自殺者数増加 孤立する米退役軍人

10.05.31 by   カテゴリー: 世界の窓

 米国では、自殺者は年間で約3万人。その内20%が退役軍人である。全土に1600あるVA(退役軍人局)医療施設では、退役軍人の自殺を予防するために色々な措置をとっているが、近年若年層の間で自殺者は増加している。
 最近の国防総省の発表では、05年から07年まで18才から29才までの退役軍人の自殺が26%増加。この年齢層の多くは、イラク・アフガンからの帰還兵である。昨年、政府は5年間VAへ250億ドルの資金増加を決定し、精神障害ケアーを重視してきた。

 VA医療施設へ行くと、壁には「自殺予防ホットライン」の電話番号、受付には「自殺の危険性チェック」といったチラシがある。ネット上でカウンセラーとのチャット・サービスもすすめられている。もしカウンセラーが、チャット中、退役軍人の鬱状態が重いと判断すれば、即自殺予防ホットラインへまわされることとなっている。
 自殺数の増加には、アフガンは9年、イラクは7年と長引く戦争で、兵士は度重なる派遣を強いられ、帰還後社会から孤立していく背景がある。

 ベトナム戦争では、徴兵制度の下で、ほとんどの兵士は1度だけの派遣だった。イラク・アフガンでは、兵士の中には数度の派遣を経験し、兵役期間が終了しても軍は除隊を認めず、兵役期間を延長するストップロス制度もある。戦場では、常に前線に立たされ、軍基地から基地へと移動する際も危険がつきまとう。
 その結果、帰還してからPTSD(心的外傷後ストレス障害)や鬱病をかかえこむ兵士が多い。非営利のシンク・タンクのランド・コーポレーションは、イラク・アフガンからの帰還兵の20%がPTSDか、鬱病を患っているという。
 戦争開始時に比べ、メデイアのイラク・アフガン報道は減り、兵士の存在自体が忘れられている。地方の小さな町を訪れると、今だメイン通りには黄色のリボンが飾られ、町ぐるみで帰還兵を待つ姿も見かけるが、その規模は小さくなってきている。社会に歓迎されず、帰還兵はより孤立を深めているようだ。

(Newslogusaブログ)

http://www.newslogusa.com/?p=863

制度の谷間で苦しむ多くの人がいる  障害者福祉の政策立案に市民・当事者の参加を

10.05.28 by   カテゴリー: 日々の出来事

 制度の谷間で放置されている障害者に対する政策をつくりだすことをめざして、市民運動が動き出した。日本の障害者福祉には大きな谷間があり、本当に必要なひとが福祉から排除されている現実がある。障害者福祉は臓器や疾病別に設けられた基準にそって交付される障害者手帳をもとに実施されるが、臓器、疾患、機能障害によっては対象にならず排除されるケースが多い。市民組織「制度の谷間のない障害者福祉の実現を求める実行委員会」は政府に対し、福祉の谷間をなくす政策立案過程への参加を求めて、賛同者をつのっている。

 同実行委員会の申し入れ書によると、年間3万2000人にのぼる自殺者のうち、メンタル的要因以外でも病気を理由に命を絶っている人が1万人を超えるとしている。その中には福祉の谷間で苦しんでいた人も、多く含まれていることが想定できる。以下、申し入れ書と、その背景にある福祉の谷間の制度的問題(資料1・2)を紹介する。

【制度の谷間のない障害者福祉の実現と政策立案過程への当会の参加を求めます】

 日頃より制度の谷間のない障害者福祉、セイフティーネットの拡充にむけてご尽力いただき誠にありがとうございます。私達は介護や就労支援などが必要にもかかわらず、障害者福祉制度の谷間に置かれ、危機的な状況に置かれている現状を変えるために立ち上がった実行委員会です。

 日本の障害福祉は実際の生活上の制限を反映していない、臓器、疾病別の基準で規制された障害者手帳を要件とした介護、就労等の制度(資料1参照)となっています。これではどんなに日常生活や社会生活上の制限が継続していても制度、相談窓口の入り口で排除されてしまいます。私達の日頃の相談でも、生きるあてがつかず途方にくれたまま危機的な状況におかれ続けている仲間がいます(資料2参照)。

 年末の公設派遣村でも本来は障害者施策にアクセスしていなければならない方が「制度の谷間」に置かれ、孤立し、貧困化していることが明らかになっています。社会問題化する無縁社会の中で孤独死をされる方は年間3万2千人にものぼり、若年者の孤独死も多発しています。又、12年連続で年間3万人を越える自殺者のなかでも、メンタル的要因以外でも病気を理由として自らの命を絶つ人は1万人を越えます。仲間の現状をみていると、社会の底が抜け、社会が壊れ始めているのではと危機感が募ります。このような社会的損失を放置してもだれも得をしません。危機的な状態に追い込まれている当事者に直接手の届く施策を一刻も早く講じていくことは政治の使命であると考えます。行政・私達を含めた民間団体、全ての人が「一人、一人の命を守る取り組み」に向き合い、孤立させない、お互いが必要とされていると実感できる社会に向けた一歩として、まずは下記の実現を求めます

1、必要としている人が入り口で排除されず、誰でもアクセスできる「制度の谷間」のない障害者施策に向けて、障害者手帳要件による入り口規制を見直し、緊急対策、経過措置を求めます。

 *障害者の手帳をもっていないくても医師の意見書等でインペアメント(原因となる障害で種別は問わない)が確認され、1週間の利用計画票等を提出したものは、入り口で排除せず、他のものとの平等を基礎として、日常生活、社会生活上の参加に制限が認められる人については介護、就労支援等の施策にアクセスできるように緊急措置、経過措置を講じて下さい。障害者自立支援法の成立時や3度の緊急対策からも先送りされ続けた経緯をかんがみ、今回は優先順位をあげて対策を講じてください。

2、障がい者制度改革推進会議や障がい者総合福祉法部会において、介護、就労等の福祉制度の谷間の議論において当会の参加を求めます。

<制度の谷間のない障害者福祉の実現を求める実行委員会 呼びかけ人>
共同代表 山本 創(重症筋無力症当事者)
共同代表 篠原 三恵子(慢性疲労症候群当事者)
佐藤 香織(多発性肝嚢胞当事者)、岡本 崇(多発性硬化症当事者)、西銘 亜希(線維筋痛症、全身性エリテマトーデス当事者)

<賛同団体>
患者の生活・就労をつむぐ会
代表 山本 創

フリースペース彩 ~内部障害・難病当事者ネットワーク~
代表 谷川 俊太郎

慢性疲労症候群をともに考える会
代表 篠原 三恵子

賛同団体を呼びかけています。
賛同者を呼びかけています。

<連絡・事務局担当>
患者の生活・就労をつむぐ会
担当 山本 創
〒121-0816
東京都足立区梅島1-15-5-203
tel/fax 03-6312-0383

資料1 介護、就労等における「制度の谷間」にある対象とは

 障害者自立支援法の身体障害については、第四条(定義)で身体障害者福祉法の対象と規定してあるので、下記の谷間にある方々がどんなにその障害が重度で、介護や就労支援が必要な状態になっても、入り口で排除されている現状です。基準にある障害を2次障害等で発生した場合においてのみ限定して対象となります。精神障害、知的障害については、このような手帳要件がないにもかかわらず、身体障害だけ手帳要件が設けられ2重に入り口規制されています。

 身体障害者手帳(身体障害者福祉法)で対象外とされている障害
(1)臓器別で排除されている障害
すい臓、脾臓、胆道等の臓器に起因する障害は対象外
*日本は腎臓、心臓、大腸等だけに限定。肝臓も数値基準等が厳しく、介護等が必要であるにも関らず、対象とならない方がいる
(2)疾患ごとで排除されている障害
血液・リンパ、免疫系(HIVを除く)の障害は対象外
*日本は免疫障害をHIVだけに限定。膠原病等の他の自己免疫性疾患は対象外。
(3)代謝及び酵素系の障害も対象外
(4)皮膚障害等に関わる障害も対象外
(5)活動障害は認められていても原因となる機能障害の違いで排除されている障害
A 2km歩行できるかどうかについては、筋肉、骨格、神経に原因がみとめられる機能障害がある人だけに限定。血液、免疫、臓器等の障害が理由で2km歩行できない人は対象外としている。
B 下記の症状が継続して障害とされるのはHIVだけ。血液・リンパ、免疫等を原因として同じように社会的制限が認められていても対象外となる。
・一日一時間以上の安静臥床を必要とするほどの強い倦怠感及び易疲労が月に七日以上ある、
・月に七日以上の不定の発熱(摂氏三十八度以上)が二か月以上続く
・軽作業を超える作業の回避が必要である等

