季節は「ハエのお葬式」から「女性の夏」へ
09.09.29 by タチヤーナ ・スニトコ カテゴリー: コラム, 世界の窓
ロシアでは家でとったハエを、株やビート(砂糖大根)の根で作った「棺」に入れて木屑(または木切れ)に乗せて、家の外で土葬にして弔います。タオルを振りながらこう言います、「ハエよ!ハエよ!蚊のお友達よ!とうとう命の終わりが来ましたよ!」このような儀式で、北ロシアでは夏に別れを告げ秋と冬を迎えるのです。
この儀式は毎年9月14日に行われます。その日は、「女性の夏」(秋晴れ)の初日です。普通は「女性の夏」は2週間です。その時には、神様は土(大地)を「春までに閉じ込めてしまう」と言います。もう一つの「女性の夏」が11月の下旬にあります。それが終わると、雪が降り始め、北ロシアの長い長い冬が始まるのです。
「女性の夏」という表現には、女性には天気を治める力があり四季の復活もできるという考えかたがあるのです。もう1つの意味は「おくての恋」です。「女性の夏」は結婚式のシーズンです。そのシーズンは11月の終わりまで続きます。科学者たちの書いたものによりますと、「秋は男性の性衝動のピークの時期であり、一方女性は春に恋に落ちる」のです。
「女性の夏」は、1年の最後の暖かな日々なのです。それが過ぎると、人々は翌年の春まで次の暖かな日々を長く待たねばなりません。だから、人々はこの「女性の夏」をとても好むのです。
ロシアでは、「女性の夏」はとても美しい時期です。「女性の夏」を象徴するものは「クモの流れ糸に乗って浮遊する若いクモ」です。「流れ糸に乗ってクモは秋を持って来る」とよく言われています。(つづく)
日刊ベリタから転載
http://www.nikkanberita.com/print.cgi?id=20090924123802
「友愛」のルーツを求めて 鳩山会館を訪ねる
民主党政権が誕生してほぼ10日。国連総会での英語のスピーチも終え、すでに国際デビューを果たした鳩山由紀夫新総理。全てがなんとも超スピードで進んでゆく。父の一郎氏も総理大臣を務め、由紀夫氏が言うところの「友愛」の精神は実は父が唱えたものだった。そんな鳩山家のルーツをたどる1つの場所が、東京・文京区にある鳩山会館だ。一般公開されている鳩山家の洋館を訪ねてみた。
最寄りの駅は東京メトロ・有楽町線の江戸川橋駅。電車を降り、1aの出口の方向に歩きだすと、改札前に鳩山会館への行き方を書いた白い紙が貼られていた。出口から直進し、300メートルで右側にあるらしい。
そのとおりに歩いてゆくと、さらに電信柱などに「後100メートル」などの案内が出ている。かなりの方向音痴の人でもこれなら大丈夫そうだ。
鳩山会館に至る坂道を登ってゆくと、赤いナナカマドの実が目についた。すでに会館を閲覧した人たちが入れ替わりに坂道を下りてくる。観光のツアーバスが訪れる場所の1つにもなっている。
急いで歩けばやや息が切れるような坂道を登りきると、鳩山家の洋館の入り口が姿を現す。入口を背に写真を撮っている人も多い。
入って右手の部屋では、会館の歴史を説明する短編映画が上映されている。鳩山家がここに居を構えたのは、鳩山和夫氏(1856年―1911年)の時代。和夫氏は米エール大学に留学し、法学博士号を取得している。その時の勉学ノートの一部が展示されている。帰国後は外務次官、衆議院議長となり、早稲田大学校長にもなった。
ここに洋館を建てたのは和夫氏の長男で後に総理大臣となる一郎氏(1883年―1959年)。関東大震災の翌年の1924年(大正13年)に完成した。設計は一郎氏の友人の岡田信一郎氏で、大正・昭和初期を代表する建築と言われている。
