郡山市のコリアンスクールが危機に  ー日本人のための避難所も設営したのに、校庭汚染除去も支援なし

3月11日に大震災・原発事故で周辺の日本人も受け入れ避難所として活動した福島県郡山市のコリアンスクール「福島朝鮮初中級学校」が存続に危機に陥っている校庭の放射能汚染除去対策にも行政の支援は全くなく、財政的困難で児童生徒は今も新潟コリアンスクールに避難したまま。全国のコリアンスクールからの支援はあるものの、このままでは存続不可能なことにもなりかねない。学校関係者からは「避難所を設営し、日本の方々も分けへだてなく受け容れたのに、なぜ、自分たちの学校は、たった一度、県から測定にきただけで、まわりの学校のようにグラウンドの表土撤去の話すらでてこないのか」と失望がひろがっている。

学校紹介→ http://www.h2.dion.ne.jp/~f-chojun/

<これまでの経過>

・3.11 東日本大震災により、建物損壊(修繕費500万円)
・震災後、独自に避難所を設営し、周辺の日本の方々を受入、後に県が避難所として指定するも、必要な物資については、全国のコリアンスクールからの支援物資に依る。
・5月初旬、学校の1学期を再開
・5月15日 全校生徒を、新潟のコリアンスクールに2週間の予定で避難。
・この間、県庁の私学法人課より、一度だけ、グラウンドの測定を受けるがその後、なんら、対応がなされないまま。これにより、学生の新潟コリアンスクールへの避難が、長期化することとなり、ひとまず1学期全期間避難することとなる。同時に、学父母、理事会から、廃校の懸念がひろがる。
突然、親元から離された小学校低学年児のこころのケアが要されるも、専門家がいないため、カウンセリングを実施できず。
・6月5日 学父母、卒業生を中心として、自主的に、建物に付着した放射性物質の除染作業を執り行う。
・6月13日 除染作業の効果の確認と工程表を作成する。そこで、グラウンドの表土撤去費用が、約700万円かかることが判明し、財政的窮乏から、学校存続の危機に立たされる。同時に、全国のコリアンスクールに対し、寄付金を要請する。
・6月21日 グラウンドの表土撤去等について、県および郡山市からのなんの支援も得られないことにより、児童の健康面を考慮し、学父母および理事があつまり、2学期も新潟のコリアンスクールに避難することで調整。今後の課題として、グラウンド、建物の放射性物質の除染がすすまないとすれば、廃校も視野にいれた対応を迫られる。
・6月26日 第2次自主的除染作業を予定 ただし、グラウンドは手をつけられないまま。 保護者からは、避難所を設営し、日本の方々も分けへだてなく受け容れたのに、なぜ、自分たちの学校は、たった一度、県から測定にきただけで、まわりの学校のようにグラウンドの表土撤去の話すらでてこないのかという、失望がひろがっている。

(日刊ベリタより)

「主要作物は20年で価格が2倍になるだろう」

11.06.30 by   カテゴリー: ニュースあれこれ, 世界の窓, 環境

世界で反貧困の活動を続けている国際組織オックスファムが先月、以下のようなレポートを発表した。

トウモロコシのような主要作物の価格は今後20年間で2倍に上昇するだろう。理由の半分は気候変動が農業に与える打撃にある。さらに農業生産の伸び率が減少に転じていることも関係している。世界の平均的な農業生産の伸び率は90年から半減しているのだ。2050年の世界の食糧需要は今より70%増加すると推測されるが、供給能力の伸びは低下している。

オックスファムのエグゼクティブディレクター、ジェレミー・ホッブス氏は「G20は5億にのぼる発展途上国の小規模農場に投資をして生産を支えるべきだ」という。「こうした小農場の発展が生産の増加に結びつく。そのためには、小規模農場が気候変動に適応できるようにしなくてはならない」という。

オックスファムはこのレポートの中で、インドでは1990年から2005年までに経済規模は2倍に増加したが、飢餓人口は6500万人増加したと指摘した。これは繁栄から取り残された農村の人々であり、かつて農村で機能していた貧困者を救済する枠組みが消滅したからだという。

また、アーチャー・ダニエルズ・ミッドランド、バンジ、カーギルの多国籍企業3社を特に批判している。これら3社が世界の穀物のおよそ9割をコントロールしているという。彼らによって穀物価格は跳ね上がり、彼らはそれによって大きな利益をえているという。世界の穀物価格が急上昇した2008年の最初の四半期、カーギルの利益は86%上昇した。こうした一部の企業が利益を得て世界の食糧需給が混乱するような事態を将来避けなければならない。ホッブス氏は世界中の人間より、一部の企業の利益を優先するこうした国々の政府を批判している。

http://www.oxfam.org/en/pressroom/pressrelease/2011-05-31/broken-food-system-environmental-crises-spell-hunger-millions

ーオックスファムインターナショナルとは:

世界98か国をまたにかけ、15の組織が貧困と不正の是正を目的に活動している。1995年にNGOとして発足した。しかし、起源をたどれば第2次大戦中の1942年に立ち上がった「オックスフォード飢餓救済委員会」にある。当時、ドイツ軍占領下のギリシアには飢えた女性や子供が多数存在した。彼らに向けて食糧を調達して輸送したのである。

(日刊ベリタより)

市民メディアに何ができるか ー福島原発情報共同デスクを立ち上げる

島原発暴走で何が出来るか市民団体で緊急会議をもつからと声をかけられ出かけたのは、確か3月28日であった。おりからこの問題についての政府の大本営発表への不信が高まっていた。政府が信用できないのだから、事故を起こした当事者である東電なぞもっと信用できないし、その政府・東電の発表をこだまのように増幅させる新聞、テレビなどマスメディアもまた信用できないものの対象に入っていた。この「信用できない」という気持ちのなかには、「自分たちは情報を操作されているのではないか」という疑問が含まれていた。緊急会議でも同様の意見が出された。

そうしたマスメディア状況の一方で、インターネットの時代を反映して市民というか民衆というか、ただの人やら専門家、何か言いたい人やらが自ら発信したり、あるいは市民メディアとして組織的に発信する動きがここ何年かで急速に進んでいる現実もあった。グループや個人による、文章、映像、音声で発信されるさまざまの情報は、政府・東電の発表のぎまんを鋭くつき、マスメディアの怠慢を批判する内容であふれていた。

同時にその内容には混交玉石、個々ばらばらの感があった。社会への影響力という面でも、マスメディアの圧倒的力には敵わないということ現実も存在した。そこで、いま具体的にやれることのひとつとして、こうした市民情報の共同デスクを立ち上げ、既成メディアへの対抗力をつくらないか、と提案した。「福島原発情報共同デスク」と名付けられたこの仕組みは、すでにサイトも立ち上がり、動き出している。

共同デスクを提案するに当たっては、2008年のG8洞爺湖サミットで形が出来た市民メディア運動を、この際さらに大きな動きにできないかという思いもあった。その意味では、共同デスクの立ち上げは、課題である福島原発問題にとどまらず市民運動のこれからの動きにとっても、それなりの意味を持っていると考えている。

とは思うものの、このごろ「市民による情報とはどういうものか」で考え込むことも多い。50年近く、メディアの周縁部でうろうろと記者をして生きてきた。70歳を過ぎるとそのメディアからもあまり相手にされず、このごろはもっぱらただ原稿を書いて発表の場を得ている状況なのだが、それでも自分で見聞きしたこと、確認したこと以外は書けないという50年叩き込まれた習性を捨てることが出来ずにいる。

だが、とも思う。この「確認をとる」という、これまでごうも疑わなかった作業自体が権力なのではないか。既成メディアの権力の源泉はそこにあるのではないかというふうに言い方を変えてもよい。

ネットにはデマやうわさ話が満開である。「だからネットは」いう人も多いが、実は、だからこそ体制はネットを恐れるのではないか。共同デスク立ち上げの議論のなかで、なんでも発信したらよいものでもない、ある程度の検証は必要ではないか、という話がでて、そうだなということになった。ぼくも実はそういう話をした。
いま体制は震災に絡むデマ退治という名目でネット言論の規制に入っている。共同デスクの意味をこの観点から改めて検証、論議すべきなのだろうなと、いま思っているところだ。

インターネットの時代に入り、市民メディアが言われ始め、メディア論は盛んになったが、ジャーナリズム論は影をひそめた。メディアとは入れ物で、問題はそこに何を盛り込むかなのだろうと思う。この共同デスクへの関わりを機会に、民衆ジャーナリズム論を考えてみたい。(筆者は日刊ベリタ編集長及び福島原発情報共同デスク編集長)*初出は『市民の意見』No126(2011年6月11日)

福島原発事故緊急会議 福島共同デスク
http://2011shinsai.info/

Saokoの気ままに女優生活 in NY ny1page.com

11.06.29 by   カテゴリー: 世界の窓, , 文化

(NYエンターテイメントの情報サイトhttp://ny1page.com/default.aspx に掲載されたコラムを転載しています。)

今回の書き手は神奈川県出身の女優岡野早穂子さんです。日本大学芸術学部卒業後、東京ディズニーランドでのパフォーマーを経て、2004年に渡米。NYのHBスタジオにて演劇を学ぶ。現在は、 ミュージカルの舞台から、インディペンデントフィルム、CMと幅広いジャンルにて活躍中。小さい体から迸るパワーと、溢れんばかりの笑顔が持ち味です。

***

初めまして、こんにちは!NYで女優をしている、Saokoと申します。

このNY1Page にて、私のNYでの生活について(時には、全く関係無い事も含めながら)ちまちまと、書き連ねて行きたいと思います。

職業:女優。

でもね。「女優」と名乗りはするものの、「レッドカーペット」だとか「ブロードウェイ」といった華やかな場所には、まだ縁がありません。将来的にそういう経験もしたいと思ってはいますが、残念ながら現在は、そこからちょっと?遠い所にいます。正直、私って何でこんなにダメなんだろうと、落ち込む時もありますが、落ち込むだけ落ち込んで泣くだけ泣いたら、後は立ち上がるだけ。自分の前を見渡せば、そこには無限の可能性が広がっているのです。