 介護保険は65歳以上で若年者は対象とならず、40歳以上の特定疾病も15疾病に限られる

 難病居宅生活支援事業は難治性疾患克服研究事業130疾患と慢性リウマチに限られる。又、この事業を実施している自治体も全国で35%しかないために、住む地域によって利用できる人、できない人が出てしまう。

 障害者の雇用の促進等に関する法律や特定求職者雇用開発助成金においても、実際の就職のときに必要となる障害者の法定雇用率や給料を補填する特定求職者雇用開発助成金については身体障害者手帳の保持が要件となっているために、上記の手帳制度で谷間にある方々利用できない現状。結局は生活保護制度等、他の制度に過重に負担がいく仕組み。障害者職病リハビリテーション等の訓練の対象では障害者手帳要件を問わず対応しているので、訓練だけに終わらせることなく、就職時にも利用できるように支援の継続性を担保すべき。

資料2  制度の狭間にあり介助等が利用できない難病等の事例

(1)33歳女性 埼玉県在住 骨髄性血小板増多症 19歳ごろから症状あり 障害者手帳なし 一人暮らし
<症状>脳梗塞に近い状態で体が動かなくなる。だるさ、痛みが酷く、動いた日の翌日から続く。一日一時間以上安静にして寝ている必要が毎日ある。感染しやすいので人ごみを避ける必要があり、少しのタバコの煙でも脾臓の痛みが出る。日光による火傷や体のだるさも酷く外出制限がある。特に免疫が弱くなっているのでカビや化学洗剤にも弱い。生理は四日間最低寝込む(出血過多)。甲状腺、腎、肝機等の機能低下、全身いたるところに症状がでる。以上のような症状が10年以上続いている。
<介助>家事支援等による体力的軽減が必要。週に1,2回でも
<外出>通院、買い物をかねて週に1,2度。外出後は寝たきりになって体力の調整が必要。
【当事者の声】
 この10年間で私がやっていた生活が全部だめになり、失うばかりでした。若くして症状がでたので、働いて、貯金をためる機会も奪われました。週3日働けているときも、一日、一日出勤するのに覚悟がいりました。お化粧をするだけでも疲れてしまって、帰ってきてもぐったりで寝ているしかない状態。体がついていかない。介助、年金などあれば、できる範囲は自分でやっていきたい。今は、なんでもかんでも自分でやるしかない。様々な相談機関に行ったり、電話したりしましたが、理解してくれ心配し同情はしてくれますが、「ここでは何も出来ないんです…ごめんなさい…」と言う結果ばかりで、何も変わりませんでした。これから先の生活も心配。歳をっていくとどうなってしまうのか、なにかあれば今の居場所すらなくなってしまのではと思うと心配。
(2)46歳女性 福島県在住 多発性肝嚢胞 33歳時に診断 障害手帳なし 一人暮らし
<症状>不定熱、腹水が内臓を圧迫し、腹囲の増大、腸閉塞を起こし食事が困難になることも。腹痛・腰痛、足のむくみ・しびれ、ヘルニア、極度の疲労感、息切れ等、台所に立つのもやっとの状態。利尿剤の副作用も強い。月に3回の救急通院を繰り返し入院へ。その後も制度改善なし。
<介助>家事支援、通院介助が必要
<外出>通院、買い物以外で外出なし。用事が済めばすぐベッドに横になっています。
【当事者の声】
 腹水の内圧などもあり内臓を圧迫しています。無理をしないで、腸が飛び出さないように、皮膚が裂けないように活動を制限する必要があります。いろいろな相談機関でもわからないと言われ、疾患名で差別され、余命があるかないか、歩けるか歩けないかなどの見た目で線引きされています。行政の支援窓口がないため、自分ひとりで、かかりつけ医、一般病院、専門病院間の連携もこなさなければならず、どの制度にもあてはまらない私は、自分で自分のケアマネージャー、ホームヘルパーです。心身疲れ果て絶望感でいます。
(3)43歳男性 鳥取県在住 多発性硬化症 31歳より治療開始 障害者手帳なし 一人暮らし
<症状>痛み、脱力が体のいたる部位に多発。症状悪化時には視野狭窄、全身動かなくなる等。
<介助>家事支援、通院介助、身体介助が必要 <外出>通院、買い物以外で外出はしない。

【当事者の声】
 私の住む地域では、はじめ難病居宅生活支援事業を実施していない地域でした。地域の相談機関に相談して、市役所、議員さんと交渉し実施させるまで、何の介助制度も受けることがでず、長い期間かかり、難病も重度化しました。緊急対応が必要なため、病院の近くにすむ必要があり、一人暮らしです。介助制度がないとき、症状が急激に悪化、全身痙攣をおこし、自宅で一人3日間転がっていることもありました。介助制度のない、同じような立場にある難病等の人に同じような危険な目にあわせないように、全国どこにすんでいても、介助をうけることができるようにしてください。

(日刊ベリタ)

http://www.nikkanberita.com/read.cgi?id=201005011430136

ギリシャで起こっていること ー資産家や企業はユーロを引き出し、キプロスに移している

10.05.27 by   カテゴリー: 世界の窓, 経済の話

 ギリシャで吹き荒れる民衆のデモ、労働者のストライキの意味は何か、デモ報道一色のメディアが伝えないギリシャの現実を、日刊ベリタ編集部が市民組織を通しゆきかっている情報から追ってみた。資産家や中産階級の人びとは預金引き出しに銀行へ向かっているという。それらの資金はタックス・ヘイブンのキプロスに移されたり、ロンドンの不動産投資に回ったりする。

 ギリシャの市民組織「政治的および社会的権利ネットワーク(Network for Political and Social Rights)のヤヌス・アルムパニス(Yannis Almpanis)さんが、ギリシャの状況について日本の市民組織 に送ってきた。その一部をATTACジャパンの秋本陽子さんの翻訳を頼りに紹介する。

 ヤヌスさんの手紙によると、ギリシャの財政状況は日増しに悪化しており、金融市場からの資金調達はほとんど不可能な状況にある。実際、誰もギリシャに貸そうと思わない。ギリシャ政府は大急ぎでEUとIMFの緊急融資支援プロセスを進めようとしている。

 「しかしドイツとIMFが要求している融資条件とは、まさしく社会的破綻を引き起こすものだ」と彼はいう。

 EUが要求しているのは、民間および公務部門労働者の賃金の引き下げ、年金減額、公務部門における数千人もの(おそらく実質的には数十万人)人員削減、労使間の団体協約の破棄、民間部門の人員削減における法的規制の撤廃、公的教育費削減(政府は、来年、1クラスの生徒数を従来の25人から30人以上にすると発表した)である。

 「時間がたつにつれて、IMF-EU-ギリシャ政府の計画は労働者にとって破滅的であるだけでなく、ギリシャを袋小路に追い込むものである、と多くの人々が理解してきている。公共部門労働者は給与が約30%カットされる。(公的および民間部門)の年金受給者も年金が15~30%削減される。若年労働者は、最低賃金以下(約580ユーロ)の給与になる」

 これは「最悪のIMFプランである」とヤヌスさんはいう。

 「この計画通りに進めば、2014年に、GNPに対する債務は150%(現在115%)になり、GNPは2009年の数値を5%下回ることになろう」

 早晩、債務は再交渉になり、一部の民間債権者は損失に遭遇することになる。こうした見方はますます強くなり、市場を極度に不安定にしている。資産家はすでに財産保全にかけだしている。

 「銀行で預金を引き出す人が殺到している。金持ちや中産階級の者たちは、ドイツはギリシャをユーロ圏から追い出すのではないかと恐れている。彼らは、自分のユーロをキプロスに移したり、ロンドンで不動産投資をして、ユーロの節約に走っている。IMFの支援を受けても、時がたつとともに、ギリシャは債務返済がほとんど不可能になろう」