一郎氏が後に妻となる薫さん(元共立女子学園理事長)にあてて書いた500通を超えるラブレターの一部も展示されていた。複数ある応接室のソファーに座り、広々としたサンルーム(まるで舞踏会でも開催できるような、つるつるした床がある)や展示を眺め、中庭にも出てみた。2つある池には色とりどりの鯉があった。一般人の想像を超える資産家であり、筋金入りの国際派であったのであろう。
パンフレットに書かれていた、東京大学教授藤森照信氏の説明によれば、「ここを舞台に、戦後政治の画期となった自由党(現・自由民主党)の創設が計られ」、また一郎氏が「首相として決断した日ソ国交回復の下準備」も行われたのだと言う。
ちなみに、一郎氏の長男で現総理由紀夫氏の父に当たる鳩山威一郎氏(1918年―1933年)は外務大臣、大蔵事務次官、衆議院議員を務め、その次男であり由紀夫氏の弟にあたる邦夫氏は文部大臣などの重職を歴任している。
一郎氏の没後、洋館は傷みが激しくなり、1995年からの修復作業の後、きれいになって一部が公開される運びとなった。一郎氏は「人類愛に根ざす、助け合いの精神を友愛と呼び、代々政治理念として唱えた」と言う(会館のパンフレットより)。
応接間の一つには冷たい水が入ったやかんと紙コップが置かれていた。庭を見た後でコップに水を注ぎ、喉を潤す。先のサンルームは「英国風」という説明があったが、英国の貴族や地主が住むいわゆる大邸宅と比較すると、鳩山会館は部屋の一つ一つが小ぶりで、「小さな洋館」という趣があった。しかし、この小ぶりさがここに集った鳩山家の住人たちや政治家たちの間の緊密さ、白熱した議論の様子などを想像させ、味わい深い空間となっていた。
月曜は休館で、開館時間は午前10時から午後4時(3時半までに入館のこと)。入館料は一般が500円で、他様々な割引がある。
ホームページ:http://www.hatoyamakaikan.com/
ウイキペディア 鳩山会館
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B3%A9%E5%B1%B1%E4%BC%9A%E9%A4%A8
不思議なロシア語 「ポーニョポーニョ」
09.09.18 by タチヤーナ ・スニトコ カテゴリー: コラム, 世界の窓
(写真は「ヨイショ!」–Ё大文字;ё小文字–と文字を持ち上げる姿)
「Ё」という文字はロシア語アルファベットでは一番「若い」(一番最後に作られた)文字です。女帝キャサリンの親友エカテリナ・ダスコヴァ公爵夫人が1783年にクリスマスツリーを見てその文字を作りました。ロシア語ではクリスマスツリーは「Ёлкаヨルカ」と言います。女帝キャサリンはドイツ人でしたので、その文字の上の点々はドイツ語の「ウムラウト、Unlaut」(Ö.Ä,Ü)の影響ではないかと思っています。不思議なことに、大文字「Ё」はカタカナの「ヨ」を鏡で写したような文字でしょう。
ロシア語は不思議な言葉です。恋を告白するとき、ロシア人は 「yellow blue bus」(黄色い青いバス、ロシア語では、Я люблю Васヤー リュブリュー ヴァス)と言います。
男性が「ポーニョポーニョ・・・」と言うと、その「ポーニョポーニョ・・・」という言葉は、「分かった、分かった」という意味です。女性は「ポニョラ」と言う。この「ラ(–la)」は女性名詞につく過去形を意味しており、不思議なことに「ピザーラ(Pizza-la)」ととてもよく似ています。
ロシア人が「キス、キス」と言いますと、キスしたいと思われるかもしれませんが、その言葉で猫を呼び寄せるのです。子供たちは自分の子守り(保母、育児婦)を「ニャーニャ」と呼んでいますが、これと似ていますね。
時には、私は、ロシア語という言葉は、ロシア語を学ぶ人を困らせるために作られたのではと思うくらいです。「ヤマ」はロシア語で「山」ではなく、「穴」を意味します。「ダー」は「はい」で、「ニエーテ」は「いいえ」という意味です。それでは、「ダー・ニエーテ」はどんな意味だと思いますか?それは、「いえ、かもしれない」という意味なのです。