NYで暮らしていると、見知らぬ人から気軽に話し掛けられる事がよくあります。地下鉄、公園、路上、角のデリ、などなど。「ハロー!日本人?」「そうだけど?」「コンニチハ」「あ、日本語話すの?」そんな所から始まる会話の中で、たまに「What do you do? 仕事は?」と聞かれる事があります。学生ビザだった頃はまだ躊躇があって、「えーっと、演劇学校に通ってる…」と答えていましたが、昨年念願のO ビザも取得し、「I’m an actress! 女優!」と胸を張って答えられるようになりました。そして、そう言葉に出来るようになった自分を褒めてあげたいと思うのです。何故なら…。

日本に居た頃、この質問に対しては、「派遣社員ですが、趣味でたまに芝居したり…」とつい言葉を濁しがちでした。「役者です」「女優です」って言う事が、どうも出来なくて。 CMに出てる訳でもなく、毎月のように公演に出てる訳でもなく。毎朝定時に満員電車で都内に通勤したりしている私が、「女優」だなんて言えるんだろうか?、そんな事言ったら人からどう思われるんだろう?という漠然とした不安。「もういい年なんだし、そろそろ現実を認識したほうがいいんじゃない?」という周りからの無言のプレッシャー。それに加えて、「演劇で生計を立てていない」という明らかな事実。そんな事情から、自己紹介で「女優です」とは名乗った事は、殆どありませんでした。

でも、NYで暮らして、早5年。色んな人に出会いました。会社員だけど名刺の肩書きは「詩人」な人とか、ジャズプレヤーで「昼間は趣味でコピー機売ってます」と公言されている某有名企業の日本人さんとか、税理士で俳優とか、ウェイターしながらダンサーとか(これはありふれ過ぎてますね、笑)。ここには、型にはまらない個性的な人達が、本当にたくさんたくさん居るのです。そんな人達との出会いは、私に大きな影響を与えました。そして、そこから学んだものの一つが、何と名乗るかは自分が決める事なんだ、自分をどう表現するのかは自分次第なんだ、という事です。未だに俳優として食べていけてはいませんが、(って、そもそもこの職業でそれが可能なのかは、大きな疑問ですが…、笑)、その収入の大小にかかわらず、自分は女優なんだという自覚、そしてその将来に向けて自分は努力しているんだという自負、この二つによって今は胸を張って「女優です」と言えるようになったのです。

NYに初めて旅行に来た20歳の夏、私はNYに恋に落ちました。そして、 JFK空港へ向かう帰り道、「女優になりたいんだけどねぇ…」と語った私に、タクシーの運転手さんがこう言いました。「You can do anything you want. This is NY! やりたい事は何でも出来るよ。ここはNYなんだから!」もうかなり以前の話ですが、今も日々の生活でしみじみとその言葉を実感しています。そして思うのは、たぶんNYに限らずどこに国に居ても、それは同じ事。全ては自分次第、気の持ちようなのではないでしょうか…?

でも、私はこんなNYが大好き!!なので、ずっとここにいるつもり(笑)。

東日本大震災復興構想会議の「復興への提言」への異論 ~専門家は、復興への道づくりよりも恢復のための裏方に徹するべき~

けがをしたときのことを考えてみる。

まず、その手当をする。傷が癒えるまでその部分を大事に、そっと見守りながら、徐々にかさぶたがしっかりしてきて、自然とそれがはがれるまで待つ。すると、いつの間にか下から新しいきれいな皮膚がしっかりと元の位置に貼り付き、ほかの部位と一体となっていることに気づく。

けがをした時に、いきなり、その部分を切り取って、今までの皮膚では弱いからといって人工皮膚を移植するような手当をするだろうか?するとすれば、それは「メスを入れるのが大好きで手術大好き」の医者が自分自身の欲望のためにするだけだろう。患者の意に先んじて医者が自身の手腕を誇示するような手術は患者の意思を尊重しているとはいえない。

今回の東日本大震災復興構想会議の「復興への提言」とは、まさしく「医者の手腕を誇示する」見事な提言だ。

内閣府は6月22日、震災による被害で自宅を離れている避難者は、6月16日時点で11万2405人と発表した。

被災地では、夏至を過ぎた今もなお11万人以上の方々が、3.11以来果てしなく長い日時を不自由で不安な避難所生活の中で送っている。

そして原子力発電所の事故によって、目に見えない放射能の恐怖と、今後何十年後かに起こるかもしれない未来への恐怖を抱き、生きる糧であった農業や酪農、漁業とそれに関する製造加工業への甚大な影響によって経済的な困難に遭遇している。

避難をめぐる混乱、放射能汚染に対する市民の感覚と政府や一部専門家の見解との乖離、世代間の認識のずれ、様々なことが今なお、解決するどころか、ますます積み重なっているように見える。