 「働く者の破産はすでに始まり、そのうち国家も破産するであろう」

(日刊ベリタ)

http://www.nikkanberita.com/read.cgi?id=201005082208476

「日刊ベリタ」アーカイブから 80日間の監禁生活つづる ベルギーの少女連続誘拐殺人事件で救出された女性 メッセージは「同情しないで」

10.05.25 by   カテゴリー: 世界の窓,

  1995年から1996年にかけて、ベルギーを揺るがした少女連続誘拐殺人事件で、80日間の性的暴行・監禁生活から救出された当時12歳のサビーヌ・ダルデンヌさんの体験をつづった本の英語版が出版されることになった。監禁体験は「過去のものになった」とするダルデンヌさんが読者に強く望むのは「同情しないでほしい」という思いだ。(「日刊ベリタ」アーカイブ:2005年4月20日掲載)

 英語版の題は「I Choose to Live」(「生きることを選択する」)で、2005年の英語での出版を前にダルデンヌさんは英ガーディアン紙のインタビューで心境を語った。

 1996年5月、ダルデンヌさんは通学途中、犯人のマルク・デュトルーに誘拐された。もう一人の当時14歳の少女と一緒に犯人の地下牢に監禁され、性的暴行を受けた。同年8月、少女2人は警察に救出された。デュトルーは2004年、この2人を含む6人の少女を誘拐して性的暴行を加え、その中の4人を殺害した罪で終身刑となった。

 人々はダルデンヌさんに同情するが、ダルデンヌさん自身はこうした同情、共感などをわずらわしいものと感じているようだ。「もう起きてしまったことを嘆いてもしょうがないでしょう」

 「好き好んであんな状況になったわけではない。私はスターでもなければ、歌手でも女優でもない。現在の自分を誇りに思ってはいるけれど、何か特別なことを成し遂げたわけではない」

 しかし、インタビューした記者は、ダルデンヌさんは少なくともこれまでの数年間、「抵抗を続けた」といえるのでないかと分析する。

 デュトルーの自供によると、首輪でつながれた80日間の監禁の間、ダルデンヌさんにオーラル・セックスを強要した後、「口直しのため」お菓子を与えたというが、その度にダルデンヌさんは犯人に対して、抗議をし、不満をこぼし、嘆き、困らせたと言う。

 「私はとても意志が強い人間だと思う。自分が何が欲しいのか、自分にとって何が大切かが分かっている。絶対にあきらめたりしない。(閉じ込められていた部屋でも)私にとって重要なことは家族に会うことだった。だからあきらめなかった」

 1996年8月15日、6日間一緒に閉じ込められていたもう一人の少女レティシア・デレさんと共に監禁状態から解放されてからも、ダルデンヌさんは自分なりの抵抗を続けてきた。

 解放後に敵となったのは、周りの人の善意だった。ダルデンヌさんの苦しみをまるで自分のことのように受け止めた家族、友人、医療関係者、警察、事件に震撼したベルギーの社会全体の空気だったという。

「一番性質が悪いのは精神科医だった。私は行きたくなかったけれど、お母さんが行かせた。一度だけ行った時に、女性の精神科医の人がいて、インクのしみのような絵を見せられた。何に見えるかと聞かれたので、インクのしみに見える、と言った。花を持った少女の絵を見せられて、何に見えると聞かれたので、花を持った少女に見える、と言った。それだけ?と言われて、もちろん、それだけです、と答えた」

 実際に監禁されたことよりも、その後の「なぜ」という問いかけに苦しめられたという。

 母親にも苦しめられた。「お母さんは私に秘密を打ち明けて欲しかったのだと思う。私の苦しみの重荷を軽くしてあげたいと思って。でも、秘密を打ち明けるわけがない。そんなことをしてもどうにもならないもの」

 「事件が起きて、それはもう終わった。これで話は終わり。お母さんに話したって、過去を変えることはできない。それに、今の10倍くらいお母さんの気分が悪くなるだけ」

 また、犠牲者として振舞うことを期待されたことも苦しかったと言う。「だんだんよくなってはいるけれど、とってもつらかった。今でも仕事に出かけるために電車に乗るとじろじろ見られる。サインをくださいと頼まれたり、私の苦しみを他の人と共有するべきだと言う長文の手紙をもらったりする。レイプされたほかの女性からも手紙をもらって、私の気持ちが理解できる、と書いてある。頭に来る。何も『理解』することなんかない。あることが起きた、そこで終わりなのだから」

 2004年、暴行犯の公判に出ていたダルデンヌさんは、約1時間にわたり、監禁状態のことを証言した。最後に質問を許され、「どうして私を殺さなかったのか」とダルデンヌさんは被告に聞いた。

 答えは、「だんだん心が引かれていったから」だった。ダルデンヌさんは、笑いをこられることができなかった。

 「なんて哀れな男かと思った」。地下牢ではダルデンヌさんを好きなように扱っていた犯人は、今はダルデンヌさんに全く手を出せない状態にいた。「小さく見えた。人生の中で一度も本当のことを言ったことがないんでしょう。全然怖いと思わなかった。笑ってしまうしかなかった」

ダルデンヌさんが今回ようやく体験本を書こうと思ったのは、周囲の人のさまざまな憶測にきっぱりとけりをつけたいと思ったからだと言う。

 フランス語で04年発売された本は、ベルギーやフランスで大評判となった。既に22カ国に翻訳されつつあるという。 ダルデンヌさんはベルギーの地方自治体で仕事をしているが、警察に転職する予定だ。事件があったためでなく、父親が警官だったので、小さいときからあこがれていた。2年前から付き合いだしたボーイフレンドもいる。

 過去は過去、とするダルデンヌさんだが、事件に関する新聞記事、関連のテレビ番組のビデオ、監禁中に書いていた日記などを大きなトランクに保管している。時々、読み返すことがあるという。「かつて自分だった12歳の少女がここにいる、と思う。もし将来子供ができて、何が起きたか知りたがったら、これを見せることができると思う」(「日刊ベリタ」アーカイブより http://www.nikkanberita.com/read.cgi?id=200504201425433

*日本語訳の本:「すべて忘れてしまえるように―少女監禁レイプ殺人犯と暮らした80日間』 松本百合子(翻訳) ソニーマガジンズ刊

「同じ状況だったら、また投下しただろう」―エノラゲイで原爆投下した元航法士が英紙に語ったことの衝撃

 ある戦争が終わった時、勝った側と負けた側とが認識を同じくすることはあるのだろうか?おそらく、戦闘の規模、衝撃、犠牲者の数などに関して、相当に評価が違うはずである。勝った方は犠牲を実際よりも少なく見るかもしれないし、逆に負けた方は犠牲の大きさを過大に受け止めているかもしれない。勝った側と負けた側は到底、戦争の評価において「合意」には至れないのだー。

 ・・・ということを頭では分かっていても、第2次世界大戦中、広島と長崎に原爆を投下した米軍関係者の発言を新聞などで読むと、日本人として衝撃を感じざるを得ない。もう65年も前の、しかも自分が生まれる前のことなのに、である。

 英紙「ガーディアン」の5月21日号に掲載された記事が私の目に留まった。黒字の見出しが「また爆弾を落とすだろうか?」とあり、その次に、「落とす(イエス)」という単語が青字で印刷されていた。「一体何故?」―思わず記事を読みだしていた。

 広島に原爆を投下したB29型爆撃機「エノラ・ゲイ」の元航法士、セオドア・バン・カークさん(89歳)をガーディアン記者がインタビューした記事だった。カークさんは、12人の乗組員の中で、最後の生存者になったのだという。

 私が現在住む英国では、戦勝国というせいもあるのだろうか、戦争を振り返るドキュメンタリー番組が比較的頻繁にテレビで放映される。私は英国に来てから、第2次世界大戦の歴史を「戦勝国の視点から見る」という、興味深い体験をしてきた。しかし、正直に言えば、日本にいた時は世界大戦のことは学校の授業でやっただけで(それもいつも最終学期には時間がなくなり、ほとんどまともには扱われず)、知識は決して豊富ではなかった。英国に来て初めて、日本が当時米英からどう見られていたかを次第に理解するようになった。

