アフガン戦争 英兵の遺体を見送る人々とともに②

09.07.31 by   カテゴリー: ルポ, 世界の窓

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 英南部ウィルトシャー州にある人口約1万の町ウートン・バセットで、2年ほど前から、アフガニスタンやイラクで命を落とした英兵の遺体を見送る儀式が自然発生的に続いている。

 ウートン・バセットのスティーブ・バックネル市長によれば、これにはまず地理的な理由があった。アフガニスタンなどの戦場で亡くなった英兵の遺体は、軍用機で英空軍ブライズ・ノートンに運ばれてきていたが、2007年、滑走路を補修することになり、ウートン・バセットに近いライナム基地に運ばれることになった。遺体を載せた車は、町の目抜き通りを通って、検死が行われるオックスフォード州の病院まで走るのだ。

 町が経由地になったことに加えて、5年前に、この目抜き通りに戦死者を追悼する記念碑が建造されていた点も理由となった。戦争記念碑は目抜き通りの中間地点にあり、地球儀を複数の手で支える形の建造物だ。昨年、この記念碑前で、車が一旦止まったという。集まった住民たちの姿を目にして停車したのだろうか?「そうだ」と市長は答える。

 元々は、遺体を乗せた車が目抜き通りを通過した時、町の退役軍人たち数人が立ち止まり、頭を下げて敬意を表した。「これに商店街で働く店員や、他の住民たちが加わるようになった」という。英国在郷軍人会(英軍人、元軍人やその家族を支援する慈善団体)がウートン・バセットが経由地になっていることに気づき、レイナム空軍基地に連絡を取り、今度車が通過する時は事前に連絡して欲しい、と伝えた。そこで一種の追悼の義のパターンができた。

 市長によると、当日の流れはこうなる。

 まず、遺体が外地から空軍基地に「帰国」し、家族が教会でプライベートな弔問の機会を持つ。国旗に包まれた遺体が入った棺を運ぶ車が、オックスフォード州の病院に向けて走り出す。

 教会の鐘が鳴り、車がやってくることがウートン・バセットに集まった人に告げる。目抜き通りに並ぶのは、追悼の意を示すために集まった町の住民、店舗経営者に加え、地元及び全国各地からやってきた退役軍人、現役の英兵たち、家族や親戚だ。車(棺の数だけ増える)が目抜き通りに入ると、沈黙の瞬間となるー。

 市長の話を聞いて、振り返ると、英空軍のベレー帽をかぶった高齢男性から、突然話しかけられた。「電話をしたのは君かい?」何のことか分らずにいると、「今朝、女性のジャーナリストから電話をもらったんだよ。君だったのかい?」どうも人違いをしているようだった。電話はしていないが、話を聞きたいというと、「自分がこの町で、遺体の通過に敬意を払った最初の数人の1人だ」と、ジョージ・リチャードソンさんは話した。「英国では、英兵の棺を乗せた車を見かけると、人は立ち上がって、敬意を表するんだ。これは習慣だ。それで、私もそうしただけ。すると、商店街の店員たちも同様にしたんだ。不思議な感じだったけど、そうやって自然に広がっていったんだよ」。

 隣にいたエドウィン・タイラーさんも退役軍人だが、空軍でなく陸軍にいた。「日本軍の戦争捕虜だったんだよ」-。

 私は、「この町に来る前に、『日本人だ』ということを、町の人に言わないように、知人から注意された。あまり良い印象をも持たれないだろうと思ったからだ」、と言ってみた。リチャードソンさんはやや笑って、「まあ・・そうだろうなあ」と言って、タイラーさんを見た。タイラーさんは、「でも、今どうってことじゃないんだよ」。「そうだよ、今は君ともこうやって握手して笑っていられるんだから」とリチャードソンさん。

 アフガンでは若い英兵がどんどん死んでいる。「英軍は撤退させるべきか?」と聞くと、二人とも、「もちろんだ!一刻も早くそうさせるべきだ」と答えた。この町では駐留維持派が圧倒的だったが、戦争体験があるからこそ、こんな発言になるのだろうか?

―メディアの登場

 午後2時を回った。そろそろ、車が入ってくる頃だ。私は場所を変えるために、歩き出した。既に雨はやみ、すっかり晴天になっていた

 立っていると、丁度真向かいに、花を持った遺族の女性たちのグループがあちこちに見えた。ある金髪の3人の女性たちが固まっていた。顔がよく似ているので、母親と娘が2人であるようだった。私は少し前に、「日本のジャーナリストだが、話を聞かせてもらえないか」と声をかけ、断られていた。話しかけられたくないのは当然だろう。ここにはたくさんのメディア関係者が押しかけていた。カメラマンたちが脚立を複数並べているコーナーがあって、私もその中に並んだ。木の陰から女性たちの写真を撮っているカメラマンがいた。遺族に気づかれずに、アップで写真が撮れるのだ。

 メディアが押しかけることへの批判が出ていることを、私も気づいていた。実際に、右隣にいた中年の女性が連れの男性に「メディアが多くて嫌だ。せっかくの雰囲気が壊れる」と、他のカメラマンなどに聞こえるように話していた。

 鐘が鳴った。いよいよ車が入ってくる。沈黙。リチャードソンさんから、この間も写真を撮っていいと聞いていたので、私はカメラのシャッターを何度も押した。他のカメラマンたちも一斉にシャッターを押し出す。それほど大きい音ではないが、やはり、カシャ、カシャ、と音がする。

 真向かいに、チェックのシャツを着ている女性が、赤い花を一輪、手にして立っていた。車が入ってくる前から、既に泣いている目をしていた。家族か親戚に違いなかった。複数のカメラが彼女の一挙一動を撮っていることは、彼女にとっては全く眼中にないようだった。その泣きはらした目、呆然とした様子からしばらく、目を離すことができなかった。

 彼女から数メートル離れた場所にいる女性たちの一群も家族か直近の親戚に違いない。やはりそれぞれ花を一輪手にしている。互いの体につかまりながら、次第に泣き出す。車が近づくにしたがって、その泣き声は大きくなる。周囲にいた男性たちが慰めるようにして声をかける。

 退役軍人の列の前には、8歳ぐらいの男の子がいた。紺色のブレザーにズボンをはき、唇を一文字に結んで、立っていた。

 いよいよ、車が私の目の前を通っていく。カメラマンたちのフラッシュが最高潮に達する。車の窓を通して、積まれている棺を包んだ英国旗の赤、青、白がくっきり見えた。「本当に、この中にいる人は死んだのだ」-。また次の車がやってくる。英国旗のカラフルさが目をとらえる。そしてまた次の車、また次―。目に焼きついた英国旗。こんなに戦争が、人の死が、身近に感じられたことは、今までの人生でなかった。なんてむごいのだろう。なんてむごいのか、英国は。