その状態において発表されたこの提言は、今年4月11日に閣議決定された東日本大震災復興構想会議によって検討され、6月25日に内閣総理大臣に手交された。 この提言にかかわった方々を個人的には何も知らない。ただ、これを読んだ率直な感想が先に述べた内容だ。この会議のメンバーの方々は恐らく優秀な学者であり、ジャーナリストであり、シンクタンクの研究員の方々だろう。この方々にとって、このような報告書を作ることは職業柄「朝飯前」のことだろう。随所に美しい言葉、当たり障りのない現状批判、将来への希望、ちょっと先端をいくカタカナ語・・・といった職人技が散りばめられている。

しかし、この美しい提言書には、書き手の自己陶酔の言葉と、既存の資本主義経済を固持する頑なな「復興」への青写真があふれ、代替エネルギーや放射能汚染の数値を測定することなどを書きつつも、終始、放射能汚染の実態ではなく「風評被害」に重点を置いた視点で書かれていることを見逃してはならない。

―「希望と涙の物語」

例えば、前文で「破壊は前ぶれもなくやってきた。平成23年3月11日午後2時46分のこと、大地はゆれ、海はうねり、人々は逃げまどった。(略)かくてこの国の『戦後』をずっと支えていた“何か”が音をたてて崩れ落ちた」、とある。

また原発事故を「パンドラの箱があいた時に、人類の上にありとあらゆる不幸が訪れたのと類似の事態が、思い浮かぶ。しかし、パンドラの箱には、たったひとつ誤ってしまわれていたものがあった。それは何か。『希望』であった。それから人類はあらゆる不幸の只中にあってこの『希望』をよりどころにして、苦しい日々に耐えた」というように、震災と原発事故の事実を苦難から立ち上がる人々の壮大な希望と涙の物語としてドラマ化する表現が各所に散見されることに強い不快を感じる。

また、復興構想7原則の原則5で「日本経済の再生なくして被災地域の真の復興はない。この認識に立ち、大震災からの復興と日本再生の同時進行を目指す」、あるいは「クールジャパンの推進などにより、日本ブランドの信頼性を回復することが望まれる」などの表現からは、被災地支援というよりもむしろ本心では、被災地域の復興の建設ラッシュによる建設業界を中心とした景気回復や、被災を新たなアイデンティティーにしたブランド戦略にして、低迷している日本経済全体を活気づけようとしているように見える。

そして実際に被災地よりもむしろ被災地以外が潤うことが多いのではないかと思われるプランも登場する。

例えば、復興のためには専門家を投入し、地域の人材育成も行うというくだりでは多数の横文字職業が登場する。スクールカウンセラーやコーディネーター、まちづくりプランナー、ファシリテーター、アドバイザーなどの役割を与えられた彼らが、東京近郊や全国から派遣されて現地で受け取る報酬の高さと、地元の人々が雇用される場合の身分(たとえばこの文書では、復興支援員やボランティアから仕事になることがよい、などと書かれている)と収入との格差は容易に想像がつく。

また、復興を通じた文化の創造という項目では、「被災者や地域を勇気づけ、元気づけるとともに、地域の一体感をます取り組み(略)芸術祭・音楽祭などのイベントの開催(略)、被災地において人々に夢と感動を与える国際競技大会の招致・開催も推進すべきである」のくだりを読むと、嫌でも大手広告代理店を想定してビジネスチャンスをお膳立てしている感を持つ。

既に「被災地復興」は日本にとって起死回生のプロジェクトなのだろう。国の報告書でありながら、被災地域を象徴化して「フクシマの再生」と何度も書かれていることは、被災事実を商品化する思考の表れだとも感じられ、ますます、誰のための復興を意図しているかを考えてしまう。

被災地の人々の思いよりも、国を挙げて、「国全体の利益のために」復興させたい側の思惑を、専門家の意見書は上手にオブラートにつつむ。実は一見民主的なプロセスによってそれを成し遂げるのだと我々市民に期待させるが、既に「復興」は当事者の手の届かないところではじまっている可能性すらあるのだ。

―行政主体の「まちづくり」にはありがちなパターン

本論第1章(6)復興事業の担い手や合意形成プロセスにおいては、市民の意見を反映させる仕組みをといいながら、「適切な主体が」とか「官民連携PPP」や「新しい公共」による復興、あるいはマスタープランナーという計画全体を統括する役割が重要とも書かれている様子からは、市民主体のアリバイづくりとして、いわゆる「まちづくり協議会」的なところで意見を聞きました、というのを落としどころにする、行政主体の「協働によるまちづくり」にはありがちなパターンを踏襲するだけであることを予想させる。

また今回の原発問題で露呈した産学官連携への反省が全くなく、今後も推し進めるべきであるとしていることに「産学官連携の内部にいる人たち」の無自覚さと、誰に評価されるがための提言書であるか、が感じ取れる。

その原発関連についていえば、例えば「原発事故、それに伴う風評被害は止まるところを知らない」や、「そこへ、色も臭いもなく、それが故にとらえどころのない原発被害が生ずる。国内外に広がる風評被害も含めて、今回の災害は複合災害の様相を呈するのだ」などと、原発事故が与えた被害の実態を曖昧にし、むしろ風評被害にウェイトをおいて書かれていることにも不信感を拭えない。

