなたがその計画を最後までやり遂げることができ、真剣であるということを相手に示さなければなりません。
―世界のバスキングツアーは、「最も非効率な資金の集め方だ」とブログの中で書かれていましたが?
最初このアイデアを思いついた時、「自分は比較的良いバイオリニストだ」、「私が弾き出せば、人々はいかに私がうまいかをすぐ認識するだろう」、「そこで巨額のお金をくれるだろう」、「世界をビジネスクラスで回ろう」と甘く考えていたんです。ところが、ツアーの2日目でチューリッヒに行って、コンサートホールの前でバスキングをしたのですが、その時稼いだお金は、コンサートホールの中にいてチューリッヒ室内管弦楽の一員として演奏した時の何百分の一でした。同じ人間が、同じ楽曲を弾いているにも関わらず、金額に非常に大きな開きがあったのです。同じ人が同じ能力を持っていても、間違った場所にいれば、評価が全く変わることを身をもって知りました。
両親がエイズで亡くなった子供たちが、例えば私がを支援をしているプロジェクトがあるウガンダにはたくさんいますが、通りで生きる子供たち(ストリートチルドレン)が、いくらIQが高くて、頭が良くて才能があっても、道行く人は汚い衣服を着ている子供たちを見て、「ストリートチャイルドか。まったくなんの望みもない」、と思ってしまいます。
―ツアーを始めたころ、自分はもしかしたら、人が言うほど素晴らしくはないのではないかと自分自身を疑うようなことはなかったのでしょうか?
それは大いにそうでした!!ツアーを開始した時、予期していなかったのですが、メディアが大きな関心を持ってくれ、結構たくさん取材されたのです。欧州大陸に渡り、パリでバスキングを始めました。すぐに、これは難しいことになるだろうなということが明白になりました。ところが、もうだめだろうと思うと、支援をしてくれる人が偶然にも出てくるのです。ある日は在英大使のところに泊まれたかと思うと、次の日は泊まるところがなくて電車の中や駅構内で寝たりなど、まるでローラーコースターに乗ったような旅になりました。
―資金集めの方法は?
ウェブサイトを立ち上げて、サイトを通じて募金してもらえるようにしたのです。自分でCDを直接売る、という初めての体験もしました。
―プロの音楽家でバスキングに出るというのはあなたぐらいではないでしょうか?
それは分りませんが・・・・ほかにもいるかもしれないと思うのですが、表には出てきませんね。たぶん私だけが盛大に前宣伝をやったということなのかもしれませんが。
―クラシックの音楽家は音楽だけをやっている人もいます。あなたはバスキングや他のこともやっています。仕事とその他のこととのバランスをどんな風に考えていますか?
音楽家というのはどこからプロになるか線引きが難しいのです。ある程度の量の仕事をお金をもらってやらなければならないというのはあるわけです。住宅ローンも払わなければなりませんし。
―二者択一ではない、と。
そうなのです。正直なところを言えば、音楽家として、最も素晴らしい経験はコンサートホールの外で演奏した時でした。例えば、重度の自閉症を患っていた男の子が、ある日、指揮する役をやりたくなって、私がバイオリンを演奏し、彼が指揮を行ったのです。2人で、バッハのカンターター(ターターラララ・・・と歌いだす)をやっていました。そばで見ていたオペラの先生が泣いていました。この男の子はそれまでに全く何もしていなかったんですね。教室の隅っこに座り、孤立していた。それが突然,指揮をやりながら歌いだしたのです。
―ほかの同業者の方は、チャリティーやツアーなどに多くの時間を割くジュリッツさんのことをどう見ていらっしゃるのでしょう?
おそらく、少々クレイジーだと思っていることでしょう。でも、友人たちもたくさんのチャリティーをしています。教師だったら、3カ月や1年を教職から退かないといけないかもしれませんが、音楽家だったら、半日でも何かができます。音楽家はラッキーですね。
―ミューズクオリティーのプロジェクトはどれくらいありますか。
今サポートしているのは5つのプロジェクトで、ウガンダに2つ、南アフリカに2つ、タイの北東部に1つです。
―何故「音楽」なのでしょう?例えば実用的なスキルを身につけるための支援をするのではなくて。
音楽が素晴らしいのは、音楽を通して他人とのコネクションを作ることが簡単だということです。いつも不思議に思うのですが、演奏を始めると、「何か」が聴いている人の間とにできてゆき、非常に自然に、オープンに、自由にコミュニケーションができるようです。
音楽の教育は、子どもの成長に非常に良いという米国の調査結果を読んだことがあります。また、音楽がアルツハイマーの人の治療に使われているのは脳の様々な領域を点灯させる働きがあると聞きました。
音楽は子供たちに社会的スキルも教えます。例えば、聖歌隊で一緒に歌うとしましょう。子供たちはできる限りうまく歌おうと努めます。他の子供と協力しながら音楽を作ってゆき、共に何かを作り上げるスキルを身につけます。
ウガンダのカンパーラの通りを歩くと、物乞いをする子どもたちがたくさんいます。道行く人は子供たちを無視しています。誰かが故意にあなたを遮断する時、「無視された」と人は本当に感じるものです。こんな子どもたちが、人々の視線を一堂に集める手段が音楽によって持てるようになります。
常にネガティブな反応を周囲から受け、無視され続ける供たちは、暴力的あるいは高圧的になるかもしれない。そして全く何をやってもダメなんだと思った時、自暴自棄になったり、窃盗などの行為を働いてしまうかもしれない。それが、実際に(音楽を演奏することで)誰かが自分の言うことに注意を払うようになる。子供たちは自分たちでも何かをできると証明できるし、周囲の見方も変わってきます。
ウガンダの音楽バンドにいる、元ストリートチルドレンの1人は、4-5歳ぐらいの時に、ゴミ捨て場で見つかりました。今は健康問題について書くためにジャーナリストになりたいと言っています。両親がエイズで死んだのです。もう一人の子供はウガンダの保健大臣になって、エイズを撲滅したいそうです。ゴミ箱をあさったままでいて、最終的には犯罪に関与していくか、若いうちに亡くなるか、あるいは子供を生んで、その子どもも孤児になるかもしれない。こうしたサイクルが継続してゆくと、社会的にも大きなコストだし、個人的にも悲劇です。この二人の子供たちが、ジャーナリストや保健大臣になるかどうかは分りませんが、「何かになりたい」と思えるようになっただけでも素晴らしいと思います。
***
ジュリッツさんのミューズクオリティーのサイト
http://www.musequality.org/index.html
(写真はMusequality 提供。ウガンダの音楽プログラムの様子。)
(インタビューは「東洋経済」掲載記事のために行われたものの採録です。インタビュー者:小林恭子)