 先ほどの金髪の女性が、花を持ったまま車の後を追う。途中まで追いかけるが、感極まったように立ち止まり、道に倒れこむ。他の女性たちも持っていた花を車に向かって、追悼のために投げる。

 複数の車が通過していった。沈黙は終わりだ。人々はまた話し出す。列が次第に壊れていく。先ほどの女性がまだ道の真ん中で、がっくりと足を折り曲げて静止している間にも、人々の話し声が大きくなる。私の右隣にいた女性が、「最近はメディアが多くてたまらない。写真の音がうるさかったわね」と周囲に聞こえるように、隣の男性に話しかける。写真を撮り終わったカメラマンたちが、カメラを肩から下ろしたり、歩き出したりする。車の通過の余韻、悲しみの余韻がまだあたりに色濃く漂っていた。

 参列者たちはそれぞれ、散っていったが、私を含めた一部は戦争記念碑の周りに集まった。家族や親族が、記念碑の足元に花や写真、メッセージを置いていく。その一つを見ると、「ジョゼフ・エッチェル(1987年-2009年)、いつもあなたは私たちの心の中で生きています。安らかに眠ってください」とあった。

―ゆれる英国民

 しばらく、写真を撮ったり、人々が花をささげる様子を見ていた。ほぼ人がいなくなりかけた頃、市長の妻で町会議員のアリソン・バックネルさんに声をかけられた。「取材はうまく行きましたか?」

 話しているうちに、アリソンさんは、「英国民の感情には2つの流れがある」と教えてくれた。「一つはフラストレーション。戦争が好転しない、なかなか終結のめどがつかない上に、どんどん兵士が亡くなっている。政府が国民に対し、アフガニスタンで何が起きているかを十分に説明していないので、欲求不満感が強まっている」。

 もう一つの流れは、「アンダードッグ」(勝ち目のない人、負け犬)を助けたいという気持ちだという。「十分な軍事機材がなく、軍用ヘリコプターも足りないという。そんな中で戦う兵士たちを何とか助けたいという強い気持ちがある」、「お国のために戦っている兵士をきちんと助けたい、と」。

 英政府が今後どれほどの期間、英軍(現在約8000人を派兵)をアフガンに駐留させるかは不明だ。様々な思いを抱える国民が、「政治をすぐに変えることできない」ので、せめて個人としてできることの1つとして、ウートン・バセットに来ているのではないか、自分たちを守るために戦って命を落とした兵士たちに敬意を表したいというせめてものできることをするためにー。これがアリソンさんの分析だった。

 

 

 

アフガン戦争 英兵の遺体を見送る人々とともに①

09.07.30 by   カテゴリー: ルポ, 世界の窓

kazo3 「対テロ戦争」という大儀のためにアフガニスタン南部に派遣されている駐留英軍の死者が急激に増加している。今月7月に入ってから、既に22人が死亡。2001年、戦闘に参加してからの英軍の総死者数は191人で、2003年のイラク戦争での死者179人を超えた。「今すぐ英兵をアフガニスタンから撤退させるべき」という声が英国内で日々強まってはいるものの、「お国を守るために、使命を全うしてから帰国させるべき」という意見も根強い。

 こうした中、英南部の町、ウートン・バセットが近頃、注目を浴びている。この町は、亡くなった英兵の遺体が入った棺を英空軍基地から病院の死体置き場まで運ぶ行路の途中にある。2,3年前から、この町に全国から人々が集まるようになった。棺を運ぶ車の到来をじっと待ち、通過時には黙祷する。無言で帰ってきた英兵たちに、敬意の念を表すのだ。

 28日、4人の英兵の遺体の通過日、私はウートン・バセットを訪れてみた。

―小さな目抜き通り

 ロンドンの中心から電車で約1時間、まずスウィンドンに着く。ウートン・バセットには電車の乗り入れがないので、スウィンドンからタクシーに乗る。「どこまで?」タクシーの運転手に聞かれ、「ウートン・バセットの戦争記念碑のある場所まで行きたい」というと、「ああ、今日もあれがあるの?」と運転手は聞いてきた。全国から元兵士などが「敬意を表する」ために訪れるので、地元では有名になっているのだった。

 「戦争記念碑」と言っても、2メートルほどの建造物で、地球儀を複数の手が支えた形をしていた。何だか小さな目抜き通りに建てられていた。どことなく、拍子抜けした。「記念碑」というからには、何か大きなものを考えていたのに。

 午後1時半頃には車が通過することになっていた。私が現地に着いたのは午前11時半過ぎ。まだまだ時間はあったが、既に人々が道路の両脇に並び出していた。近くのスーパーで買ってきたパンをボトル入りの水で流し込みながら、自分は場違いではなかろうかとあたりを見回した。

 ライナム英空軍基地が近くにある。ここに、アフガニスタンで命を落とした兵士の遺体が軍用機で運ぶこまれる。この後、遺族のみが出席する葬式が行われる。遺体を載せた車が、この町を通って、オックスフォード州にある病院の死体置き場に向かう。

 ベンチでパンを食べながら、隣に座っている60歳ぐらいの夫婦と目があった。お互いに微笑を交わしながら、私が話しかけたら驚くだろうか、とふと思った。英国人の知人が言うには、「日本から来た、とは言わないほうがいいよ」。第2次世界大戦で敵国だった日本のことを、よく思っている人は少ないのだからーと。日本人、いやアジア人、それと有色人種の人は、ほとんど周囲には皆無だった。

 一体どんな気持ちでここにみんな来ているのだろう?戦争は日本人の自分にとってはかなり遠い出来事だ。自分の娘や息子を戦場に送り、しかもその娘や息子が亡くなってしまうなんて、一体どういう思いになるのだろう?