ロシア語のアルファベットをちょっと眺めると、ロシア語というのは暗号として作られたのではないかと思うかもしれません。いくつかのロシア語のアルファベットは英語のアルファベットと同じ文字を使っています。しかし、発音は全く違います。
ロシア語アルファベット文字「P」は英語の「R」のように発音されます。ロシア語アルファベット文字の「B」は、英語の「V」のように、「X」は英語の「H」のように、「H」は英語の「N」のように、などです。
日本語の「私」はロシア語では「ヤ」と発音し、そのロシア語の文字は「Я」です。これは、英語の文字「アール、R」を鏡で写したような文字です。
アルファベット(alphabet)の起源は、その昔地中海沿岸に住んでいたフェニキア人が創り出したと言われています。その後、そのアルファベットはひとつの文化から別の文化へそれ以前からあった文字に上重ねするように伝播していきました。そのようにして、ギリシャ語アルファベットやラテン語アルファベット、ルーン文字・ゴシック文字・キリル文字アルファベットのようなヨーロッパのいくつかの書体が創り出されてきたのです。
アルファベット、alphabetという言葉自体、その起源はフェニキア語です。「アルファ alpha」 は「雄牛」を意味し、「ベットbet」は「家」の意味です。それで、アルファベットalphabetは「牡牛の家」という意味です。
ロシア語では「アルファベット」は 「azbuka」です。古代スラブ語では、[az]は「私」を意味していました。ブルガリア語では「私」は「az」です。「Buki」は 「文字」を意味します。面白いのは、ロシア語のbukiとドイツ語のBuch(本)の起源は、「ぶな」という木の名前です。「ロシア語:«бук»、ドイツ語:Buche」。ロシア語のアルファベットを意味する言葉「Azbuka」は「私は文字です」という意味を表しています。
キリル文字アルファベットの字には特別の名前がつけられており、それらの名前にはある意味があります。真の意味は秘密であるとされています。例えば、文字 「Ы」の元々の意味は、「太陽・神」です。ロシア語を学ぶ学生は、その文字を字の形からよく「61」と呼びます。
「B」(ヴェヂ)は「知る」を意味する動詞です。語源はサンスクリット語です。(ヴェーダはサンスクリット語で「知識」を意味し、アジアが起源の経典の集大成です。)「М]」(ミスレテ)は 動詞「考える」の二人称複数命令形です。不思議なことに、それはまた、文字を書く時の手の動き方にならって「酔っ払いの足取り」の意味でもあります。
ロシア語は不思議な言葉です。学ぶことは原宿竹下通りを歩く人のような可愛さはないかもしれないけれども、また派手さはないかもしれませんが、一度ロシア語に取り組んでみませんか?違った世界が見えますよ!(つづく)
(日刊ベリタより再掲載)
http://www.nikkanberita.com/print.cgi?id=200909121134486
旅―アイルランド②広大な庭で時を忘れるーロッククルー・ガーデン
アイルランド東部ミース州にあるロッククルー(Loughcrew)は紀元前3000年から5000年頃に使われていた巨石墳墓がある場所として知られている。この一帯はプランケット家(アイルランド最後の聖人といわれるオリバー・プランケットが著名)が所有してきたが、17世紀半ば、ネイパー家の手に渡った。
現在でもロッククルーの一部はネイパー家が所有するものの、その敷地は当初の18万エーカーから現在のほぼ200エーカーとなり、大幅縮小した。16世紀に建造された大邸宅「ロッククルー・ハウス」は火事で焼け、1821年にも、再度火事で損害を受けた。災難は続くもので、1964年にもまた火事が。1980年代
