「記者体験プログラム」遅めの振り返り~「分かっている」と「できる」の差異

10.08.31 by   カテゴリー: ニュースあれこれ, メディア

 8月6日から8日までの2泊3日、東京・代々木のオリンピック記念青少年総合センターで行われたスイッチオン・プロジェクト「記者体験プログラム」に、参加学生・大学院生の模擬取材をサポートするデスク役として参加しました。日がたってしまいましたが、参加して感じたことなどを書き留めておきます。

 プログラムは、8月6日午前にスタート。参加学生には取材や記事の書き方のワークショップがあり、6日夜、わたしたちデスク役が合流しました。参加学生は50人余。2~3人ずつ22班に分かれ、各班にデスク役1人がつきました。デスク陣の顔触れは、全国紙・ブロック紙・地方紙・通信社の新聞分野が過半数を占めましたが、ほかにも専門紙、広告、出版、研究者と多彩で、実務経験10年以内の若手や女性も目立ちました。初日夜は各班で顔合わせと翌日の模擬取材に備えて打ち合わせ。翌7日は午前9時~正午まで模擬取材。昼食を挟んで再取材、記事構成、3日午前に各班発表と進みました。

 模擬取材は、会場のオリンピックセンターを架空の「代々木県折船(おりせん)村」に見立て、学生たちが村人役のアクター10人を取材していく、という設定でした。学生たちは某全国紙の代々木県の支局の新人記者、わたしたちはその支局のデスクという想定です。各班に事前に知らされていたのは、1本の前触れ記事のみ。折船村の青年部が、町おこしのために村に伝わる「落ち武者伝説」をモチーフにつくった創作舞踊を夏祭りで披露する、という内容で、支局の先輩記者が1カ月前に出稿。学生たちはその夏祭り前日に折船村に取材に来た、という設定でした。村で何が起きているのかを探り、どんな記事に仕立てるか、が各班の課題です。

 アクターに取材するのは学生だけで、わたしたちデスク役は現場に顔を出してはいけないルール。村人は村役場の地域振興課長や青年部の部長、婦人会の会長、スナックのママ、怪しい記事満載のタウン・ペーパー発行人、就職内定先が倒産し東京から戻った村出身の女性、コンサルティング業者、地域開発に詳しい大学教授などなど。村人それぞれの方がどんな考えを持っていて、どんな行動を取っているのか、デスクは学生の取材を通じてしか分からない仕組みになっていました。

 模擬取材の現場で何が起きていたかについては、プログラムディレクターの藤代裕之さんが自身のブログ「ガ島通信」に書いているエントリーを紹介します。わたしも「へえ、そうだったのか」と思う内容ばかりですが、藤代さん自身も「ここで紹介したもの起きていることの一部、私が切り取ったものに過ぎません」と書いています。アクターの皆さんには、初期設定を崩さない範囲で自由意思で動く裁量がありました。アクター10人の間で何が起きているのか、だれも全容は分からない仕組みでした。

 ※ガ島通信「記者体験プログラム2010『模擬取材で起きたメディアスクラム、決め付け…』」

http://d.hatena.ne.jp/gatonews/20100810/1281374698

 わたしの班では前夜の打ち合わせで、取材で得た情報から次に取材すべき人を決めることを指示していました。「人」から「人」へ情報をつないでいき、何が起きているのかを探っていく、そういう取材を多少なりとも体験させてあげたいとの考えからでしたが、実際にはそううまくは進みませんでした。

 取材は村役場の地域振興課長からスタートし、次は居場所が分かった青年部長へ、というところまでは事前の予測通りでしたが、青年部長から思うように話が聞けなかった辺りから早くも取材は迷走気味。途中、デスクと学生の相談や指示は電話で行うか、学生をいったん呼び戻して行うルールでしたが、取材を進めながら方針を確認していく余裕もなく、予定の3時間はあっという間に終わりました。学生たちと合流して昼食を取りながら、取材した内容を皆で確認して「このままでは記事は難しいなあ」とため息交じり。結局、午後の再取材で、東京からUターンした女性が著名アーチストを村に呼ぶ文化イベントを開く(実は後で分かるのですが、女性はイベントを開こうとはしていたのですが、予算その他で実現性はかなり厳しいとのことでした)、との話を記事化することにしました。

 各班の記事構成作業に入る前に、アクターとして協力していただいた方から感想などの話があり、わたしたちデスクも聞くことができました。その中で、「駒東大学山口教授」こと駒沢大学グローバル・メディア・スタディーズ学部准教授の山口浩さんが、取材中にメモを取らない学生が目立つこと、質問に返って来た答えを聞いてその中から次の質問をすることができていないこと、などを指摘されました。わたしの班では、その後の記事構成作業の中で取材メモに残したやり取りのQ&Aをポストイットに書き出す作業をしましたが、学生たちには「こういう内容のことを話していた」との記憶があるのに、だれのメモにも残っていない、ということがありました。答えを聞いて次の質問をする、ということについても、他班の学生たちが入り混じっての取材が多かったこともあるのだと思いますが、やり取りを追うのに必死で、次の質問を考える余裕はなかなかなかったようです。

 前夜の打ち合わせでは、目の前にいる取材相手が話す内容には、その人が実際に体験したこと、人から伝聞として聞いたこと、根拠のあいまいなただの憶測が入り混じっており、それらをその都度、峻別しながら取材を進めることが大事だと話していました。取材に際して仮説を持つことは大事だが、それにとらわれないことも大事だとも話していました。学生たちが、仮に今回のプログラムに参加した成果として「分かっている」ことと「できる」ことの違いの大きさを身をもって実感し、そのことを今も意識できているのだとすれば、デスク役としてはささやかな喜びです。

 デスク役としては、何が何だか分からないままに時間が過ぎていました。わたしはリアルの仕事でも8年のデスク実務経験があり、支局デスクも経験しました。記者が現場に出ているとき、デスクは基本的には待っているしかありません。限られた特定の現場に何社ものマスメディアの取材が集中する、そういう取材の経験もあり、どこの記者も似たような取材をしていたはずなのに、翌日の紙面では他紙に大きな差をつけられた、という切ない経験もありました。デスクはある意味、孤独な役どころなのですが、この模擬取材のデスク役という役割は、その孤独さがうんとデフォルメされていたように思います。

 今回の模擬取材では圧迫的な取材、決め付け取材もあったと、アクターの方からお話がありました。この点については、なぜそういう事態が起きたのか、デスク役の皆さんの間でもメーリングリストでその後もいろいろな意見がありました。現場に立ち会っていたわけではないので基本的に推測に過ぎないのですが、わたしは、人間としての「素」の表れではないかと考えています。22ものチームが入り乱れての、もしかしたら「勝った負けた」のゲーム感覚もあったかもしれない中での模擬取材でした。知らず知らずのうちに、頭が熱くなり、前のめりになったのかもしれません。