 私は何とかこの状況を伝えたいと思った。退役軍人らしい人数人が談笑していた。一番明るく笑っている人に近づいて、どこから来たのか、いつも来るのかと聞いてみた。「日本のジャーナリストですが」と前置きをしたのが悪かったのかどうか、「ジャーナリスト?私はジャーナリストには一切話をしないことに決めている」と後ろを向かれた。

 仲間の1人が、私をじっと見ているので、今度は同じことをこの人に聞いてみた。にっこり笑って、「ランカシャー州から来た。亡くなった兵士に敬意を払うために来たんだよ」、と答えてくれたのが、退役軍人のロナルド・ストックリーさん(68歳)だった。35年間、軍隊生活を続けた。たくさんの若い兵士が亡くなったことは「非常に悲しい」。

 しかし、ストックリーさんは、英国のアフガン派兵は続けるべきだという。「そうしないとテロの脅威から英国を守れない」。

 車椅子に座った女性の隣に、杖を突いて立っていたのが、元兵士のデビッド・ヒューズさん(49歳)。片足を負傷していた。兵士の福祉向上のための運動家でもあった。「兵士たちのために募金活動をするのは、一旦軍隊に入ったら、辞めても、一生軍人仲間だから」

 「アフガニスタンでもどこでも、兵士は命令された場所に行く。お国のために。それが兵士というものだから」

 「その代わり、国は兵士の面倒を見るもの。しかし、残念なことに、国防省は負傷した兵士に払う金額を減少しようとして、裁判を起こしている。嘆かわしいー」。

 1時近くになってきた。道の両側に元兵士、現役軍人、警察官、遺族や親類、ウートン・バセットの住人たちや、メディアがひしめき合うようになった。テレビ局が大きなバンを止めていた。カメラマン用の脚立も並び、カメラマンたちが手持ち無沙汰に通りを見たりしている。

―「のぞき見をしたくない」

 道の両側に立ち並ぶ人々の群れから少し離れ、店舗の壁に背中をくっつけるようにしている立っている人がいた。近所に住むマーティン・ピアースさん(80歳)。ライナム空軍基地で長年働いていた。「命令が来たらどこにでも行くーそれが兵士なんだ。アフガン派兵は続けるべきだと思う。国をテロの脅威から守るために」

 「遺族の痛みや悲しみは英国全体で共有されていると思うよ」。

 英兵の遺体を載せた車が通る場所にピアースさんが来たのは初めてだ。「友達が来たので、たまたま一緒に来てしまった」。しかし、これが最後で、二度と来たくはないという。「何故かって?ここは肉親が死んだことを悲しむ、プライベートな場所だからだ。人のプライバシーをのぞきたくない」。

 自分の息子がもし兵士で命を落としたら?「それはいやだな」と急に顔をくもらせた。「自分の肉親をアフガンには行かせたくない」。

 ピアースさんのすぐ側に、十代の少年、少女たち数人が、きれいな列を作って並んでいた。全員が水色のシャツに紺色のズボンかスカート、そしてベレー帽をかぶっていた。英空軍の「ユースセンター」の子供たちだという。航空学について学んでいる子供たちだと説明をしてくれたのが、引率をしていた、マーク・ラブレッジさん(35歳)。「亡くなった兵士に敬意を表するために来た、アフガン派兵は続けるべき」と、他の参加者も言っていた発言を繰り返す。「でも、『個人的には』、アフガン戦争は意味がないと思う」とポツリと述べた

 間もなくして、雨が降り出した。傘を持ってこなかった私はスカーフで髪の毛をおおった。軒下に隠れようにも、どの店舗も隠れるほど大きな軒下を持っておらず、殆どの人が雨に濡れたままになっていた。先ほどのRAFユースセンターの若者たちの、きれいにアイロン掛けされた水色のシャツが見る間に雨に濡れてゆく。

 見覚えがある、全国紙テレグラフ紙の女性記者がいた。「ここではアフガン派兵賛成者がずいぶん多いようだが、これは全国的な傾向だと思う?また、軍隊に関係ない人も、英兵の死者の増加に強い痛みや悲しみを感じているのだろうか?」と聞いてみた。

 「行ったからには目的を果たして、がんばって欲しい、これまでの死が無駄にならないようにという思いは強い」と彼女は答えた。また、「全国的にも悲しみは強く共有されていると思う。各地からやって来た人にここで話を聞いたから」。

 何故ウートン・バセットが「追悼の名所」になったのだろう?(続く)

 

 

スーチーさんの連載への外務省の圧力をはねつける 木戸・元『毎日』主筆が回想録

09.07.27 by   カテゴリー: メディア

BURMA AUNG SAN SUU KYI

   気骨ある1人のジャーナリストの存在がいかに大切であるか─。毎日新聞の木戸湊・元主筆の『記者たちよ ハンターになれ!』(新風書房)は、あらためてその事実を確認させてくれる。本書は、40年にわたる記者生活のなかから11のエピソードを取り上げた回想録である。いずれの話も臨場感と迫真力に満ち、胸を打つものが多いが、その中から私自身が毎日新聞記者として関わった、ビルマ(ミャンマー)の民主化運動指導者アウンサンスーチーさん(写真、左)の連載「ビルマからの手紙」をめぐる木戸さんの記者魂を紹介したい。 

 木戸さんは地方支局をふりだしに大阪社会部、ジャカルタ支局長、大阪社会部長、東京と大阪の編集局長などを歴任し、編集トップの主筆のあとは大阪本社代表を最後に2003年に退社した。記者生活で残った100冊余のスクラップ帳を繰りながら、後進の記者たちの参考になればと思ってこの回想録を書いた。 

 原稿を末娘にパソコンで清書してもらったら、「お父さん、自慢話が多いわね」とチクリとやられて頭をかいたという。 

 駆け出しの和歌山支局時代の第一章「『人の情け』が身にしみた名誉毀損事件」からはじまり、ざっと以下のようなタイトルがつづく。第五章「ASEAN10周年サミットのディープスロート」、第六章「天下り税理士許すまじ─国税との暗闘」、第七章「『守秘』VS『報道の自由』─梅川事件の舞台裏」、第八章「日本警察への弔鐘? グリコ・森永事件」、第九章「『阪神大震災』で問われた人間力」、第十一章「忘れ得ぬ人たち…」。 

 すでに本書を『サンデー毎日』の「サンデー時評」(6月21号)で紹介している、政治評論家で元毎日新聞記者の岩見隆夫さんの木戸評を借りれば、いずれも「熱血漢で筋を通す非妥協的な人柄」をよく示している。 

―「『毎日』は民主主義を大切にしたい」 

 スーチーさんの「ビルマからの手紙」は、最終章の最後「スーチーさんに会える日?」に登場する。 

 「まだ見ぬ人だが、忘れられないのがアウンサンスーチー女史(63)。 

 1996年度の新聞協会賞となった「アウンサンスーチー、ビルマからの手紙」は連載に踏み切るまでが大変だった。90年の総選挙で反軍事政権をスローガンに圧勝したのに、軍は政権移譲をせず、彼女を自宅軟禁。多くの国々が黙視するなかで唯一、スーチーさんの窮状を世界に発信したのが毎日新聞だった」 