 原子爆弾の投下に関して言えば、一つの「実験」であったこと、「戦争の早期終結のためのやむを得ぬ手段」とされたことがーー私がこれに同意するのではないが、少なくとも米英ではそう解釈されているーー段々分かってきた。

 それでも、現在なお「もし同じ状況だったら、また投下する」というカークさんの言葉は、やはり衝撃だ。英国の記者が原爆投下をどう評価するのかも知りたかった。

 ガーディアンの記事によると、去年までは、カークさんは広島への原爆投下を記念する式典などに出ていたのだが、今年はこれをしないことにしたという。他の生存者がいなくなったので、行く気が失せたようだった。

―24歳で参加

 エノラゲイの乗組員の一人になった時、カークさんは24歳だった。爆弾投下の6か月前に米ユタ州の特別研修場所に仲間と一緒に入った。当時、「原爆」という言葉は使われていなかったという。ただ、投下すれば「すべての町が破壊される」爆弾だと説明されていた。物理学者もたくさんいて、次第に「原子爆弾だな」と推察するようになった。

 投下の前夜、これまでにはない種類の爆弾を落とすことを知らされた。説明会の後、乗組員は眠るように指示されたが、カークさんは興奮して眠れず、仲間たちとポーカーをして過ごした。

 原子爆弾は翌朝、「9時15分(日本時間の朝8時15分)」に投下され、広島の上空580メートルで爆発した。

 ガーディアン記事はこの後でエノラゲイが爆発の震動を受けた様子や、犠牲者の数を記している。英国で常識と考えられている数字として紹介すると、「爆発直後に7万人が亡くなり、1945年末までに14万人が亡くなった(合計23万人)」、「多くの犠牲者はやけどや放射能による病気で亡くなった」、とある。

―「犠牲者が出るだろうことは承知だ」

 ガーディアンの記者が、カークさんに対し、爆弾投下で数千人もの犠牲者が出ることを想定したかどうかを聞く。カークさんは、フランス、アフリカ、どこに落としても重傷を負う人が出るのは承知している、と述べる。民間人の犠牲者が出たことに関しては、「当時、国家の戦う意思を破壊することが目的だった」として、そのためには多数の犠牲者がでることは承知だったと答えた。

 爆弾投下によって亡くなる人が出ることを自分の中で処理できないようであれば、航空士などの乗組員は「仕事を全うできない」と。「人を殺さずに戦争はできないーもしあったら教えてくれ」。

―長崎を見ての感想

 カークさんと他の乗組員は、日本が降伏をした後、長崎を訪れていた。長崎も原爆投下で打撃を受けていた。長崎の様子を見たカークさんは特別の感想を持たなかったようだ。「ただの日本への旅行だった、それだけだ」。

 人が焼かれて粉々になった爆撃の跡が生々しい長崎市の情景はショックではなかったのかと記者に聞かれ、カークさんは「ショックだった」が、軍隊の研修で原爆でどのような情景になるかを学んでいたので「免疫がついていた」と語っている。

 記者はカークさんの心の中に迫ろうと思ったのか、「もし原爆を投下された側にいたらと思ったことはあるか」と聞いている。カークさんは「ある」と答えたが、思いを聞かれ、「一つの情報としての反応」だけだ、としている。

 もし同じ状況に置かれたら、また原爆投下をするかと聞かれ、カークさんは「まったく同じ状況はないだろう」としながらも、「また投下する」と答えている。

 このカークさんのインタビューを衝撃と思うか思わないかは、人によって違うだろう。少なくともガーディアンの記者(カークさんよりずっと若く、おそらくは戦後生まれ)は、カークさんが何の良心の呵責も反省もないように見受けられる様子に、いささかの焦燥感と驚きを持ったようだった。例え当時の判断では正しくても、その後の犠牲の大きさを知った後では、何らかの特別な反応があってもいいのではないか、と記者は言いたげだった。

 ある意味では、こうした戦後の若き記者の発想は、当時を生きたカークさんにとっては、門外漢の、かつ後知恵の(後になってああすればよかったなどと考える)態度なのかもしれない。時が変われば、価値観も変わるし、歴史の解釈やある行動の評価が変わっても不思議ではない。

 私にとっては、カークさんの発言は衝撃だった。私が広島を訪れたことは2-3回、しかも短時間しかない。駅前から電車に乗って通りを眺めると、「ここが本当に60年以上前に原爆で焼け野原になった場所なのだろうか」、「よくここまで頑張ったなあ」と思い感動する一方で、ここでたくさんの人が亡くなったのだと思うと、鳥肌が立った。

 原爆を投下したカークさんと投下された日本側の思いは最後まで平行線かもしれないー記事を読み終えて、そう思った。

ガーディアン記事原文

http://www.guardian.co.uk/world/2010/may/20/hiroshima-enola-gay-last-crew-member

*「日刊ベリタ」の関連過去記事

広島、長崎への原爆投下の正当化は、米国の基本的な見方
http://www.nikkanberita.com/read.cgi?id=200808071225024

無名のビルマ・ビデオジャーナリストたちの物語  『ビルマVJ-消された革命-』 

10.05.21 by   カテゴリー: メディア, レビュー, 世界の窓

 2007年9月、世界の目はビルマにくぎ付けになった。軍事独裁政権に抗してまず僧侶が立ち上がった。やがて路上は10万人の人々で埋まった。情報統制がすみずみまで行き届き、外国人ジャーナリストの入国が厳しく制限されているにもかかわらず、その模様は映像となって世界中に発信された。逮捕・投獄の危険をかえりみず現場から情報を発信し続けた「ビルマ民主の声」のビデオジャーナリストたちの活動がその陰にあった。タイトルの「VJ」とは、ビデオジャーナリストの意味である。彼らが発信した映像の中には、ビルマ軍兵士に銃撃され殺されたAPF通信記者、長井健司さんの姿も映っていた。この映画は、彼らが命懸けで送ってきた断片的な映像を再構成したものである。

 映画は若いビルマ人VJ、ジョシュアを中心に進む。決して顔を見ることができない主人公である。ジョシュアはひとりのVJの固有名詞だが、多くのVJの代名詞でもある。観客は、ジョシュアの目を通して軍事独裁下のビルマを見る。

 ジョシュアは「ビルマ民衆の声」の所属している。弾圧をのがれて外国にいるビルマ人活動家が作るビルマ民主化支援のメディアでノルウェーのオスロに本部を置いている組織だ。ビルマに潜入したVJたちは、撮影した映像をオスロに届け、そこから本国へ向けウェブで発信すると同時に、世界中のメディアに提供する。

 こうして撮られた映像は断片的だ。走りながら撮ったのか画面が大きく揺れ、警官や軍隊が来たのか途中で映像は切れる。映画はそれをつなぎ合わせ、撮影が切断された画面を再現映像でつないで全体を再構成している。膨大な量の映像の断片が、いつどこで撮られたのかを調べるのも大変だった。

 こうしてビルマの人々がおかれた状況を再構成した映画は、第82回アカデミー賞長編ドキュメンタリー部門にノミネートされたほか、世界の150以上の映画祭で40以上の国際的な賞を受賞した。 

 シアター・イメージフォーラム(東京・渋谷区)でのロードショウを皮切りに、その後順次全国で公開される。監督はアンダース・オステルガルド、編集はヤヌス・ビレスコフ。

 問い合わせは下記に。

 東風:〒160-0021 新宿区歌舞伎町2-42-11 カーサ新宿705 電話03-5155-4362

 (日刊ベリタ)

 http://www.nikkanberita.com/read.cgi?id=201005031534501

「日刊ベリタ」アーカイブから 「醍醐味は、読者の期待を裏切ること」 英のベテラン政治風刺画家

10.05.20 by   カテゴリー: メディア, 世界の窓, 文化

(「日刊ベリタ」の過去記事の再掲載です。)