 だからこそ、なのですが、ジャーナリストの社会的職能の確立の必要性を感じています。この「素」は現役の新聞記者にもだれしも(わたしにも)あるでしょう。それをどう自制するか、自制できるかはプロフェッショナルとしてのスキルの一つのはずですし、そのスキルを身に着けるにはトレーニングが必要です。メディア・スクラムも最近ではマスメディアの側の対応が進んではいますが、問題として終わっているわけではありません。現状では、日本の新聞記者は新聞社の社員教育の中で育ちます。取材現場での激しい競争状態が、記者の企業への帰属意識を過剰に表出させてしまう恐れは、現に今も残っているのではないかと思います。メディア・スクラムに限った話でもなく、記者会見の開放や記者クラブ改革の問題などにも要因としては共通しているでしょう。ここでも「分かっている」ことと「できる」ことの差異が問われるのだと思います。それを乗り越えるには、所属組織・分野の違いを越えて、ジャーナリストとしてのありようを普遍的に考え、論じ、実践する場が必要です。わたし自身がスイッチオン・プロジェクトに期待していることの一つは、ジャーナリストのスキル面での、まさにその「場」としての機能です。

 前述の駒沢大の山口先生が「駒東大学の山口教授」について、自身のブログに書かれています。ここまで準備して臨んでいただいていたのかと、本当に頭が下がる思いです。当日は皆さんに十分にごあいさつもできませんでしたが、山口先生をはじめ、時間を割いて参加していただいたアクターの皆さんには、あらためてお礼を申し上げます。ありがとうございました。

※H-Yamaguchi.net「『駒東大学山口教授』が伝えたかったこと」

http://www.h-yamaguchi.net/2010/08/post-d54a.html

【追記】2010年8月31日午前2時

 アクターで参加いただいた、くりおねさんも、ご自身のブログに書かれています。トラックバックもいただきました。ありがとうございます。

※くりおね あくえりあむ「スイッチオンプロジェクト『記者体験プログラム』に取材を受ける村人役として参加した」

http://clione.cocolog-nifty.com/clione/2010/08/switch-on-2010.html

「ニュースワーカー2」ブログより

かつて山村は都市のエネルギー基地だった 45年ぶりに訪ねた挙家離村の村 

10.08.30 by   カテゴリー: 日々の出来事, 日本, 環境

 前に訪れたのは確か1965年だったから、45年ぶりの訪問ということになる。島根県弥栄村(現浜田市弥栄地区)、日本で一番早く挙家離村が始まった村といわれている。 
 
 挙家離村とは、家を捨て一家で村を離れる現象をいう。日本では農家が村を離れるのは、出稼ぎに出る世帯主だったり、都会で仕事を得て出て行く息子や娘だったりというのが一般的で、一家で出て行くというのは、よほどのことがない限りなかった。よほどのこととは、たとえば借金でどうにもならなくなって夜逃げをするといったことである。 
 
 つまり、一家で村を出て行くというのは、通常ありあえないことだったのだ。高度経済成長が始まった1960年代、主として山村でその現象が始まった。口火を切ったのは中国山地であった。なかでも弥栄村は早かった。挙家離村のきっかけは、「38(サンパチ)豪雪」といわれる昭和38年(1963年)に全国を襲った豪雪だった。 
 
ー臨海工業地帯の「裏山」
 
 中国山地ももちろん雪は多いが、東北や北陸の豪雪地帯とは違い、数メートルの雪で閉じ込められるということはほとんどなかった。この年襲った豪雪はけたはずれで、孤立して身動きできなくなる村が続出した。 
 
 だが、雪は村を捨てるきっかけ、あるいは口実に過ぎなかった。折から日本は高度経済成長に時代に入り、都市の膨張工業生産の拡大が始まっていた。特に中国山地を背後に控える瀬戸内海沿岸は、次々と臨海部に石油コンビナートや鉄鋼、造船などの産業が立地、膨大な雇用が生まれた。60年代半ば、中国山地を歩くと、“人買いバス”という言葉をたびたび聞かされた。朝まだ暗いうちにマイクロバスが集落までやってきて、村に人を次々吸い込み、臨海部の工場地帯に運んで行く。その光景を村の視点で表現した言葉だ。 
 
 島根県西部の広島県境の山村、弥栄村はいまでこそ浜田市や広島県側とトンネルでつながり、時間的にも距離的にも近くなったが、当時は曲がりくねり、のぼりとくだりが交互に現れる未舗装の道路を、時間をかけて道中した。25年前、そのバスを終点で降りて、行き当たりばったりに歩いた。どんどん歩くのだが、人に出会わない。無人とおぼしき家を横目でとらえ、立ち止まって写真をとりながら、どんどん歩いた。 
 
ー戸数は四分の一に 
 
 弥栄村小角地区。25年後の村に若者たちの声が響いていた。高齢で耕せなくなった農家の田んぼを、浜田市にある島根県立大学の学生たちがやってきて耕しているのだ。 
 
 だが、にぎわいはその一瞬だけ。まつりが終われば、もとに戻る。小角にはかつては43戸が住んでいた。それがいまは13戸と四分の一近くまで減っている。地区は3つの組で構成されているが、そのうちのひとつはそのうち人がいなくなるので、2組になってしまう、と村の世話役さんが話してくれた。

 家が減ったばかりでなく、田んぼもほぼ三分の一になっている。昔からおいしいコメがとれるといわれていたところなのだが、それでも残らなかった。段々の田んぼの上に家があり、その家のやや上に無人となったお寺と神社、その上が牛に食わせ、田んぼに入れる草を刈る草場があった。かつてはどの家も牛を一頭か二頭飼っていた。草場の上にある雑木林は炭や薪、家の修理や改築に使う材をとる林があった。 
 
 いま、かつての草場と耕作をやめた田んぼには杉が植えられ、黒々とした林に成長している。 
 
 先に、山村の挙家離村の背景に経済の高度成長があったと述べたが、それだけではなくもうひとつの理由もあった。山仕事がなりたたなくなったことだ。プロパンガスや都市ガス、石油ストーブの普及で木炭や薪が家庭から消えた。 
 
 かつて山村は農産物や林産物の生産の場であると同時にエネルギー基地だった。特に中国山地は木炭の生産地として知られ、弥栄で焼かれた木炭は浜田港から船で積み出し、神奈川県まで運ばれていた。もうひとつ、弥栄の特産があった。コルクである。アベマキという木の樹皮がコルクの原料となる。かつては浜田市に加工工場があり、農家は夏の仕事として樹皮をはぎ、工場へ運んだ。いまも山にはアベマキは散在しているが、加工工場はつぶれ、樹皮をはぐ技術も廃れた。

(日刊ベリタ) 

英王室とメディア① 「国民の心の中に生きたい」とビクトリア女王

10.08.29 by   カテゴリー: メディア, 世界の窓

ダイアナ元英皇太子妃が、パリで自動車事故で亡くなった日、8月31日がまたやってくる。ダイアナ元妃はパパラッチの一群に追われながら、市内のトンネルの中で事故に遭遇した。実弟のスペンサー伯爵はかつて、元妃を「世界で最もメディアに追いかけられた人物」と評した。今でも王室の記事を載せれば新聞は良く売れるといわれる。王室とメディアの長年の歴史を振り返りながら、持ちつ持たれつの関係に注目してみた。