―限りなく青写真的な雇用創出案

被災地域の雇用に関しても問題が目に付く。

第2章くらしとしごとの再生(5)地域経済活動の再生において何度も登場する、この地域を最先端の医療システムが配備された地域包括ケアの拠点とするというプラン。これは雇用創出効果が高く、若者や女性、高齢者や障害者を含む雇用を被災地において確保できると書いているのだが、高度で専門的な職能職種への地元の人々の登用や育成には相当の時間が必要で、そのような悠長なことは考えにくく、恐らく東京近郊の、地域に定着することが見込まれない人材の雇用が中心になるだろうと思われる。したがって、医療拠点によって地域の人材が雇用されるとすれば、主には厳しい感情労働主体の職種(ヘルパーや看護士、介護士など)であり、その仕事に就くことが生活を安定させ、地域に潤いをもたらすということには必ずしも直結しないはずだ。

実際この提言書ではどのような職種がどのような賃金レペルでどのくらい「安定的」な雇用を生み出せるのかについての記述はなく、ボランティアのレベルを超えた、生活できる賃金が確保できるかどうかの言及もない。また、第4章開かれた復興の地域包括ケアと社会的包摂との推進において、東北大学を中心とした電子部品、ナノテク、光関連分野の世界レベルの新規事業を興すと書かれているが、こちらも限りなく青写真にすぎない。

更に、「雇用は生産からの派生需要である。それゆえ、本格的な安定雇用は、被災地における産業の復興から生まれる。その意味で、もともとこの地域の強みであった農林水産業、製造業、観光業の復興を」と述べているが、早く産業を作って雇用を確保するのだという考えは、もちろん先には必要なことだろうと思うが、現状の問題を解決せずに、いきなり復興を企図する性急さにはどうしても不信感を拭えない。

特に農林水産業や食に関する製造業において、放射能汚染による被害は甚大であり、それを風評被害といってかわしてみたところで実態が改善されるわけではない。酪農家が自殺したニュースは決して風評被害ではなく、実害に対する救済が十分になされないことに起因するものだ。また確実なデータがいまだ公表されないことや、学校教育現場における給食の安全性を巡る情報不足と管理主義、原産地と加工地、ブレンド原料など様々な手法によって「危険性が見えなくされている」ことなどの問題は一向に解消されていない時点において、農林水産業の復興を謳い、「ブランド化」という高付加価値化を戦略にすることに消費者意識とのズレを感じて落胆させられる。特に食に関する産業について、一度市場に与えた不信感を払しょくし、信頼を回復するのはたやすくない。信頼を回復するための道筋を誠実に示すことという手続きを回避しての復興は為し得ないはずなのだ。

ー職を失ったことの意味とは

そして「業」としての復興はもとより、人々がこれまで生業としてきた職を突然失い、丹精こめて育てた農作物を廃棄しなければならないという事態が人の尊厳に与えた影響の深刻さについてもっと重視されるべきだろう。

もちろん生活していくために人は仕事をする。しかし、この地域でこの仕事はもうできないならば職種替えをすればよいとか、移転して続ければよい、あるいは市場に出せない作物は買い上げればよいということでは解決しない。農業や漁業とは、土地に根差し、動物や植物とともにある生の営みのありようである。それが破壊される、奪われる、生業として成り立たなくされることはその人々にとっては生の根源にかかわることであり、当然金銭的な補償によって完全に回復できることではないのだ。

これは仕事を失った人も、大切な人を失い、通っていた学校を失い、大切にしていたペットを失い、思い出のアルバム、先祖のお墓や仏壇を失った人々の悲しみも同様である。

どれだけのお金をもっても元通りにすることができない、「とりかえしのつかないできごと」から恢復するには、悲しみを見つめる当事者の営み(喪の時間)が必要だ。

例えば、日本にとって今回の放射能汚染による被害は未経験のものだが、世界には既に似た状況を経験した市民がいる。かれらが国境を越えて市民同士でその経験を語り、聞くという交流を何度も持つことを通じて、被災地域の人々が「何によって生きていくか」の意思を徐々に固めて行けるかもしれないという、非常に時間のかかる地道なことの繰り返しによって、少しずつ何かがほどけてくるのを待つような・・・。

国が支援するということは、当事者がゆっくりと未来へ目線を向けるための準備する間、かれらがそれに集中できるよう、裏方に徹してわずらわしい雑事一切合財を引き受ける、そのための財政支援であり、人的支援であるべきなのではないかと思う。