 英国の新聞に政治風刺画が常時掲載されるようになったのは19世紀末。時の政治家を鋭くかつユーモラスに批判する風刺画はそれぞれの新聞の政治的信条を補足する役目を持っていたが、50年近くのキャリアを持つ英風刺画家ニック・ガーランド氏(写真右)は、保守系高級紙デーリー・テレグラフで長年働きながらも、「自分はどちらかというと左寄り」とし、あえて読者の期待をいい意味で裏切る風刺画を描くことに「刺激を感じる」と話す。(ロンドン発)

 テレグラフ編集室のガーランド氏専用の小部屋には、2,3の机といくつもの本棚がある。どの机の上も大小の筆ブラシが入った鉛筆立て、消しゴム、クリップ、風刺画の原画、雑誌、新聞 などがところ狭しと置かれ、開いているスペースはほとんどない。床にも古い雑誌、本、白い紙の束などが詰まれ、足の踏み場を探すのが難しい。

 訪問当日、小部屋が格別に窮屈に感じられたのは、南アフリカ共和国からの若い政治風刺画家5人と左派系高級紙ガーディアンの政治風刺画家スティーブン・ベル氏が訪れていたからだ。ブリティッシュ・カウンシルなどの英団体が英国と南アフリカの各5人の風刺画家をそれぞれの国に招待するプログラムを実施しており、20代後半から40代前半の南アフリカの若者たちが、このほど、英国の政治風刺画の「長老」からその仕事ぶりを聞く機会を持った。

 ガーランド氏は1935年生まれ。20年以上テレグラフ紙で働き、1986年、左派系のインディペンデント紙が創刊されたのと同時に、「新たな挑戦を求めて」、一時インディペンデントへ。数年働いた後、現在はテレグラフに戻ったという経歴を持つ。

 1960年代半ば、テレグラフで勤務を開始したときは、絵を描くことに興味はあっても、新聞の風刺画はどうあるべきか、何を描くのかなど、「完全に無知で、職場の仲間に一から教えてもらった」。

 ガーランド氏の一日は、「午前中は複数の新聞を読み、社内のあるいは社外の人と直接あるいは電話などで情報を交換し、実際に構想を練る方向に行くのは、午後になってから」。

 情報集めがガーランド氏の仕事の中でも非常に大きな役割を占めることは、1990年に出版されたインディペンデントに移るまでの1年間をつづった自著「ノット・メニー・デッド」でも詳細に語られている。この中で、ガーランド氏は社内外のジャーナリスト、秘書の女性、友人らに頻繁に電話をかけたり、コーヒー・カップを片手に話に熱中したりする。時には政権の行方をあるいはゴシップをネタにしながら、人物観察、論評で一日の大半を過ごす。

 こうしたおしゃべりや情報収集が風刺画を描く際の一種の助走として機能する、という。

 英国の高級紙(日本の朝刊紙にあたる)の政治風刺画は、論説面のトップとなる記事の上、あるいは隣の大きなスペースに登場する。時の政治家や政治の動きを容赦なく批判し、その新聞の「顔」としての役目も持つ。

 しかし、ある程度のベテランになると、新聞の特定の編集方針から独立して、自由に時事トピックを料理することが許されるようだ。

 デーリー・テレグラフは、保守党の「御用新聞」とも言われるほど、保守党に近いことで知られているが、ガーランド氏は「自分個人の政治的信条はどちらかというと左」。左派系のインディペンデントにいた時は、「自分の信条と新聞の政治スタンスとが似通っていたが、逆に刺激が少ないように思った」。

 現在は、保守党党首をネタにした批判的な風刺画を描くこともタブーとしていない。どの新聞に描いているか、という点よりも、「その時その時で、最も話題になっているトピックを選び、いかに痛快な風刺画が描けるか」を作業の起点にしている。このため、保守党支持の新聞で働きながらも時によっては保守党批判をする現在の仕事を、ある面では読者の期待を裏切る「知的な刺激として」楽しんでいる。

 何を描くかは「100%自分で決め」、描いた風刺画を編集長から拒絶されたことは「ほとんどない」そうだが、拒絶されない「奥のテクニックの一つ」として、午後8時の早版の締切時間の「ぎりぎりに出す」と述べ、聞いていた南アフリカの風刺画家たちは思わずにやりとする場面も。

 一方、ガーディアンの政治風刺画家ベル氏も「何を描くかは、編集長からの指示によるのではなくて、自分がすべて決める」。

 1981年からガーディアンで風刺画を描いているベル氏だが、一度だけ作品が没になったことがあった。1990年代初期、当時の英首相ジョン・メージャー氏を人の排泄物として描いた時だ。しかし、政治的に問題がある、とされたためでなく、「趣味が悪い」と見なされたためだった。

 ガーランド、ベル氏両者がやっかいなトピックの一つとしてあげたのは、中東和平問題だ。ベル氏によると、このトピックは「面倒なことが起きやすい」と事前に編集部内で警告を受けていたため、「積極的に描こうとするネタの一つにはなっていない」。しかし、一度このトピックを扱った風刺画が掲載された後で、「すぐにイスラエル側のロビー団体が飛びついた」という。

 「中東和平問題に関しての風刺画を描くと、必ずといっていいほど、まともな議論はどこかにいってしまう。イスラエルあるいはパレスチナのどちらかの団体から、『お前は嘘をついている』といった手紙やメールがどんどんくる。描く前に予想できてしまう」

 目玉をぎょろりとさせた元英首相サッチャー氏の似顔絵はベル氏の風刺画に登場するイメージの中でも最も知られたものの一つだ。時の保守党政権を徹底的に戯画化したベル氏は、ブレア首相(当時)の労働党政権をネタにする際も、その厳しい手を緩めることはない。

 一方、ガーランド氏は、戯画化されたイメージが国民の間ばかりか政府風刺画家自身の中でも定着した結果、実物とイメージのとのギャップに驚いた経験を持つ。

 「いかにも若々しい好青年という雰囲気のブレア氏が首相になったのは1997年だった。自分としては、『青年ブレア』というイメージでずっと筆を取ってきたが、最近テレビでじっくり見てみると、白髪が出てきて、疲れきった、年を取った中年の男性になっていた。一瞬、そのあまりの変りぶり、ギャップに胸をつかれた」と言う。「しかし白髪が入り混じった姿をそのまま描いても、ブレア氏に見えないのが難点だ」

 南アフリカの5人の風刺画家たちはガーディアンに活動のベースを置いて、2週間のプログラム期間中、ベル氏の仕事ぶりを見学し、国会、他の新聞社などを訪ねた。5人の中の1人でメール・アンド・ガーディアン紙の風刺画家ジョン・グラント・カーティス氏は「今回の訪英では技術的な面で多くを学んだ」と語った。英国と南アフリカを比較すると、「南アフリカの政治風刺画の歴史は浅く、さまざまな風刺画を楽しむ中産階級がまだ十分に育っていないのを残念に感じた」。

ー独立性は過去50年のこと

 英政治風刺画協会の創立者で風刺画の歴史を研究するティム・ベンソン氏によると、長い歴史の中で、ガーランド氏やベル氏のように風刺画家たちが自分たちの表現行為に大きな自由を持つようになったのは、50年ほど前のことに過ぎないという。

 1927年、ニュージーランド生まれの風刺画家デビッド・ロー氏がロンドンのイブニング・スタンダード紙に雇われた。ロー氏は、雇用契約書の中で、風刺画家としての自分に完全な表現の自由を保障することを明記させた。しかし、実質的にロー氏が大きな表現の自由を手にしたのは1953年にガーディアンに移ってからだった。

 ベンソン氏によれば、ガーランド氏やベル氏は表現の自由という観点からは「むしろ例外」で、現在でも編集方針をなぞる風刺画が期待される場合が多い、という。「半年前、タブロイド紙『サン』の風刺画家が辞職したのは、編集長に労働党支持という編集方針に沿った風刺画を描くように細かい注文があり、嫌気がさしたと言われているのが一例だ」

 また、かつてラジオやテレビがない時代、人々は新聞を読むことで何が起きているかを知ったので、新聞自体および新聞の政治風刺画の影響力は今と比べてはるかに大きかった。「現在はインターネットもあり、新聞の発行部数は落ち続けている。新聞のパワーは弱くなっており、それにつれて政治風刺画の影響力も落ちていると思う」