 なぜ大変だったかに触れるまえに、この連載開始当時の状況を記しておこう。 

 スーチーさんは1995年7月、6年間におよぶ自宅軟禁から解放され、国民民主連盟(NLD)書記長として政治活動を再開した。首都ヤンゴン(当時)の彼女の自宅には世界各国から多くのジャーナリストがおとずれ、軟禁生活の模様や今後の民主化へむけた展望などについてインタビューした。私もその1人だった。 

 その際、私はスーチーさんに、毎日新聞への連載寄稿をお願いした。私の個人的な関心は、「ビルマの民主化運動を支持するが、あなたがたの主張する人権・民主主義をより深く理解するにはあなたの国の政治、歴史、文化、人びとの暮らしや価値観などをしる必要がある。そのことがわかるようなかたちで世界の人びとにむけて執筆していただけないだろうか」というものだった。 

 また、「言論・表現の自由が許されていない国の人びとの声を世界に伝えるのは、言論・表現の自由が認められている国のジャーナリストの責務である」とも、私は述べた。 

 スーチーさんは「しばらく考えさせていただきたい」と答え、数日後に快諾の返事をしてくれた。 

 当時、私は毎日新聞の外信部編集委員で、木戸さんは東京の編集局長だった。 

 私はこのスクープ企画をさっそくヤンゴンから東京の外信部に電話で伝えた。だがまもなくして外信部長の返事として返ってきたのは、「そんな企画はおもしろくない」という気乗り薄な答えだった。「なぜそんなことが言えるのか。ビルマの民主化運動のことはおいといたとしても、ノーベル平和賞受賞者が毎日新聞に連載を寄稿してくれたことがあるか」と、部長の意をつたえるデスクに食い下がった。 

 連載にゴー・サインを出してくれたのが、木戸編集局長だった。 

回想録によると、「『毎日』が民主主義を大切にする新聞であることを世界中にアピールしよう」と思ったからである。 

 では外信部長(本書では固有名詞がないが、河内孝氏)はなぜ連載を拒絶しようとしたのか。彼は、「彼女らは勝手に闘っているので、われわれには関係ない」と言い放ったという。 

 国際ニュースの担当部門の責任者とはとても信じられない発言だが、どうやらそれは彼の個人的な見解だけによるものではなさそうである。それをうかがわせるのが、連載開始前後の社内外のうごきに関する木戸さんの証言だ。 

 「外務省は『日本─ミャンマー関係がこじれる。ひいては日中関係にも悪影響を及ぼす』と再三にわたって連載の中止を要請。在日ミャンマー大使館も抗議に来社した」 

 木戸局長はそれをはねつけた。本書には書かれていないが、木戸さんの話によると、あるパーティーで会った駐日中国大使館の公使も「日中関係にとって好ましくない」と連載を批判したという。そうした外部からの圧力だけではない。編集局長の上に立つ齊藤明主筆までが当時の池田外相の意を介するかたちで連載にあれこれ難癖をつけてきたという。 

 ちなみに、主筆と外信部長とも権力と癒着しがちな政治部出身であり、主として社会部記者としてさまざまな事件の修羅場をくぐり抜けてきた木戸さんとは記者魂が違うということであろう。木戸さんがいかに権力に妥協せず記者活動をしてきたかを知りたければ、本書を一読していただきたい。 

 「(圧力を)はねつけてスタートした連載は1年間50回に及び、世界20カ国の新聞にも転載され、軍事政権の横暴とスーチーさんの志がクローズアップ」された。 

 連載は1995年11月から翌96年末までの予定だったが、好評のため私は木戸さんに97年も続けてほしいとお願いし快諾を得た。スーチーさんも多忙な政治活動に追われる日々であるにもかかわらず、ひきつづき週1回の執筆を引き受けてくれた。 

 だが、残念なことに連載は97年の途中で突然ストップした。スーチーさんからの原稿が届かなくなったのである。理由は分らない。私は何度かいろいろなルートを通じて彼女との接触を試みたが応答はなかった。ビルマへの入国ビザは、大使館から拒否された。 

 原稿は軍政下のきびしい監視の目をかいくぐりながらファックスで送られてきていたが、何らかの形で軍政の弾圧をうけて中断を余儀なくされたに違いないだろう。 

―スーチーさんの日本政府への失望 

 それまでスーチーさんとは連載の打ち合わせなどで何度かヤンゴンでお会いしたが、その都度彼女が私に聞いてきたのは、民主化運動への弾圧に対する日本政府の反応だった。欧米諸国は必ず厳しい軍政批判の声明を発表し、具体的な政策も打ち出していた。だが日本政府からは、そのような毅然たる態度は一度たりとも示されたことはなかった。 

 そのことを彼女に告げると、信じられないという表情で私に問い返した。 

 「でも日本は民主主義国家なのでしょう」 

 政府だけではない。自分のエッセーを掲載している新聞社の編集幹部のなかにまで政府の片棒をかつごうとする連中がいるとは、スーチーさんは知る由もなかった。 

 その後スーチーさんは軍政によって2度目の自宅軟禁に置かれ、現在は3度目、通算13年となる軟禁生活を強いられている。さらに今年、米国人が自宅に侵入したことが国家防御罪違反だとして訴追され、現在公判中であることは広く報じられている。 

 その間、軍政の民主化勢力への弾圧はますます熾烈さを増し、国際社会の軍政批判も高まってきているが、そのなかで日本政府だけは突出した鈍感さをさらけだしつづけている。日本のメディアの多くも、「わが国は軍政とスーチーさん側の双方に独自のパイプをもっている」という外務省サイドの見え透いたウソを検証せずに垂れ流してきた。 

 スーチーさんがいつ解放されるのか、民主化がいつ実現するのかは分らない。 

 でも、「その日が来たら、彼女に会いに、こちらから飛んでいくつもりだ」と、木戸さんは「まだ見ぬ人」への熱い思いを記している。 

 木戸さんの先輩の岩見さんは、先の「サンデー時評」を次のように結んでいる。 

 「新聞の斜陽が言われている。だが、真実に迫ろうとする記者たちの黙々の日々がなければ、自由で民主的な社会は保てない。その断面を赤裸々に書き残してくださった木戸さんの出版に拍手だ」 

 後輩の私も、自分のジャーナリスト生活のなかでこのような先輩と一緒に仕事をできたことに感謝しながら、拍手を送りたい。 

(日刊ベリタより転載。写真はアウンサンスーチーさん、日英ウキペディアより)

 

 

 

「視点を変える」②若い政治家が必要な理由とは?