―耳障りが良い表現の数々

この提言書は、結論部分に行くにしたがって、カタカナ語混じりの言葉の上滑りが加速する。

例えば「地域づくりNPOなど地域の幅広い関係者が地域ぐるみで観光客を受け入れるような体制(プラットフォーム)を形成する」「幹線交通網については、今後とも、耐震性の強化や復元力の充実、多重化による代替性(リダンダンシー)」「我が国の産業立地拠点としての魅力を高め、空洞化を防止するため、供給網(サプライチェーン)全体の可視ルートの多重化」「スマート・コミュニティー、スマート・ヴィレッジ」「情報の一層のデジタル化を進め、クラウドサービスの導入を強力に推進すべき」「必要な各種の支援措置を一元的(ワンストップ)かつ迅速に行える『特区』手法を活用する」等々、耳触りがよく、流行を取り入れ、実際の意味を煙にまく、職人技の連発だ。これこそ、提言書だといってもよい。

しかし、よく読めば、物流網についてはインフラ整備をというだけであり、スマート・コミュニティー、スマート・ヴィレッジは、既存の行政区画の問題、住民自治を可能にする税制度、そして、何よりも、既存のエネルギーの大資本支配を解体し、発電手段を市民が手にすることなしには描いた餅でしかないのだが、それを実現するためのプロセスやアイデアは一切ない。

同様に必要な各種支援についても、ワンストップという形を実現するためには、そもそも支援できる財源がなくてはならず、それは最後のほうに「復興債」を発行することや増税措置や、民間個人に自発的な資金援助を期待するなど、多少書かれてはいるものの、それも上滑りしている感を否めない。

「どんどん作って、どんどん売って、どんどん廃棄する」という旧来の資本主義経済での豊かさではない、新しい豊かさの形、新しい人間と自然の共生のありよう、そちらへの価値観の転換を具体化しなければ、結局復興という名の下に、大量の建築物が建てられ、立派すぎる道路や空港が建設され、それらの動力となる潤沢なエネルギーを確保するためにとせっかく生まれた自然エネルギーへの転換への世論が現実の必要に打ち消されてしまうことを、専門家は「知っている」のだと思ってしまう。

何かが変わるかもしれないという希望を抱かせて、あとはレールに乗せれば、多くの人々は持ち前の勤勉さで、その生産と消費を支えてゆく側に加担してしまうことまで見越しているかのようだ。

被災地の人々が望む復興とは、本当にこれなのか。

まとめには、こう書かれている。「これまでに地域に居場所を見いだせなかった若者や、孤立しがちな高齢者・障害者、声を上げにくかった女性などが、震災を契機に地域づくりに主体的に参加することが重要である。とりわけ、男女共同参画の視点は忘れられてはならない」。こうして「居場所と出番を持てるようにすることで、これまで届くことのなかった声なき声が地域コミュニティに反映され、地域の活力が高まることが望まれる」。これが本当に成し遂げられるならば素晴らしい。ぜひそうなってほしいと思う。

しかし・・・。今回被災者が被った悲しみや怒りを引き受ける受皿は全く示されない復興への提言それ自体の意義を疑う。

なぜなら、これが国に対しての提言であるならば、国のこれまでの政策に対する批判こそ、声高にいうべきではなかったのかと思うからだ。

被災した人々の悲しみを溜める場所、怒りを受け止める場所を示さずに、さあ復興だと呼びかけることに、被災者の被った被害への共感が本当にあるのだろうか。

元通りにしたいこと、したくてもできないこと、それらに「踏ん切り」をつけるためには相当の時間が必要なのだ。そして、被災した人々のなかに、3.11前と同じ状態に戻るのではなく、何か別の場所を志向する思いがあるかもしれないことについて、専門家は耳を澄ましているか。その思いを、行く場のない無念の気持ちを聞き届ける覚悟を国に迫っているか。

この提言の論調が、地域の声を大事に聞き取って時間をかけて再生復興へと歩みを進めていこうという姿勢よりも、専門家による復興を全力で成し遂げようと国民全体に呼びかけるようなメッセージに終始していることが残念でならない。

―被災地の人への圧力

今回の未曾有の災害からの怒りや悲しみという避けることができない恢復のプロセスをパスして復興を企図することは、体の自然治癒力を待たず、いきなり、その部分を切り取って、今までの皮膚では弱いからといって人工皮膚を移植するような手当をするような、患者の意に先んじて医者が自身の手腕を誇示するような行為に等しい。

まして、「地域に居場所を見いだせなかった若者や、孤立しがちな高齢者・障害者、声を上げにくかった女性」の意思を尊重し、常日ごろから自分の意見を求められたり自分から意見を主張することに慣れていない人たちの声なき声を聞くのであれば、じっと待って耳を澄ますことが必要だろう。そしてかれらが3.11以前に言葉にできなかった思いを、未来でこそ実現させるなら、旧態のコミュニティに戻ることだけが解決方法ではなく、むしろ新たな生きやすい共同体を志向することから始めなくてはならないだろう。

復興を急がせるのではなく、しかも日本全体のために、という何かを背負っての復興や、これを機会に日本に恣意的に「愛国心」や「一体感」を持たせようとするような別の意図によって、被災地の人々に圧力をかけてはならないと思う。

被災した人々にとって、失われたモノ、元の形を全くとどめない地域、できなくなった仕事、そういうものをじっくり見つめる喪の作業を納得ゆくまでできる時間と余裕が必要だ。復興への目はその先にある。