ービクトリア女王「国民の心の中に生きたい」

1837年、18歳で即位したビクトリア女王は、ダイアナ元妃をほうふつとさせる、国民のアイドル的存在だった。肖像写真の普及や印刷技術の発展で、物理的、社会階層的に隔たりがあっても、国民が王室を身近な存在として受け止めることが可能になった。

国民の女王への思いは、一方通行だったわけではない。42年、女王は暴漢に襲われそうになり、警察がピストルで女王を撃とうとした若い男性をあやういところで止めた事件があった。攻撃から無事逃れた女王に国内中から手紙が寄せられた。女王は、手紙の1つに、「国民の心の中に生きるのが私の望みです」と書いていた。

即位と同時期には、「イラストレーテッド・ロンドン・ニュース」をはじめとした、イラストや写真に読み物がついた雑誌が創刊され、女王の姿を描いて人気を博した。世界最初の肖像写真撮影用のスタジオもロンドンにオープンし、1850年代後半には、一般国民が女王の写真を所有できるようになった。女王は現在で言うところの「有名人」として、写真や肖像画を通して人々の生活や心の中に入り込んでいった。1896年には英国最初の大衆紙「デーリー・メール」が創刊されたほか、最初の王室担当記者が通信社PAから選ばれた。

ニュース映画も人気が高く、即位60周年記念式典では、女王がロンドン市内を歩く様子を25社以上の映画会社がカメラで追った。切手や商品のラベルに女王の肖像画や写真が頻繁に使われ、女王のイメージは英国内ばかりか大英帝国の当時の植民地を中心に世界中に伝わった。

メディアの都合に王室側が合わせた格好になったのがジョージ五世(即位1910-36)の最後だ。新聞の締切時間に合わせるため、担当医師が安楽死を行なった。午後11時、医師は最後が迫ったことを察知し、王の頸静脈に致死量のモルフィンとコカインを打った。約一時間後、王は息を引き取った。軽い読み物的記事が出る夕刊ではなく、朝刊に訃報を出すための行動で、訃報は計画通りタイムズ紙に出た。1986年、フランシス・ワトソンの自伝でこの経緯が明らかになった。

ー国民の声を代弁したメディア

ジョージ五世を引き継いだエドワード八世(1936)は、即位当時独身で、米国人の既婚女性シンプソン夫人と交際していた。米国での報道をよそに英国内では交際は報道されなかった。1936年10月、夫人の離婚が成立したが、英メディアはしばらく沈黙を守った。11月、王は首相に夫人と結婚したいと告げた。結婚に関して政府から承認を受ける必要はなかったが、結婚できなければ王位を棄てるとまで宣言した。

12月になって報道協定が破られ、英新聞が王とシンプソン夫人の恋を報道を開始すると、これまで人気が高かった王に対する国民感情は大きく変わった。夫人が平民であること、米国人であることは問題にはならなかったが、2度離婚していること、2人の夫がまだ存命だった点から、夫人が女王になることを支持した新聞は皆無だった。特に地方紙が敵対的で、「どんなことがあっても、夫人はイングランドの女王にはなれない」(バーミンガム・ポスト紙)と反対した。労働組合、当時の野党労働党議員の多くも王位放棄を支持し、ボールドウィン首相は、最終的に女王を選ぶのは王ではなく国民だと王に告げた。36年12月10日、エドワード八世は王冠放棄の書類に署名した。

作家ロバート・レーシー氏の「ロイヤル」によると、「国民は、王が王であり続けるよりも他のことを選んだことで、裏切られたと感じた」と言う。退位を勧めたのは首相で、政治が英国の将来を決めたが、国民はメディアを通して反対の声を上げたという。(つづく)

(本稿は「新聞通信調査会報」2008年1月号に掲載された記事に補足したものです。現在、英国のメディアに関する著作を執筆中です。)

米最高裁バーサークイーンに罰金命令 Newslog USA

 「オバマには大統領の資格はない」と主張する「バーサー」運動。その運動のリーダー格の弁護士は、昨年大統領の出生を問う訴訟を起こした。最近、最高裁は連邦裁同様、訴えを却下、逆に罰金を払うように命じている。

 08年大統領選から「バーサー」という言葉がある。オバマ大統領は米国生まれではなく、よって大統領になる資格はないと信じている人々を指す。

 米大統領になる絶対的条件は、米国生まれである。オバマ大統領の出生証明書に関しては、ハワイ州の保健省で、州知事を含めて同省高官が証明書は本物であると立証し、オバマ陣営は08年の選挙戦でそのコピーをネット上で流した。しかし、バーサーたちはケニヤ生まれ説と、インドネシアとの二重国籍説を主張している。

 09年8月「オバマ氏は、大統領並びに最高司令官としての資格はない」と法廷に持ち込んだのは、歯科医であり弁護士でもあるオーリー・テイズ氏。メデイアではバーサー・クイーンと異名をもつ。

 テイズ氏は、ジョージア州連邦裁にコニー・ローデス陸軍大尉に代わって、訴訟を起こした。ローデス陸軍大尉はその前に「大統領の資格のない者からの、派遣命令には応じられない」と訴訟を起こしたが却下され、仕方なくイラク派遣に応じたという経過がある。

 テイズ氏は、法廷にケニヤでのオバマ氏出生証明書のコピーを提出したが、後にそれは偽造であることが判明している。連邦裁は、テイズ氏の訴えを「つまらない申し立てで、裁判官の時間を無駄にした」と逆に2万ドル(約170万円)を支払うように命じた。後に、同氏は判決を不服として最高裁判所に訴えたのである。

 今回の訴状却下にもかかわらず、テイズ氏は「歴史的真実は、その内に暴露されるだろう」と強気である。2万ドルは支持者からの寄付で集まるとし、新たな証拠としてオバマ氏のパスポートのスタンプは偽造としている。

 一方テイズ氏は、10年のカリフォルニア州総務長官に立候補している。これを考えるに、この訴訟自体が反オバマ派を煽り、共和党員からの支持を得るための売名行為とも考えられる。

 同氏のウエブサイトhttp://www.orlytaitzesq.com/)は、支持者からの「オバマの出生証明書は偽物」と言う書き込みが目立つ。いくら真実をつきつけられても、信じない、信じたくない者は、聞く耳も見る目も持たず出生証明書は偽造と言い張る。その主張自体に根拠はない。「どうしても黒人大統領を認められない」偏見と差別が真実をゆがめているといえる。

http://www.newslogusa.com/

【イサーンの村から】① カオデーン農園の日々 ー楽しいこともうんざりすることも  

 タイに住んで10年ほどになる。ここ、東北タイのムクダハン県の農村で農園暮らしを始めたのは約3年前からだ。農業や田舎暮らしになんてこれっぽっちも興味のなかった私が、なんでよりによってここまでド田舎で生活することになったのか。もちろん、東北タイの農民出身の男性と知り合い結婚して住むことになったのがきっかでだが、「イサーン(東北タイ)の農村で生きていこう!」と一大決心をした覚えもなく、気づいたらそういう流れになっていた。 
 