09.07.26 by   カテゴリー: コラム

sunda 8月30日、日本では総選挙が行われる。どの政党あるいは候補者に投票するか、みなさんはもう決めただろうか。私の周囲に聞くと、「投票には行かない」と答える人がこれまでは多かった。「行っても何も変わらないから」と。しかし、今回はことによったら野党が政権を取得する可能性がある。さてあなたはどうするだろうー?

 今回はやや特別としても、長年、「どうせ変わらない」と思ってきた人の中で、「どうも争点がピンとこない」、「自分の生活と直結していない」と感じてきた人は結構いるのではないか。例えば、年金問題や高齢者医療の改革などが何故大きな争点になるのだろうと、考えたことはないだろうか?

 「当たり前のことを聞くな!」と思わないでほしい。実は、有権者の中でよく投票に行く人の年齢が中高年から老年であるという要素が大きいからではないかー?ということを、私はあるシンクタンクの人から指摘されて、はっとした。

―若者層取り込みの努力

 私が現在住む英国では、若者の政治参加を促すため、2006年、下院議員(日本の衆院議員に相当)への立候補最低年齢が21歳から18歳に引き下げられた。選挙権の最低年齢18歳を16歳に下げようという声もある。

 若者層の取り込みの努力が行われているのは、若者層の投票が他の年代と比べて非常に低いためだ。1997年の下院選では18歳から25歳未満の有権者の投票率は69%だったが、2005年の下院選(直近)では、37%に下落した。

 また、下院議員の年齢構成を見ると、05年の総選挙直後で当選者の平均年齢は50・6歳(ちなみに、05年の衆議院選挙の当選者平均年齢は52・3歳)。最も多いのが50代(249人)、これに40代(191人)、30代(89人)、20代(3人)と続く。このような年齢構成では、英シンクタンク「フェビアン協会」の事務局長スンダー・カトワラ氏(写真、右上)によれば、若者たちは、自分たちの存在が反映されていないと思ってしまう。

 中高年以上の下院議員全体に占める割合や、投票者全体に占める割合が高いので、政治の議論の中心が「どうしても中高年以上が重要と考える問題になりやすい」のだそうだ。

 「政治にもっと若者を!」という声を前に聞いた時に、大して強い印象を持たず、ただのスローガンに聞こえた私だったが、カトワラ氏に2007年会って、英国の政治の話を聞くうちに、実は深い意味があったと思うようになった。20代、30代の自分は40代、50代、60代の政治家の姿を見て、少なくとも「自分たちを代表している」とは思えなかったし、争点にしている問題にも当時の私にとってはいまいちピンとは来なかった。しかし、そうやって若者たちが政治参加から遠のいているうちに、政治は「中高年のための中高年による」ものになってしまった。政治はその社会の構成員全員に影響を及ぼすものであるから、これはまずいことになった・・と思った。

 「若者が政治家に立候補したからといって、他の問題がすべて解決されるわけではない」(カトワラ氏)が、投票者もそれから議員の年齢構成でも、一部に偏ってしまうのは良くない。若者にとって重要な問題が抜け落ちてしまってはいないだろうか?

 カトワラ氏との会話は「日刊ベリタ」に書いたのだけれど、もう一つ、「うーん」と思ってしまうコメントがあった。それは「消費者の嘆き」で判断するな、ということだった。

 

 スンダー・カトワラ氏:私が現在の政治に対して持っている大きな懸念の1つは、ある政治体制が機能しているかどうかを市民が検証する時、「自分が欲しいものを得られたかどうか」という点から判断する傾向だ。「私は非常に忙しい。自分の人生があるし、仕事がある。私は消費者だ。私は政治を無視する。政治家のあなたがやればいい。政治はあまりにも退屈すぎる」と言って、政治問題に全く関心を持とうとしない点だ。まるで、市民がお店に行って、「あれが欲しい」といって消費するようなものだ。しかし、政治は消費行為とは反対の行為だ。将来を能動的に作り上げていく過程だ。社会の構成員全体のための決定を、集団で行なうことだ。政治が単なる消費者の嘆きになると、その意味が失われてしまう。(引用終わり)

 

―エミリー・ベンさんの登場

 2007年9月、当時17歳だったエミリー・ベンさんが、英南部イースト・ワージング・アンド・ショーラム選挙区で労働党公認候補に選出され、内外で注目を浴びた。

 エミリーさんは政治一家の生まれ。半世紀ほど国会議員だった労働党左派のトニー・ベンを祖父に持つ。叔父も政治家だ。当時、エミリーさんはブログに「多くの若者が生きる目標を持たず、幻滅して学校を卒業してゆく。若者たちを元気付けるために何かがしたい」と書いた。

 英国でも近く総選挙が予定されている。期日はまだ不明だが、5年に一回は総選挙を行うことになっているので、来年5月頃までには実施される。現在19歳になったエミリーさんは、もちろん立候補予定だ。社会の不公平をなくするのが、政治家になろうと思った理由だと労働党のウェブサイトに書いている。どのような経済状態の家庭に育っても、すべての児童・若者が質の高い音楽教育を受けられるようにしたい、とも。

 

スンダーカトワラ氏・インタビュー

http://www.nikkanberita.com/read.cgi?id=200710240249223

 

エミリー・ベンさんのメッセージ

http://www.ewaslabour.org.uk/index.php/ppc/

 

パキスタンで大統領に関するジョーク、禁止措置

09.07.23 by   カテゴリー: ニュースあれこれ

za パキスタンでは、ザルダリ大統領に関するジョークをネット上で送信すると、逮捕あるいは14年間の禁固刑が下る可能性がある。英「デイリー・テレグラフ」紙(22日付)などが報じた。

 マリク内務大臣が発表したところによると、捜査当局は、サイバー犯罪法の下、「この国の政治的指導者を中傷する」ジョークの送信を電子的に追跡する。大統領府の公式アドレスに多くのジョークが送られてきたことがきっかけだ。

 大統領を揶揄するジョークは、現政権が停電やインフレ、汚職などの諸問題を解決できないことへの国民の不満の高まりを反映していると言われている。

 大統領は過去に携帯メールの利用に新たな税金を課そうとした。これが発表されると、以下のようなメールが出回ったという。「全ての携帯メールに政府は税金をかけることになった。これまでは大統領をただで馬鹿にできたが、これからは、誰かが大統領を馬鹿にする度にお金を受け取ることになったんだ!」結局、国内の5大携帯会社から猛反対にあい、政府は新たな税金の導入を断念した。