以降は、焼け残った邸宅を一部再修復し、チャールズ・ネイパー氏とその妻のエミリーさん、3人の子供たちが住んできた。
結婚したばかりのチャールズさんとエミリーさんがここに住みだした時、「邸宅」というのはおそらく正確な言葉ではなかった。二人が生活の場としたのは元の馬具収納室。浴室はなく、羊ややぎが台所を出入りするような有様だった。チャールズさんは「ここが家族が普通に住める場所にしたい」と思ったそうだ。
―エミリーさんが立ち上がる
作業の音頭をとったのはエミリーさん。建築家を見つけ、壊れた家具を買い集め、フランス製の布をいすに張るなどの細かい修復作業も監督した。
エミリーさんの頭にあったのは、自分が育った、イングランド南東部バッキンガムシャー州にあるウェスト・ワイコームの大邸宅だった。エミリーさん自身がイングランド地方の名門ダッシュウッド家の出身なのだ。
何とか家族の家を作りあげたエミリーさんが12年前から力を入れてきたのが広大な庭の修復作業だ。
ロッククルーの庭の入り口にあるカフェでランチを食べていたら、深緑色の長靴を履いた、ラフな格好の女性が現れた。スタッフに聞くと、エミリーさん自身だった。ツアーの私たちと話すうちに、「良かったら一緒に回りましょうか」と声をかけてくれた。
「何世紀も誰も何も手をかけてこなかったの。私が来た時はひどい状態だったのよ」とエミリーさん。
大樹の緑や様々な花の形、木の枝から顔をのぞかせる「猫」(本物ではない)などに気を取られていると、あっという間にエミリーさんはどんどん先を歩いていく。
元の所有者プランケット家が使っていた教会、水生植物園、森林浴ができそうな配列の木々、大樹、池、小川、噴水、色とりどりの花が咲き乱れる花壇、「不思議の国のアリスの通り道」―丸一日、歩き回ってもあきず、いつまでもぼうっとしていたい誘惑にかられた。
エミリーさんの先祖をたどれば、チューダー朝初代のイングランド王ヘンリー7世(在位1485年―1509年)がいる。結婚した先のネイパー家はアイルランドの名門の1つだが、エミリーさんは「数世紀前から所有していた土地に今でも住んでいる家は他にはほとんどいない」と悔しそうにこぼした。「この地を何としても活性化したい。守り抜きたい」というエミリーさんの志が垣間見えた。
アートに関心が高いエミリーさんは、めっき細工を学び、自分でも教えるようになった。敷地内では年に何回か、エミリーさんによるめっき細工教室が開かれている。2000年からは、毎年、オペラを開催している。出席は正装だ。今年は5月に「ラ・ボエーム」を上演したばかり。
一緒にガーデンを回ったツアーガイドの男性は「こんな場所があるなんて、知らなかった」とため息をついた。結構、穴場なのかもしれない。
ロッククルー・ガーデンは毎年3月から10月までオープン。入場は大人が8ユーロ、子供が4・50ユーロ。説明付ツアーは別料金となる。情報(英語)は以下。 www.loughcrew.com/
英諜報情報局は拷問に関与したか?ーグアンタナモ元拘束者ビンヤン・モハメド氏の主張の行方は
キューバ・グアンタナモにある米軍テロ容疑者収容所から英国に戻ってきた男性、ビンヤン・モハメド氏が、「英諜報機関が拷問に関与していた」と主張し、波紋を広げている。
モハメド氏は2002年、パキスタン訪問中にテロ容疑者として逮捕され、モロッコ、アフガニスタンで性器をかみそりを傷つけられるなどの拷問にあった後、2004年、グアンタナモに送られた。後、米政府が容疑を撤回し、今年2月英国に帰国。情報当局も政府も「英国は拷問を行わず、容認もしない」と宣言したが、「実際に手を下さずとも、米側と共謀したのでは」という疑念が高まる。現在、警察当局がモハメド氏の主張に関しMI5を調査中だ。創設から約100年の歴史でMI5が捜査の対象になったのは稀有だ。