ーNGOから農民に

 10年前、私は(特活)日本国際ボランティアセンター(JVC)という日本のNGOが主催する「タイの農村で学ぶインターンシップ」というプログラムの第二期研修生として、北部チェンマイにあるタイの有機農業普及NGOにお世話になりながら、1年間タイの仲間たちと過ごした。国際協力といえば、農村開発というよりもむしろ緊急救援や人道支援というイメージを持っていた私は、このプログラム参加によってくるりと別方向を向かせられ、「農」の世界にぷすぷすと足を踏み込むことになったのだ。本当にこのプログラムって、人の人生を狂わす・・いやいや、人の目を覚まさせるわ…と何度思ったことか。

 研修修了後、ちょうど募集がありJVCに就職することになった。当時バンコク郊外にあった自然農業研修センターに滞在しながら、バンコク市内のスラム住民支援と、今度は自分が「タイの農村で学ぶインターンシップ」のお世話役(コーディネーター)という立場でタイ駐在員となった。後半は、東北タイのコンケン県に移り、有機農産物直売市場のプロジェクトにも携わり、様々な経験をさせてもらったところでJVCを退職。その後は、ムクダハン県で農園暮らしをしつつ、JVCの研修生やスタディツアーの受け入れなどを行っている。

 これまで、北部のチェンマイ、中部のバンコク郊外、東北部のコンケン県とムクダハン県と移り住んできたが、タイの農村といっても、気候も、方言も、食べ物の嗜好も、人の雰囲気も、その土地の栽培作物も違う。イサーンと呼ばれる東北タイは、雨季に入り始めの雨を待って、田んぼに水がはったら田植えを始めるという天水田の稲作が中心の土地だが、他の地域と比べ降水量が少なく不安定なため農業条件は厳しい。私が住むムクダハン県のこの周辺は、お米を中心とし、とキャッサバ、サトウキビ、ゴムの木といったいわゆる換金作物を広範囲にわたって栽培している農村である。

 村内は、牛飼いの人に連れられた牛や水牛がゆっくりと列をなしている風景が見られる。イサーンの農村を訪れる日本人には、日本の昔の農村風景に似ていると目を細めて懐かしがる人も多い。私はそんな昔は知らないけれど。 
 
ー米、果樹、野菜、水牛、豚、鶏、アヒル、魚、カエル 
 
 うちではいわゆる有機農業を行っている。広さは約3.5ヘクタール。と説明してもほとんどの人は、「それってどのくらいの広さ??」と首をかしげる。ゼネコンで働いていた友人がいうには「1500台の車がおける平面駐車場付きの郊外型ジャスコが建てられるくらいの広さ」らしい。よくわかったようなわからないような。日本人の感覚からしたらかなり広い土地だがイサーンでは平均的。決して広いわけではない。 
 
 うちは、水田1ヘクタール、そのほかは、果樹園、野菜畑、池、家畜小屋、チーク林などが土地を占める。家畜は、水牛、豚、鶏、あひる、魚、食用ガエルを飼っている。番犬として犬が3匹いたが、そのうちの去年もらってきた1匹があまりにヒヨコを食べてしまうので、隣の敷地に住む親戚の叔父さんに「そっちで飼って!」と預けたら、いつのまにか、叔父さんたちに食べられてしまった・・・。

 一般的ではないがイサーン人は犬も食べる。イサーンのサコンナコン県というところでは、満月に黒犬を食べる習慣があるらしく、市場でも犬肉を売っていると聞くが。というわけで、犬は2匹。他、家の中には、ネズミ、ヤモリ、トゥッケーが頻繁に登場する。でてくるのはいいけど、そこら中に糞をするのはやめてっ!と切に思う毎日だ。

 農園の名前は「カオデーン農園」という。「カオ」というのは、私の名前のカオルから来ている。タイ滞在1年目、チェンマイに住んでいる頃、タイ人の友人たちが私につけたニックネームが「カーオ」で、夫のニックネームが「デーン」なので、「カオデーン」。単純にくっつけただけだが、これは「赤い(デーン)・お米(カーオ)」つまり「赤飯」という非常にめでたい意味なのだ(タイ語は形容詞が名詞の後にくるのでカオデーン)。 

 私がタイに住み始める前の会社員時代、カーオはタイ語で「米、ご飯」という意味だと聞いたとき、ださっ!と思ったことがあった。それがタイ滞在1年目にして、「米、ご飯」?なんて素晴らしい意味なんだ!と思うようになったのは、JVCインターンの研修の成果だろうか。 
 
 今は、夫と生後11ヶ月になる息子と暮らしている。興奮するほど楽しくなるこことも、うんざりするほどいやなことも満載の生活である。 

(日刊ベリタ・連載)

www.nikkkanberita.com

英タイムズ、サンデー・タイムズの有料化 その後

10.08.26 by   カテゴリー: メディア, 世界の窓

 英高級紙タイムズとその日曜版サンデー・タイムズが今年6月、それまで無料だった電子版の閲読に有料制を導入した。最初の1か月は無料テスト期間で、実質的な課金制導入は7月上旬だった。米調査会社によればタイムズの電子版訪問者は導入以前と比較してほぼ半減した。欧州ではすでに複数の大手紙が電子版閲読を有料化している。

 タイムズ、サンデー・タイムズの電子版有料化の目的は、「良質なジャーナリズムの維持」と「生き残り戦略」(同紙を発行するニューズ・インターナショナル社経営陣)だ。

 日本同様、英国でも新聞の発行部数が慢性的に下落し、読者も広告主もネットに移動する傾向が続く。下落する発行部数、広告収入を横目に、新たな収入源とし て電子版有料化が視野に入った。タイムズはすべての記事を「有料の壁」(ペイウォール)の中に入れる全面有料制をとった。これは英国の主要紙では初の試み だった。

 閲読料金は1日1ポンド(約133円)で、両紙の電子版がアーカイブも含め閲読できる。1週間では2ポンドと格安だが、これは最初の30日間が1ポンドで、それ以降は毎週2ポンド(月では8ポンド)の支払い契約を交わす形だ。紙媒体の定期購読者は無料で閲読できる。

 一度料金を払えば、ニュースに加え、著名コラムニストや有名人とのチャットや情報交換、映画や美術展を低価格で鑑賞できるといった会員制クラブ「タイムズ・プラス」のサービスが利用できる。

 8月中旬時点で、タイムズ側は課金制利用者数など電子版にかかわる数字を発表していない。米調査会社コムストアによれば、課金制導入以前の5月、タイムズ のユニーク・ユーザー数は2794万人だったが、7月には約42%の減の1614万人となった。ページビューも2900万から900万に下落した。

 利用者やアクセスの大幅下落を有料化策の失敗と解釈するのは早計だ。

 課金制導入の意図は、無料時代よりは少ない利用者でも購読料収入を得て、かつ効果的な広告を出すことにあるからだ。元タイムズのメディア記者の推算によれば、約20万人の課金購読者がいれば、購読料総額が両紙のこれまでのデジタル収入と同額となる。