 1930年代、風刺画家ロー氏は、時の政府のヒットラー融和策を批判し、「この問題に人々の関心を集めることができた」。しかし、「政治風刺画が人々の意見を変えることができるとは思わない。残念だが」。

ー人気のバロメーター

 風刺画に描かれた方の政治家たちはどう受け止めているのだろうか。

 容姿を誇張して描く風刺画では、どんな人も格好良くは描かれない。しかし、元労働党副党首で入閣経験もあるロイ・ハタースリー氏は、風刺画は自分が推奨した政策が人々にどう評価されているかを判断する際に役立った、と述べている。

 ガーランド、ベル両氏の風刺画の「大ファン」というハタースリー氏は、2001年、左派系週刊誌「ニュー・ステーツマン」に寄稿した記事の中で、「自分の口元の左下にあるいぼが異様に大きく、醜いほどに太った体型で描かれていたら、自分の政策が国民に人気がないのだな、と判断し、いぼが消え、体も太っては いるが醜くはないように描かれていたら、政策が好まれているのだなと解釈できた」とし、風刺画は一種のバロメーターだったと述べている。

(日刊ベリタ・アーカイブより)

http://www.nikkanberita.com/read.cgi?id=200412211859262

「日刊ベリタ」アーカイブから 「英語を学ぶことは、米英人になることではない」 在英学者が警告

10.05.19 by   カテゴリー: 世界の窓, 文化

(「日刊ベリタ」の過去記事の再掲載です。)

「生の英語」に触れる機会を学校教育の現場で作ろうと、英語を母語とする国々から、多くの英語教師が日本に招かれてきた。その大部分が米国、英国、オーストラリアなどだ。このとき、英語を母語としない学習者は、知らず知らずのうちに米国人、あるいは英国人の文化、ものの見方や考え方を「唯一の正当なもの」「優位性のあるもの」として教えられているのではないかー。在英の英語学者が警鐘を鳴らしている。

 バースカラン・ナイヤー博士は、英国中部のリンカン大学で、英語教師になる英米人に英語言語コミュニケーション論を教えている(注:現在は退職)。博士はマルチリンガルで、英語を含め8ヶ国語を話す。ミャンマーで生まれ、インド、インドネシア、エチオピアなどに住み、現在は英国在住。英国国籍を持つ。英語を使ってのコミュニケーションに関し、社会言語学的立場からの研究を続けており、近く1冊の本にまとめる予定という。ナイヤー博士に、ロンドン市内でその持論の詳細を聞いた。

―ミャンマー生まれというと、英語は母語ではないということか。

 そうだ。私にとっては実用のために使う言葉だ。常時使っているので、私にとっては、最も流ちょうに使える言葉だ。

―例えばアメリカ人の英語教師が英語をつまり母語を教えるとき、自分の文化がベースになると思うが、これの何が問題なのか。

 青山学院大学の本名信行教授も指摘しているが、英語はもともとアメリカ人やイギリス人のものだったかもしれないが、今は国際語となった。それなのに、例えばアメリカ人の教師は、アメリカのイデオロギー、アメリカの哲学、文化をベースに教える。これはフェアではない。

 例えば、アメリカ人の先生が日本で英語を教えるとき、言語を話すだけではなくて、アメリカ人の心を日本人の生徒に教え込もうとする。

 英語圏の文化が、英語を教えるという過程を通して、世界をイデオロギー上制覇している点が問題だ。教師が英語を教えるとき、文化も一緒に教えている。すると、例えば私やあなたのようなアジア出身の人間は、なんて英米人はすばらしいのか、私たちは劣っているのかと思うようになる。どうして、英語を話して、かつ日本人であり続けることができないのか?どうしてアメリカ人のように話すことを目標とするのか?

―日本人はアメリカ文化を押し付けられているわけではなく、自分の方から進んでアメリカ文化を学びたいと思っている部分もあるのでは?その頂点として、アメリカ人のように話すということも入るのでは?

 公に押し付けられているのでなく、こっそりと押し付けられているのだと思う。でなかったら、どうして、アメリカ人になりたいと思うのだろう?

―日本がアメリカに占領されていたことと関係あるだろうか?

 そうではないと思う。日本人がアメリカ人の方が優れていると思いがちなのは、英語の教えられ方にもよると思う。英語を教える中で、次第に、英語を話す人へのあこがれの感情も植え付けられている。

―英米人を教えているとき、無意識なごうまんさを相手から感じることがあるか?

 ある。おおいにある。私の観察では、アメリカ人は自分たちがすばらしい国民だと信じている。これと比べて、いくつかのアジアの国では、人々は自分たちは大したことがないと、へりくだるのがいいとする伝統がある。だから支配されやすいのだと思う。

 イギリスが現在のマレーシアやインドを占領したとき、現地の人々の考え方を変えてしまったと思う。英語を話せるということは、その人自身が優れている存在なのだと受け取られるようになった。

―博士自身は、英語を話さなければならない状況をどう感じて幼少から青年期を過ごしたのか。

 英語を話せなければ、何も達成できないという考えの中で育った。それも、ただ英語が話せればいいというものではない。イギリスできちんと教育を受けた人々が話すいい英語が話せなければならない、と。

―そうした状況はフェアではないと思っていたか?

 もちろん、アンフェアだ。例えばお金がないと生きていけないが、誰かが私に、お金をくれるといって、それを受け取る代わりに、そのお金をどう使うかは、私にお金をくれた人が全部決めるといったような状況だった。

―しかし、英語はすでに国際語。英米人など特定の人々の所有物だと考えるほうがおかしいのでは?

 それが私のいいたいことだが、英米人は英語は自分たちのものだと思っているのが事実だ。そして、英語が自分の所有物だと他の人々に信じ込ませようとしている。英語は一体誰のものか?特定の誰かに所属しないものだと私は思う。英語教育は今や大きなビジネス。英米人が自分の所有権を主張すれば、自分たちの利益にかなう。どうやって覇権を保つのか?それは、「まだまだ、あなたの英語は完全ではない」と言えばいい。

―世界を英語で制覇しようと、果たして英米人が思っているだろうか?

 そう思う。軍隊だけで世界を制覇することは、もはやできないのだから。特に国際会議でそうした思いが如実に表れる。英語が会議の言語の場合、英語を母語としない学者は、母語の学者に圧倒される。私が全国語学教育学会(JALT)の会議に出るために1991年日本を訪ねたとき、私の見る限り、日本人の出席者は何かに怯えているようで、静かだった。討論は欧米人に牛耳られていた。今だって、こうして日本人のあなたと英語で話していて、私は簡単にあなたを英語力で打ち負かすことができると思うーもし意地悪をしたければだが。私の英語の方があなたの英語より「よい」、「上手」であることを、あなたに証明できれば、勝てる。

―「よい」英語とはどういう意味か?どのように定義するのか?

 それは難しい。

―英語を母語とする人は、流ちょうさでは上を行くかもしれないが、議論そのものに常に勝つとは思えない。言語の流暢さ以外に様々な要素が影響するのでは?

 しかし、言葉はアイデアを伝える手段だ。アイデアを形作るためにも使う。英語で話すということは英語的考えで話しているということだ。英語の言語機能がものの考え方、議論の進め方に大きな影響を及ぼす。したがって、英語が母語の者かそれに近い者が勝つ。

 また、「考え方」で、英米の教師が使うトリックがある。「クリティカル・シンキング」(批判的思考―ものごとをうのみにせず、自分の頭で、しかも、きちんしたやり方で考えること)という言葉だ。日本でも、英語を使えばクリティカル・シンキングができるが、日本語ではできない、日本語では、そもそもそういう考え方がない、という言い方をよく聞きはしないだろうか。英語で考えないと、批判的考え方ができないなんてーこれこそ、ばかげている。世界中どこでも、批判的考え方を人々はしている。違いは、言葉の定義の仕方だけだ。

―英語が母語でない人は、どうやって英語を学ぶべきか?

 ネイティブスピーカーにはなれないことを知って欲しい。また、英語は話せても、それ自体が英米人になることではないということをしっかり肝に銘じるべきだ。

―それは周知になっているのでは?