モハメド氏は「パキスタンとモロッコで情報員と会った」と主張するが、情報当局側はこれを真っ向から否定する。政府も「英国は拷問を行わず、容認もしない」と宣言したが、「実際に手を下さずとも、米側と共謀したのでは」という疑念が野党議員を中心に高まり、下院人権委員会が調査を開始した。8月に発表された委員会の報告書は「情報局トップや政府閣僚の証言が得られず」、拷問共謀の証拠を見つけられなかったとした。
海外でテロ容疑者として拘束されている間に英情報局員から訪問を受けたと主張するのはモハメド氏以外にも英国内で数人いる。「生の声」をつきつけられた政府側は逃げの一歩だ。
デービッド・ミリバンド外相は「サンデー・テレグラフ」紙(8月9日付)で「いかなる形でも拷問に関与してない」と繰り返したが、海外で得た諜報情報に関しては、(拷問などが使われた)「リスク」を完全に取り去ることは不可能だとして、将来的に何らかの関与が証明されても説明がつくような見解を示した。同月放送されたBBCラジオの番組で、この11月で退任予定のジョン・スカーレット情報秘密情報部(MI6)長官は英諜報機関の拷問関与・共謀を否定している。
7月に開始された、2003年のイラク戦争に関わる新たな独立調査委員会はこの秋から本格化する。この中で、2001年9月11日の米国大規模テロ発生からアフガン侵攻、イラク戦争開始に至る経緯が精査される。開戦を主導したブレア元首相も証人として召喚される予定だ。「タブーのない調査」をジョン・チルコット委員長は宣言しており、拷問疑惑に光が当てられるのではないかと人権団体らは期待をかけている。
―モハメド氏とは
ロンドンで学生生活をしていたビンヤン・モハメド氏はエチオピア生まれ。1994年、英国に政治難民としてやってきた。世界中から難民申請者がやってくる英国では、難民としての地位確定までに数年以上かかるケースは珍しくない。モハメド氏もこうした申請者の一人で、難民認定を受けるまでの居住を認められていた。
2002年、モハメド氏は、パキスタンで偽のパスポートを使って英国に戻ろうとするところをパキスタン政府当局に拘束され、米国に引き渡された。モハメド氏が弁護士事務所「リプリーブ」の弁護士クライブ・スタッフォードスミス氏に伝えたところによると、「拷問後」、国際テロリスト集団アルカイダのメンバーだと「自白」せざるを得なくなったと言う。「男性自身をありとあらゆる方法で痛めつけられた。拷問者たちは『切除してしまった方がいい。テロリストの子孫を作れないように』と言っていた」とモハメド氏は語ったと言う。本人は「テロとは無縁」と主張する。
スタッフォードスミス氏によると、英情報機関MI5は容疑者に拷問が行われたことを「知っていた」。グアンタナモに送られる前、モハメド容疑者はモロッコの刑務所に連れて行かれ、8人の「拷問者のチーム」に過酷な尋問を受けた。この時の尋問官の1人がMI5の要員であると自ら認めた。モハメド容疑者はモロッコからアフガニスタンのカブールに送られ、殴打され、天井から逆さにつられるなどの「尋問」を受けた。その後、同国のバグラム基地に、そしてグアンタナモ収容所に送られた。
モハメド氏は、一時、米市民に対する殺害・攻撃を計画した陰謀罪に問われた。米当局によれば、2001年9月11日の米中枢同時テロの首謀者が、モハメド氏に米国の住宅を爆破させるよう指令した。しかし、モハメド氏に対する米英当局による拷問疑惑が表面化すると、米側はこの容疑を撤回した。
グアンタナモ収容所の設置は2002年1月。米政府は、パキスタンやアフガニスタンなどで拘束したイスラム原理主義勢力タリバンなどの兵士らを「敵性戦闘員」として移送した。拘束者の殆どは弁護士の接見を許されず、容疑も確定しないままで何年も拘束された。一時、拘束者は800人近くに上ったが、7月末現在、229人が拘束されている。