 他方、複数の欧州紙が、すでに閲読課金制を電子版に導入している。

 ドイツ最大の新聞グループ、アクセル・シュプリンガー傘下のベルリナー・モルゲンポスト紙、ハンブルガー・アーベンブラット紙は、昨年末から、無料と有料 記事を組み合わせる方式でそれぞれ一か月4・95ユーロ(約544円)、7・95ユーロの電子版閲読料金を課している。7月までに、前者はアクセス数がほ ぼ横ばいとなっているが、地元市場でブランド力が強い後者は課金制導入以前よりも大きなアクセス数を達成している。

 フランスではル・ フィガロ紙が2月から、ニュース以外の電子版サービスの一部を有料化した。3種類の購読方式を選択でき、最高額の「ビジネス」コースは毎月15ユーロ。 ル・モンドも以前から一部有料制を導入してきたが、3月末以降、紙媒体、ウェブサイト、iPhone(アイフォーン)、iPad(アイパッド)のすべてで 一括して読めるサービスを、毎月15ユーロで提供している。

 フランスで最近話題をさらったのが、広告を取らず、購読料のみで運営されているニュースサイト、メディアパー(Mediapar)だ。

 6月、サルコジ大統領への違法献金疑惑のスクープ報道で名を上げた。ルモンドの元記者らが2008年に開始した左派系サイトは調査報道を主とする。編集ス タッフは25人(25歳から60歳)。6月以前の購読者は2万5千人だったが、スクープ以降、5千人以上増えたという。5月に150万だったページビュー も、6月には410万へ増加した。この人気は、「読みたいニュースはお金を払ってでも読む」という現象の現れともいえよう。(「新聞協会報」8月24日付掲載の筆者記事に補足。)

参考:仏メディアパー関連記事(英ガーディアン)

http://www.guardian.co.uk/media/2010/jul/12/bettencourt-tapes-mediapart

【戦後史のなかの農業】⑥ 歌は世につれ・・・

10.08.25 by   カテゴリー: 日本, 環境

 昭和でいうと20年代から30年代前半になる。この時代くらい農村が歌に登場する時代はなかったのではないか。1950年、世界史を揺るがす出来事が東アジアで勃発した。朝鮮戦争である。日本の目と鼻の先で起こったこの戦争は日本のあり方を大きく変えた。他国の戦争によって戦争特需にわき、「もはや戦後ではない」時代に突入する。

ーもはや戦後ではない

 戦争とは巨大な破壊行為である。弾も鉄砲も戦車も船も、そしてなにより人間が消費し尽くされる。

 消費は生産を刺激する。朝鮮半島の戦争が破壊した武器・弾薬、車両などの生産・修理を引き受けることで、日本の工業部門はよみがえった。いわゆる朝鮮特需である。無謀な戦争を起こして敗れた日本が、他国の戦争を食って立ち直るという奇妙な現実を歴史はつくったのである。

 1956年、政府は「もはや戦後ではない」というキャッチコピー付きの経済白書を発表した。おりから日本は好景気に沸いていた。日本始まって以来ということで実在したかどうかもわからない初代天皇の名を冠して「神武景気」と名づけられた。三種の神器といわれた冷蔵庫、洗濯機、テレビが飛ぶように売れた。食糧事情も、55年産米の大豊作ですっかり好転した。

 人びとは新しい時代が始まることを実感していた。日本は「豊かな時代」にさしかかる一歩手前まで来ていたのである。

ー農業は曲がり角といわれた

 時代の変化は当然農業と農村にも及んだ。当時、政府や経済界、農業団体、マスコミで盛んに言われていた言葉に「農業の曲がり角」というのがあった。その言わんとするところはこうだ。

「急速に成長する工業部門に比べ、農業は生産性が低く、このままでは格差が開く一方だ。だから農業を何とかしなければ」

 曲がり角論がその原因としてあげたのは次のようなことだった。ひとつは農業の経営規模の規模の小ささ。もうひとつは農業に従事している人が多すぎる、ということでだ。過小規模と過剰人口、である。農林省(当時)はこれを「日本農業の基本問題」と呼んだ。

 ここから出てくる結論はひとつしかない。農村から人を出して農業で働いている人を減らし、その分農家一戸当たりの経営規模を大きくする、という方程式である。

 政府だけでなく、当時財界といわれた経済界もまたさかんに「農業の曲がり角」論をさけび、いくつもの提言を発表している。いずれも、生産性を上げなければ、農業が日本経済のお荷物になって、日本の発展を阻害するというものであった。この主張は50年近くたったいまも飽きることなく繰り返されている。

ーぼくも行こう、東京へ

 お役人や経済人のこうした議論とは別に、現実は大きく動きはじめていた。農村からの人の移動が始まったのだ。はじめに若い女性が村を離れた。次いで次三男が村を後にした。

 当時、社会問題のひとつに次三男問題というのが会った。農家に生まれた次三男は、後を継ぐ長男がいるためめ農家にはなれない。といって工業もそんなに発展していないから村を出て行っても働き口がない。そこで仕方なく、肩身の狭い思いをしながら家に残り百姓仕事を手伝っている。農家の次三男というのは社会問題の対象だったのである。

 だが、工業の発展と共に次三男問題は解消してしまった。みんな都会で仕事がありつける時代が来たからだ。そして最後には家を継ぐはずの長男させ村を捨てる時代が来る。

 そんな時代を象徴する歌が大流行した。55年に春日八郎という歌手が歌った「別れの一本杉」である。村を出て行く農村青年の純情を歌い大ヒット、彼は一躍有名になった。

 58年に大流行するのが三橋美智也の「夕焼けとんび」である。村に残った青年が空のとんびに向かい「そこから東京が見えるかい」と呼びかけるこの歌には、都会へ出て行った恋人への思いがこもっており、農村青年たちの共感を集めた。

 そしてついには、「ぼくも行こう、あの娘の住んでる東京へ」という歌が登場する。

 有史以来初めて、国内で民族大移動が始まろうとしていた。そして時代は、日本の社会も文化も人の意識も一変させる激動の60年代へとなだれ込む。農業もまた、大きく変貌していく。(つづく)(筆者は農業ジャーナリスト、日刊ベリタ編集長)

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元英タイムズ編集局長ジョージ・ブロック氏に聞く、新聞経営の現場②「ネットニュースを無料で提供したのは、失敗だった」

10.08.24 by   カテゴリー: メディア, 世界の窓

 ロンドンシティー大学のジャーナリズム学部長ジョージ・ブロック教授(元英高級紙タイムズの国際版編集長)に、英国の新聞の現況や新聞の媒体としての将来を聞いた。

―新聞業のビジネスモデルといえば、英国の新聞社のウェブサイトはすべてが無料で読める期間が続いてきました。これは失敗だったとする見方がありますが。

ブロック氏:失敗だったと思います。自分自身もその過程に関わっていましたが、無料にしないと、ライバルに負けてしまう恐れがありました。ライバル紙との競争で無料になったのです。しかし、振り返ってみれば、これは間違いだった。コンテンツを無料であげてしまったのですから。誰かに盗まれたのではなく、こちらから無料であげてしまったのだから。

―タイムズとサンデータイムズは7月から本格的にウェブサイトの閲読を有料化しました。ブロックさんは有料化を支持するわけですね?