しかし、今現実に被災地では日常生活での不自由を強いられた毎日が続いている。だからこそ、私たち被災地から遠く離れた人々、そして国がしなければならないことは「今、そして明日の必要に事欠く現状に暮らす人々の生活を全力で支えること」ではないか。

被災した人々が喪の作業に専念できるように、雑事を引受け、必要な支援を静かに行い、見守ること、被災した人々自身が自ら復興へと目を向けることができるまで、じっと待つこと。

専門家といわれる人たちがすべきことは、専門性を生かした、傷の必要最小限の応急手当を行うこと、そして傷が癒えるまでその部分を大事に、そっと見守りながら、下から新しいきれいな皮膚がしっかりと元の位置に貼り付くまでを看護することであり、自身の社会的使命を果たすためや、自身の研究のために今回の被災を利用してはならない。ましてや、この災いを国家再生や国家意識の高揚のために利用させてはならないのだと強く、一市民として、この提言に対する異議を訴えたい。

***

東日本大震災復興構想会議

http://www.cas.go.jp/jp/fukkou/

「復興への提言」

http://www.cas.go.jp/jp/fukkou/pdf/kousou12/teigen.pdf

 

仏経済紙ラ・トリビューン、課金方法を増やす

フランスの日刊経済紙ラ・トリビューンが、ウェブサイト上の記事の課金方法を多様化させる。狙いは完全購読制へと読者を誘うこと。

「ペイドコンテンツ」の報道によると、ラ・トリビューンは既に毎月10ユーロの有料購読制を提供している。10ユーロ(約1160円)を払うと、紙媒体のオリジナル記事をネット上で読める。ラ・トリビューンの場合、紙面の60%がこのオリジナル記事に相当する。

毎月一定の料金を払う制度に加えて、新しく導入されるのが、1つ1つの記事に小額を払うという制度。例えば、論説面の記事一本につき49セント払う。この際、マイクロ決済システムの「Cleeng」を使う。http://cleeng.com/

Cleengの創始者でCEOのガイルズ・ドマルティニによれば、広告を出して無料でニュース記事を提供する場合と、毎月の購読料を課金し、有料で記事が提供されている場合との距離が大きすぎる。そこで、個々の記事や動画視聴の一部に小額のお金を払うという中間に位置する行為を導入し、月間有料購読者となる道につなぎたいという。

ラ・トリビューンは、一日パス(24時間閲読するサービスに支払う)やウェブのみの過去記事へのアクセスにお金を払う方式を近く導入予定。Cleengの利用者は、ビザやマスターカード、ペイパル、SMS(携帯のテキストメッセージ)、電話料金から差し引かれるなどの形で支払いをする。このサービス提供で得たお金は、ラ・トリビューンが80%、Cleengが20%を取るという。

ラ・トリビューンでは、「簡単な手順」であることが成功の鍵という。

参考:ペイドコンテンツ記事
http://paidcontent.co.uk/article/419-la-tribune-starts-charging-for-more-online-content/

(ブログ「英国メディア・ウオッチ」より)

仏バカロレア試験問題流出事件 ―問われる国家証明書の欺瞞

11.06.28 by   カテゴリー: ニュースあれこれ, 世界の窓

フランスのバカロレア試験の問題が、20日、ネットを通じて事前に流出した事件を巡り、高校生たちの間で大きな話題となっている。世界で唯一フランスにしかないバカロレアだが、国家の出す証明書の存在価値そのものの欺瞞性が問われている。資格を取得しても就職できない青年がフランス中に溢れているからだ。

この件では、パリ近郊のバル・ドオワズ県の印刷所で働く労働者の息子が逮捕されおり、信頼濫用、職業秘密違反、盗品破棄隠匿などで取調べが行われている。

バカロレア試験は高校の最終学年者に行われる大学入学の許可証取得試験だ。合格すれば、フランスの一般大学なら原則的にどこでも入ることが出来るといわれてきた。

数学の試験問題の一部を携帯電話で撮影したと見られる画像が、ビデオゲームのウェブサイト上に出たのは20日で、バカロレア試験の前日だった。

再試験は行わないとリュック・シャテル教育相は発言している。漏洩された問題の箇所の配点を巡り、点数のつけ方に平等性が欠如しているとして、抗議の声が上がっている。しかし政府は何事もなかったのように、事件の鎮圧化に務めているようだ。本質的な問題を回避しているようである。

高校生の一生を左右する重大な国家試験だが、国家が保証するバカロレアの現実的な価値そのものが空疎になってきている。だからといってこれに新たな価値を付与することが解決策だとはもはや思えない。

(参考記事)

Fuite au bac: le fils d’un imprimeur
interpellé – L’EXPRESS

http://www.france24.com/en/20110623-france-hunt-math-examination-cheating-education-baccalaureate-chatel

(ブログ「フラネット(パリ通信)」より)

 

 