オバマ大統領は、2010年1月22日までに収容所を閉鎖すると決定している。閉鎖後、釈放された拘束者たちを出身国に戻した場合、何らかの迫害を受けるおそれがあるため、どの国が受け入れるかを巡り交渉が続く。ポルトガル、フランス、アイルランド、スウェーデン、ドイツなどが受け入れの意思を表明している。
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ビンヤン・モハメド氏のインタビュー(BBC)や元拘束者たちを支援するための「グアンタナモ・ジャスティス・センター」の情報(英語)は以下。写真はジャスティス・センターのウェブサイトより。
http://news.bbc.co.uk/1/hi/uk/8177105.stm
http://movie.teacup.com/video/watch/4462ecef9850c558?kw=Binyam&page=1
http://www.guantanamojusticecentre.com/whoweare.htm
アフガン戦争と英国兵士―先が見えない
アフガン戦争での英軍兵士戦死者数が、2001年10月のアフガン侵攻時から数えて、今年9月3日時点で212人となった。03年からのイラク戦争での戦死者数179人を上回る。「国際テロの波及を止める、治安安定、開発と建国支援」が英政府による駐留目的だがあまりにも壮大でガーディアン紙(8月17日付)は「ミッション・インポシブル」(実現不可能なミッション)と呼んだ。先が見えぬままに死者が増える。スカイテレビの8月の調査によれば、英軍の駐留目的が「明確」と答えた人は13%。67%が撤退を支持している。
約9000人の英軍は治安が不安定な南部ヘルマンド州を中心に配置されている。問題は、「一度はタリバンを一掃してもこの状態を維持するほどの十分な兵力がないため、奪回されてしまう」(元英兵の話)点だ
戦場で傷を負った兵士を病院に運ぶヘリコプターの不足で米軍から借用せざるを得ないことや、十分な防弾チョッキが支給されていなかったために命を落とした兵士がいたことも英紙の報道で明るみに出た。ぎりぎりの装備で戦場に出ている英軍の姿が浮き彫りになった。過去にはリチャード・ダーナット陸軍参謀総長が「もっと十分な装備が必要だ」と異例の発言をして世間を驚かせた。英政府がオバマ政権の要請に応じて駐留軍人を増やしたのは4月だったが、今後いつまでアフガンに関わるのか、先が見えない。
一人また一人と戦死する中、負傷兵の数も増え続ける。アフガンでの死者・負傷者の数は侵攻開始からほぼ1000人と言われているが、手足をなくして帰ってきた兵士たちに政府の支援は必ずしも十分ではない。でき得る限り少額の補償で済ませたいのが国防省など政府側の本音で、補償額の増大を求めて訴訟を起こす兵士が増えている。2007年、乗っていた軍用車がタリバンが仕掛けた地雷を踏み、歩けなくなったある兵士が受け取った補償額は1万4000ポンド(約213万円、9月上旬計算)。裁判の末これを6万5000ポンド(約990万円)に増やしたものの、「今後一生の医療費をカバーするには何の足しにもならない」。
今月3日、元英軍大佐で、ボブ・エインズワース国防相の政策アドバイザーだったエリック・ジョイス氏が政府のアフガン政策を批判し、辞職した。「アフガンでの英兵の死傷者数は、英国内のテロを防止するという目的をもはや正当化しない」「いつ撤退するかを政府は決めるべき」と主張した。
国防相は「ジョイス氏がアドバイザー職にいたのは3ヶ月のみ。辞任をしてもそれほど大きな事態ではない」とメディアに語り、アフガン侵攻は「国家の安全保障にとって非常に重要。この責任を放棄するわけには行かない」と語っている。