 支持するのは、有料化による実験です。さまざまな課金の実験が起きています。例えば一部は無料で有料と組み合わせる方法や、タイムズのようにすべてを有料化する方式。批判がたくさんあるのは承知していますが、出版社側がさまざまな実験をするのは正しい選択です。「絶対どんな状況下でも有料化してはいけない」というのは、馬鹿げた考えです。

―全部有料化にすると、ネットの会話から孤立するという見方がありますが。購読者の数も激減する、と。

 全面有料化が成功したかどうかの判断は、どれぐらいの購読者を得たかではなく、どれぐらいのコメンテーターたちが有料の壁の中で生き残るかだと思っています。誰もわからない。その理由は、読者、利用者の意見が、本当に分かれているからです。タイムズのパリの特派員が有料の壁について書いた記事がありましたが、これに反応した人々のコメントを見ると、意見が大きく分かれています。

 どんな状況でどのようにしたらお金を払うことを決定するのか、あるいは払わないことにするのかーそういうことがこの実験で次第に判明していくでしょう。

―ネットサイトでニュースを読むという習慣が定着し、ニュースを出していくスピードへの要求が加速化しています。ジャーナリズムに影響を及ぼしていると思いますか?

 紙の印刷の制作予算が削減されていますから、すでにニュース制作には大きなプレッシャーがかかっています。紙とネットという少なくとも2つのチャンネルのためにコンテンツを作らなければなりませんし。早く出す必要がある原稿は、記者に早さの競争を促します。あまりにも急ぎで出さないとならないので、ウェブ上に出た記事は一時的なコメントという性質が強くなるでしょう。

 しかし、こうした動きは過渡期のものであると考えています。つまり、インスタント・ジャーナリズムがほしい人には、たくさんの選択肢があります。ラジオやネットの無数のサイトです。もし新聞が他の面で勝負するとしたら、例えば、深みやオーソリティー、正確さ、分析、文脈など。編集デスクや編集者の仕事は、こうした特質とスピードのバランスをとることになります。これが今、ジャーナリズムの質を判断する点になっているのです。スペースとタイムのバランスを見ながら、コンテンツを出していくのが編集者の仕事のひとつとなっています。

―統合編集室になって、人員削減は起きているのでしょうか?

 プリント制作過程での過度の官僚主義は簡素化されていると思います。しかし、ネットがある・なしに関わらず、簡素化が進んだのだと思います。過度であったし、お金がかかりすぎていたからです。不正確さをなくするのは重要ですが、編集作業は出来うる限り効率的にしなければなりません。

―編集スタッフの数の増減はどうですか?

 全体としては増えていると思いますが、編集スタッフの増減は常に起きています。統合編集室になるかどうかとは関係ない動きだと思います。

―統合編集局はプラス面の影響ばかりではないのでは?マイナス面の影響もあるのではないでしょうか?

 強調したいのは、統合編集室は、その新聞のやりたいことを達成する機能なのです。

 統合は市場経済の結果として起きていますが、文化的な側面もあります。例えば、スカンジナビア諸国では、社会の規模が小さく(英国に比べて)、新聞のウェブ版が非常に人気があります。私が見たところ、そのひとつの理由は、スカンジナビアではネット上の情報交換を重要視しています。英国では利用者はさまざまなサイトに行きますが、スカンジナビアは比較的に信頼したサイトに行く。ドイツでは、新聞社のサイトはあまり力が入っていないように見えます。アクセス数がそれほど大きくありません。フランスも同様のようです。何故そうなのかは十分には説明できないのですが。

 経済の特徴と文化がそれぞれの社会の違いを決めていきます。例えば日本で統合編集局が標準になっていないとしても、日本が必ずしも「遅れている」とは思いません。もしかしたら、日本の新聞社は統合編集室が必要ではないのかもしれません。何らかの変更が必要であっても、それほど緊急な変化を必要としていない場合もあるかもしれません。日本の市場にあったやり方あるはずです。他の国の例は直接は参考にはならないかもしれません。

―ネット・サイトが紙のサイトと同列かそれ以上に力を持つプラットフォームとして意識されている英国で、編集幹部としての発見は?

 ウェブサイトを手がけて分かるのは、読者が何を考え、何を知りたがっているのかに関して、直接の体験ができることです。読者がどんな記事を読みたがっているのかが分かるのです。紙の新聞よりも、もっと参加型のプロセスになります。

―日本の編集幹部は、読者と直接意見を交わすことを望んでいないように見えます。そういうことに慣れていないからでしょう。

 英国でも、15年ぐらい前はそうでした。しかし、ネットは、言ってみれば、読者調査を継続して行っているようなものです。今でも新聞は読者が読みたいことを正確に与えているとはいえず、何がほしいのかを完全に分かってはいないのですが、ネットを通じて、読者が何を好んでいるのかを知るのは、常に役に立つ経験です。

―何故それほどまでに、ネットを受け入れるようになったのですか?

 思い出していただきたいのは、日本もそうであるかもしれませんが、英国の新聞市場は非常に競争が激しいのです。競争に負けた新聞は、死んでしまうのですーなくなってしまうのです。私の新聞社勤務経験の中でも、たくさんの新聞が姿を消していきました。現状に適応できない新聞は、競争に負けて、生存できなくなるのです。どうやって生き抜くかー英国の新聞業界では、この点が強く意識されています。

―タイムズが生き残りをかけてネットに比重を移すようになった動機はあるのでしょうか?

 利益を出していなかったからです。編集部スタッフは、現状に出来うる限り適応しようという強い意識がありました。どんな調査も、ある疑いのない事実を示していました。それは、若い人が新聞を読むという習慣をなくしているということでした。この事実への対応が英新聞のネット投資につながっています。つまり、若い人がよく使う方法に新聞も適応していかなければならない、ということです。この点はどんなに強調しすぎてもし過ぎることがないくらいです。

―今最も関心のある、あるいは懸念をしているジャーナリズムの問題は何でしょうか?

 有料化のトピックを除くとすると、最も懸念をしているのは、地方紙の将来です。テレビの地方ニュースも含めて。これまで全国紙のことを話してきましたが、心配なのは地方のニュースのことです。全国紙はおそらく大丈夫だと思いますが、地方紙は非常に困難な時を経験しています。地方テレビもそうです。地方ニュースは果たして新たによみがえることができるのか?雇用が十分にあって、利益をだせるようになるのかどうか?

―地方紙を救うための動きはあるのでしょうか?