映画「里山の学校」~もう一度暮らしを考える -7月30日から渋谷のアップリンクで上映

11.06.28 by   カテゴリー: ニュースあれこれ, 文化

ドキュメンタリー映画監督の原村政樹さんからのメッセージ。「7月30日から渋谷のアップリンクというミニシアターで『里山の学校』が1か月間ロードショーされることになりました」。詳しくは下記のホームページをご覧ください。
http://www.sakuraeiga.com/news/2011/05/31_11_16.html
http://www.uplink.co.jp/x/log/003988.php

http://www.sakuraeiga.com/satoyama.html

予告編もありますのでご覧ください。
http://www.sakuraeiga.com/satoyama/satoyama_trailer0.htm

ドキュメンタリー映画「里山の学校」は10年前から千葉県木更津の里山で毎週土曜日に開かれている学童保育「土曜学校」の子供たちの姿を追いかけたものである。1年2か月にわたって、小学校1年生から6年生までの子供たちが自然の中でどう変わっていくかをとらえている。原村さんは上映にあたってその思いを書いている。

「今回の上映は、原発事故を踏まえて、もう一度、暮らしを見直そうという視点も重視しています。人間を危険に曝し、豊かな自然を汚してまで、原発で電気を作らなければ日本人は生きて行けないのか、との問いかけを土曜学校の教育から考え直してみようという意図です。放射能汚染で外で遊ばないようにといった風潮もある中、敢えてこの映画を映画館で上映するのもそうした考えがあったからです。昭和30年代の子どもたちを桜映画社が記録・制作した映画『遊び場のない子どもたち』も同時上映します」

「この映画を多くの人たちに是非見てもらいたいと願っています。ですから、極めてITが苦手の私ですが、そして不特定多数の人に発信することへの抵抗感は強いのですが、ITの力の強さは侮れないと考えを改め(北アフリカの革命はフェイスブックの力が大きかった)、ツイッターで、”映画「里山の学校」便り”、と題して、随時、出来れば毎日、拙い文章を発信していくことにしました。とりあえず、何回か書きました。そのアドレスをお送りいたしますので、開いてみてください」
http://twitter.com/musasinonomori

「もしこの映画の上映にご賛同いただけるのでしたら、是非、フォローしていただいて、リツイートで広めていただけないでしょうか?私のツイッターのアドレスは@musasinonomori です」。原村政樹

(日刊ベリタより)

 

第18回東京国際ブックフェア テーマ国はスペイン

11.06.27 by   カテゴリー: ニュースあれこれ, 文化

7月7日(木)から10日(日)までの4日間、東京ビッグサイトで「第18回東京国際ブックフェア2011」が開かれる。東京国際ブックフェアは本の見本市だ。ちなみに去年は世界25か国より、984社が出展し、来場者は過去最多の87,449名となった

今年のテーマ国は「スペイン」。スペイン文化省、スペイン書籍連盟が主催するパビリオンには幅広い分野のフィクション、ノンフィクションの本が出展される予定だ。

2010年のスペイン文学賞やセルバンテス賞の受賞作品も展示される。さらにスペインで人気のある欧州(スペイン、ベルギー、フランス、イギリス、イタリア)の作家による漫画のヒーローも紹介される。

出版社エリアにはEdebe、Iberoamericana、Scriptorium、FICOMIC などスペインの有力出版社が出展する。さらに国営のセルバンテス文化センター東京、スペイン大使館なども協力するといったことで国をあげてスペイン文化の紹介に力を入れる。

http://www.bookfair.jp/event/

(日刊ベリタより)

アフガニスタン派兵撤退は誰が決めたのか?ー「仏の大統領は自由でない」と極右政党党首

11.06.27 by   カテゴリー: ニュースあれこれ, 世界の窓

25日、アフガニスタン南部で63人目のフランス兵(24歳)が死亡した。オバマ米大統領がアフガニスタンからの米軍の大規模撤退を発表した後で、サルコジ仏大統領が追従するかたちでフランス軍の撤退を発表したその2日後であった。犠牲になった青年の親はテレビに出演し、政府はフランス軍の撤退を何故もっと早く決定できなかったのかと声を上げた。一方、フランス国営放送・テレビA2のマリ・ドリュケーは、アフガニスタンからの米兵とフランス兵の撤退は同時期での宣言であった、とニュース解説で述べた。

極右政党国民戦線の女性党首マリーヌ・ル・ペンは、同日、テレビA2の「マリーヌ・ル・ペン特別番組」で、自分が仏大統領であれば、オバマの撤退指令を待たずに仏軍を撤退させただろうと発言した。フランスが自由でないのはサルコジが自由な大統領ではないからだ、と批判した。

アフガニスタンの反政府組織タリバンは、仏軍の撤退を以前から要求しており、もし撤退しなければさテロで報復すると宣言してきた。それでも、フランス政府はアフガニスタンへの派兵を止めなかった。米国の撤退発表で、理由もださずに急激に態度を変化させたことになる。

カピサ地方のポンタバブ付近で、亡くなったフランス兵がいた部隊は蜂起軍の激しい攻撃に襲われた。戦闘中に青年は重症を負い、死亡した模様。(ブログ「フラネット(パリ通信)」より)

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