 現在、パキスタンのネット界を駆け巡る、大統領に関する著名ジョークとは:

    強盗と大統領の会話:強盗「金を全てよこせ!」大統領「私が誰だか知らないのか?大統領のザルダリだぞ!」強盗「分かったよ。俺の金を全部返してくれ!」

    「大統領領就任を記念して、パキスタンの郵便局は新しい切手を発行した。さて、問題が起きた。パキスタン国民は、この切手の表か裏か、どちら側につばを吐きかけたらよいのか、迷ってしまうのだ」。

    テロリストが私たちの愛するザルダリ氏を誘拐してしまった。巨額の身代金を要求している!これを払わないと、ザルダリ氏の身体に石油をかけて、焼いてしまうそうだ!そこでお願いだ。あなたが都合できる分だけでいい。協力して欲しいのだー私はもう5リットル分の石油を寄付した」。

(写真はザルダリ大統領、ウイキペディア英語版より)

写真家の目 「いい写真」とは②

09.07.23 by   カテゴリー: コラム, 写真家の目

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 写真は映像のように連続したものではないので、見るものは一枚の写真とキャプションから前後関係を読み取る。例えばカメラマンが前後の写真を差し替え、ドラマティックに見えるような配列に組み替えて「フィクション」を作ってしまう事が可能であり、意図的でなくとも撮影者の誤った解釈で全く事実とは異なる方向に流されていってしまうこともある。「写真は真実を写す」と広く信じられているからこそ、その事が実に見逃されやすい。ユージン・スミスは「写真は平気でうそをつく」と端的に述べている。特に加工技術が高くなっている今日、「うそをつく」事がより簡単になった。その写真が事実を伝えなければならないものならば(というのも広告写真で今や修正していないものを探す方が難しい)撮影者の姿勢と意識はとても重要である。

 しかしながら姿勢という点で、写真を撮る事を仕事にしている自分も、ときに怠惰になってはいないだろうかと常に自分に問いかける。五感をとぎ澄ます事なく、その場を「一応」という気持ちで撮ってしまっている事はないだろうか。シャッターを押した事で安心し、被写体を注視することをおろそかにしていないだろうか。

 初めて暗室でプリント作業をしたときに思わず感嘆の声をあげてしまった、画像が印画紙に表れるプロセス。フィルムの現像からプリント作業までは手間と時間がかかるものだった。そして撮影したものがきちんと撮れているかどうかはプリントされるまで判らないので、そのプロセスの間は緊張感にあふれていた。しかし今は撮影した直後に画像が確認出来るのでずいぶんと楽になった反面、技術的な撮影ミスを犯してはならないという気持ちは以前に比べ薄まっている気がする。たとえミスをしたとしてもある程度はコンピュータ上で修正出来てしまう。以前の一連したマニュアル作業はカメラマンの撮影に対する緊張感を、意識下で保つ事に役立ってはいなかっただろうか。

 ある美術館でのこと。有名な絵がそこかしらに展示されている前で、携帯やデジタルカメラで撮影に勤しむ人たちがいた。人によってはただ撮影し、次の絵に移る。複写された絵が印刷されどこの国でも見る事が出来るが、そこにあるのはたったひとつのオリジナルであるのに、肉眼で見る事なくカメラに収める。「見た」という再確認を後日するためなのか、それとも撮って帰らないのは「惜しい」気がするからなのか。その絵のタッチはどれだけ複雑なライティングをもって撮影された画像でも、本物を目の前にする空気感は再現出来ない。だからこそ遠い美術館に出向いて私たちは対面するしかないのである。

 いい写真とは果たしてどんなものか。それは勿論個人個人によって尺度が違ってくるだろうが、撮影する時の感覚や想いがそれに非常に関わってくると思う。(写真:「2008年 ロンドン」) 

 

 

 

 

写真家の目 「いい写真」とは

09.07.21 by   カテゴリー: コラム, 写真家の目

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  時々友達から「うまい写真が撮りたい」や「どうしたらきれいに撮影出来るの?」と聞かれる事がある。そしてどんな写真を撮っているのかと見せてもらうと、友人曰く「下手な写真」は大抵そんなことはなく、その人の何か雰囲気のようなものがありいい写真だと思う。特に子供やペットの写真は、構図云々よりも撮影者の愛情が伝わってきて、まさにその人しか撮れない写真になっている。

「いい写真」という定義はもちろん人それぞれ違うが、私は時間が経っても色褪せない写真が「いい写真」ではないかなと思う。

 学生の時以来、強く私の心に残っている一枚の写真がある。それを撮影したドキュメンタリー写真家として有名なアメリカ人のユージン・スミス。彼は撮影のために熊本の水俣市に居を移し「水俣病」と呼ばれるチッソ株式会社が引き起こした水質汚染と、それによって大きな被害を受けた住民の暮らしを記録し続けた。そしてその一枚は社会の教科書にも使われ多くの人々に知られる写真となる。

*)元パートナーであるアイリーン・スミスさんによって、水俣病を世界に知らせたその代表的な写真(母と娘の入浴シーン)は、被写体になった娘さんのご遺族の意向をくんで2000年より公開しない事に決められた。

 彼が3年余りの年月を水俣で費やした、問題に向き合う姿勢と目線が込められた彼の写真は、見る私たちに我々の環境の背景に起こっている出来事を見つめ、そして問い直す機会を与えてくれる。さらに彼の撮影技術と暗室でのプリントテクニックは、彼の伝えたい状況を際立たせ、見るものに強い印象を与える。

 おそらくカメラが特別なものだった時、カメラマンは記録することや外に向けての「伝える」という役目が今よりも大きかっただろう。カメラ、そしてそれに付随する技術の発達と普及率の高さにより、メディアは大多数へ向けられていたものから、より個人のニーズに向けられたものへと変化し、それに比例するように写真の用途も変化をしていく。

 記録媒体の変化も大きいだろう。フィルムが主流だった時代はフイルム、現像、プリント代が必要であったのがデジタル主流になってからは撮れるだけ撮り、要らないものは捨てればいいという気軽さも「写真はお金がかかる」という概念を大きく変え、ますます手軽なものへと変わっていく。そして今や誰もが記録する機会を持ちあわせている。例えば大きな災害や事件が起こるとアングルの違う複数の映像がテレビで流れる。これらの映像はカメラマンでなく、偶然にそこに出会わせた人からによるものも多い。そして撮影された数分後には世界でその映像を誰もがインターネット上でシェアする事が可能な時代である。