 地方紙は、これは米国で特にそうなのですが、高い利益幅に慣れてきました。地方紙が生き残るには、より低い利益幅に慣れる必要があります。利益が出ればすばらしいですが、より低い利益になることに慣れないと。もしコストカットが進み、広告市場が上向きになれば、一部の地方紙は、状況がそれほど悪くないと思うようになるかもしれません。そういう意味では楽観主義が出るかもしれません。

 しかし、状況が好転しない場合、ニュースはオンラインのみにならざるを得ないかもしれません。課金制になるか、広告収入になるか、あるいは他の収入源を持つのか、まだまだ答えは分からないのです。(終)

統合編集局の進展の関連記事:

英国で進む、統合編集局 元タイムズ編集局長ジョージ・ブロック氏に聞く

(英国メディア・ウオッチ)

http://ukmedia.exblog.jp/14968576/

 

元英タイムズ編集局長ジョージ・ブロック氏に聞く、新聞経営の現場①「米国や欧州でやっているからといって、それを追う必要はない」

10.08.23 by   カテゴリー: メディア, 世界の窓

 ロンドンシティー大学のジャーナリズム学部長ジョージ・ブロック教授(元英タイムズ編集局長)は、「英新聞界のハリソン・フォード」(!)と、巷では言われているそうである。まったくの冗談、皮肉、故意にブロック氏を貶めるために誰かがそう言った・・・のかどうか、真偽は不明だが、実際に会ってみた後で、ふと、「そういえばどことなく、面影が似ているな」と思えなくもない。昨年まで、英高級紙タイムズの国際版編集長だった人だ。2008年まで はWAN-IFRA(世界新聞・ニュース発行者協会)の編集幹部の議論の場「世界編集者フォーラム(WEF)」の委員長を務め、今も中心メンバーだ。世界の新聞編集・経営幹部の議論を追ったブロック氏は、英国の新聞の現況や新聞の媒体としての将来を、どう見ているのだろう?大学の研究室でじっくり話を聞いた。

―紙媒体(プリント)と電子版(オンライン)の編集現場を一体化させる「統合編集室」が世界中の新聞業界で進んでいます。英国はいち早くマルチプラットフォームに対応する編集管理体制(コンテンツ・マネジメント・システム=CMS)を導入した国の1つとして知られていますが、タイムズではいつ、どのように作業が進んだのでしょう?

ブロック教授:うーん、いつ頃だったかな?特定の時期を言うのが難しい。いろいろな形での統合がありましたので。

―他の高級紙テレグラフやガーディアンは編集局の統合を宣伝していますよね。どちらも、新社屋への引越しを機会に(テレグラフは2006年、ガーディアンは2008年末)をきっかけに編集室をマルチの出力用に作り変えていますが。タイムズのケースはネットで探してもほとんど報道がありませんが。

 タイムズでは、これまで、編集局の統合を1つの出来事として、ある時に一度にやる、というようなことは良くないと考えていました。外に向かって大々的に宣伝する必要もないと思っていました。長い年月をかけて行ってきましたしーというのは、新聞がネットで何をするべきか、何ができるのかという部分で、常に変化が起きていたからです。長く、ゆっくりとした、継続したプロセスなのです。今も変化は続いてますし。

―時期を特に指定して、一度にやったのではないというのは、驚きです。

 私たちが最も重要だと思ったのは、ウェブサイトと紙を作る編集部とが同じ場所にあるべきだ、ということでした。多くの新聞では別々になっていましたが、私たちは、常に、別々にしてはいけないと思っていました。ウェブでも印刷でも、トップに「タイムズ」という名前がつくならば、ひとつのマインド(つまり編集長)がすべてを運営している形が良いと考えていました。

―日本ではシステム(IT)を見る人と編集局のジャーナリストは別の場所にいます。英国ではどうでしょう?

 他の英国の新聞でもそうでしょうけれど、タイムズも、ウェブサイトができたかなり初期の段階から、ジャーナリストたちはウェブサイトの制作に関わってきました。

 例えば、ごく基本的なレベルの話ですが、記事をウェブサイトに載せるとき、新しい見出しが必要になるわけです。この意味でジャーナリストは常にサイトの制作に関与していたのです。記事の重要性のランク付けなどは編集部の領域になりますから、ジャーナリストが常にサイトの制作に関与してきました。

 その活動がだんだん成長していきまして、編集室にウェブ制作者たちがいるようになったのです。オンライン制作のデスクが、例えば編集室の真ん中に、何年も何年もいたのです。今は一緒になっています。ほとんどの記者がウェブとプリントのどちらにも書いています。ほとんどのデスクもどちらも手がけています。プリント、あるいはオンラインだけの仕事に従事している人もいることはいますが。ほとんどの場合は、サイトとプリントの両方に向けて仕事をしています。

―「編集統合」の結果、制作過程がシンプルになった部分もあると聞きます。例えばテレグラフでは、記者がデスク一人に見てもらうだけで、すぐに直接サイトに記事を出す場合があると聞きました。最低二人の目を通して、記事が出てしまうわけです。これは、何人もの確認、校正、承認が必要とされていた紙媒体の編集過程の大きな簡素化です。

 タイムズもそんな感じでした。どのデスクも、プリントだけでなく、どの媒体の掲載の記事に対してもデスクワークをするようになりました。どのチャンネル(紙、サイト)で読者にリーチしようと、出力する中味に責任を持つのがデスクの仕事です。マルチプラットフォームに向けての新聞制作の哲学です。

―日本では、「統合編集局」がぼちぼち始まった段階で、まだ徹底はしていませんが。紙媒体を維持したいという気持ちが強いようです。

 ウェブサイトよりも紙媒体の維持を重視するというのは、1つの考え方です。それぞれの国にはそれぞれの文化があります。プリントとオンラインのバランスのあるべき姿は、それぞれに違うのです。

 日本の経営陣や編集幹部の方に言いたいのは、編集局の統合は、それ自体を目的とするべきものではないということ。マルチプラットフォームを想定した統合編集局は、かつてはプリントだけ、あるいはプリント中心の制作が、プリントのみならず、かなり拡充したウェブサイトを作る必要が出てきたときにのみ、起きる現象です。しかし、すべての新聞が拡充したウェブサイトを作る必要があるわけではありません。

 ここ英国では、情報が豊富でライバルに負けないウェブサイトが必要です。若い層が紙の新聞を読まなくなっており、ウェブサイトで情報を得ているからです。プリントの新聞を読む習慣をなくしているからです。

ー例えば、インドのような紙の新聞の発行部数が増えているところでは必要ないということでしょうか?

 インドでは、サイトの拡充や統合編集局は必ずしも緊急の問題ではないでしょう。

 私は日本についての専門家ではありませんが、日本で新聞の発行部数の下落に対する懸念が起きているとしても、その懸念は、ここ英国よりも大きなものではないのではないでしょうか?例えば米国や欧州他国と比べて、ですが。サイトの拡充や統合編集局は米国、英国、カナダ、欧州諸国の話であって、他の世界の国々でも同じように緊急の問題になっているとは限りません。

 WAN-IFRA(世界新聞・ニュース発行者協会)の編集幹部の議論の場「世界編者フォーラム(WEF)」では、統合編集局の必要性はその国の文化や新聞市場によって変わる、ということでした。そうする必要がなければ、巨額を投資したり、社内で大きな苦悩を抱えたり、議論を行ったり、社内変革を行う必要はないのです。米国や欧州でやっているからといって、やる必要はないのです。

 編集局の統合は実現自体が野心となってはいけません。インテグレーション=統合は、もっとも効率的なコンテンツを生み出すための1つの方法なのです。どのマテリアルを誰に向けて、何故、どうやって提供するのかを決めないといけませんーそういうことを考えてゆくと、どんな形のインテグレーションがよいのかが見えてくると思います。

ー英国では統合が必須だった、というわけですね。

 英国では、定期的に新聞を読むという習慣を若い人が身につけていない。ネットや携帯電話、他にもさまざまなソースから情報を得ています。そうであれば、そして、新聞社が若い層を捕らえたければ、ネットでやらなければならないー簡単なことではないかもしれませんが、取り組まなければなりませんでした。

―紙だけにあるいは主に紙に書いてきたジャーナリストからの不満というのはなかったのでしょうか?