 それなら、なぜイギリスやアメリカから英語の教師を日本に呼ぶのか?日本人の英語の先生でいいではないか。ネイティブの先生の方がいいという考えがあるからだろう。英語を学ぶならネイティブの先生がいいとい考えがある。これはこれだが、私が反対するのは、完璧な英語を話すには、英米人のようにならないといけないという考えだ。

 アメリカ人の英語の先生は、生徒に、自分の意見を言うことを尊重する。しかし、これは国によっては、その国と文化と合致しない。例えば、アメリカ人はよく、日本の女性が自立するべきだという。しかし、これは日本人が決めることだ。英語のテキストで、日本的感覚からすれば、自己主張の強すぎる女性が理想的に描かれていたらどうなるだろう。そういう姿が、「あるべき姿」として生徒の心に植えつけられる。

 日本で教える英語の先生は、日本人の生徒に、「先生の目を見なさい」という。しかし、日本ではこれは文化にしっくりこない。相手の目を見るのは、敵意ととられることもある。日本人は間違いをおかすと、「アイム・ソーリー」と言ってしまう。これは別に謝罪しているわけではない。しかし、英米人の先生は、「謝罪する必要はない。堂々としなさい」という。日本文化を乱している典型的例だ。

―博士自身が英米人の教師希望者に教えるとき、留意する点は?

 世界の異なる文化を紹介するようにしている。アメリカ人の教師の大部分が、世界はアメリカの拡大版だと思っている。アメリカの価値観を教えることで、生徒をよい人間にしたと心の底から思っている。影に隠れた優位主義、自分が世界の中で一番重要だと思う心理―これが英語教育を通じて教えられている。

 日本では、日本人自身がアメリカ人のように英語を話したいと思っているのだとしたら、アメリカのイデオロギー戦略が成功した例だと思う。英米人の先生が、世界制覇の工作員だと言っているわけではない。しかし、英語を教えるという過程の中で、自動的に、英米のものの考え方、価値観、文化、行動形態、話し方が正しいものであるという考えを広めている。

―日本の中学、高校で行われている英語の「ティーム・ティーチング」をどう思うか。英語を母語とする主に英米人の先生と日本の英語の先生とが同時に授業を受け持つシステムだが。

 日本の先生は不安定な気持ちで授業にのぞんでいるのではと思う。英語のネイティブ・スピーカーがいなければ、授業がなりたたない、教えられないというメッセージを生徒に伝える。英語が流ちょうであることと英語教授の良し悪しが混同して理解されるだろう。二人の先生の間に個人的に親しい関係をもてればうまくいくのかもしれないが。

【取材を終えて】英国の旧植民地に生まれ、英語を学ばないと生きていけなかったという体験に基づいた話だった。英語は国際語という認識は、様々な国から来た人々が多いロンドン近辺に住むようになってからは、実感となった。しかし、母語の言語の流ちょうさのみで議論に勝てるというくだりには、疑念を抱かざるを得ない。

 ただし、ロンドンに住む外国人ジャーナリストたちの話を聞いてみると、言語の流ちょうさが不足していたり、あるいは自信のなさ、または発音に訛りがある場合、こうした点がマイナス要因になるという現実が浮かび上がった。

 スペインの経済紙「エクスパンシオン」のロンドン支局長のコンスエロ・コーラさんは、「変な英語を話すのではという懸念から、記者会見場で質問を控えたことがある」と語り、在英20年のインド人ジャーナリストであるマーサル・ラケシュ氏は「BBCなどで英国人が混じった討論会などに出席すると、自分のインド訛りのために、ハンディを感じたことが多々ある」「聴衆も他のパネリストたちも、訛りのない発音で話す、英語が母語のパネリストたちの意見を重要視し、こちらの意見を軽んじる傾向があって、落胆した」と述べている。

(日刊ベリタより)

http://www.nikkanberita.com/read.cgi?id=200408261131214

元エネルギー相が英労働党党首選に立候補表明 ー「ニューレーバー」の次は何か?

 5月6日に行われた英国の総選挙で負けた労働党。敗因をどのように分析し、これからどうやって保守・自由民主党連立政権に対抗しようというのだろう?

 おそらく、まだ確固とした戦略はまとまっていないだろう。それでも、一体どんな思いで敗退を受け止めているのだろう?感触を知るために、15日、労働党のシンクタンク「フェビアン協会」の集まりに行ってみた。最初のスピーカーが、元エネルギー・気候変動担当相のエド・ミリバンド氏(写真の右。左は兄のデービッド)。今年9月に予定されている、労働党党首選への立候補表明の場に遭遇することになった。

 当日の朝の時点で、ミリバンド氏が立候補の意志を表明すると第1報が出ていたので、舞台に出てきた段階で、「いつ表明宣言をするかな?」と期待をこめた熱い視線が注がれていたようだ。30分以上、まったくメモなどの助けを使わず、一人で話した同氏の話に何だか引き込まれてしまい、こちらのメモを取る作業が止まってしまった。

 彼なりの労働党敗因の理由は、「有権者との接点を失ってしまったこと」。政権を担当した労働党は「官僚的になってしまった」。移民問題や税制の面で人々が不公平感を感じていても、これに対応できなかった。「人々のニーズにばかり注目し、人々が社会に何を貢献できるかを議論にしなかった」。また、国家と国民の自由の観点からは、「あまりにもカジュアル過ぎた」(国民IDカードの発行の奨励など)。「あまりにも中央集権過ぎた」。

 これからは「市場とどうやってつきあうか、国家はどうあるべきか」を考えていくべきー「政治のやり方も変えなければならない」(選挙方法の変更の示唆)と述べる中で、「イラク戦争で労働党は信頼を大きく失った」「下院議員の灰色経費請求問題でも信頼を失った」と発言。

 「イラク戦争で労働党は信頼を大きく失った」という箇所で、思わず、はっとしてしまった。与党時代、労働党の幹部・政権担当幹部は常にイラク戦争を支持・誉めることしかしなかった。なかなか思い切ってこの事実を認められなかった。

 ミリバンド氏はまた、労働組合の重要性を認めながらも、「環境団体、地域の団体とつながることは大いに重要」として、これまでの労働党とはやや違うニュアンスをにじませた。

 同氏が労働党に入ったのは17歳の時だったそうだ。「現状に不満を言っているだけではだめだと思ったから」。「信頼と楽観主義」をモットーとして挙げ、キング牧師にも言及した。

 毎晩、寝る前に、「労働者階級のために生活をよくしたかどうか」を考えるという。(本当かな?とちらっと思ったがー。)

 兄の元外相デービッド・ミリバンド氏が既に党首選に立候補すると表明している。弟のエド・ミリバンド氏は、兄弟間での「取引はない」と述べた。これは、前に、ブレア・ブラウン両労働党首・元首相らが、野党時代、もし政権を担当したら、「ブレアが先に、次にブラウンがなる」と両者間で「取引をした」という通説があるからだ。

 演説の後で兄との違いは何か?と聞かれ、「エンバシー」(共感)と答えている。

 兄弟の父親はベルギー出身のマルクス主義理論家・政治学者であるラルフ・ミリバンド氏(1994年死去)である。

 私はエド・ミリバンド氏の話を新鮮に感じた。今、労働党は将来の方向性を模索中だと思うけれども、これまでとは違う、新たな方向性になろう。つまり、ブレア・ブラウンが登場する前の、①労働組合に大きく依存した、労働者階級の政党としての労働党(連帯を重要視する、社会の不公平を減少させる、国家が大きな役目を果たす)ではなく、②ブレア・ブラウンのニューレーバー(社会の不公平感の減少や政府の役目は重要視しながらも、市場経済の原理を受け入れる)でもない、新しいコンセプトが出てくるはずだ。

 新しいコンセプトが出る前に、まず現状を分析することが肝要になろう。その意味で、エド・ミリバンド氏がニューレーバー批判を思い切って行ったのが新鮮だった。

 ブレア・ブラウンの2大巨頭の政治家が現役でいた時には、なかなか「次」が出てこなかった。イラク戦争で信頼感がくずれたことを認め、金融サービス業への規制には「及び腰」であったこともミリバンド氏は演説の中で認めた。政権を担当していると、これを維持しようというプレッシャーがあって、「税制の不公平感を取り除けず、移民問題をまともに議論できない」政党になり、国民との接点を失ってしまったのだという。

 演説の終わりには、会場内で多くの人が立ち上がり、拍手をしていた。

 それにしても、なぜもっと早く、エドにしろデービッドにしろ、立候補して、労働党を新たな方向に引っ張っていけなかったのか?1997年の政権奪回までに、18年の野党生活を送ったことがネックになって、なかなか思い切った改革ができないでいたのだろうか?