 技術の向上とともに、撮影をする側の意識または姿勢も比例しているのだろうか。特にカメラマンにとって被写体に向けて写真を撮る事は、自分がその写真に対して責任を負う事。大げさに聞こえるかもしれないが、時には自分が撮影した一枚の写真によってそこに写された人の人生をも変えてしまうこともあり得るのだ。カメラマンにとってその意識を保つ事は必須である。(続く)(写真は「2008年 ロンドン」)

 

 

 

DNA鑑定発祥国英国で、「国家データーベース」が見直しへ

09.07.19 by   カテゴリー: ニュースあれこれ

 

 6月、「足利事件」でDNA鑑定が注目を浴びた犯罪捜査に使うDNA鑑定の発祥の地は英国だ。1995年から開始された「国家データベース」は現在までに約450万人分の情報を保管するまでになった。様々な迷宮入り事件の解決に役立っているものの、データーベースの巨大化や、後に無実となった人物から得たDNA情報を無期限に保管する方針が、人権団体などの懸念や批判の対象となっている。英政府は8月末まで、一部見直しのための意見を国民から募集中だ。

―犯罪解明の歴史

 1980年代、英レスター大学のアレック・ジェフリーズ教授が、殺人事件解決のためにDNA鑑定を用いて捜査に協力した。これがDNA鑑定が犯罪捜査に使われた初のケースとなった。

 英国での犯罪解明の著名なケースを振り返って見ると、

*まずレスター教授が関わった事例。1986年、レスター市郊外で連続婦女暴行・殺人事件が発生した。地元警察は近隣一帯の一定の年齢層の男性全員からDNAサンプルを採取した。どれも犯人と思われる人物の情報と合致せず、事件は迷宮入りの様相を見せた。しかし、後に、犯人がDNAテストを他人に代用してもらっていたことが分った。再度の鑑定で、この男性が真犯人と判明した。

*1992年、暴行殺害事件で死刑宣告を受けていたカーク・ブラッドワース氏が、DNA鑑定で無罪になった。

*2005年、サリー・アン・ボウマンさん殺人事件で、別件で逮捕された人物のDNA情報をデータベースと照合した結果、真犯人と判明。無実の男性が34年間の受刑生活に終わりを告げた。

*2007年、ごく微小のDNAサンプルをもとにした「低コピー」法鑑定の精度に疑問が呈され、北アイルランドのオマーで起きたテロ事件の犯人とされた男性が無罪になった。

*2008年、1995年に発生したケント州の女性暴行事件で、2000年に別件で逮捕された男性が、DNAサンプルから犯人ではないかと想定された。裁判に提出された精度の低いDNA情報は無効とみなされ、男性は無罪になった。ところが、2007年、精度が向上したDNAテストを使った再審が実現し、翌年、男性は有罪となった。   

*2009年、1979年に22歳の女性を殺害した罪で無期懲役となったショーン・ホッジソンさんが、DNA鑑定の結果、30年ぶりに無罪釈放となった。

―データベース化へ

 「国家DNAデータベース」の開始は1995年。現在、内務省の管理下に約450万人分のDNA情報が保管されている。毎月約3万人分増えている。犯罪捜査官が犯罪の現場から情報を収集する場合と、警察が逮捕した人物から採取する場合がある。

 開始当時は有罪となった人物からのみ情報を収集していたが、2004年以降、英国の人口の85%を占める人が住むイングランド・ウェールズ地方では、逮捕後に無実となった人物のDNA情報も保管できるようになった。

 政府資料によれば、1998年から2008年の10年間に起きた39万件の犯罪解決に国家データベースの情報が使われた。2007年―2008年度では、83の殺人事件、184件のレイプ事件、そのほか1万5420件の事件の解明にDNA情報が使われた。18歳以下の情報は全体の25%を占める。

―無罪となっても情報保管

 イングランド・ウェールズ地方では逮捕者全員からDNAサンプルを採取後、無罪になってもこの情報は生涯削除されない。

 イングランド・ウェールズ地方とは別の法体系を持つスコットランド地方では逮捕者からDNA情報を採取するものの、無罪となれば削除される(ただし、重大な性犯罪や暴力事件の場合は6年間維持)。イングランド・ウェールズ地方もスコットランドをならうべきだという声がある。

 チャリティー団体「ジーン・ウオッチ」のヘレン・ウォレス氏は、BBC放送の取材(今年5月)に対し、「犯罪の容疑者になったら、捜査の過程でDNA情報を採取されるというのは理解できる」としながらも、「有罪でなければ、この情報を保管し続ける理由がないはず」と述べる。

 現在、データベースの中には犯罪とは無関係とされた85万人のDNA情報が保管されている。無実の人を潜在的犯罪者と見なしているという点で、これを不当と考える権団体は少なくない。人権団体「リバティー」のシャミ・チャクラバチ代表は、同じくBBCニュースの取材に対し、「すべての男性、女性、子供のDNA情報を『念のために』データベースに入れようというのは、『人権なんかどうでもいい』という態度と同様だ」と述べた。

 しかし、ある事件では無関係とされた人物が他の犯罪事件に関与していたというケースもある。犯罪被害者を支援するための運動を続けるジル・ソーワードさんは無実になったからといってその人物のDNA情報を自動的に削除する案には反対だ。「犯人を捕まえる可能性が低くなってしまう」からだ。

 昨年、欧州人権裁判所が無罪となった人物のデータ保管を「プライバシーの侵害」とする判断を示し、英政府は今、データベース管理の見直しを始めている。8月末まで国民から意見募中だ。

 管理方法の変更の政府案とは:

    捜査現場から採取したDNA情報の元となるもの、例えば唾液などは、データベースに情報を入力後、削除する。

    逮捕後、無罪となった場合は、重大な暴力事件あるいは性犯罪事件の場合、12年後に削除する。

    逮捕後、無罪となった場合は、重大な暴力事件あるいは性犯罪事件ではない場合、6年後に削除する。

    有罪となった場合は無期限に情報を保管する(これは変化なし)。

    未成年の場合は、軽犯罪で有罪となったかあるいは無罪となった場合、本人が18歳になった時点で情報を削除する。

 この政府案がすべて実現されたとしても、国家DNAデータベースが実際には「犯罪者データベース」である以上、一旦このデータベースの中に入ったら最後、犯罪者予備軍という烙印を押されてしまうのは間違いない状況になっている。

 あらためて、DNA鑑定を振り返っておきたい。

―DNA鑑定とは?