 もともと忙しいジャーナリストが紙とネットに書くことでさらにに忙しくなったり、外国特派員たちは常に締め切りがあるので、外に出て取材する時間がなくなると不平を言う場合もありました。まったく不平不満が出なかったわけではないのですが、全体的に見ると、粛々と進んでいった感じです。

 タイムズの経験から、2つの教訓があります。1つは、もしあなたの会社の出版戦略が編集室が統合されるべきだと判断したなら、絶対に必要なことは新聞のトップがそのシグナルを出すことです。編集部のトップからそのシグナルが出ないと、統合はできませんしうまくいかないのです。

 2つ目の教訓は、統合編集室を作るとき、地理的な配置はそれほど重要ではないということです。ひとつの同じ編集室にいることは必要ですが、誰がどこに正確に座るかはあまり重要ではありません。

―紙とオンライン投資とのバランスで経営陣、編集のトップに迷いはなかったのでしょうか。紙を守るために。

 ありませんでした。例えば、1990年代半ばから10年間、ネットが使われだした初期の頃、ネットに紙の内容を出せば、紙の発行部数にマイナスの影響があるのではないか?という懸念がありました。私たちはその証拠を常に探していましたが、数字として出たものはほとんどありませんでした。

 調査で明らかになったのは、とにかく、読者が紙の新聞を買わないようになっている、ということでした。ウェブサイトのある・なしに関わらず、この傾向を止めることはできない、もし新聞のサイトが情報を出していなかったら、他のウェブ上のソースからニュースを得ていただろうことが分かってきました。

―ブロックさん自身が個人的には、紙よりもネットに比重を置く傾向に関して、寂しさのようなことはなかったのでしょうか?

 特にはありませんでした。どうやってニュースを流通させるか?その手段は常に変わっています。

―ジャーナリズムの将来に楽観的なわけですね。

 そうです。日刊の印刷された新聞のビジネスには悲観的ですが、ジャーナリズム全体には大いなる期待を抱いています。

 質の高いジャーナリズムに対する要求は消えることがないと思います。コストをカバーできる、独立したジャーナリズムを作る体制が最終的には出来ていくと思います。今は困難に見えても、歴史をふりかえれば、常に何らかの答えが見つかってきました。

―プロのジャーナリストの職に関しても、楽観的でしょうか。

 日刊の印刷された新聞の将来には悲観的なので、今後2,3年、仕事がどうなるのか、警戒しなければなりませんが、中期的にはまったく心配していません。今でも、慈善家からの寄付金がジャーナリズムに入ってきています。

 オンラインのジャーナリズムのサイトは常に生まれています。どうやって使ったらいいのか、ソーシャルメディアやローカルニュースとどうやって組み合わせるのか、ビジネスモデルは何かなど、驚くほどの実験が行われています。これはアメリカが多いのですが。理由は、英国よりも米国の新聞業界が大きな危機状態にあるからです。

 ニュースの需要が落ちているわけではない。失敗の危機にあるのは、紙の新聞を作って、印刷し、これを運ぶという非常にお金がかかるやり方なのですから。(つづく)

葬儀でやじるのは言論の自由か Newslog USA

 厳粛に行われている葬儀の横で、「地獄へ落ちろ」とやじられたらどうだろうか。米カンザスの教会グループは「同性愛に寛容な米国」を守る兵士は悪魔と、戦死兵の葬儀を妨害してきた。怒る戦死兵家族と教会は、今法廷で戦い、争点は言論の自由である。

 米メディアによると、このグループは、カンザス州トペカにあるウエストボロ・バプテスト教会メンバー。代表は、フレッド・フェルプス牧師。同性愛者へのヘイトグループ(差別扇動集団)として知られている。

 米国には、多くのヘイトグループがある。主に人種、宗教、性指向などへの差別集団である。近年、性指向差別の台頭は、同性愛者が社会的に認められ始め、米軍もその方向に進んでいるという背景がある。クリントン政権時、米軍は「尋ねるな、言うな」と、同性愛者であることを消極的に容認してきた。オバマ大統領は、クリントン氏より一歩踏み込み、性指向への差別はなくすべきという積極的姿勢をとっている。

 今回のヘイトグループ・ウエストボロ・バプテスト教会メンバーは、今まで600もの戦死兵の葬式に行き、ピケをはり、「ホモに寛容な米軍は悪」「兵士は悪魔」「神はお前を憎んでいる」などのプラカードを掲げ、やじをとばし、葬儀をハイジャックしてきた。

 その戦死兵の中の一人は、マシュー・スナイダー海兵隊下士官。06年にイラクへ派遣され、1か月後に死亡した。メリーランド州での葬儀には、フェルプス牧師率いるグループが現れ、葬儀の邪魔をした。牧師グループは、悪魔の国を守った兵士だけでなく、その兵士を支えてきた家族にも天罰が下るとしている。

 最愛の息子の葬儀をぶちこわされたスナイダー下士官の家族は、プライバシー侵害と精神的苦痛を与えられた科で訴訟を起こした。地方裁判所は、教会側に非があると裁定したが、教会側は控訴。連邦控訴裁判所は、先の決定を覆し、プラカードはスナイダーさんに特に向けられたものではなく、「憲法で保護される」内容とした。葬儀でやじることは言論の自由だと判定したのだ。

 その上、控訴で敗北した家族は、教会側へ法廷費用16000ドル(約145万円)を払うようにと判決が下された。

 教会側は、そのお金を、別の葬式妨害に使うと言う。

 家族は、この判決に不服、訴訟は最高裁で決着を見ることとなった。言論の自由は、憲法修正第一条で謳われている。しかし、どこまでが言論の自由の範囲に入るのか、社会的な常識として、どこまでが許容されるのか、この問題は全米へと広がっていった。メイン、バージニアの2州を除いて、州検事総長は、「ハラスメント」表現には言論の自由は適応しないという立場をとり、法廷助言者声明に署名し6月1日に提出した。

 「言論の自由」をめぐっては、米国で訴訟は絶えない。憲法上、誰もが自分の信念に従って自由に発言する権利はある。「米国は自由な国。自分の好きなことをして好きなことを言って、何が悪い」といった声を隣人から時折聞く。しかし、社会は法だけでは成り立たない。法よりも、社会的常識があろう。葬儀のような場をハイジャックする権利を、法の名の下で与えていいのか。最高裁で、どのような裁定が下されるのだろうか。米国にも、まだ常識はあるということを見せてほしいものである。(筆者は在米ジャーナリスト)

 最高裁は、10月に訴訟の口頭弁論を聞く予定である。

 ブログ Newslog USAより

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