 現在は、状況がすっかり変わってしまった。何しろ、銀行・金融サービス業に「もっと規制を」という声が高いのだ。移民問題も、以前にも増して、特に2004年以降の東欧諸国からの移民流入以降、否定的な声が国民の間で強くなっている。EUからの移民の数はそれほど多くないと発表したり、「英国人の仕事が奪われているわけではない」とどれほど政府が言っても、不満感は消えなかった。

 エド・ミリバンド氏は40歳。兄のデービッドは44歳だ。今のところ、兄の方が支持率が高いようだが、弟のエドはエネルギー・気候変動相として、昨年のコペンハーゲン気候変動会議で奔走した。もまれて、随分と成長したなという感がある。デービッドはブラウン元首相に近く、エドはブラウン元首相に近かったそうである。どちらが勝つのか、あるいは他の候補者になるのか(元教育相のエド・ボールズ氏、労働組合からの支持が高いとされるジョン・クルーダス氏などが立候補を考慮中と言われている)は分からないが、新しいアイデアが決め手になるのではないか。ボールズ氏やクルーダス氏はどうにも新しい感じがしない。元保険相のアンディ・バーナム氏は若さの面ではよいのだが、党首になるほどの支持があるかどうか。

 ポスト・ニューレーバー時代の新しいアイデアの創出には時間がかかるかもしれない。果たして、ニューレーバーの次はなんと呼ばれるのだろう?16日「オブザーバー」紙インタビューの中で、デービッド・ミリバンド氏は「ネクスト・レーバー」と表現しているが。

(「英国メディア・ウオッチ」より)

難民と共にネイルビジネスを起業 「自立支援と美のサービスを」と岩瀬香奈子さん

10.05.16 by   カテゴリー: 日々の出来事

  株式会社アルーシャの代表を務める岩瀬香奈子さんは、5月15日(土)から都内の事務書所で、“難民”によるネイルケアサービスをスタートさせる。なかなか仕事が見つからず、厳しい生活を強いられている難民の方々にネイルケアの技術を身につけてもらい、安定した雇用に結びつけようという試みだ。いわゆる“社会起業家”である。そんな岩瀬さん(写真右)に、難民と共に起ち上げるネイルビジネスについて、現状と展望をお聞きした。(*15日のサービススタート開始直前、「日刊ベリタ」掲載記事より)

ー難民の置かれている現状は、想像を超えていた

 「学生時代からボランティアや国際貢献には興味がありました。でも、昨年起業するまでは、企業に勤めてコンサルタントの仕事をしていたんです。まさか自分が、難民の方々とネイルビジネスを起ち上げることになるなんて、考えてもいませんでした。だって今年の2月までは、難民にお会いしたことも、お話ししたこともなかったんですから」
と言って、岩瀬さんは笑う。

  キッカケは、昨年の11月に難民支援自立ネットワーク(REN)理事、石谷尚子さんと出会ったことだった。

 「石谷さんは、難民の方々にビーズアクセサリーの作り方を教えて、それを販売して彼らの収入に充てようと尽力されていました。でも、なかなか販売チャネルが見つからず頭を悩ませておられたのです。そこで私が、より需要の高い『ネイルケアの技術を教えたらいかがですか?』と提案したところ、『岩瀬さん教えてあげてくれないかしら……』ということになって(笑)」

 戸惑いがなかったと言えばウソになる。しかし、難民についての勉強を進めていくうちに、彼らが置かれている過酷な状況に衝撃を受けた。

「私が想像していた以上でしたね。皆さん生きるか死ぬかの瀬戸際で……。目の前で両親を殺された人や、やっとの思いで日本にたどり着いても、家を追い出されて転々とした経験を持つ方がたくさんいて。そんな状況を知るにつれ、『ぜひこの取り組みを事業化させたい』と思うようになったんです」

 それが昨年12月のこと。この時点ですでに岩瀬さんは会社を退職し、独立してコンサルタント業務を請け負っていたが、その仕事もセーブしてネイル事業に力を入れ始めた。

ー安定した仕事を捨て、ネイルビジネスに本腰

 難民の方々に教えるためには、「まず自分自身が技術を身につけなくては」と、昨年12月からネイルスクールに通い、知識と技術を身につけた。
と同時に、難民支援団体を通じて「ネイル研修への参加」を難民たちに呼びかけたところ、わずか数週間で20人超の希望者が集まった。研修への参加費用は、すべて無料だ。

 「毎日5時間、3週間行われる研修に休みなく参加できること」という条件をクリアできる方はすべて受け入れ、2月中旬から生徒18人で研修をスタートさせた。
参加者の国籍はさまざまで、ミャンマー(ビルマ)、タイをはじめ、アンゴラ、コンゴ、カメルーン、イランなど7~8ヶ国にのぼる。日本での滞在が10年を超える方も多いため、基本的なコミュニケーションは問題ないのだが、やはり細かいニュアンスを伝えるときには言葉の壁を感じることもある

 イギリスへの留学経験を持つ岩瀬さんは、ときには英語を交えて説明するが、それでも伝わらないときは、生徒の誰かがフランス語やビルマ語などに訳して伝えてくれると言う。

「まるで伝言ゲームみたいで面白いですよ。協力し合いながら仲良くやってくれています」

 ケガで参加できなくなったひとりをのぞき、途中で研修を辞めた者はいない。皆、自宅に帰ってからも練習を続けるほどの熱心さだ。

 4月からは、ボランティアに呼びかけて練習台になってもらい、ネイルケアやカラーリングの実践を始めた。

 施術を受けたボランティアからは、「日本語でのコミュニケーション力をもっと上げるべき」「ネイル技術がまだまだ低い」といった厳しい意見が寄せられることもあるが、おおむね「心がこもっていて良かった」「満足できた」といった良好な感想が多い。

 じつは、私自身もネイルケアをしてもらったのだが、多少のぎこちなさは残るもののハンドマッサージはピカイチ。街のネイルサロンで施術を受けるよりも癒された。

ー自立と誇りの獲得を目指し、5月からサービススタート!

 「早く皆に一人前になってもらわないと、私が破産してしまいます」と、笑う岩瀬さんだが、いよいよ5月15日(土)から本格的にサービスを開始する。

 17人の生徒のなかから、とくに技術力の高い3人がプロとしてデビューすることになったのだ。

 そのうちのひとりで、18年前にミャンマーから逃れてきたナンさんは、「今まで仕事が安定しなかったから、早くネイリストとして自立したい。そのために、がんばって技術を磨いています。ビルマでは美容師をしていたので、この仕事は私にピッタリ」と表情をほころばせていた。

 ネイルカラーやジェルネイルのサービス価格は、両手10本で一万円前後が相場だ。

 しかし、「少しでも多くの方に知っていただきたい」という岩瀬さんの思いから、半額以下の3,150円でスタートする予定だ。

 しばらくは、事務所や集会所で施術を行うが、大手企業への出張ネイルサービスや、ネイルサロンの出店まで視野に入れて活動を進める。

 「目標は、全員がプロのネイルアーティストとして自立すること。日本で生きる誇りを持ってもらうこと」難民と共に起ち上げるネイルビジネスへの意気込みを、岩瀬さんはそう語る。

 社会貢献とビジネスの両立は簡単ではないが、世の中のニーズとうまくマッチングできれば可能性は広がる。

 ネイルケアを受けることで、自分も美しくなると同時に社会貢献にもつながるこのサービスならば「ぜいたくはできないわ……」と躊躇していた主婦層でも、大手をふって利用できるのではないだろうか。

≪サービスの内容と予約の方法はコチラをご覧ください≫
http://arusha.co.jp/nail/menu

日刊ベリタより

http://www.nikkanberita.com/read.cgi?id=201005081130576

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