 DNAはすべての生物の細胞核内にある、遺伝子の本体とされる物質。4種類の「塩基」と呼ばれる物質が結びついて2重らせん構造になっている。塩基の配列は個人によって異なる。DNA鑑定、あるいはDNA型鑑定は、警察などの専門機関がこのパターンを調べること。DNAは毛髪、体液、皮膚も含め体中の細胞にあるので、痕跡から鑑定が可能。

―始まりは?

 レスター大学のアレック・ジェフリーズ教授が1984年9月、X線写真に写ったヒトのDNAのバーコードのような模様を目にし、同じ並び方が繰り返して現れる部分がいくつもあることを発見。繰り返しの回数がヒトによって違うので、個人の識別ができると思いついた。このバーコードを教授は「DNA指紋(フィンガープリンティング)」と呼び、英「ネイチャー」誌に発表した。

―精度は?

 英国で警察の捜査に使われだしたのは1980年代半ばだが、当初は別人のDNA型でも一致してしまう確立が数百人に一人の割合とされた。現在は飛躍的に向上したが、精度の判断には諸説ある。10億人に一人とする場合もあれば、4兆7000億人に一人とも言われる。いずれも、実証に基づいたものではなく、複数の配列の出現率を確率論から算出したものである。

 

 

 

「視点を変える」①「ソニーやトヨタの特集には興味がわかない」

09.07.18 by   カテゴリー: メディア

kabig ベストセラー作家勝間和代さんのことを他の女性と話していて、彼女を嫌いな人が結構いることに気づいた。「年収600万円を目指そうなんて、一体女性の平均賃金がいくらだと思っているのかしら」と怒りを表す人もいれば、「読んでいて疲れる」という人も。

 私は、数々の著作の中で30代から40代前半の女性の本音が出ている部分に「うーむ」と思わず感心してしまう。

、 例えば、「勝間和代の日本を変えよう」(毎日新聞社)という本がある。こんな箇所がある。

 

 「日本においてこれほど大きな女性差別があるのに、それと気づかないとすれば、ふだんの現実を見る目、認知がゆがんでいるわけです」124頁)。

 

 勝間さんは女性たちは日本では「二流市民」だと言う。そこに気づかなければいけない、と

 

「客観的には、まずゼロベースで現実を見てください。全世界で女性は差別されているけれど、とくに日本では差別されている、という現実を、です。それに気づかない限り、あるいは気づかないふりをする限り、空気レベルでの差別は連鎖し、悪循環を作り続けます」-。

 

 ここまではっきりと書かれると、これを読んでいるあなたが男性だったら、違和感・不快感を持つかもしれないし、「ちょっと違うのではないか」と思うかもしれない。しかし、実際のところ、日本で働いている女性で、「いや、そんなことはない」と自信を持って言える人は、一体どれぐらいいるのかなと思う。

 もう一つは以下。

 

 「私は『日経ビジネス』の平均読者年齢が40代後半と聞いて大変驚きました。たしかに今の経済誌の内容は、私には感覚が古いのです。私より若い層にはなおさらでしょう。ソニーはどうなる、トヨタの運命は、といった特集をよく組みますが、私たちにはピンとこない。興味がわかないのです。だれもいまソニーやトヨタに就職したら一生安定で幸せなんて思わないからです」(53頁)。

 

 

「ソニーはどうなる、トヨタの運命は・・・・私たちにはピンとこない」・・・これは私自身の本音でもあった。ソニーやトヨタの特集を「大企業の話だよな」「きっと重要なんだろうな、興味ないけど」と思いながら、頁をめくっていたのである。この箇所はさらっと書かれているが、ソニーやトヨタの話を重要だと思う年齢層やその他もろもろの部分をバサーっと斬っている。実はソニー・トヨタの話(重要度の認識)は、意外と幻想だったのではないか、とも思わせる。

 日本の企業のほとんどが実は中小+零細企業であるそうだが、だとすれば、もっと規模の小さな会社の話の方が読者にとっては身近であり、役に立つとも言えるのではないか。

 また、ここ数年で二極化社会、ワーキングプア、派遣村など、今まであまり表に出てこなかった影(と考えられてきた部分)がよくメディアで報道されるようになった。「プア」な人は急に増えたというよりも、前からいたが、メディアが取り上げなかっただけだった(なので、あたかも存在しないかのように認識されていた)、とも言えるだろう。雑誌も含めたメディア報道の中心が「ソニーやトヨタが重要」と考える人たちによって作られているとしたら、すくいあげられていないものは、さぞ多いことだろう。 

 

 

映画「スラムドッグ$ミリオネア」に出演の少女が思い出執筆

09.07.12 by   カテゴリー: ニュースあれこれ

 

  米アカデミー賞受賞作品の映画「スラムドッグ&ミリオネア」に出演したインド・スラム街に住む少女ルビナ・アリちゃん(9歳)が、映画出演の思い出などを執筆し、本にした。

 英日曜紙「インディペンデント・オン・サンデー」によると、「スラムガール・ドリーミング」と題された本に、ルビナちゃんは映画出演でいかに自分の人生が変わったかを書いている。映画出演前は電車の車両をトイレ代わりにしていたそうだが、現在は、10分歩いて2ルピーを払い、清潔なトイレ施設を使うようになった。

 アカデミー賞授賞式に出席するため、初めてハリウッドを訪れたルビナちゃんは、「通りを誰も歩いてないので、びっくりした。誰もが車を持っていた。道路がからっぽだった」と書く。宿泊したホテルの部屋が広すぎて眠れず、共演した俳優と母親とともに一つのベッドで眠ったという。

 授賞式から帰ってからは、それまでは平気だった、ねずみやゴキブリ、蚊に悩まされるスラムでの生活がつらくなった。

 映画出演料が約500ポンド(約7万円)と噂されるルビナちゃんだが、映画の監督ダニー・ボイル氏がルビナちゃんに「コンクリートの壁があって、窓がついて、自分のものを置ける場所があって、ちゃんとしたトイレがついた」家を買ってあげると約束したにも関わらず、まだこの約束は実現していないそうだ。

 ルビナちゃんの執筆に手を貸したのは、ジャーナリストのディビヤ・ドウガルさん。本はブラック・スワン社から出版される。売り上げはムンバイの母親や子供の生活を支援するためのチャリティーとルビナちゃんとの間でシェアされる予定だという。

 5つ星がついたハリウッドのホテルに宿泊し、華やかな映画の世界を見てしまったルビナちゃんは一体どんな大人になっていくのだろうー。

 

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